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エランシリーズ

加害

作者:光太朗
 愚かなことを
 本当に、愚かなことを、した




 こんな思いを
 あの子にだけは






   1

「寒いわ」
 暖炉の前の特等席に悠然と腰をかけ、赤い髪の美少女は静かにいい放った。訪れた沈黙を埋めるように、ぱちぱちと、薪の爆ぜる音が響く。
 暖色系の絨毯に、ソファ、カーテン。ここキーリィの町で、もっとも高級とうたわれる宿の、もっとも値の張る部屋にいても、なお不十分なほど、美少女は高貴なかおりを漂わせている。
 かわいい、というのとは、違う。少し冷たい印象を受ける、美しい少女だ。
 その少女の向かい側のソファで、黒い髪に黒い服という青年が、黒い瞳を持ち上げた。
「じきに、暖かくなるよ、悠良ゆら
 やわらかく、優しくいう。もう十分暖かいという真実を、口にするような男ではない。悠良が寒いと思っているという、そのことだけが、この青年にとっての事実だ。
 悠良はすっと目を細め、小さな唇を尖らせるような表情をした。
「私、寒いのは嫌い。莉啓りけいはいつもどおりの格好だけれど、寒くはないの?」
「こう見えても、結構、着込んでいるよ。あまりかさばるのは、好きではないからね」
 青年、莉啓は、その端整な顔に苦笑を浮かべた。そうは見えないわ、と悠良がそっぽを向く。
 窓の外は、どこかどんよりとしていた。
れんなんて、馬鹿みたいにいっぱい着ていったわよ。鍛えているくせに、そういうところ、楽なほうにいくのよね」
 寒空の下を駆けずり回っているであろう少年を思いだす。その名前に、莉啓はあからさまに不快そうな顔をした。
「いっそ帰ってきても、この部屋に入れないほうがいいな。厳しい環境に慣れたほうが、奴のためだ」
 少し、悠良が笑う。本当は仲がいいのか、本当に悪いのか、よくわからなくておもしろい。
「それにしても、こんな寒い町……仕事じゃなかったら、絶対に来たくないわね」
「ああ……そうだな」
 莉啓は、先程から目を通していた資料に、もう一度視線を向けた。
「レアード=ディリキス。五十歳。……五十歳か。うまくいかないものだな」
「…………」
 ターゲットの名を読み上げ、莉啓は押し黙る。悠良も少し唇を噛むようにして、視線を落とした。
「そんなの、いまに始まったことじゃないわ」
 だからこそ、こうして旅をしている。
 救うためなどといっては、おごりになるだろうか。
 ぱちぱちと、薪が爆ぜた。

 空はずいぶん低いところにあるようだった。
 しかしそれを見上げる余裕はなく、サイズの大きな薄茶色のコートを、首の一番上まできっちり閉めて、毛糸の帽子までかぶった少年は、ぶるぶると震えていた。
「やばいってこれ、ほんとに、寒いにも程があるっていうか……あーー、だめ、ほんとだめ、帰りてーっ」
 何度か折られた裾からもうしわけ程度に手をのぞかせているが、動きはきわめて鈍い。
右脇に何やら長い棒を携えており、ただでさえ高くはない背が、一層低く見える。
 今朝からずっと寒空の下で働いて、少年はいいかげん挫けそうだった。
「ほら、動きとまってるぞ、レン坊! 寒いと思うから寒いんだ、しゃきっとしろ!」
「そんなこといったって……」
 怜は、げんなりと声の方向を見た。どう見ても薄着で、しかし寒そうな気配も見せずに働いているのは、レアード=ディリキス。五十歳という歳にしては若々しい、背の高い男性だ。
「立派なホーグル乗りになりたいんだろう? そんなことじゃあ、いつまでたってもなれないぞ!」
 白い歯を見せて、レアードは笑う。頑張ります、と言葉を返しながらも、怜はうんざりした気分で真っ赤になった両手を見た。
「なんで、俺ばっかり、こんなこと……」
 素手で氷を触り続けているのだ。自分の手が、可哀相でならない。ぶつぶつともらしながらも、背負った大きな篭に、少しずつエレ草という赤い草を入れていく。
 この町で重要な移動手段となる、ホーグル車。それを引いて走るのは、ホーグルという大きな動物、そしてその操り手をホーグル乗りという。いまは、そのホーグルの餌の採取の真っ最中だ。
「レンさんったら! まだ、ほとんど採れてないじゃない!」
 怜の篭を覗き込み、レアードの娘のエイリがおかしそうに笑った。赤茶色の髪を三編みにした、目の大きな可愛らしい少女だ。
「うわ、エイリさんはさすがに早いね……やっぱ親子二代でホーグル乗りともなると、違うよなぁ」
「あたしは小さいころから、当たり前のようにやってきたんだもん、これぐらい、できなくちゃ」
 父親と似た表情で、白い歯を見せてにっこり笑う。
 慣れとはいえ、なかなかできるものでもないだろう。怜は、自分が立っている場所を見下ろし、大きく息をついた。
 足の下に広がるのは、凍った湖。目を凝らさなければ見えない、氷のなかのエレ草を発見し、その部分だけ氷を割り、草を採取する……気の遠くなる作業だ。
「けど、レン坊、あんたは筋がいい。スピードは遅いが、初めてでよくもまあ器用に採るもんだ。素質あるぞ」
 そういわれても、あまり嬉しくない。そもそも、本気になるつもりなど微塵もなく、怜は適当なスピードで採取を続けた。
「ホーグルはさ、こんな冷たいもん食べて、お腹壊さないの?」
 それ自体が氷のような冷たさをもつ赤い草を日に透かし、怜は他愛のないことを口にした。くすくすと笑い声が、疑問に答える。
「それ、あたしたちだって、食べれるんですよ。そのままサラダでもいいし、炒めてもおいしいし。よかったら、今夜、食べていきます?」
「え、そうなの? やー、でも、サラダは勘弁……絶対冷たい……」
 加えて、おいしい気もしない。外からきたひとは、そうかもねと、エイリは笑う。
「まったく、旅をしてたにしちゃあ、軟弱だなあ、レン坊。おまえ、どっから来たんだったか?」
 割れていない氷の上を、気を遣う様子もなくどしどし歩いてきて、レアードが豪快にいう。怜は寒そうに顔をしかめながら、空を見上げて指差した。
「あのあたりかな?」
「なんだ、そりゃあ。ま、今日は、これぐらいでいいだろう。家に戻って、ホーグルに餌をやるぞ。ついでにオレらも、腹ごしらえしないとな!」
 怜の表情は一気に明るくなり、手にした長い棒をくるりと回すと、背筋を伸ばして敬礼をした。
「了解、ししょう!」
 まったく単純なやつだと、レアードに小突かれた。

