挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕 が含まれています。

沈黙の従者~奇跡のタジット~

作者:黒川うみ
 タジットには親がいない。
 みんなあくまにころされてしまった。
 おとうさんもおかあさんもおじいちゃんもおねえちゃんも、みんな、みんなしんだ。
 タジットは生きている。
 タジットは救世主さまにたすけてもらった。
 だからタジットは救世主さまのために生きるときめた。

 タジットをたすけてくれた救世主さまのために生きたいとおもった。

 タジットの『主人』はまだ子供だったが、タジットよりかは大人だった。
 いつもまっさらな修道士服に身を包んで、首から銀のロザリオを提げている教会の人だった。
 主人は神様に選ばれた白い肌に、お日さまみたいな金色の髪の毛、お空のような真っ青の澄み切った眸をしている。
 どれひとつとっても、タジットは持っていない綺麗なものだった。だからそれらはすべてタジットの宝物だった。
 主人を起こすのはタジット。
 主人の着替えを手伝うのもタジット。
 主人の髪を梳かすのもタジットだけに許された特権だ。
 タジットは主人のことが大好きだった。
 そしていつでも夜が楽しみだった。
 主人が頭の悪いタジットのために、たくさんのお話を聞かせてくれるのだ。
「おいで、タジット」
 声変わりの途中の柔らかい声に誘われて、タジットは持っていたろうそくを吹き消した。
 部屋に残った最後の灯りは主人の側の枕元のランプだけ。
 上着を羽織ってベッドに上り、主人に甘えるように側に寄る。彼は左手でタジットの頭を撫でながら、右手で一枚の薄い木の板を差し出した。木の板と言っても、そこにはたくさんの絵の具を使って聖書の一幕が描かれている。子供用の図版だった。
「今日は主がお生まれになった時のことをお話しようか」
 タジットはこっくりと頷いた。
 このお話は何度も繰り返しているから全部覚えていますとは言わなかった。新しい話が聞きたいこともなかったが、主人が聞かせてくれるのならばどんな話でも構わなかった。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」
 美しい聖母の驚いた表情は、まるで町娘そのもの。
「精霊があなたに降り、いと高き力があなたを包む」
 百合の花を白い指で持っているガブリエルの言葉が、今そこで囁かれているように穏やかにタジットを包み込んだ。
「だから生まれるものは聖なるもの、神の子と呼ばれる」
 きっと主人もこうして生まれてきたのだろうと考える。
 なんて素晴らしいことだろう。
 タジットの主人は神の子なのだ。
 タジットの主人の名はヨシュアといった。
 偉大なる天使に守られている神の子だった。

 ヨシュアはこんな話を度々、タジットに聞かせてくれた。
「僕の天使さまを、僕はアンジェリカと呼んでいるのだけれどね」
 一番有名な三人の天使以外の名前は、本当は神に仕える人だけの秘密とされている。だからヨシュアはそんなふうに表現したのだろう。
 それに、とても素敵なお名前だとタジットは感じていた。
「アンジェリカはとても綺麗なんだ」
 そう語るヨシュア自身も聖書の中から抜け出して来たような、そんな儚げな人物だった。
「手には炎の剣を持って、むかしは生命の樹を守っていたんだ」
 エデンからアダムとイヴを追放したとされる位の高い天使。
「戦う時は、獅子と牛と鷲の仮面をつける。そして四つの翼で空を飛ぶんだ」
 このくだりになるたびに、タジットは胸をどきどきさせていた。
 だってその天使さまはいつもヨシュアの側にいるのだ。タジットがヨシュアの側にいる時は、タジットの側にも天使さまがいることになる。
「だけど乱暴者じゃない。とても頭が良くて、優しい。まるでお父さんやお母さんみたいに」
 とても嬉しそうな語り手の声。
 タジットの頭を優しく撫でながら、ヨシュアは笑う。
「アンジェリカは、今は赤ん坊を守るのが仕事なんだ。その子が元気で生まれてくるように」
 ならば自分もアンジェリカに守られて生まれてきたのだと考えて、タジットはとても嬉しくなった。

 タジットとその主人は、時々教会の大きな建物から外に出て、歩いて遠くの村まで行く。たまに馬の背に揺られることもある。
 悪魔をやっつけに行くのだ。
 ヨシュアはいつも傷だらけになりながら一生懸命に戦う。
 そして最後は天使の聖なる炎ですべてを燃やして穢れたものを消し去ってしまう。
 決して悪魔に負けたりなんかしない。
 タジットはそう信じていたし、実際ヨシュアが負けることはなく、ゆえに命を落とすこともなかった。
 ヨシュアが戦っている間、タジットはヨシュアを信じて、怪我人の手当をするのが二人の間の決まりだった。
 高い傷薬を惜しみなく使って、持参した綺麗な包帯を巻き付ける。時には熱した針で傷口を縫うこともある。壊死してしまった腕や足をのこぎりで切り落とすこともある。
 とても恐ろしい仕事で、直視したくないことだってある。それでもタジットは治療を続ける。
 たくさんたくさんけが人がいて、先が見えないこともある。
 それでもタジットは、戦い続けるヨシュアを信じ、治療を続ける。
 ヨシュアにできるのは悪魔を倒すことだけ。
 傷ついた人々は、自分たちの手でまた日常を取り戻さなければいけない。その手伝いができることをタジットは幸せだと感じていた。
 そして最後は優しく優しく、ヨシュアの傷の手当をするのだ。
 ヨシュアは笑顔で頭を撫でて、タジットに「ありがとう」と言ってくれるのだ。

 新しい年を迎えて、タジットは少し大人に近づいた。
 同じ分だけヨシュアも大人に近づいた。
 タジットは少しだけ、ヨシュアの言葉を理解できるようになった。
「どうして、アンジェリカは僕を選んだんだろう」
 少しだけだが、主人が何かに悩んでいることに気がついた。
「アンジェリカ、僕はどうしたらいいんだろう」
 少しずつ、主人と外に出かけることが増えて、主人が悪魔と戦う時、泣いていることに気がついた。天使の力が現れるその瞬間のヨシュアの表情を知ってしまった。
 その感情を、
 ゼツボウ
 と呼ぶのだと、タジットは知っていた。
 己の身を持って知り、たくさんの人がそれに囚われるのを見てきた。
 タジットをゼツボウから助けてくれたのはヨシュアだ。
 しかしヨシュアは、ずっとひとりでゼツボウと戦い続けていたのだ。
「アンジェリカは僕の絶望を感知することで、人の世界に姿を現すことができる。僕は教会の権威を高めるための便利な道具でしかないんだ。……奇跡を見せびらかすための」
 ヨシュアはそれでも人のために戦い続けた。
 言葉の上では、少しでも来世での罪を軽くするために。
 『奇跡』を民衆に見せびらかすために、教会の人たちはヨシュアの目の前で見知らぬ誰かを鞭で叩き苦しめ、拷問しながら殺すのを間近で見た。
 タジットは教会が嫌いになった。
 『奇跡』のために主人を苦しめる教会が嫌いになった。
 ヨシュアはだんだんと、表情を変えなくなっていった。ずっと笑ったままで、涙も怒りも見せないようになった。それでも天使が現れるということは、彼は絶望しているのだろう。
 絶望したくないと笑っているのに。
 大人たちは彼を追い詰める。お前は絶望の中で生きていればいいのだと言わんばかりに。
 神の子と崇め奉る真摯なまなざしのその裏側で。

 タジットは毎晩、悪夢にうなされるヨシュアを甲斐甲斐しく世話した。
 汗を拭きとる時以外は、ずっとヨシュアの手を握って側にいた。
 それだけしか、タジットにできることはなかった。
 そんな日が続くある月のない夜、タジットは天使と出逢った。
「タジット」
 最初はうたた寝の空耳かと思ったのだが、頭を撫でられてはっとした。
「タジット、優しい子」
 その天使は聖母のように慈愛に満ちた微笑を浮かべ、透き通る身体でベッドに腰掛けていた。
 ――アンジェリカ。
 心の中で天使の名を反芻する。
 それに応えるように天使は頷いた。
「いつもこの子の側にいてくれてありがとう。あなたがいてくれることで、私たちの心がどんなに救われていることか」
 星明りに眩く煌く金色の長い髪。
 肌は大理石のように白く、しなやかな身体。
 象牙色の眸はありふれているはずなのに、穏やかに澄んでいて胸が震えそうだった。
 純白の衣に身を包んだ天使は、確かにそこにいた。
 タジットは目を丸めたまま動けなかった。手を祈りの形にすることさえ忘れてその神秘的な姿に魅入っていた。
「……でも、それももうすぐ終わり。私たちはもう、耐えられない」
 悲しい声とうなされる声が重なって、まるで悲鳴のように響いた。
 タジットはそっと目を伏せた。
 心の臓に杭を打ち付けるほどの痛みを、タジットもまた感じていたのだ。
 だって――。
「タジット、あなたもわかっているのね。私がここにいるということは、この子は……ヨシュアは夢を見ている時でさえ、絶望に苛まれているのだと。ヨシュアにはもう、安らげる場所などどこにもないのだと」
 こくり。
 タジットは大きく頷いて、そのまま俯いた。
 なんて悲しいことなんだろう。
 神の子と讃えられている少年は、誰かに助けを求めることさえ赦されていないのだ。
 ただ、助けを求められるだけ。
 それに応えて助けるだけ。
 誰も助けてはくれない現実から少しでも逃げようとして、他の誰かからさらなる助けを求められる。
「タジット。あなたはお逃げなさい。私たちはあなたが苦しむところを見たくない。あなたが殺されるところだけは見たくない。どれだけ私たちが足掻いても、救いを求めるたくさんの手から逃れることはできないの」
 ずっと側にいた者が目の前で殺されたら、それは絶望以外のどんな感情が湧くというのだろう。
 怒りか、憎しみか。
 怒ることも、憎しむことも赦されていないのに。
 なぜなら彼は聖人だから。
「だから、ヨシュアは終わりにするつもり」
 それがいい、とタジットも心の中で思った。
 例え自害が赦されないものでも。
 神の御前にいけないと知っていても。
 タジットは握ったままの主人の手を離さずに、首をぶんぶんと横に振った。
 終わりのその時まで側にいたかった。
「……ありがとう。優しいタジット」
 きゅ、と天使に抱きしめられたような気がした。
 ふわっとした甘い香りが一瞬だけ鼻をくすぐらせて消えた。はっとして周囲を見回すと、そこにはもう、天使はいなかった。
 タジットが天使と直接話をしたのは、後にも先にもこの一回だけだ。何があっても、何が起きても、最後まで決してヨシュアの側を離れるまいと固く心に誓ったのも、この時だった。

 教会のやり方は段々と卑劣になっていった。
 絶望することなく悪魔を退治しようと、どんなにヨシュアが志を高く持とうとも赦さない。奇跡を用いないことを赦さない。
 感情が麻痺し始めた彼を見て、邪魔になった、或いは罪もない修道士や修道女に共をさせ、悪魔の犠牲にさせて無理矢理にでも絶望を感じさせた。
 ヨシュアにはナイフの一振りも与えられず、自分の身を守る手立てをなくしてまで。
 自分のためにいらぬ犠牲を強いられたヨシュアは、悪魔退治にタジットを連れて行くことを拒むようになった。人が死ぬところなど見せたくなかったし、従者が犠牲になることを畏れたのだ。しかし、従者は頑として譲らなかった。
 置いていかれても追いかけた。
 靴がぼろぼろになって、足の裏が血まみれになっても。

 タジットは思う。
 主人は彼女に出逢ったからこそ、こんな悲惨な日々を終わらせる最期の覚悟ができたのだと。
 だから彼女のことは恨んでいない。
 ヨシュアもきっと同じことを望んでいたはずだ。
 どうか彼女だけでも、幸せな一生を送れますように、と。

 タジットは今でもそう信じて、祈り続けている。

* * *

 それはいつものように悪魔退治に向かった小さな農村でのこと。
 夕暮れになってやっと着いたその村は既に半壊していて、被害が大きく出ていた。だが、不思議なことに、外を見張る人たちは怪我をしていても治療を受けた後だった。
 さらにおかしなことに、遠目に白い修道士服を見るなり即座に歓迎されたのだ。
「よく来て下さいました」
 案内されたのはかろうじて形を保っている大きな家だった。
 そこにはたくさんのけが人が寝かされていて、その間を甲斐甲斐しく行き来する修道女がいた。ヴェールを付けておらず、長いスカートは膝丈にまで鋏で断ち切った跡がある。ロザリオさえ首に見当たらなかったが、それは確かに見習い修道女の衣装だった。
 彼女は入ってきた修道士服の少年を見るなりずかずかと大股で歩み寄って、パシンと頬を引っ叩いた。
「遅い!」
 大きな瞳にいっぱい涙を溜め、
「大人は? 神父さまは!?」
 堰を切ったような声で、詰問する。そうでもしないと泣き崩れてしまうと自分を奮い立たせるように。
「さっさと答えなさい!」
 叩かれた頬を抑えてきょとんとする少年に、彼女は目をつり上げて声を荒げた。おそらく、この少女が率先してけが人の治療に当たっていたのだろう。
 自分の手に負えない事態と向き合おうとして必死なのだ。
 タジットは彼女の向こうで寝かされている怪我人を見た。怪我をしていなくても、これから来る夜を畏れ身を寄せ合って震えている人々を見た。
「――ふっ」
 気がつけば、ヨシュアは声を上げて笑っていた。


「君が、修道院から派遣されてきた人? ここで合流する予定の。こんな若い子だとは聞いてなかったな」
「そんなことどうでもいいでしょ! 今必要なのは……」
「僕はヨシュア。こっちはタジット。今ここにいるのは僕らだけだよ。神父や討伐隊は後から来る予定」
 圧し殺してもあふれ出す笑い声。悪魔に襲われた村でこんなふうに笑うのは初めてだった。そのくらい、彼女の姿は凛々しくて頼もしかったのだ。
 タジットは急を要する怪我人がいないことをざっと目で確認してから、ようやくヨシュアの前に立つ修道女を見上げた。
 十六、七か。ヨシュアよりも年上の娘だった。
 長い亜麻色の髪を頭の後ろでまとめているのは、垂れ下がると視界の邪魔になるからだろう。それでもところどころほつれて、しかし直されていないのは彼女にそんな余裕がなかったことを示している。顔は蒼白でやつれ気味、目の下には隈、噛みしめた跡がくっきりと残る赤い唇。まくり上げた袖から覗く腕はぼろぼろで、指先はふるふると震えが止まらない程、痙攣している。
 見事に満身創痍の体だ。
 だが、眸には高貴な碧い色を宿し、意志の強さで自らが倒れることを拒んでいることが窺える。おそらくはどこかの貴族の出身だろう。修道女というよりは勇ましい騎士か何かのようだ。それこそ列聖された戦乙女を連想させる気高い魂が見えるようだった。
 ただし、とてもではないが純潔を誓った修道女には見えない。
「あなたたち二人?」
「ああ、聞いてない? 最近こういう被害が多くて教会本部も慌ただしくてね。それで、現状はあちこちに僕みたいな若い修道士を派遣して調査しているところなんだ。正直、手が足りてない」
 彼女は衝撃を受けた様子で、ふるふると震える両手で少年の肩をつかんだ。
「こんなことが? ほかでも!?」
「そう」
「嘘でしょ……」
 青ざめた顔で俯きそうになり、それでも彼女は毅然と前を見た。少年の両肩から手を離し、胸の前で握りしめる。
「とにかく手伝って。私一人じゃ、それこそ手が回らないの。こんなふうに大怪我した人を診たことなんてないし、薬も包帯も全然ないのよ。……一応、それらしく形は整えたけど」
「いや、十分立派だと思うよ。よく一人でここまで頑張ったね」
 少年は従者の頭を軽く撫でた。従者はこっくりと頷いて背負っていた大きな鞄を下ろし、荷を解き始める。
「タジット、ここを頼むよ。僕は魔除けの方法を教えてくる」
 主人の言葉にまたこくりと頷く。こうした治療の類はタジットの得意分野だった。
 しかし、