 要するに、馬の仲間なのだろうと、怜は思う。すらりとした体躯は、クリーム色のなめらかな毛で覆われている。重量感あふれるという印象とは程遠く、賢そうな目、鼻、口だ。つんと尖った口は、生意気そうにも見える。馬と決定的に違うのは、長い首のさらに下までだらりとのびる、大きな耳だろう。
 この地方にしか生息しないといわれる、ホーグル。力持ち、俊足、頭がいいということで、大変愛されている動物だ。
「おまえ、よく食ったなー」
 あっという間に空になった篭を呆れたように見て、怜は自分の頭と同じ高さにあるホーグルの頭をそっと撫でた。ディリキス家の隣に建つホーグル小屋には、同じぐらいの大きさのホーグルが三頭。その三頭ともが、休む間もなくリア草に食らいつき、怜は自分も食べられるのではないかと思ったほどだ。
 怜の記憶にある馬小屋よりはいくぶんすっきりした、それでも動物独特の匂いの漂う、小さな小屋だ。毎朝掃除をしているのだろうと、怜は感心したように小屋を見渡す。小屋の端には、手綱や車などが、整然と置かれていた。
「ご苦労さま、レンさん! お家の方で、お茶の用意できましたから……よかったら、飲んでいって!」
 そんなことをいいながら、エプロン姿のエイリがひょっこり顔を出した。今年二十歳だというこの娘は、自由奔放という表現のよく合う、活発な女性だ。
「ああ、ありがとうございます」
 振り返って、怜は笑顔を返した。
「ね、エイリさん。あれが、ここのホーグル車?」
 視線で示す。その先にある車を見て、エイリはええとうなずいた。
「大きな方がお父さんので、小さいのはいまはあたしのなんです。この、車輪の横の……」
 エイリは、とてとて歩いていって、御者台の前の出っ張っている部分を示した。
「ここ、ここにね、ホーグルをつなぐんです。普通、二頭なんだけど、あたしのはまだ初心者用に、一頭だけ」
「へぇー、なるほど。構造とかは、馬車と同じだね。あ、馬車、知ってる?」
「あたしは、見たことはないけど。でも、知ってますよ」
 エイリは、昔父親から聞いたことがあるのだといった。
「馬には、この寒さは厳しいみたいなんです。この地方なら、ホーグルがいちばん! 馬より力持ちだし、足も速いんですよ!」
 誇らしげに胸を張る。それはそうだろうと、怜は納得した。ただし、逆にいえば、ホーグルにとっては他の地方で生き抜くのが厳しいということになる。
「でも、ホーグル車って、結構いっぱいあるんでしょ、特にこの町は大きいから。事故とかも、結構あるんでしょうね」
 できるだけ何気なく発した言葉だったが、エイリは眉根を寄せて動きをとめてしまった。
「事故なんて、あっちゃいけないんです。事故を起こすようなら、ホーグル乗りになんて、なっちゃいけないんです、ほんとは」
 事故というものを、嫌悪する様子だ。怜は、そうですねとうなずいた。

「あの子が、そんなことを?」
 お茶をもらって帰りぎわ出た話題に、レアードは少し淋しそうに苦笑した。
「何か、あったんですか?」
 長い棒は持ったままで、だぶだぶのコートを器用に着込みながら、怜がいう。レアードは、エイリが引っ込んでしまった二階に目をやり、小さく声を発した。
「妻がね……もちろん、あの子にとっての母親だが……まだあの子が小さいころ、ホーグル車に轢かれる事故があって、それで死んでしまったから……」
「ああ、それで……」
 まあ、そんなところだろうとは思ったが、と怜は心のなかでつぶやく。
「でも、エイリさんも、ホーグル乗りなんですね? 普通、そんなことがあったら……」
「あんなことがあったからさ。事故なんて絶対起こさない、立派なホーグル乗りになる、ってな。レン坊、おまえさんもホーグル乗りをめざすなら、安全第一だ。たとえ事故でも、ひとを殺しちゃあいけない」
「…………」
 怜は、冷静に、レアードの表情を読む。
「だが、まあ……本当は、事故なんて、ある程度は仕方ないんだ。起こすほうも、好きで起こすんじゃないんだ。事故を起こして、不幸になるのは、起こしちまったほうも、起こされちまったほうも、おんなじだ」
「……?」
 何か、含むものがあるような気がしたが、レアードはそれっきり口を閉ざしてしまった。
 怜も、それ以上突っ込むのは避け、暗くならないうちにと、ディリキス家をあとにした。

 お帰りなさいませという挨拶に軽く返事を返し、階段を駆け上る。三階にある、豪華な装飾の扉を開けようとしたが、なぜか鍵がかかっている。しかし、特に意に介することもなく、ポケットから針金を取り出すと、当然のように鍵を開けた。
 扉を開けると、思ったとおり、そこは天国だった。
「たっだいま、帰りましたぁー」
 あまり覇気のない声で告げ、怜は長い棒をトンと右足に任せると、素早くコートを脱ぎ捨てた。棒の先で帽子を持ち上げ、そのまま帽子かけらしい木のラックに引っかける。
 目の前には、貴族の部屋と見間違えるほどの、豪華なリヴィングルーム。部屋の左奥のソファで、悠良が億劫そうに顔を向けた。
「お帰りなさい。早かったわね」
 淡々としたその言葉に、怜は大げさに肩を落とし、ソファの背もたれを飛び越えて、莉啓の隣の悠良側にどすんと腰かけた。
「もうちょっと、大変だったねー、みたいなねぎらいが欲しいのに。外は寒いんだよ。この部屋からじゃ想像できないぐらい」
「大変だったな」
 隣で、さらりと莉啓がいう。その、あまりにも心のこもらない様子に、怜はため息をついた。
「これからはさぁ、くじ引きとかにしない? 俺ばっかり働いてるケースが圧倒的に多いと思うわけ。なんで、二人は、こうやって、一級宿のロイヤルスイートなんかでぬくぬくしてんの。おかしいじゃんか」
「おかしい? おかしいのは貴様の脳だ、愚か者」
 怜のほうを見もせずに、莉啓がいい放った。
「外は寒いといったな。貴様は、悠良に風邪でもひかせる気か?」
 風邪なんかそう簡単にひくかよ、という言葉は一応飲み込んで、怜はコホンと咳払いをする。
「よしわかった。まあ、風邪はおいといて、悠良ちゃんにはあんまり大変な思いをさせたくない。それは当然。でも、そのおまえの過保護すぎがいけないって何度いえばわかるかな。……いや、違う違う、いまいいたいのはそれでもなくて」
「要点を整理してから発言してはどうなの? 聞き苦しいわ」
 悠良の言葉も冷淡だ。しかし、怜は負けなかった。
「啓ちゃんは、何してるわけ? おまえももっと働きなよ。ホーグルに餌でもやったら?新鮮だよー、きっと」
「ふん……」
 莉啓は、悠然と鼻をならした。足を組み替え、腕を組み、馬鹿にしたように怜を一瞥する。
「悠良をひとりにさせておくわけがないだろう。悠良が残るということは、俺も残るということだ」
「……ああ、そう。そうだね」
 なんだかどっと疲れた。
 もう少し傍観しているのも良かったが、どうしても気になり、悠良が口を挟む。
「ホーグルって、この町でよく見かける動物よね? 餌をやったの?」
「そうそう!」
 これ幸いとばかりに、怜がくるりと完全に悠良に向き直る。身を乗り出し、莉啓をシャットアウトする形だ。
「ホーグルの世話ってのを、一日やったわけ。頭良さそうだし、目とかくりくりしてて、かわいいよー」
「そういうことを聞きたいのではなくて。情報を、聞きたいのだけど」
 あ、そう、とつまらなそうに、怜は背もたれに身体を委ねた。
「レアード=ディリキス、五十歳。職業はホーグル乗り。娘、エイリ=ディリキス、二十歳。これまたホーグル乗り。奥さんは、昔ホーグルに轢かれるって事故で亡くなったそうで。まじめーに働いてる感じの、親子でした、よっと」
 暗記してきたレポートのように、すらすら述べる。莉啓が片眉を上げた。
「それだけか?」
「いえーす」
「少ないわね」
「……勘弁してよ」
 どうして自分だけ、こんなにも立場が低いのか、本気でわからない。
「まだ一日目で、そんな、なんでもかんでもわかるわけないだろー。結構ハードな仕事して、俺、大変だったんだから」
「レアード=ディリキスは、わかっているのか?」
 莉啓の問いに、怜は一瞬黙った。何を、と聞くようなことはしない。それはもう、わかりきっている。
「……どうだろうね。まだ、なんとも。でも、少なくとも、俺のことには気づいてないと思う」
 そうか、と莉啓は口をつむぐ。悠良は少しだけ疲れたように、息を吐いた。
「焦ることはないわ。ゆっくり、やりましょう」
 赤い髪をそっとかきあげる。
「それに、そうね……確かに、怜にばかり動いてもらうのは、忍びないわね。私も、明日は少し、頑張ってみようかしら」
「さっすがは、悠良ちゃん! そうこなくっちゃ!」
 無邪気に喜ぶ怜を、莉啓がにらみつけるが、気づかないふりをする。
 悠良は、莉啓を見つめ、すっと目を細めた。
「莉啓」
「なんだ?」
 当然のようにすかさず対応する莉啓。悠良は視線を移動させた。その先には、黒い包みが置かれている。
「お腹がすいたわ」
「わかった」
 莉啓は、厳かにうなずいた。そして、悠良の舌を満足させるために、いつのまにか極めてしまった料理の腕を披露すべく、マイ調理セットの入った包みを手に、颯爽と立ち上がった。