「タジット? っていうのね。あなたは何ができるの?」
 改めて問われて、慌ててさっさと外へ出て行った主人を連れ戻す羽目になった。ちゃんと説明してもらわなくては困るのだ。
「ご、ごめんごめん、タジット。わざとじゃないよ? ただ、ちょっと、あまりにも可笑しかったから」
 くつくつと肩を震わせて、さっきよりも大きく笑っているヨシュアにタジットはむう、と頬を膨らませて上目遣いににらみつけた。
「ごめんって。ええと、シスター」
「パティよ」
「シスター・パティ。この子は医術の心得があるんだ」
「……医者ぁ!? こんな子供が!?」
 仰天するのも無理はない。何しろタジットはまだ八歳の子供なのだ。
 ヨシュアはそう、と頷く。
「きちんと教育を受けた、歴とした医者だよ。場数もたくさん踏んでいるから腕は信頼してくれていい。ただね、口が利けないから、この子の合図を見逃さないで。とりあえず治療を急がなきゃいけない人はいないみたいだから、僕は外の人に魔除けの方法を教えてくる。夜が近いからそっちを急がなきゃいけないんだ」
 これでいいかい、と主人が問うと、身体に似合わない大きなポシェットに包帯と鋏を移し替え終わった従者は頷いた。
「ん。じゃ、ここをよろしくね」
 こっくり。
 従者が大きく頷くと、主人は二の句を告げさせずに出て行った。
「……医者、って、本当に?」
 こっくり。
 口の利けない子供は頷くことで肯定を示した。
 薬瓶がぎっしり詰まった箱を取り出して、手早く必要な物だけを選別する。消毒用の大きなアルコール瓶と移し替え用の小瓶を床に置いて準備を整えたタジットは、まずボロボロの修道女を見上げた。
 その思いがけぬ眼光の鋭さに、聞こえぬ問いにしどろもどろ答える。
「あ、ええと、目立って大きなけがをした人は最初に診たから、たぶん大丈夫。奥に寝かせてあるし、無事だった人についていてもらっているから。あとは……」
 話すに任せてけがの症状や人数を聞き出した後、タジットは荷物から綺麗なタオルを取り出して床に敷いた。
「え、ここで治療するの?」
 ふるふる。
 首を横に振って、しゃがみ込むとおもむろに右手を横に薙いだ。それは修道女の膝の裏に見事的中し、少女はたまらずかっくんと後ろへ倒れ込む。
 ごす、とまともに腰を打った修道女は悲鳴を上げた。
「なにすんのよ!?」
 しかし小さな医者は問答無用で年上の少女の靴を脱がして顔を顰めた。歩きすぎて血豆が割れている。それに華奢なふくらはぎがぱんぱんに張っていた。
「いたた、いたたたたっ 痛いってば!」
 軽く叩いただけで彼女は声を上げてしまったくらいだ。相当の痛みを我慢して、意識的に忘れようとしていたのだろう。
 アルコールで足を綺麗に拭い、足首を固定するように包帯をきつく巻く。くじいたような気配があったからだ。それから荒れた手も綺麗にして、ややべたべたとする緑の薬品を塗って丁寧に包帯を巻いた。
「ちょっと、こんなことしてる場合じゃ」
 小さな掌で苦情を訴える患者の両頬を掴み、医者はぎろんと厳しい眼差しを向ける。
「…………いや、その」
 誰が見ても一目瞭然。口の利けない医者は、ここまで頑張って頑張りすぎて疲れ切っている少女に休めと告げていた。
「私は平気だから。全然大丈夫だから! 私が休むわけには」
「いいえ、お休みになってください」
 タジットの背後から声がかかった。
 振り返ると村人らしき女性が厳しい顔で立っていた。その腕には何枚もの毛布が抱えられていた。
「パティさん、昨日、ここにいらしてからずっと休憩もせずに働きっぱなしじゃないですか。その子の判断はもっともですよ。今、この場で、一番休息が必要なのは、パティさんです」
「ミランダさんっ」
「町から来られた修道士さまには外でお会いしました。この子のお手伝いは私たちがしますから、どうか、少しだけでもお休みになってください」
 周りの村人たちも一様に頷いたのを見て、少女はうっと声を詰まらせる。実際、気力も体力の限界を越えているのを自覚しているだけに、場の全員からそんな目で見られては逆らえない。むしろ気を遣わせてしまったことを詫びなければいけないくらいだ。
「じゃ、じゃあ少しだけ、少しだけですからね!」
 足が震えて動くのが辛いのか、彼女はその場で毛布を受け取って横になった。瞼を下ろした瞬間、疲労が苦悶の表情として浮かび上がる。苦しそうな呼吸はすぐに寝息に変わって、村人がもう一枚毛布をかけてやっても彼女は目覚めなかった。疲労が頂点を越えていて、気が抜けると共に意識もぷっつり途絶えたようだ。
「……お恥ずかしい話です。ここは私たちの村なのに、パティさんに頼りっぱなしになってしまって。彼女が冷静に指示を出してくれなかったら、まだ村は混乱していたかもしれません」
 ぽつりと聞こえた言葉に、タジットは笑顔で首を横に振った。
 人を安心させる優しい笑顔は伝染し、見ている者もまた知らず微笑を浮かべていた。
「私は村長の娘のミランダです。……父の行方がわからないので、ひとまず私が村をまとめることになりました。よろしくおねがいします」
 気丈に振舞う村長の娘に頷き返し、タジットは慣れた様子で治療を開始した。
 手当の仕方を知らないと告白した少女の応急処置は意外にも的確で、タジットは一人一人をゆっくり診る余裕があった。なので途中で一旦手を休めて、持ってきていたハーブティーの茶葉を村人に託した。
 託された女性が戸惑いながらハーブティーを煎れると、思わずその場の皆が微笑んだ。心を落ち着ける効果のある特別なブレンドで、香りもとても良い。
 気休めにすぎなくても、正体のわからない化け物に襲われ心に傷を負った人へのケアを忘れてはならない。実際に傷を負った人だけが怪我人ではないのだから。
 怪我をした人全員を診終え、それでも骨を折ったり身体を強く打ち付けたりして熱が下がらない人には、医者は眠らず看病を続けた。
 幼いとはいえ、医者のその真剣な姿勢だけで大けがを負った人たちは安心して眠ることができた。
 タジットがもうそろそろ大丈夫だろうと判断した頃には、既に夜明けがそこまできていた。医者の基本として、他人の治療を的確にするには、自分の身体も休めなければならない。そして休むためには、まず主人にけが人の状況を報告しなければならなかった。
 彼に報告しないで先に休むことなどタジットには言語道断の所業なのだ。
 座っていた椅子から立ち上がろうとして、しかし足元がおぼつかずタジットは床にこてんと転がり落ちる。徹夜は何度やっても慣れそうにないと目元を擦る。早朝のため、ここにいる人々はまだ眠っているので誰にも見られてはいないが、さすがにちょっと恥ずかしかった。
 立ち上がろうとすると、小さな身体は軽々しく抱き上げられた。
「お疲れ様、タジット」
 同じく寝ずの番をしていたであろうヨシュアがそこにいた。
「太陽が出てきたからもう大丈夫だよ。僕らもちょっと休ませてもらおう」
 こっくり。
 少年の肩に乗せた幼い顔がこつんとうたた寝をする。瞼が重い。
「おやすみ」
 こつん。
 主人に抱っこされたままタジットは眠る。
 安心しきって力の抜けた小さな身体をヨシュアはぎゅっと抱きしめた。いつもいつも自分に厳しい従者が愛しくて、そっと囁く。
「本当に、お疲れ様」
 従者を抱きかかえたまま、少年は持っていた毛布を頭からかぶって壁によりかかる。
 幼くて小柄な二人だから、一枚の毛布でも十分温かかった。

 お昼頃になって二人が起きると、村には少しだけ活気が戻りつつあった。
 沈鬱そうに死者のための穴を掘っているが、その姿はとても一生懸命で悲しみを体現している。怪我の軽かった者たちは壊れた家の瓦礫を片付けたり、畑で食料を収穫したりしている。大きな混乱はなく、茫然自失になっている様子もなかった。
 その様子を窓から背伸びをして見ていたタジットは、嬉しそうに微笑んでいた。
 村人の中心となっている女性二人は実に気丈に現実と戦っている。その片方の亜麻色の髪の少女は窓からの視線に気がつくと、慌てて走ってきた。包帯の代わりと裾を大きく切った修道服を脱ぎ捨てて、今は村人に借りた服を纏っている。なんだか修道服よりこっちの方が似合っているのが可笑しくて、タジットはまた笑った。
「おはよう」
 タジットの後ろからヨシュアも笑いながら話しかける。どうやら同じ感想を抱いたらしい。
 するとどうしたものか、彼女はしどろもどろになりながらいきなりぺこんと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 昨日はいきなり叩いたりして……頭がおかしくなってたみたいで……」
「疲れていたんだよ。気にしてないし、謝らなくていいよ」
「それでも、ごめんなさい。二人とも寝ないで仕事してくれたのに、八つ当たりみたいなことをして……しかも、結局朝まで寝ちゃったし」
 しょぼんとして、しかし頬を赤く染めるその姿は、心底自分の行動を恥じているようで、とても好感が持てた。
「気にしないでいいって。君が先に信用を作ってくれていたおかげで、僕たちもやりやすかったし。いつも、もう少し手間取るんだけどね」
 怪我人に呼ばれてタジットは医者の顔に戻り、包帯と鋏の掛けられたポシェットを取って駆け出す。幼いながらよく働く医者に触発されて、村の子供たちもよく大人を手伝っている様子だった。
 そんな光景に目元を緩ませながら、パティは小声で尋ねた。
「いつも、って?」
「僕らはあちこち回っているからさ。ところでこの村の神父は? 行方不明って聞いたけど」
「さっき……、教会のがれきの下からご遺体が見つかったわ。村長も」
 そう、と軽く頷いて、ヨシュアはしみじみと呟いた。
「あいつらは大体、真っ先に教会を狙うパターンがあるみたいだから、そうだろうとは思っていたけど」
「あいつらってなんなの? 私が着いたときにはもう何もいなかったんだけど」
 それは一昨日の昼頃のことだそうだ。
 ヨシュアは淡々と答えた。
「本部の見解は、悪魔と呼ばれているもの、だそうだよ」
「悪魔……」
「あいつらは東へ向かっているみたいから、ここはその通り道に当たったんだろうね。村を囲むように聖水を撒いてきたし、あいつらは炎を嫌うから夜はかがり火を絶やさないようにして、三日経って何事もなかったらまず大丈夫だよ。三度襲われた例は殆どないから」
 残酷な九割の真実を伏せたまま、教会上層部の用意したシナリオをすらすらと述べる。嘘をつくことにはもう慣れてしまった。嘘をついている方が楽になってしまった。
 そして、彼女はその嘘を死ぬまで知ることはない。
 ヨシュアの心の呟きを、タジットはけが人の包帯を取り替えながら確かに聞いていた。
「三度?」
「僕らは目撃を一度目と数えている。それで修道士が派遣されることになるんだ。襲撃が二度目」
「……じゃ、じゃあもう、安心していいのね?」
「ま、しばらくは心の安心のために夜は炎を絶やさず、一ヶ所に集まって見張りを立てた方がいいと思うけどね」
 本当の襲来は今夜、十六夜月の真下。
 『彼ら』は救いを求めてやってくる。そこに人が生きている限り、何度でも。
 だがそんなことを伝えても無駄に混乱を招くだけだ。打ち明ける気など毛頭なかったので、懐から取り出した小袋を開く。
「あと、火の中にこれを入れておいて」
 ぽいっと軽々しく投げられたそれは、
「え、木炭?」
 の、カケラに見えた。
「それを燃やすと煙に色が着くんだ。驚くかもしれないから先に村の人たちに言った方がいいよ」
「ああ! 狼煙なのね?」
「そう。それは襲われたけど助かった人がいるっていう合図。たぶん、後発隊を急かすことができる」
「わかったわ、任せて!」
 途端に笑顔になって駆けていく後姿を見送りながら、彼はぽつりと呟いた。
「珍しいな。あの年頃の女の子が狼煙なんて知っているはずないんだけど」
 こくん。
 タジットは小さく頷いて同意した。

 夜。
 どこか張り詰めた空気の中、天使の加護を受けた聖者は従者に目配せをして、行ってくる、と伝えた。
 従者はやりきれない面持ちでこくりと頷く。
 もはや彼は、自分の身が痛む恐怖だけでは絶望などできなくなっていた。本当に死ぬ、その間際になるまで、実感が精神と身体の両方を虫食むまで絶望することができない。
 ――自分ひとりでは。
 だが、無用の犠牲を出すことは彼の本心ではない。できることなら誰も巻き込みたくないのだ。もし絶望せずに死ねるのならそれでも良いと思っていた。
 それでも、この従者だけは安全なところにいてほしかった。
 聖者は従者の額にくちづけをして、立ち上がる。
「僕は見回りに行ってくるよ」
「え?」
 側にいた修道女がきょとんと目を丸くする。
 修道士の姿をした聖者は、言い訳をするように告げた。
「定期的に見回りをした方が、他の人も安心できるでしょ?」
 穏やかな微笑みは、まるで心置きなく死に逝く老人のよう。
 そんなことにはかけらも気付かずに、修道女の少女は立ち上がる。
「ひとりで? 私も行くわ」
「君はここにいたほうがいい」
「大丈夫よ」
「無理には止めないけど」
 従者はそっと立ち上がって、パティの手を握った。引き留める仕草だ。
「え、なに?」
「まだ疲れが残っているから大人しくしてなさい、ってうちの医者は言ってるよ」
「う。」
 医者にそう判断されては無下にもできない。実は、今も足がぷるぷるしていて立っているのが辛いのだ。休息が必要だとは自分でも自覚していた。
「わかったわ。大人しくしてる。いってらっしゃい」
「うん」
 そして聖者はまた、人が辿り着く絶望の果ての姿をした者と対峙しにいく。
 悪魔の正体は、教会内部でもほんの一握りの者しか知らない研究と実験の副産物だ。神や天使を人の身に宿す研究。劇薬に劇薬を混ぜたものを飲まされる実験。悪魔召喚と大差ない生贄のような被験者。
 聖者と悪魔は、いわば兄弟だった。
 生き延びることができたのは自分ひとりと聞かされている。神の加護を受けることができたのは自分だけだと。
 真実がどこにあるかを理解している者は少ないが、死んでしまった者の遺体は辺境に遺棄された。そして彼らは苦しみの果てに悪魔になってしまった。昔を懐かしみ人里へやってくる彼らは、さらなる絶望と羨望のあまりに狂乱していく。
 止めることはできない。
 死をもってしか。
「……」
 ヨシュアは破壊された教会のがれきに腰掛けて待っていた。
 身を守るものは何も持っていない。持つことは禁じられていた。
 ザワザワと森が騒ぎ出し始めた。
 ――来る。
 すぅ、と夜の冷たい空気を肺に入れ、聖者は微笑む。
 兄弟たちのために、せめて憐れみで泣くまいと心に決める。勇気ではなんの役にも立たないと、本当は知っているけれど。

 そわそわと落ち着かずに、ひとり指遊びをする修道女の隣で、従者は瞼を閉じて祈っていた。胸の前で組まれた両手は従者の敬虔さを示している。
 ただし、その祈りは神に向けられたものではなく、主人と主人を守護する天使に対してのものだ。
 自分の立場はよく分かっているつもりだった。
 聖者が従者としたのは、自ら助けた子供。親兄弟を失い、文字も読めず、口の利けない憐れな子供。
 やがてその従者はかの主の弟子がそうしたように、自らの主人を神の子として歴史に痕を遺すだろうと。
 それは文字ではなく人々の記憶の中に繋がれている歴史。
 きっとそうするだろうと思える自分が嫌いで、それでも自分の主人はそれに見合うだけの人だと思える自分の自信が悔しかった。
 主人はそんなこと、望んだこともないのに。
 だからせめて、文字を学ぶことだけは頑なに拒んだのだ。何も記録に遺すまいと、大人たちへのささやかな意趣返しだった。
「どうしたの?」
 小さな肩を叩かれて、タジットは顔を上げる。
 心配そうにのぞき込む村の子供たちがそこにいた。
「せんせ、どこか痛いの?」
「泣いちゃめーよ」
 言われて、涙がとめどなく流れていることに気がついた。
「タジットくん?」
 修道女が怪訝そうに首を傾げて、立ち上がった。
「……遅いわね、ちょっと見てくるわ」
 ――。
 タジットは慌ててその手を捕まえた。
「大丈夫よ。すぐ戻るから」
 軽い声に激しく首を振る。
 タジットだって、人が死ぬところなど見たくない。
 それが生きていて欲しいと願える人ならばなおさらのこと。
「な、なに?」
 尋常ならざる様子に、彼女は逆に不審を抱いたようだった。
 その時、おぉおおおんと、ごく近くから獣のような咆哮が夜を切り裂くように響いてきた。
「悪魔の声だ!」
 誰かが恐怖を感じた声で叫ぶ。
 しかしその叫びや動揺を可憐な声が即座に打ち消した。
「建物の中にいれば大丈夫! ここから出ないで! 上から見張りを! 出口をふさぎなさい! 絶対に火を絶やさないで!」
 壁に立てかけてあった農具をつかんで修道女は短くなった裾を翻した。すり抜けた手を、タジットは捕まえることができなかった。
 ぺたんと、その手は無情にも床に落ちた。

 絵の具をぐちゃぐちゃにかきまわしたような、毒々しい色をした悪魔たちは、聖者の三倍近い巨体だった。熊のような、と表現するにも無理がある。さながら絵画に描かれた化け物、というところか。角、蝙蝠に似た翼、虎のような牙、猛禽類のような爪、それぞれの特徴は一致せず、同じ個体はないようだった。とはいえ、そんな巨体に腕がついているだけで脅威だ。
 鋭い爪で肩をえぐられ、勢いで投げ飛ばされた少年は、それでもうめき声ひとつ上げなかった。
「悲しい……」
 言葉の通じない相手が、己の鏡のようで悲しかった。
 理性のない狂った雄叫びが酷く耳に響いた。
 自分もああなっていたのかと思うと心臓が破れそうな気がして、いっそ破裂しまえばいいのにと思う。
「アンジェリカ、僕はどうしたらいい?」
 あふれるのはやるせない空しさだけ。
 それは絶望ではない。絶望でなければ天使は顕現できない。いつも傍にいるのに何もできない。自分の天使はどれだけ歯がゆい思いをしているのだろうか。
 悪魔が叫びながら迫ってくる。
 ああ、どうせならひと思いに殺してくれればいいのに。
 ヨシュアは瞼を閉じて避けようともしなかった。
「こらぁ!」
 どん、と思い切り突き飛ばされて驚く。地面に転びながら視界に飛び込んできた人影のせいで、空しさが一瞬にして消え失せた。
「シスター!」
「ちゃんと目を開けば避けられるでしょ!?」
 身軽にたたんと着地して駆け寄ってくるその手には、畑を耕すための柄の長い農具。武器を構えるようなその姿には隙がない。
「嘘つき! 来たじゃないの!」
 叫びながら、農具の継ぎ目を脇に挟んで重心を自身に寄せ、ひゅっと長い柄を鋭く薙ぐ。足を狙われた悪魔はたまらず体勢を崩した。
 まるで大道芸でも見ているようだった。
 ヨシュアは素早く立ち上がりながらも、冷静に悪魔と対峙する修道女に瞠目していた。これは修道女の動きではない。剣なり槍なり、戦闘訓練を受けた者にしかできない俊敏さと判断である。
「大したことはない。でも、あんまり効いてないわね。せめて槍か火矢が欲しいところだわ」
 基となっているのは人の死体だから、悪魔といってもそこまで頑強なわけではない。実は、武器を持って実践に耐えられるだけの訓練を積んだ者にとって、単体なら畏れる必要のない化け物である。大きさと数、その凶暴性だけが問題なのだ。
 それでも体格差を埋めるために一体倒すだけで、一小隊は欲しいところだ。
「シスター、君は逃げなよ」
 たった一人で武器らしい武器も持たずに立ち向かったところで、焼け石に水であることをヨシュアは知っている。
「馬鹿言わないで! ここがどうなると思ってるの!? あんたも死ぬわよ!」
「僕は、……死なないよ……死なせてもらえないから」
 呟きの最後は悪魔の声に打ち消されて、呟いた本人ですら聞き取れなかった。
 ヨシュアと修道女は背中合わせに立つ。彼女はあくまでも少年を守るべき存在として認識したようだ。前後左右に気を配って隙を作らないよう心がけている。
 反撃してくる者を察知して、悪魔は二人を取り囲み始める。
 彼の今までの経験からして、悪魔は人としての知能をほんの少し留めている。それを理性という手綱で操れないから危険なのだ。
 聖者はふうぅとため息をついた。
「タジットがまた泣くな……」
 背後に立つ少女に好感を抱いていたようだから、余計悲しむだろう。それだけが心残り。
 聖者は無造作に少女の背を離れて、自ら悪魔の方へと歩き出す。
「ちょっと!」
 慌てた少女の腕を軽く避けてふらふらと誘われるように歩く。自分の意思で、自ら危険を冒す。自らを危険に晒す。
 果たして、彼の思惑通り攻撃が加えられる。ぶんっ、と十メートルほど投げ飛ばされたところで家の瓦礫に強かに背を打ち付ける。
 痛い。だが、骨が折れた感触はなかった。どうやら様子見をしているらしい。ヨシュアのことは危険と見なかったようだ。
 修道女が慌てて駆け寄ってくる。
「なにをやってるのよ!?」
 聖者は無表情でなにも答えない。
 ただ、廃墟を背に、ぼんやりと悪魔たちを見つめていた。
「まさか、悪魔に何かされたの!?」
 古来より、悪魔は人の心を惑わすものとされている。勘違いしてほんの一瞬肩を震わせた少女は、少年をかばうようにして己の武器と呼べない武器を構えた。
「冗談じゃない! 私はまだ死ねないのよ!」
 生きたがっている少女はあと数分のうちに悪魔の餌食になるのだろう。それを見て、その血潮を浴びて、動かなくなった身体に触れて、ようやく絶望の時が訪れる。ここまで計算ずくで動いたヨシュアだったが、迷いがないわけではない。彼は元々善良な性分なのだから。
「私はまだ死ねない!」
 少年は少女を守りたいという気持ちと、無用に苦痛を先延ばしするのを避けようと、彼女の前に飛び出て盾になりたい衝動と必死に戦っていた。
 絶望でなければならないのだ。
 勇気では何の役にも立たないのだ。
「この村の人たちを守るんだから!」
 全身が震えた。心が抉られるような台詞だった。目的は同じはずなのに、なぜ自分にはこんな手段しか選べないのか。
 彼女はなんて強いんだろう。
 彼女はなぜ神に祈らないのだろう。
「そうよ、私は死ねないわ」
 パトリシアとて完全に冷静だったわけではない。声に出して、自分に言い聞かせることで、冷静さを保とうとしていた。怖くないわけがない。怖くて怖くて、それでも今ここで戦えるのは自分しかいないと知っているから、武者震いなのか恐怖からくる震えなのかわからない震えに、歯を食いしばって耐えている。
 健気なその後ろ姿が、別の場所から上がる火の手に晒されて、ヨシュアは眩しくて目を細めた。
 生にしがみつく必死さが本当に羨ましくて、心から悲しかった。
 座り込んだままの少年の前に立ちはだかる少女は、不意にぽつ、と呟いた。
「お父様の名誉を守るためにも」
 小さな声なのに、なぜかはっきりと聞こえた。彼女は繰り返す。
「そうよ。聖騎士カファト・シーベリーの娘、パトリシア・シーベリーが悪魔に殺されるわけがない! お父様の汚名を晴らすまでは死なない! 絶対に!」
 悲鳴に近い言葉に、聖者は息を呑んだ。
 完全に予想外の方向から、罪悪感が津波となって彼を呑み込んだのだ。
「カファト・シーベリー」
 胸が矢で射られたかのように突く衝動――それが絶望。
 悪魔は、集団で襲い殺そうとそれぞれの手を振り上げ――消えた。防御の型を取った修道女は死を覚悟したのに、自分に届く寸前で、それは消えた。
 パァンと何かが弾ける音と共に悪魔が白い光に溶けて消えていく。奇跡のその中心に、天使は立っていた。