 レアード=ディリキスの朝は早い。太陽が町を照らしだすよりも早く置き、ホーグル小屋の掃除を行なう。それから、三頭のホーグルの状態をチェックし、一頭ずつ家の周りから裏の森まで散歩をさせる。三頭の散歩が終わり、昨夜のうちに準備しておいた餌を与えるころには、娘のエイリが朝食ができたと呼びにくる。
 いつもなら、そうだ。しかし今日は、少し具合が違っていた。
「おっはようございます!」
 長い棒を持ち、見た目には昨日よりもたくさんの衣服を着込んだ怜が、すでに小屋の掃除を終わらせて待っていた。
 レアードは驚いて、昨日弟子入りしてきた少年をまじまじと見た。昨日はよほど疲れている様子だったので、来るのは昼からでいいといってあったのだが。
「どうしたんだ、レン坊? こんな早くから」
 驚かせたことが満足なのか、怜は満面の笑みで答える。
「そりゃ、俺だって早く一人前のホーグル乗りになりたいし。というわけで、よろしくお願いします!」
 本当は、夜明け前に莉啓に叩き起こされて宿の窓から投げ捨てられたのだが。
 レアードは、初めての弟子の、ひた向きな態度に感動し、怜の帽子がとれるのもかまわず、頭をわしわしと撫でまわした。
「偉い! 偉いなぁ、レン坊! その根性があれば、すぐになれるさ!」
「がんばり、ます……」
 豪快な力加減に、顔をしかめながらも、なんとか言葉を返す。
「で、レアードさん。いまからは、何をするんですか?」
「掃除はしてくれたみたいだな……じゃあ、ホーグルの散歩だ。散歩といっても、身体をならす程度だな。まだ、お前に手綱を引かせるわけにはいかないが……」
「もちろん! ついていくだけでいいです。お世話になりますっ」
 とんと棒を真っすぐ立て、怜は姿勢よく一礼した。

 レアードと怜が一頭のホーグルを連れて歩き去っていくのを確認してから、莉啓はそっとホーグル小屋に足を踏み入れた。
 あの調子では、それほど時間もかからずに戻ってくるだろう。ぐずぐずしているわけにはいかない。
「間近で見ると、大きいな……」
 思わず、声に出してつぶやく。突然現われた客にも、特に驚いた様子はなく、二頭のホーグルは実におとなしくしていた。その真摯な目は、莉啓の方に向いている。
 賢い動物なのだろう、と莉啓は思った。むやみに騒ぐわけでも、怯えた目をするわけでもない。そのたたずまいからは、威厳のようなものも感じられた。
 莉啓は、静かに右手をかざした。瞳を閉じて、右手に全意識を集中させる。
「失礼」
 それから、そっとつぶやいて、大きな方のホーグルの、額の部分に触れた。
「君は、何か、知っているか?」
 問いかける。もちろん、返事は返ってこない。
 返ってくるのは、少しの混乱と、深い悲しみの意識。怯えたような、記憶の片鱗。
「……そうか」
 莉啓は、ホーグルの額を優しく撫で、身を翻した。

「何か、わかったの?」
 小屋を出ると、真っ白なコートを着た悠良が立っていた。燃えるような髪の赤と、上着の白とが、お互いに主張し合うこともなく、みごとに調和している。
 莉啓は、驚いたように眉を上げた。
「あら……気づいているかと思ったわ。目が覚めたから、ついてきたの。いけなかったかしら?」
 台詞とは裏腹に、悠然とほほ笑みをたたえる。莉啓は苦笑した。
「いや。だが、ここはまずい。少し離れよう」
「私、まだホーグルに触れていないわ」
 本気なのか、冗談なのか、いつもと変わらない様子で悠良がいう。莉啓は首を左右に振り、悠良の前に立って歩き始めた。
「悠良は、触れないほうがいい」
 やわらかな声音でそう告げる。
「どうして?」
「あのホーグルは、何かを見ているよ。そして、混乱している」 
「……混乱?」
 足を早め、莉啓の隣に並ぶと、悠良は赤い髪をふわりと揺らし、その横顔を見上げた。
「どういうことなの?」
 莉啓は、そっと瞳を伏せる。そこまでは、わからない。
 悠良も口を閉ざした。
 なぜ。いつもその理由という壁にぶつかる。なぜ、ということ。
 生きてきた、その事実が、理由などいくつでも作り出すということは、わかっているつもりだが。
 一度歩みを止め、悠良は振り返った。木造の、あまり大きくはない家屋。その隣にひっそりと並んで建つ小屋。
 まわりには他に民家は見られず、森と畑、そしてでこぼこ道がつづく。
「ねえ、莉啓」
 莉啓には背を向けたまま、悠良は従者を呼び止めた。
「私たちは、死神かしら?」
「違うよ」
 ためらいのない言葉が返ってきて、悠良はもう一度前を向き、歩きだした。

   *

 目を覚まし、エイリ=ディリキスはじっと天井を見つめていた。
 いつ、目が覚めたのか。何かを考えていた気がするのだが、思い出せない。
 何か、何かとても、大事な夢を見ていたような。
「……朝?」
 意識が、ぼんやりとしていた。朝食の準備をしなくてはと、習慣になっている意識が働くが、身体が動かない。
 いつもならばたばたと動き出す時間だ。見慣れたはずの白い天井が、ひどく異質なものに思えて、エイリは不思議な気持ちで、目をそらせないでいた。
「起きなくちゃ」
 自分の声が遠くに聞こえる。
 何かがおかしい。
 何かを忘れている気がする。
 しかし、思い出しては、いけない気がする。
 エイリは、もう一度目を閉じた。
 次に目を開いたときには、何かもやもやしたもののことなどすっかり忘れて、エイリは元気に飛び起きると、慌ただしく朝食の準備に取りかかった。