「悲しい……」

 空を見上げ天使は涙をこぼす。
「うそでしょう……!?」
 修道女の茫然自失とした声。
 聖者は目を閉じて呟く。
「アンジェリカ、やめよう。もう、やめよう」
 涙声だった。
「ヨシュア、私も、もういやです」
 天使はそう告げて、姿を消した。
 加勢しようとやってきた村人たちが奇跡を遠くから見た事実だけが、残った。

「天使様が現れて、あっという間に悪魔を消しちまったんだよ!」
「奇跡だ、俺たちが助かったのは奇跡なんだ!」
「主よ、感謝します……!」

 聖者と従者だけは、奇跡に助けられた人たちの輪から外れてとある家の一室にいた。とてもではないが躁状態のようにはしゃぐ村人に囲まれて応対できるだけの余裕はなかった。その上、ヨシュアが肩に負った傷は深く、小さな主治医が絶対安静と判断したから尚更だ。
「……」
 まるで抜け殻のように感情の伴わない表情で、ヨシュアは窓の傍に椅子を寄せて座っている。その傍らで、同じような顔をしてタジットは床で膝をかかえていた。
 せっかく命が助かったというのに、第三者が立ち入れない暗い雰囲気に、様子を見に来た修道女は面食らってしまったのだ。
 死者の簡易埋葬も済み、怪我人の手当もひと段落してからようやく顔を出せたのに、二人は彼女が部屋に入ってきたことなどどうでもいいと言わんばかりに無反応だった。
 昨夜の件について尋ねたいことがあったのに、声をかけられる状態ではない。仕方なく納得がいかない顔で、二人とは距離を置いて部屋の隅に置かれた椅子に座ってみた。
 外がお祭り騒ぎなのに比べれば、海の底に沈んだような重い沈黙は異様のひと言に尽きる。
 ヨシュアは何か考え事でもしているのか、背もたれに体重を預けて半目で虚ろな眸をしている。時折思い出したかのような瞬きがなければ彫像と間違えそうだ。成長期の未完の美を体現したかのような姿は、あまりにも儚げで今にも消えてしまいそうだった。
 わあぁっと外が騒がしくなったのを聞きつけ、彼は淡々と呟いた。
「新しい神父が来た。助祭も一緒だ」
 予想に違わず、酷く沈んだ声音だった。
 それから少し時間が経過して、村人に案内された神父たちは彼らの元へやってきた。人柄の良さそうな壮年の神父と、少しねずみっぽい顔の小柄な助祭は、少年を見つけて感極まった様子で尋ねた。
「あなたが同士ヨシュアですか?」
 ヨシュアは小さく顎を引く。肯定の仕草だ。すると彼らは恭しく跪き、ヨシュアの靴の先へとためらいなく口付けた。
「お目にかかれて光栄です、聖ヨフィエル。神の遣わした御子さま」
 え、とパトリシアは目を点にする。
 その名詞には聞き覚えがあった。
 数年前国中に広まった、生きながらにして神に聖別された子供がいるという、噂。その子供は常に天使と行動を共にし、言葉を交わし、時には奇跡さえ起こしてみせるという。
 教会関係者はその噂を否定しなかった。
 それどころか名を明かしさえした。
 聖ヨフィエル。
 かつて禁忌を侵した始祖をエデンの園から追放したという、高位の天使をその身に宿していることを、証明をする御名。
「此度は奇跡の御力にて悪魔を退け、我々をお救い頂いたこと感謝致します」
「どうぞその御力で我らを主の御許へ導き賜いますよう」
 聖者は無感動に言った。
「次の村へ行く」
「畏まりました」
「我らが乗ってきた馬を外に待たせてあります。どうぞお使い下さいませ」
 ヨシュアは外套をまとい、自分の足で外へ出た。
 肩の傷が痛むのも構わず先にタジットを前に乗せ、村人に気づかれぬようひっそりと、にぎやかになった村を発つ。
 神父は笑顔で修道女に話しかけた。
「この村のシスターですね。これから力を合わせて村を再興させましょう。犠牲となった同士のためにも」
 パティはぽかんとした。次に湧いて出たのはひどく不愉快な感情だった。
「犠牲となった同士?」
「ええ、修道院から派遣されてきたシスターです」
 頭が真っ白になった次には目の前が真っ赤になった。彼らが何を言っているのか理解できなかった。理解できるはずもない。
「ふざけないで! 私は死んでなんかいない」
「え?」
 神父と助祭をキッと睨んでパティは叫んだ。
「村の人に訊いてみるといいわ!」
 彼女は外に飛び出すと、実に馴れた様子で軽々と馬の背に跨って、手綱を取った。そしてそのまま聖者の後を追いかけた。着の身着のままでも構わない。惨劇のあった村をあのまま放置して行くのは気が引けたが、次から次へともやもや浮かんでくる訳の判らない不可解で不愉快な感情を、彼らなら解いてくれるような気がしたのだ。
 馬を走らせると、下り坂をゆっくり進む彼らにはすぐに追いついた。
「私も一緒に行くわ」
 後ろから声をかけたのだが、反応がない。
 怪訝に思ってひょいと前を覗き込むと、手綱をとっているのは口の利けない従者の方だった。主人は従者を抱きしめるように前のめりに寄りかかり、瞼をしっかりと閉じている。まるで肩の傷の痛みに耐えるような表情で眠っていた。
「ヨシュア……?」
 しぃ、とタジットはくちびるに人差し指を当てる。
 こんな短時間の内に眠ってしまったことに驚きながらも、パトリシア・シーベリーはため息混じりに微笑んだ。先程までの沈んだ雰囲気はどこかへ行ってしまって、そこにいるのは仲の良い兄弟のように見えたのである。
 彼らの姿はとても神の使わした御子になど見えなかったから、きっとなにかの間違いなのだろうと可笑しくなったのだ。だが、彼の起こした奇跡も目の当たりにしていたことも事実で、再び違和感がむかむかとこみ上げてくる。
 しかし安静にしなければいけない怪我をして、疲れて眠った少年を無理に起こすのは気が引けた。きっと張っていた気が抜けて一気に眠気が押し寄せてきたのだろう。
 少し考えた後、パティは口の利けない子供に対して、一方的に小声で話しかけることにした。沈黙が辛かったのもあるが、誰かに身の上を聞いて欲しかったということもある。ただ、聖職者に告解する気にはどうしてもなれない内容だったのだ。
 だから、
「聞き流していいからね」
 と最初に断った。
「私の家は古くから都の北の方にある領地を治めていてね、父は聖騎士として大出世したの。強くて優しくて格好良くて、みんなで盛大に見送りをしたものよ」
 彼女は遠い故郷を懐かしむように北の空を眺め、思いを馳せる。
「だけど、父は処刑されてしまった」
 そんなに昔のことではない、と言う。
「絶対何かの間違いよ。あいつらは嘘をついている。お父様が司教さまの暗殺を企てただなんて! ありえないわ!」
 タジットは僅かに表情を曇らせた。かなり穏やかではない話だ。
「だから私、色々と調べて回ったの。そうしたら誰が仕組んだかわかったの。気が付いたら、ついかっとなって剣を向けていた」
 そうして修道院へと強制入院させられ、危険極まりない場所へと送り込まれた。
「今にして思えば、それこそ私の勘違いだったのかもしれない。だって私は処刑されなかったし、家も廃止されなかったんだもの。……田舎娘の勘違いを憐れに思って下さったのかもしれないわ」
 悔しそうに下唇を噛む。
「でも、お父様は絶対に無実よ」
 タジットには何も応えられることがなかった。
 ただ、彼女との対話を避けようとして、寝たふりを続ける主人が耳元で囁いた言葉に頷くだけだった。
「カファト・シーベリーは信仰心の厚い男だったが、正義感が強すぎたあまり、処刑せざるを得なかった」
 物語の一説を歌うような囁きだった。