   2

 愚かなことをしたと、わかっている。
 しかしあれは、仕方のないことだ。
 仕方のないこと? 
 仕方のないこと……

 たとえ、そうだとしても、愚かなことをしたという事実は変わらない。
 いっそ自分が、愚かなことを愚かなことだと知ることのできないほどの、愚か者であったなら。

 それでも、愚かなことをしたということは、変わらないけれど。

 まただ。
 また、堂々巡りだ。

 巡り巡って、結論は出ずに、結局は、

 愚かなことをしたと

 巡るだけ。



 ただ、わかっている。

 自分だけで十分だ。

 こんな思いは、させては、いけない。


 こんな、ただ自分を憎むだけの、


「ぼーっとしてません? どうかしたんですか、レアードさん?」
 ひどく近くで声がして、レアードは我に返った。
 目の前に、長い棒を持った少年が立っている。誰だっただろう。一瞬考えて、それからすぐに思い出し、レアードは大きく目を瞬かせた。
「レン坊……どうしたんだ?」
 違うところから聞こえてくるような声を出す。
「どうしたんだって……急に黙って動かなくなっちゃったのは、そっちでしょ。調子、悪いんですか? 顔色、悪いかも」
 そういわれて、思い出す。朝食をすませ、ホーグルを車に繋ぎ、荷物を積んでいるところだった。倉庫から荷物を出すという単純作業を繰り返しているうちに、ぼんやりしてしまったのだ。疲れているのかもしれない。
「悪い、悪い。もう、歳かなあ」
 照れたように笑いながら、適当なことをいう。
「これ、昼までに運ぶんですよね? どういう仕事なんです? 俺、ホーグル乗りって、具体的に何をやるのかよく知らなくて」
「なんだ、お前、それなのにホーグル乗りになりたいとかいってたのか?」
 レアードは目を見開くと、呆れたように豪快に笑った。すぐにいつものペースを取り戻した手は、かなりのスピードで荷台に荷物を乗せている。
「まあ、一口にホーグル乗りっつっても、いろいろだからなぁ。実際はホーグルにまたがるだけでもホーグル乗りだしな。仕事ととして成り立つのは、人を運ぶホーグル乗りと、荷物を運ぶホーグル乗りだ。オレは、その両方をやってる」
「へー。人を運ぶってことになると、責任重大ですね」
「まあなあ。だから、エイリみたいな半人前は、人を運ぶほうの仕事はやっちゃいけないことになってる。一応、許可証っていうのがあってな」
 そういうと、レアードは革の紐で首からぶら下げたプレートのようなものを、服の下から引き出した。
 荷物を抱えながら、まじまじと見て、怜はなるほどと納得する。ホーグル乗りという職業に就くのは、思ったより大変なようだ。もちろん、本気でなるつもりなど毛頭ないが。
 レアードは、木製の荷台に荷物をすべて乗せると、空になった倉庫を覗き、扉を閉めた。ぱんぱんと手を払う。
「よし、これで全部だな。この荷物は、定期的に町外れの花屋に届けることになってる、土の類なんだ。そこの花屋とうちは契約していて、オレは土を業者から預かり、一時保管して、決まった日に花屋に届けることになってる」
「土かぁ……重いはずだ」         
 怜は、積み終わったいくつもの紙の包みをぽんぽんとたたく。
「もちろん、花屋以外にも、そうだなあ……食材を運ぶ契約とか、決まってるのも他にいくつかあるぞ。決まってるのと、決まっているわけじゃなく、依頼を受けて物や人を運ぶのとで、収入は半々だな。ま、ホーグル乗りそれぞれによって、違うだろうけどな」
 そういって、レアードは御者台に上った。まだ荷台のうしろにいる怜を振り返る。
「何やってんだ、ついてこないのか?」
「え、ついてっていいのっ? いきます、いきます!」
 怜は、ぱあっと顔を輝かせ嬉々として御者台に飛び乗る。純粋に、こういう乗り物に乗るのは好きなので、任務のことなど忘れてしまいそうだ。
「じゃ、オレのホーグルさばきをしっかり見とけよ、レン坊! いくぞ!」
 レアードのホーグル車は、勢い良く走りだした。

 莉啓と悠良は、店の立ち並ぶ中心通を歩いていた。この町の道は、ホーグルが通るためだろうが、大体が広く作られている。この中心通も、もちろん例外ではなく、色とりどりの看板を掲げたたくさんの店が並ぶその中央には、幅の広い道が通っていた。
「大きな町ね。それに、ちゃんとしているわ」
 悠良は、自分が歩いている道を見下ろし、感想をもらす。石の敷き詰められた、整った道だ。観光地というわけでもないようだが、ずいぶんと人を意識した造りになっている。
「だが、差が大きいな。一部の民家通をのぞけば、舗装されていない道に、畑や森ばかりだ。ちゃんとしているのは、店などの集まっているこの辺りや、高級地だけだろうな」
 莉啓が、もっともなことをいう。たしかに、レアード=ディリキスの家などは、畑のなかにあった。悠良は、中途半端ね、と冷たくつぶやく。
「これから、どうするの?」
 莉啓は、肩をすくめた。
「情報を集めるつもりだったが……そういうことは、得意ではないからな」
「そうね……。こう寒いと、観光する気にもならないし」
 やっぱり宿に帰ろうか、と話がまとまりかける。怜が聞いたら大いに不平をもらしそうな結論だ。
「ちょっと、ちょっと、旅の人!」
 突然、店のなかから声をかけられた。雑貨屋のようだ。
「なんだ?」
 ひどく冷たい目つきで、莉啓が応じる。店の主人らしい中年の女性は、開け放たれた扉からあわてたように出てきた。
「余計なお世話かもしれないけどね、あんまり道の真ん中を歩くもんじゃないよ。旅の人は、この町のことがあんまりわかってないから、よく事故に合うんだよ」
「事故?」
 悠良が興味深そうに、顔を出す。その姿を見て、これは綺麗なお嬢さんだこと、と店の主人は目を見張った。
「ホーグルの事故さ、ホーグル。見たことあるだろう? ほら、来たよ、あれさ」
 くるくるとまるまった髪を、慌ただしく左右に揺らして、主人は二人の手をつかむと、店側に引き寄せた。何を、と莉啓が顔をしかめるが、後方より聞こえてきた音の方に注意が向く。
 それは、ホーグル車の走る音だった。見た目から想像するよりも軽い音を立てて、ホーグル車が駆けてくる。広い道とはいえ、ホーグル車の幅もかなりのもので、人々があわてて左右に避けている。ホーグル車は特にスピードを落とすこともなく、道を駆け抜けていった。
 ホーグル車が通り過ぎると、皆慣れたもので、何事もなかったように道に戻る。悠良と莉啓は、顔を見合わせた。
「結構、早いわね……」
「危ないじゃないか、あれじゃあ」
 店の主人は二人から手を離した。
「なあに、初めて見たの。早いだろう、ホーグル車。この町の住民は慣れてるからいいけどね、旅の人は、本当によく事故に合うんだよ。この間なんて、うちの店の目の前で、事故があってね……。まあ、そんなわけだから、老婆心ながら注意させてもらったってわけさ。いきなり、悪かったねぇ」
 店の主人は、ぺらぺらとまくしたてる。どうやら、本当に親切心からの行動だったようだ。
 しかし、あのスピードで走っては、事故があって当然だ。莉啓は顔をしかめた。
「この町には自警団があると聞いたが。ああいう危険なホーグル車は、放っておくのか?」
「仕方ないさ。自警団も、お手上げだよ」
 両手を上げてみせて、主人は大仰にため息を吐く。本当は、舗装されている道は、ホーグルには歩かせるのが原則だが、誰も守らないらしい。
「だから、まぁ、実際は……夜なんかはね、旅の人じゃなくても、事故にあったりするんだよ。お兄さんたちも、本当、気をつけるんだよ。そうだ、お守りなんかも売ってるけど、見ていくかい?」
 最後の誘いは断って、二人は丁寧に礼を述べた。
 のどかな町に思えたが、危険はあるものだ。怜が本当にホーグルを運転し始めたら、事故を起こしかねないなと、二人はそろって同じ心配をする。
 ふと、あることに思いつき、悠良は莉啓を見た。
「事故……?」
 莉啓も、同じことに思い当ったのだろう。腕を組んで、考えている。
「事故か……それは、あり得るな。しかしそれでもまだ、理由がわからないが」
「理由……そうね。それに、事故が原因というケースは、稀だわ」
 二人はそのまま、黙ってしまう。
 やがて莉啓が、ひとつの提案をした。
「とりあえず、自警団に行って聞いてみるとしよう。何か、わかるかもしれない」
 そうね、と悠良はうなずいた。

「風が、冷てーっ」
 レアードがホーグルを走らせ始めて、まだあまり時間は経っていなかったが、怜はすでに音を上げていた。
 ホーグル車の御者台には、覆があるわけではない。この地特有の冷たい風が吹きつけ、目を開けているのもやっとだ。
 ホーグル車は、店や家屋が並ぶ町のなかの通りは避け、いまは舗装されていない道を、かなりのスピードで走っていた。
「レアードさん、これ、ちょっと、早すぎない? ちょっと、もうちょっと、ゆっくりいきません?」
「度胸のないやつだなあ! すぐに慣れるさ、我慢しろ!」
 怜の必死の意見も、豪快な一言に片づけられてしまう。怜は御者台の端っこにしがみついて、なんとか耐えた。
「でも、これって、遠回りなんじゃ? 花屋って、どこでしたっけ?」
「花屋は、中心通だ。たしかに、町のなかを走ったほうが早いが、町は好きじゃない。人が多いからな」
「人が多いから? ああ、スピードが、出せないってこと?」
「ばかいうなよ。町のなかだからって、馬鹿正直にホーグルに歩かせてたら、商売になんてなんないさ」
 少し押さえたトーンで言葉を返す。そして急に、まだでこぼこ道を走っている途中だというのに、ぐんとスピードが落ちた。
 突然のことに、怜がバランスを崩して前につんのめる。何事かと隣を見ると、レアードが、思い詰めたような目で、じっと前を見ていた。
「なあ、レン坊」
 いつもの豪快な様子からは想像できない、かたい声だ。
「お前、子ども、いるか?」
「……いるわけ、ないでしょう」
 何を聞くかと思ったら。拍子抜けしてしまう。
「嫁さんは? いないのか?」
「いないって。俺まだ若いし。人生これからだし」
「そうか。そうだよなあ……」
 あれだけのスピードで走っていたホーグルも、いまではとことこと歩いている。いいたいことがわからずに、怜はおとなしく、次の言葉を待った。
「お前さんも、子どもを持てばわかるだろうが……子どもってのは、かわいいもんだ。ほかの何にも変えがたい、大事なもんだ」
 エイリのことをいっているのだろう。怜は、レアードの真剣な表情を見た。
「子どもには、幸せでいて欲しいんだ。そういうもんなんだよ。だから、オレは……」
 それっきり、糸が切れたように、レアードは黙ってしまった。
 怜も、ただ黙って、言葉の意味を考える。
 それはおそらく、理由の確信に迫る言葉だったに違いないと、思いながら。

「事故についての、調査?」
『自警団』という看板がかけられた、あまり大きくはない小屋で、団長と呼ばれた男が、胡散臭そうに顔を上げた。
 町の規模にしては、小さな詰所だ。物でごった返した内部には、机、壁、カーテンにまで、書類の類だろう、たくさんの紙が張りつけられている。
 悠良を置いてきて正解だったと、想像どおりの男臭さに、莉啓は心から思う。
「ええ。国の統治下で起こったすべての事故の調査をし、地域ごとにまとめて、統計をとっている最中です。一年ほど前の資料から、あとはできるだけ最近のものまで。ご協力、お願いします」
 莉啓は、慇懃無礼に告げると、国の使いの証明であるペンダントを見せた。とはいえ、国の紋章を彫って、それらしく見せかけただけの偽物だが、一介の自警団長にはわかるはずもない。
 団長は、あっさりと信用したようだ。部下をよびつけ、資料を集めさせる。
「国も、途方も無いことを始めるもんだな。まあ、もちろん、協力はおしみませんよ。ただ、ご存じかも知れませんが……この町は事故が多いんでね。資料を集めるのに、少し時間がかかります」
「やはり、ホーグル車の事故ですか?」
 団長は、深い、深いため息をついた。途方に暮れているといった様子だ。
「ホーグル車は便利ですが……事故が、本当に多い。道の幅を広くしたり、スピードの規制をしたりと、いろいろやってるんですがね。どれも、思うようにはいきません」
 便利な分だけ、リスクも高いということだ。それに、と団長は続けた。
「たとえば物をにぶつかって壊したり、ひどい場合は人を轢いて怪我を負わせたり……あるいは、死なせてしまったり。そういうことをしても、名乗り出ない犯人というのも、ときどきいるんですわ。まったく……」
 資料が集まるまでの間、団長は愚痴のようなものをぶつぶつと繰り返す。想像以上に、ホーグル車の事故は多そうだと、莉啓は不快な気分で眉根を寄せた。ということは、資料を手に入れても、あまり参考にはならないだろう。無駄足だっただろうか。
「ああ、やっと、集まりました。どうぞ」
 部下から受け取った書類の束を、ばさりと渡す。ぱらぱらと見てみると、いつどこでどういう事故があったのかという内容が、簡潔に記されたものだった。
「一応、控えはあるんですが、できるだけ早い返却をお願いしますよ」
「ご協力、感謝します」
 莉啓は一礼し、さっさと詰所をあとにした。