 日が沈みきった頃、三人と二頭はようやく町に着いた。
 夜間の出入りは禁止されているが、修道士一行だとわかると快く通してもらえた。
 着いた先の教会では、今か今かと老司祭が待っていた。
「おつとめ、ごくろうさまです」
「薬と包帯の補充をお願いします。あと、彼女に修道服を用意してあげて下さい。包帯代わりにしてしまったそうです」
「承りました。奥の部屋を空けておきましたので、そちらでお休みください」
 顔なじみの好々爺は、しずしずと下がっていった。
 あまりに都合良く話が進むので、パトリシアは唖然としてしまった。
「随分と融通が利くのね、聖職者って」
「君も聖職者だろう?」
 からかうような言葉に、パトリシアはぷいとそっぽを向いた。
「修道院に入ってひと月も暮らしてないわよ」
 どうりで言葉遣いすら直されていないのかと苦笑したくなる。だが、肩が痛んだので早々に奥の部屋へと引き上げた。
 包帯を取り替えてもらいながら、ヨシュアは主治医に尋ねる。
「これ、治るのにどのくらいかかる?」
 少し迷った後、タジットは控えめに親指と人差し指を立てて見せた。
「う、一ヶ月は痛むのか。勘弁して欲しいな」
 言葉のやりとりなしに出てくる具体的な数字は、二人の仲の深さを示している。
 渋面になったヨシュアに、パトリシアは口をへの字に曲げた。
「避けないあんたが悪いんでしょ。自業自得よ」
 せめてもの嫌味に、少年は苦笑する。
「必要ないだろう? アンジェリカが全部片付けるんだから」
 聞き慣れない名前にパトリシアは押し黙り、やがて顔色を変えた。聞きたかったことが今なら訊ける、そんな気がした。
「……アンジェリカ?」
「天使のこと。アンジェリカも君には驚いていたよ。こんなお転婆で乱暴な修道女がいるのかって」
 くすくすと、タジットが表情と仕草だけで笑う。
 反論できずにかあぁっと赤くなった当の少女はそっぽを向いて、つっけんどんに言った。
「じゃあ、やっぱりあんたなのね。悪魔を追っ払ったの」
「やったのはアンジェリカだよ。僕はアンジェリカを喚んだだけ」
「そういうことができるなら、最初に言いなさいよ。助けに飛び込んだりして、私、ばかみたいじゃない」
「来るとは思わなかったんだよ」
 本音と建前を半々に伝えて、ヨシュアはシャツを羽織った。痛み止めを用いても鈍痛が激しいので袖を通すのは諦めた。
「僕は目立つのも騒がれるのも嫌いなんだ。だから一人で片付けようと出て行ったのに」
 こくこく。
 だから止めたのに、とでも言いたげに、汚れた包帯をまとめながら従者も頷く。
「じゃあ、その子もグルなわけね」
「事情を知っているって言って欲しいな。事をあまり公にしたくないんだ」
 会話に加われないタジットは、荷物からタオルや着替えを取り出して、部屋に置いてあった籠につっこむと満足げに立ち上がった。小さな身体に似合わない大きな籠を抱えて、従者はぺこりと頭を下げる。
「気をつけて」
 こくん。
 パトリシアが、タジットは洗濯をしに出て行ったのだと気付くのには、少し時間がかかった。やりとりが自然すぎてついていけなかったのだ。
「よく働く子だこと」
 感心したような言葉に、ヨシュアは釘を刺す。
「タジットの村は全滅だった」
「え?」
 振り返る少女と顔を合わせず、彼は自分の掌を見つめていた。
「逃げて逃げて逃げて、それでも殺されそうになった時、あの子は声を失くした」
「……なんですって?」
「……精神的なものだから、ちょっとした衝撃で声が戻るかもしれないと言われたけれど、二年かかっても喋れないままだ。今じゃそれが当たり前になってしまったけれど、あの子には、諦めないでほしい」
 読み書きもできず、喋ることもできないから従者にすることができたという現実が悔しかった。敵対勢力に拉致されてどんなに拷問を受けても、情報を漏らすことがないからだ。
 タジットの本当の名前すら、その口から聞くことができない。
 声が聴きたい。
 得意だったという歌が聴きたい。
 死んでしまったけれど、今も大好きな家族の話を聴きたい。
 そんな本心を押し殺して、ヨシュアはベッドに横になった。
「あの子を助けて以来、僕のことを救世主だと思っているみたいでね。その人のためにはなんでもする覚悟なんだろうさ」
 なげやりに毛布を頭までかぶる。
 本当は知っている。それだけではないことを。
 だから安心していくらでも嘘をつける。従者を突き放すふりができる。口の利けない従者は主人の考えていることを誰よりも理解していてくれるから。
「なんか、釈然としないわね」
 並んだベッドの上で彼女は眉をひそめていたが、特に話題を引き伸ばすようなことはしなかった。彼女自身疲れていたからだ。
「で、やっぱりあんたは悪魔を倒しにいくのね? 私にできることはない? 昨日の感触じゃ、殴るだけでもまったく効かないってわけじゃなさそうだけど。剣か槍があればいいのになあ、それなりに扱えるのよ、これでも」
 それは明日向かう村の話だった。急に決まった話だった。
 死にかけたのに、その経験を既に自分のものにしてしまっている彼女が羨ましくて、生きる力に満ちあふれている姿が眩しくて、聖者はくるまっている毛布の中で僅かに首を振った。
「君は、勇気があるんだね」
 表情は見えないがどこか悲しそうな声音に、パトリシア・シーベリーはうーんと首をひねってみせた。
「そうとも言えるかもしれないけれど、私が持っているのは勇気じゃないわ」
「え?」
「誇りよ。私としての誇り。だから私は私が正しいと思ったことを貫くだけ。そうでなければ正義を持つことはできない。人を守るには相応の覚悟が必要なの。覚悟を貫く意志がなければ、誇りは持てない。勇気よりも大切なのは、自分としての誇りよ」
 ヨシュアは目を見開いた。背中を叩かれたような気がした。何を情けないことをやっているんだと叱られたような感触だった。
「誇り……自分としての」
 半ば呆然としつつ呟くと、思いがけず返事が返ってきた。
「そうよ。間違える時もあるけれど、私にはやり直せる力がある。……そう信じたい。信じたいだけかもしれない。私にそれを教えてくれた人は、処刑されてしまったから……」
「そ、か」
 胸に手を当てて彼女は自分に言い聞かせている。まだ何か言いたげなことがあったようだが、ヨシュアは一方的に会話を終わらせた。
「おやすみ」
 ランプの灯を消され、次の言葉を失ったパトリシアはぷいと枕に顔を伏せた。
 遠くで水の流れる音がしていた。