   *

 ホーグル乗りとはいえ、エイリ=ディリキスには、仕事はまだほとんどない。定期的に請け負っている仕事もひとつだけで、依頼などを持ち込まれることもごく稀であったので、エイリの仕事といえば家事とホーグルの世話ぐらいだ。
「これで、よし!」
 しばらく放ってあったソファのカバーをすべて外し、洗濯し終えたエイリは、満足気に伸びをした。最近は、自分でも感心するぐらい、頑張っている気がする。家事をしたり、ホーグルの世話をしたり。毎日が充実していて、晴れ渡った空に負けないぐらい、明るい気分だ。
 庭から、表の玄関にまわり、ついでに草むしりでもしてしまおうかと考える。すると、畑の向こう側から、こちらに向かって男が歩いてくるのが見えた。
「ジリス伯父さまだわ」
 エイリは、大きく手を振った。民家通に住む、レアードの兄のジリスだ。レアード一家とは仲が良く、お互いによく家を訪ね合っている。
「こんにちは、ジリス伯父さま」
 いつもなら、その大きな手でくしゃくしゃと頭を撫でてくれるジリスは、少し思い詰めたような顔で、ささやかにほほえんだ。黒い帽子を脱ぎ、ひょろりとした長身を少し屈める。白髪の方が多くなった、灰色の頭が、エイリの目にとまった。疲れた顔をしている。
「エイリちゃん、レアードは、いるかい?」
 エイリは、首を左右に振った。
「仕事に出ているわ。……どうしたの、ジリス伯父さま? なんか、へん」
「いや、いや。どうもしないさ。そうか……じゃあ、待たせてもらっても、いいかな?」
 先程よりはやわらかい笑みで、ジリスがいう。エイリの胸のなかがざわざわと不安になったが、どうもしないというのでそれ以上は追求せず、家のなかへ招き入れた。
「すぐ、紅茶をいれるわ」
 コートと帽子を受け取り、玄関のラックにかけると、エイリはぱたぱたと台所に消える。質素ながらも、暖かいつくりのリヴィングで、ジリスはカバーのないソファに座った。
 エイリは、紅茶とクッキーをトレイに乗せて、すぐに現れた。そして、たったいまソファのカバーを洗濯してしまったことを後悔して、失礼を謝る。
 ジリスは、紅茶を受け取りながらも、ひどく思い詰めた様子で、いつもからは想像できないほど、口数が少なくなっていた。
「なあ、エイリちゃん」
 かたい声だ。エイリは、目で返事をする。
「最近、レアードのやつ、なにか変わったところはないか?」
「お父さん……?」
 エイリは、少し考えて、首を振った。
「いつもと、同じだと思うけど……。どうして?」
「いや……」
 それっきり、黙ってしまった。
 空気に押しつぶされそうで、エイリは家事があるからといい残し、席を立つ。
 何があったのだろう。
 お父さんに、何か、あったのだろうか。
 不安が、ぐるぐると渦をまいた。それから、先程の自分の言葉を思い出した。
 いつもと同じと、自分は、いま、そういった。
 本当に?
 あたしは、何か、忘れていない?
 本当に、何も、変わらない?
「…………」
 胸を、わしづかみにされたような感覚になり、エイリはきゅっと唇をかみしめた。

 舗装された中心通を抜けるのが近道なのだが、行きと同じくぐるりと遠回りをして、レアードのホーグル車は軽快に走っていた。怜に配慮してのことなのか、単にそういう気分なのか、スピードはずいぶん落としている。
 やがて、遠くのほうに、ぽつりとディリキス家が見えてきた。
「あれ? もう、戻るんですか?」
 てっきりこのまま仕事を続けると思っていた怜が、帽子を片手で押さえながらレアードを見上げる。レアードは、何をいまさら、と苦笑した。
「そりゃあ、そうだろう。さすがにレン坊乗っけたまま、人を乗せる仕事はしないさ。昼飯食って、そのあとまた仕事にでる。悪いが、そんときは留守番だ。もう、物を運ぶ依頼はいまんとこないからな」
「ええー。もっと乗ってたいのに」
「馴染みの客ならともかく、そういうわけにもいかんだろう」
 怜は不満そうに顔を歪めた。離れてしまっては、監視がしづらいではないか。
 茶色の、古びた家屋の前まできて、ホーグル車はゆっくりととまった。慣れた手つきで、レアードが二頭のホーグルを小屋に入れる。
「お帰りなさい」
 音を聞きつけたのだろう、玄関先までやってきていたエイリが、やや重い表情でそう口にし、むりやりのように笑った。
「お父さん、ジリス伯父さまが来てるわ」
「兄さんが? この間会ったばかりなのに、めずらしいな」
 軽く目を見開いて、上着を脱ぐ。おじゃまします、と入りかけた怜だったが、エイリの様子がおかしいのが気にかかった。
「……お客さん? 俺、帰ったほうがいいかな?」
「いやいや、レン坊、オレの兄さんだ、気にするこたあないさ。腹減ってるだろう?」
 しかし、エイリは戸惑ったような表情をしている。うーむ、と考えてから、怜はぴっと敬礼した。
「ま、今日は、俺けっこう疲れたし、このまま帰ります。また明日、ご指導お願いいたしますっ」
 深々と頭を下げて、扉を閉める。どうせレアードと行動を共にできないのなら、ここは身を引いたほうが得策だ。
「あ、おい、レン坊! ……ったく、気を遣うこたあないのに……」
 嘆息する。特別な来客ならともかく、親しいつきあいをしている兄弟だ。何も、帰ることはないのに。
「でもね、お父さん……ジリス伯父さま、なんか、様子が変なの。なにか、あったんじゃないかしら……」
 エイリは、不安そうにレアードを見ている。レアードは、どうせたいしたことではないと思いながら、ずかずかとリヴィングに向かった。
「いらっしゃい、兄さん。今日はいったい……」
 軽く右手を挙げて、挨拶をする。しかし、ソファで神妙な顔つきをしているジリスを見て、さすがに何かあったと、察した。
「……どうか、したのか?」
 向かい側に座る。ジリスは、ためらうような長い沈黙のあと、テーブルの上に小さな木片を静かに置いた。
 さっと、レアードの顔色が変わった。
「……お父さん?」
 紅茶の用意をすることも忘れて、エイリが見ている。レアードはエイリに背を向けたまま、できるだけ落ち着かせた声でいい放った。
「エイリ、おまえは二階に行ってろ」
「でも……」
「いいから!」
 びくりと肩を震わせて、エイリはリヴィングをあとにする。ぱたりと、戸を閉める音が聞こえた。
 腕を組み、真っすぐレアードの目を見つめて、ジリスは重い口を開いた。
「……ずいぶん、悩んだんだ、レアード」
 レアードは額に手を当てて、下を向く。そして静かに、うなずく。
「どういうことか、わかるな? これは、私の気のせいや、勘違いではないな?」
「…………」
 レアードは、テーブルに置かれた木片に視線を移し、ぎゅっと噛み締める歯に力をこめた。
 ホーグル車についていたものだ。昔、ジリスからもらった、手作りのプレートの一部。
「何度、いいかけたかわからない。冗談のように切り出せば、それで終わるかとも思ったが……やはり、普段と変わらないおまえを見て、思ったよ。このままでは、いけない。おまえも、苦しんでいるんだろう?」
 レアードはこたえない。ただ、うつむいたままで、言葉を探すような沈黙がつづく。
「教会に行こう、レアード」
 はじかれたように、レアードは顔を上げた。
「だめだ、兄さん……それは、だめだ」
「おまえ、本気でそんなこと……!」
 ジリスが身を乗り出す。レアードは、泣きそうな顔で、首を左右に振った。
「だめなんだ……エイリは、まだ、何も、知らないんだ……。待ってくれ、ちゃんと説明して、それから自分で、行くから……」
「…………」
 ぐっと、自分を抑え、ジリスは深くソファに座る。エイリちゃんか、と沈痛な面持ちでつぶやいた。
「……わかった。私は、レアード、おまえを信じている。わざとじゃないことも、わかっている。ちゃんと、説明したら……教会に行くんだ。そして、償わなければならない。わかってるな?」
 レアードは、深く、一度だけ、うなずいた。それだけ確認すると、ジリスは無言で席を立つ。
 彼はそのまま、それ以上言葉を紡ぐことはなく、ディリキス家から出ていった。
 残されたレアードは、下を向いた態勢のまま、額に当てた手に力を込める。爪が食い込み、血が滲んだが、痛さなどどうでもよかった。
「……でも、オレはもう、だめなんだ……」
 このままではいけないことはわかっている。
 しかし、償うこともできない。それも、わかっている。
「……愚かなことを」
 愚かなことをして、救われたいと望んだ。
 しかし勇気はなく、日常にすがりつき、救われた気になった。
 救われたいと、思うこと自体が、
「……なんと、愚かな……」
 レアードの目から、涙のようなものが、音もなく落ちた。

 ディリキス家を出て、通りに出ると、目の前に長い棒を持った少年が立っていた。
「……君は?」
 ジリスが問うと、少年は長い棒を器用に回し、ぺこりと一礼する。
「実は、俺も、見たんです」
 ジリスは顔色を変えた。
「あの事故を、見ていたのか……?」
「はい」
 彼は諦めたように押し黙り、それから少年の両肩をつかんだ。
「頼む……あいつは、弟は、後悔しているんだ。ちゃんと、自分で罪を償うといっているんだ。もう少し、そっとしといてやってくれないか……」
「もちろん。告げ口するような真似はしませんよ。ご安心を」
 ほっと胸を撫で下ろし、目を閉じて息をつく。お礼をいおうと顔を上げると、そこにはもう、少年の姿はなかった。
「……?」
 あわててあたりを見る。人通りの少ない、田舎道。畑と、木々。
 ジリスは、夢を見たような気分で、ぼうっとした頭を強く降ると、また重い足を動かし始めた。

「話の展開から、まさかと思ったけど……なるほどねー。しっかし、そうなると、わっかんないよなー」
 木の上から、歩き去っていくジリスを見て、それからディリキス家に視線を移すと、怜は棒を背中にまわして、疲れたようにつぶやいた。




   3

 ぱちぱち、ぱちぱちと、薪が爆ぜている。
 テーブルの上に、三組のティーカップと、焼き菓子が置かれている。
 静かな時間。
 膝掛の下で足を組み、悠良はそっと目を瞬かせた。
「……おかしな話ね」
 感想を述べる。見ると、莉啓も、何かを考え込んでいるようで、無言で腕を組んでいる。
怜はおやつと称して買ってきた焼き菓子をあっという間にたいらげて、でしょ、と笑った。
「俺からの報告は以上でーっす。どういうことなんだろうねえ、これは。不思議不思議」
「だって、おかしいわ、そんなの。レアード=ディリキスが、事故を起こした側だなんて。ならどうして、ここに、残っているのよ。死にたいとは思っても……執着するなんて、おかしいじゃない」
 赤い髪をさっとかきあげて、怒ったように悠良がいう。猫舌の怜は紅茶を冷ますことに専念しながら、肩をすくめてみせた。
「そんなこと、いわれてもなあ。でも、エイリさんをひとり残すのはやだってのは、あると思うよ。もちろん、それだけじゃないと思うけど」
「……一ヵ月ほど、前だったな、確か」
 唐突に、それまで黙っていた莉啓が口を開いた。それがどうかしたの、と悠良が冷淡に先を促す。
 莉啓は、テーブルの端に束ねてあった資料を手にし、視線を落とした。
「事故の資料のなかに、興味深いものがあった。ちょうど一ヵ月ほど前……同じ時期に、ホーグル車の事故が起きたらしいという痕跡が見つかっている。しかし、痕跡しか、見つかっていない」
「……ふーん」
 怜が、実におもしろそうに、片眉を上げた。悠良は眉をひそめ、莉啓を見ている。
「……どういうこと?」
「中心通の、広場近くで、事故の痕跡が見つかっているんだ。破損した器物、それに、血の跡。しかし、被害者も、加害者も、名乗り出てきていない」
「じゃ、たぶんそれで、間違いないね」
 怜が、やっと征服したらしい紅茶の、空になったカップをかちゃりと置く。悠良は、まだ釈然としない面持ちのままで、つぶやいた。
「……でも、それでも、どうして。過ちを犯したら、ふつうひとは、消えてしまいたいと思うものだわ」
 うなずいて、莉啓が賛同の意を示す。
「だが、残っている。執着している。それは、きっと……」
「エイリさん、だね」
 悠良は、悔しそうに瞳を伏せた。
「やるせないわ」

   *

 ジリスはとっくに帰ったというのに、日が暮れても、レアードはソファに座ったまま、固まったように動かなかった。どうしようかとしばらく逡巡し、ソファのカバーをかけるという口実をみつけ、エイリは遠慮がちにリヴィングの戸を開ける。
 暖炉の薪はとっくになくなって、室内は嘘のように寒くなっていた。
「何やってるの! 風邪、ひいちゃうでしょ!」
 ばたばたと走って、エイリはあわてて薪をくべる。それでもレアードは、明かりも灯さず、じっと座っていた。
「……エイリ」
 低い、めったに聞くことのないような重い声に呼ばれ、エイリはびくりとした。恐る恐る振り返る。
 いつも元気で、豪快な父親は、小さくなって座っている。
「おまえは、母さんを轢いたやつを、憎んでいるか?」
 突拍子もない質問だった。母親が、ホーグル車の事故で死んだのが十二年前。犯人は、結局、名乗り出てはこなかった。
「当たり前よ。憎んでるわ。いまだって……もし、みつけたら、あたし、そいつに何をするか、わからない」
「そうか……」
 ふたたび、沈黙がおとずれる。エイリは、レアードの隣に座り、うつむいたままのその顔をうかがった。
「……どうしたの? どうして、そんなことを、聞くの?」
「オレも、最初は、憎んでいた……でも、いまは、憎んでいないよ」
 エイリが、見ている。その視線が痛い。
 それでも、レアードは続けた。
「罪を犯すということは……悪い、ことだ。それは、あたりまえだ。だが、仕方のないこともある」
「……何がいいたいの? わからないわ、お父さん」
「仕方のないこともあるんだ。やり直せることもあるんだ。だから、絶望だけは、しちゃあいけないんだ」
「……お父さん?」
 レアードが、泣いているのがわかった。雫が、ぼたぼたと、床に落ちる。
 彼は、やっと顔を上げ、エイリを見た。
「わかってくれ……罪を犯したことが、すべてではない。ひとは、やり直せる。ちゃんと償えば、また、やり直せるんだよ」
 レアードは、深く呼吸をし、震える声を落ち着かせた。
「……一ヵ月、半ぐらい、前だ」
 エイリは、目をそらすことができずに、真っすぐこちらを見てくる父親を見つめた。レアードは、一度息を吸い込み、そして搾り出すような小さな声で、告げた。
「オレは、ひとを轢いてしまった」
 エイリは目を見開いた。
 長い、長い沈黙のあと、彼女は静かに立ち上がり、階段をかけ上って、力一杯自室のドアを閉めた。