 パトリシアが目を覚ますと、タジットはヨシュアに抱かれるようにして眠っていた。なんとも微笑ましい光景に目元を緩め、音を立てないようにそっと部屋を出る。
 空は曇り気味だが、とっくに陽は昇りきっていて、それまで起きられなかったことに自分の疲労の深さが窺えた。帰路は馬だったが、行きはこの町から村まで歩いて行ったのだ。その足であれこれと駆けずり回った。疲れて起きられなかったことは不満だが、足の痛みは昨日ほど酷くなかった。むしろ良く眠れたという爽快感に満ちて、気分が良かった。
「おや、おはようございます」
 横からの声に振り向くと、昨夜迎えて暮れた老司祭が立っていた。慌てて挨拶を返す。
「お、おはようございますっ」
「今、ちょうどこちらをお渡しに行こうと思っていたところです」
 差し出されたのは黒を基調とした修道服。
「ふふ、己の衣服を裂いてまで、怪我人の治療に当たるとは若いのに感心なことです。ですが、あまり無理をなさらぬように」
 本来は修道院に入った以上、普通の人と同じような服に袖を通してはいけない決まりなのだが、緊急事態だったのだから仕方がない。
「は、はい。すみません、ありがとうございます」
「一度礼拝堂まで出られて、右の通路の奥に行くと地下への階段があります。そこに清めの場がありますので、お体を綺麗になさるとよろしいでしょう」
「あ、ありがとうございます!」
 埃っぽくて若干血なまぐさい状態は、若い乙女には耐え難いものがある。
 綺麗に熨斗のかかった修道服を受け取って、彼女はうきうきと礼拝堂に向かって歩く。その背に、老司祭は笑い混じりに声をかけた。
「お食事の用意をしておきますので、お済みになられましたらお部屋へお戻り下さい」
「はい!」
 若々しい張りのある声に老人は満足そうに頷いて、まだ眠っているだろう聖者のいる部屋へと足を向ける。
 昨夜は負ったという傷のせいか顔色が悪く、ふらついていたので少し心配だった。
「失礼致します」
 小声で告げて扉を開くと、少年は既に起きていた。
 上半身を起こして無事な方の腕で、まだ眠る従者の髪を小さな櫛でさらさらと梳いていた。
 本当はもっと前から起きていたのだけれど、こうやって従者に優しく接するところを彼女には見られたくなくて狸寝入りをしていたのである。
「おはようございます、ヨシュア様」
「……おはよう。彼女は?」
「お体をお清めに。若い女性ですから、少し時間がかかるかと」
 ふうんとヨシュアは小さく頷いて、小さな櫛を枕元に置いた。
「困ったことになったよ」
 苦々しい呟きに、老人は辛そうに顔を顰めた。
 この二人の付き合いは長い。ヨシュアが物心つく頃から顔を合わせている仲だ。ひ孫のような歳の聖者に、老司祭は目を伏せがちにして尋ねた。彼は聖者の役目を嫌と言うほど知っていた。
「彼女が、何か?」
「シーベリーの娘だってさ。相変わらず上はいやらしい手を使うね」
 その名に、老人は瞼を閉じて胸の前で十字を切った。
「……彼女はここに引き留めましょう。彼女の命まであなたが背負うことはありません。責は私が取ります」
「だけどね、正義感は父親譲りっていうか、無理にでもついてくると思うんだ。一晩考えたけど、引き留めるのは無理そう」
「血は争えぬと?」
 そう、とヨシュアが頷くと、もそり、とタジットが寝返りを打った。その後ぼんやりと眸を開き、ごしごしと擦り始める。
 寝起きの良い従者は徹夜にめっきり弱く、次の日はこうして寝坊するのが恒例だった。まだ八歳では仕方がない。七歳か九歳か、本当のところはわからないが、幼いことに違いはない。そして年齢よりずっと賢く、働き者で頑張り屋なのも間違いない。
「タジット、まだ寝ていていいよ。出立は昼過ぎにするから」
 優しい声に再び微睡みかけて、タジットは唐突に自分の頬を叩いた。完全に目が醒めたらしく、慌てて起き上がる。わたわたとしたその姿が実に可愛らしかった。
「では、お嬢様。ヨシュア様のお支度をよろしくお願いします。私はこちらに食事をお運びしますゆえ」
 お嬢様と呼ばれて恥ずかしそうに頬を染め、タジットはこくこくと夢中で頷いた。
「ザイ爺、あんまりからかわないであげてよ。何のために普段から男の子の恰好をさせていると思っているのさ」
「さて、このおいぼれにはとんとわかりませんな」
「都合の良い時だけボケやがって」
「ヨシュア様、お口が悪うございますよ」
 気軽なやりとりにヨシュアは溜息をつく。
 この老司祭にはいつも気遣いばかりさせている。
 上層部が度々少年をこの老人の元へやる思惑は理解しつつも、お互いにこの軽いやりとりを楽しみにしているのだからどうしようもない。
 彼にとってはこの老人も、役目を放棄させないための人質の一人なのだ。自分の役目をきちんと理解しないうちに懐いてしまって申し訳ないことになってしまったが、老司祭はそれを見抜いたようにいつもこう口にする。
「いざとなったら、こんなおいぼれなど見捨てておしまいなさい。ヨシュア様の足かせになるくらいなら、ぽっくり逝った方がまだましです」
 そんなこと、できるわけがない。
 従者と出逢うまで、否、それからもずっと少年の良心を支えてきたのは、ひとえにこの老神父の徳のお陰だった。罪悪感に襲われる度、絶望する度に、痛む心をほんの一時でも癒してくれる存在を見捨てることなどできない。
 優しすぎることが彼の弱点なのだ。
「……もう、ごはんにしよーよ。肩も痛いしお腹すいたー」
「はい、はい。すぐにお持ちいたしますよ」
 今では自分を本当の意味で子供扱いしてくれる唯一の存在で、今にも枯れて萎れてしまいそうな心に、純粋で優しい愛情を注いでくれる従者とこの老人が、少年の宝物だった。
 従者と二人きりになって、包帯を取り替えてもらいながら彼は呟く。
「タジット、可愛い恰好させてあげられなくてごめんね」
 ふるふると、頬を朱に染めながら従者の少女は嬉しそうに首を横に振る。
 あなたの側にいられるなら、そんなことどうでもいい。
 そう言いたげな笑みにやりきれない気持ちはつのるばかりだ。
 彼女の性別を知る者はごく僅か。
 年端もいかぬ少女を連れ回すなど、いかな聖者とて批判を受けかねない。どんな扱いを受けているか怪訝に思う者だって出てくるはずだ。
 だが、上層部はあえてこの少女を少年の従者に選んだ。理由はいくつかある。まずは少女自身が少年に懐いていたこと。そして、そんな少女を少年が見限れないこと。
 肌が浅黒く、移民か異教徒の血を引いているといっても彼女は女なのだ。都合の良いことにどんな扱いを受けても他人に告げ口ができない。
 手放してしまえばどこへ連れて行かれて、何をされるか、何をさせられるかわかったものではなかった。
 当時十二歳の少年でもそのくらい理解できた。
 彼女を助けたのは自分なのだから、見放せずに連れ帰ってしまったのは自分なのだから、相応の責任を負わなければならないと感じていた。せめて彼女に声が戻れば、自分で助けを求められるようになれば少しは安心できるのに。
 出逢ってから二年と少し。
「ねえ、タジット。今からでも遅くないから字を覚えようよ。君ならすぐに覚えられるから」
 どんなに言い聞かせても従者は首を横に振るだけだ。
 字を覚えるということは、何かの記録を残せるということになる。そうなれば主人の側にいられなくなることを従者は理解していた。だからどんなに勧められても覚える気はないらしい。
 一年前に医術を覚えることを勧められた時、ヨシュアはてっきり字も覚えてくるものだと思っていた。それなのに彼女はメモも取らず、聞いたことをすべて頭に叩き込み、技術を身体に染みこませた。最低限の薬品の見分けはできるようだが、どうにも文字を読んでいるのではなく、記号として見分けているらしい。
 その徹底ぶりは、むしろ周囲を驚かせた。
 聖者の選んだ従者はやはり天才だと、皆が口々に褒め称える。そんなつもりじゃなかったのに。
「まったく、君も頑固だなあ」
 お互い様です、と彼女は軽く少年の左腕を人差し指でつついた。
 それから痛むだろう肩をできるだけ動かさないように服の袖を通させる。傷を負うのはいつものことで、手間のかかる主人のせいで従者はすっかり気遣いの達人になってしまった。
「大丈夫、大丈夫、痛くないから」
 髪を短くしていても、男の子の恰好をさせていても、通用するのは良くてあと数年だろう。こんなに愛らしい少年がいるわけがない。それを考えると気が滅入るのでできるだけ考えないようにしている。今のところうまくいっているのだから、まだいいと。
 問題を先送りにしているだけだが、現実にどうこうできるものでもない。
 ヨシュア自身、自分のことでさえ自由になることは殆どないのだ。
 すっかり身形を整えさせてもらったヨシュアは、髪を梳いてくれるタジットにぽつっと呟いた。
「でもいつか、君の歌が聴けたらいいな」
 偶然見かけた、大聖堂から響く聖歌に合わせて声を出そうとしていた従者の姿が懐かしい。見つかったことに頬を赤らめて廊下の角で丸くなってしまったあの時のことは、忘れようにも忘れられない。彼女は歌が好きなのだ。
 タジットは返事をする代わりに、大好きな主人の頭を後ろから抱きしめる。
 言葉で返されるより確かな愛情に、絶望に心を削る聖者はひとときの休息を得る。これ以上他人に情を移すことは自分の首を絞めるだけだとわかっていても、従者の細い腕を振り払うことができなかった。
 他の誰かにどんなに優しくされても冷たく接するから、心を開いたりしないから、せめてこの小さな従者に甘えることだけは赦して欲しかった。親兄弟を失った者同士で支え合うことを赦して欲しかった。
 ――誰に?
 神ではなく、自分の心に。