 愚かなことを
 本当に、愚かなことをした

 逃げ出した自分を恥じ
 消えてしまいたいと願った

 死んでしまえたらと願い
 しかし自ら死ぬ勇気もなく

 日常にすがりつき
 そうすることで、忘れようとして

 なんと愚かで
 なんと勝手な


「……帰ったんじゃ、なかったのか?」
 深夜になっても、レアードはソファに座っていた。
 ときの流れを感じない。
 いつ間にか、目の前に長い棒を持った少年が立っていても、彼は不思議に思わなかった。
 あるいは最初から、わかっていたのかもしれない。
 怜は、すっとしゃがみ、レアードと同じ高さで、彼を見た。
「後悔してる?」
「……おまえには、わからないだろう」
「どうだろうね」
 レアードは、自分のなかにある感情の正体がわからないままに、瞳を伏せる。それは悲しみなのか、憤りなのか、あるいはそれらすべてなのか。
「わからないだろう。罪を犯したものの気持ち……この、このとても説明できない、気持ちを……わかるか? 苦しいんだ。どうしようもなく、苦しいんだ」
 大きく首を左右に振る。
「違うんだ、わかってるんだ……苦しいとか、いう資格は、ないんだ……悪いのはオレだ……だがこれは、あまりにも、重すぎる」
 彼は、胸を、つぶれるほどにつかんだ。
 長く、震える息を吐き出した。
「……眠れないと思ったんだ。あんなことをして、家に帰ってきて、震えがとまらなかった」
 怜は、黙って聞いている。
「だが……なあ、わかるか。眠くなるんだよ。腹も減るんだ。疲れるし、いろんなことを思うし、生きたいと……感じるんだ。勝手なものだ。愚かで、勝手だ」
 しっかりとした声で、彼は続ける。
「オレは、奪ったのに。オレは、手に入れたいと願うんだ。……被害者は、加害者に恨みをぶつければいい……だが、加害者は、どうすればいいんだ? どうすれば、救われるんだ? こんな思いは、させてはいけない……あの子に、させては、いけないんだ……罪をおかしたものは、この思いを、どこに、どうやれば……」
「救われるよ。自分で、許すことが、できればね」
 怜が口を開く。
「勝手だろうが、なんだろうが、そういうもんなんだ。だから、あなたも、こうしてここにいる。だから……大丈夫だと、思うしかない。エイリさんも」
 レアードは、急速にすべてを悟った。
 顔を上げると、怜のうしろにもう一人、黒い姿の青年が立っていた。
「事故は、事故だ。そしてそれは、起こってしまった。あなたが、ここに執着して、虚構を作り上げたところで……それは何も、生み出さない」
「……めてくれ……」
 レアードは、大きく首を振った。
「やめてくれ……待ってくれ……お願いだ! たしかにオレは、加害者になるぐらいなら被害者になりたいと、身勝手なことを望んだ! だがそれは、こんな形で……!」
 レアードは必死に、すがりつく。しかし、感覚が確実に遠くなっていることに気づいた。
 手が、足が、身体が薄れている。
「エイリは、エイリはどうなるんだ! あの子は悪くないんだ! お願いだ、オレをこのまま、ここに……!」
「もう遅い」
 莉啓の口から流れた残酷な言葉に、レアードは悲鳴をあげる。
「あなたの魂が、認めてしまった。もう、ここには……いられない」

 ずっと、ずっと、涙がとまらない。
 一生懸命とめても、また何度も、流れてくる。
「何を泣いているの?」
 すぐ近くで声がした。エイリは子どものようにしゃくり上げながら、声のするほうを見た。
 赤い髪の少女が立っている。
「あなた、どこから……」
 赤い髪の少女は、人差し指を上に向けた。
「そら……?」
 少女はこたえない。
 その代わり、もう一度、問いを口にした。
「何を泣いているの?」
 エイリは涙を手の甲で拭う。
「なんでも、ないわ」
「親の罪を嘆いているの? 自分の罪を嘆いているの?」
 少女が問う。
 エイリは、わからなくなって、また涙があふれだす。
「ひとを、轢いただなんて……ひとを、殺してしまっただなんて……」
「それは、誰の罪?」
 少女が問う。
 エイリは、耳を塞いだ。
 それでも声は、聞こえてきた。
「思い出しなさい」
 冷たい言葉。
 頭のなかに、響いてくる。
「思い出しなさい……あなたのお父さんは、本当に何も、変わらない?」


 エイリは、震える足で、ゆっくりと階段を降りた。
 リヴィングの戸を開けると、そこには誰もいなかった。
 いつから、誰もいなかったのだろう。
 いつから、ひとりぼっちになったのだろう。

「……お父さん?」

 呼びかける。
 もうずっと、長い間、逢っていないような。
 大好きな父親の顔を最後に見たのは、いつだっただろう。

 ああ、そうかと、エイリは知った。
 殺してしまった。
 殺したのは、自分だ。
「一ヵ月前の、あの日ね……夜、お父さんの帰りが遅かったから、あたし、心配になって、それで、ホーグルに乗って、探しにいったの」
 エイリは、たしかにレアードが座っていたはずのソファに、そっと片手を乗せた。
「月が、出ていなくて……暗くて……急に、何かにぶつかって……ひとを轢いてしまったとわかって……どうすればいいかわからなくて……」
 覚えている。
 地面に倒れた父親は、ただ笑って、おまえは悪くないと、そういった。
 おどけた笑顔で、実は父さんも人を轢いてしまったんだと、それでとても苦しんだけれど、やり直していこうと思っていると、いった。
 乗り越えていこうと、自分も乗り越えるから、一緒に乗り越えていこうと、いった。
 覚えている。
 そのまま、動かなくなった。
 そのまま、冷たくなった。
 あの声も、感触も、覚えている。
「……ねえ、お父さん……あたし、どうすればいい? どうすれば、いい?」
 涙がこぼれてきて、誰も座らなくなったソファに、崩れ落ちた。
 その声にはもう、誰も、こたえない。
 大きな大きな黒い固まりが、行き先もわからず、エイリのなかで渦を巻く。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」





 さらさらと、風が吹いた。
 夕方に降り始めた雪は、いつのまにか積もり、真っ白の世界が出来上がっていた。
 既然とした瞳を真っすぐ前に向け、悠良が先頭を歩く。
 歩幅を広げてその後ろ姿に追いつくと、左に並び、怜は自分の帽子を悠良の頭にかぶせた。
「お疲れさまでした」
 莉啓が、右側に並び、ぽんっと悠良の頭に手を乗せる。
「こういうことも、ある」
「…………」
 悠良は黙って、だぶだぶの帽子をきゅっと前にひっぱった。
 天から降り立った三人の聖者──その役割は、魂の回収。
 死してなお、生にしがみつく魂を導く役目は、決して、救いではない。
 救いなどと、おごってはいけない。
 悠良は背筋をぴんと伸ばし、さらに足を速めた。
「私を誰だと思っているの? 余計な心配は無用よ」
 いつもの声でいい放った天女に、二人は顔を見合わせて、小さく、優しく、ほほえんだ。


 そうして、聖者は、歩き続ける。
 彷徨える魂を、導くために。

  
読んでいただき、ありがとうございました。
心から、感謝いたします。

同シリーズもよろしければご覧ください。

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