 朝食後、小さな医者に足を診てもらっていたパトリシアは、少年の言葉に目を丸めた。
「行くのは明日にする、って、何で?」
「雨だから」
 ヨシュアは窓の外を見つめている。窓には大きな雨粒がびっしりとついていた。今もざあざあと勢いよく雨が降り続いている。
 馬に騎乗しての移動では延期と言いたくなるのも無理はない。
 だが、これはピクニックではないのだ。
「何よ。たかだが雨じゃない。今まさに生きるか死ぬかの瀬戸際の人たちがいるのよ? そんな馬鹿な話ないわ!」
 振り返った聖者は、聖者らしからぬ薄い笑みを浮かべていた。
「だから?」
「え……」
「だから、なに? こっちは自分の命を賭けているんだ。村をひとつ救ったばかりで疲れていて、しかも肩に怪我をしている。安静が必要なくらいのね。昨日ここに着くまで、馬に揺られていたのも結構しんどかったんだよ? わざわざ出向いて見間違いだったこともたくさんある。たった一日延期したからって何なのさ」
 あまりにも冷たい言葉に、少女の頬に朱が差した。
「それが聖別された人の言葉!?」
「僕が聖別してくれって頼んだわけじゃない。僕自身、自分から聖人なんて名乗ったことは一度もない。上が勝手に話をばらまいているだけだ」
「それでも、あなたは聖職者でしょ!? なんてことを言うの!」
「君だって父親を罪人と決めつけられて処刑されたんだろ? 本当は教会を嫌っているんじゃないのかい?」
 図星を指摘されパトリシアは言葉に詰まるが、父のことを口にされたと気付いて瞠目した。彼の従者は喋れない。従者から伝わるはずがないのである。
「あなた、昨日の話、聞いて……」
「君が自分で勝手に喋っていたんだろ。こっちは寝たかったのに、随分とやかましかった」
 頬だけじゃなく、顔全体を朱に染めて、全身をぶるぶると震わせる娘に、彼は追い打ちをかけた。
「ああ、君の父親が司教を暗殺しようとしたのは本当だよ」
 僕はこの目で見ていたから。
 そう目で嗤われ、パトリシアはかっときた。
 ちょうど包帯が巻き終わった素足のまま、窓辺の少年にずかずかと歩み寄り、パシンと頬を叩いた。
「お父様を侮辱しないで!」
 眸に涙を浮かべて部屋を飛び出した少女を見送って、従者は心配そうに主人を見上げる。彼は今にも泣きそうな顔をして、タジットに微笑みかけた。
「今回は、本当に、叩かれても文句が言えないね」
 とても酷いことを言ってしまった。
 縁を持ち続けるなら取り返しがつかないほどの。
 だが、謝るつもりはない。彼女とはここで別れてしまいたかった。自分に見切りをつけて故郷にでも帰ってくれればいいと思った。だからあえて激怒させるような真似をした。
 ぎゅうとしがみついてきたタジットを抱きしめ返すようにその場に蹲る。
 心優しい聖者は、自分で紡いだ言葉に自分で傷ついていた。どんなに相手を思いやる嘘であっても、気持ちのいいものではない、と。肩に負った傷よりもずっと、心の方が痛かった。

 翌日の早朝に、ヨシュアは既に出発の準備を整えていた。
 立派な栗毛の馬の鞍の後ろに従者が使う医療鞄を固定し、自身は重厚な外套を羽織っていた。比べてみれば従者の衣服はみすぼらしく感じられる。
 そんな光景を目の当たりにしながら、パトリシア自身も一応旅支度は調えていた。ただしむっつりとした不機嫌な表情で、彼らについていこうかいくまいか、まだ悩んでいるようだった。
「ザイ司祭。今回の村を見終わったら、僕はそのまま本部に戻ります。またここに来ることもあるでしょうが、それまでぽっくり逝かないよう気をつけて下さいよ」
「ええ、ええ。もちろんですとも。ヨシュア様も、どうかお気をつけて」
「無用の心配だね」
 少年と老人のやりとりは素っ気ないようで実に思いやりに満ちている。
 それで、もう少し様子を見てみようと彼女は思った。
「やっぱり、私も行く」
「足手まといだ」
「……っ」
 きっぱりと拒絶されたが、そこまでは想定内だった。負けまいと胸を張って言った。
「だってあなた、本当は優しいんでしょ。その子に声が戻ると良いって言っていたもの」
 ふっ、とヨシュアは吹き出した。くつくつと身体をくの字にして笑い出す。
「な、なによ」
「優しい? 僕が?」
 背筋の凍るような声に、パトリシアは身を竦ませる。
「傑作だ! 馬鹿らしい、君はどれだけ馬鹿なんだ!」
「な」
「だってこれは僕の従者なんだよ?」
 ヨシュアは乱暴に左手でタジットの髪を掴むと、ぐいっと地面に顔を押しつけ、その小さな頭を踏みつけて地面にぐりぐりと擦りつけた。
「つまり、僕の玩具なんだ。声が戻ればいいっていうのは、苦しむ声が聞きたいからに決まっているだろ。何を自分勝手な妄想を繰り広げているんだい?」
 頬を砂利に押しつけられて苦しそうに息をする子供を目の当たりにして、彼女は頭に血を上らせた。
「あんた、何てことを!」
「これは僕の所有物だ。君にどうこういわれる筋合いはないね。……ほら、さっさと乗れよ。本当にノロマだな」
 タジットは起き上がって軽く砂を払うと、言われるがまま馬の背によじ登った。
「タジット君! そんな奴と一緒に行くことないわ!」
 けれども従者は柔らかい微笑みを浮かべるだけで、馬から下りようとはしない。
「無駄だね。これはそういう教育を受けてきたんだ。主人である僕以外の言葉は聞かないよ」
 そしてひらりと従者の後ろに跨ると、嘲笑う笑みを残して馬を走らせて行った。
 パトリシアはうーと悔しそうに唇を噛みしめて服の生地をぎゅっと握りしめ、隣にいた老司祭に食ってかかった。
「あんな乱暴者を野放しにしていいんですか!?」
「さて、さて。ヨシュア様があんなに怒られる姿は初めて見ましたな。のう、エルバ殿」
 エルバと呼ばれた背の高い司祭は深々と頷く。
「よほどか腹に据えかねることがあったのでしょう。そうでなければあの方が笑みを絶やすなんて考えられません」
「お嬢さん、ヨシュア様が気に障るようなことをしたんじゃないのかね?」
 そうやって不思議そうに問われてしまうと、彼の頬を二回も叩いてしまったパトリシアは何も言えなくなってしまう。
 少女の肩を叩いて、老司祭は告げた。
「お嬢さん。悪いことはいわないから、修道院へお戻りなさい。こちらのエルバ殿が送って下さいますから」
「で、でも、タジット君が……」
「彼はヨシュア様に拾われ、自らの意思でヨシュア様の側にいるのです。ヨシュア様のために命を捨てる覚悟もできています。お嬢さんが思うような可哀想な子ではないのですよ」
「でも、……でもっ」
 パトリシアは馬の手綱を握りしめた。
「あんなの、私の正義に反します! 絶対にやめさせます!」
 ひらりと身軽に馬上の人となった少女を止めることはもうできない。その後ろ姿を見送って、老司祭は深々と溜息をついた。これでまた、彼の心に深い傷が増えることが決まってしまった。
 傷心の老人の後ろで、背高の司祭はくつくつと嗤った。
「無駄な足掻きでしたね。せっかくこの私が話を合わせて差し上げたというのに。シーベリーの血はとことん厄介だ」
「……ご協力、感謝します。エルバ枢機卿」
「いえいえ、今回だけですよ、ザイ元枢機卿。私の目から見ても彼女は憐れですから。大人しく実家で結婚でもしていればいいものを、下手に戦う術を知っているから聖都に殴り込んできてしまったんでしょうね」
 本当に、大人しくここで修道院へ戻っていれば命までは失わずに済んだものを。
「では、彼の元気な姿も拝めたことですし、私は聖都へ戻ります。あなたが去ってから、ろくに使える人材が揃わなくてね。今からでも枢機卿位に戻られる気はありませんか?」
「……もう、このおいぼれに、現役に戻れとは言わんでくだされ。私にできることはもう、あの方の壊れかけた心をほんの少し休ませることだけです」
 教会の暗部を長年に渡って見続けてきたから、これ以上は耐えられなかった。自ら進んで暗部を掘り下げていた過去は、今なお老司祭を苛み続けている。
 今は聖者と呼ばれる少年も、自分が過去に冒した罪さえなければここまで苦しまずに済んだかもしれないのに。ヨシュアに出逢うまで、彼を守護する天使に出逢うまで、自分の罪に気付けず、たくさんの命を犠牲にしてしまった。枢機卿という位に自惚れて、


『主』の言葉の意味を真に理解していなかったのだ。気が付くのが遅すぎた。
 この罪滅ぼしも、ただの自己満足なのかもしれない。
「まあそれでも構いませんよ。彼に感情を失われるとこちらも困りますので」
 絶望することさえ忘れた廃人になってしまっては困るのだ。だから時折この引退した老司祭の元へやり、従者と一緒にいる時間を作らせては現実に引き戻す。また奈落へ落ちてもらうためには、一度気持ちを浮上させてやる必要があるのだ。
「手間はかかりますが、彼の奇跡は本物です。利用しない手はありません」
「……エルバ殿。どうか、ヨシュア様からタジット様を取り上げないで下さいませ。私はもう十分に生きました。いつでも地獄へ堕ちる覚悟はできております。ですが、」
「今のところ、そんな予定はありませんよ」
 だが、背高の枢機卿は残酷に微笑んだ。
「彼女がもう少し成長した暁には、ヨシュア様の御子を密かに産んでいただこうかと考えているんですよ。天使を喚ぶ能力が子に遺伝しないとも限りませんからね」
 十四の少年と、まだ八歳前後の少女では早すぎると彼はいう。
「それに、そこまで深い絆を結んだ相手を見捨てるなど、彼にはできないでしょうから」
 あまりにも惨い未来に、かつての若い自分なら進んで企てただろう事がやりきれなくて、老司祭は胸の前で十字を切った。切らずにはいられなかった。神に祈ったところで穢れた自分の祈りなど届かないことを知っていても、祈らずにはいられなかった。

「……タジット。ごめん、痛かった?」
 右肩が痛む主人を気遣って手綱を握る従者は、振り返って笑顔を見せた。全然気にしてないという笑みだったが、微かに付いた頬の傷跡にヨシュアは胸が苦しくてたまらなくなった。
 従者が自分の弱味ではないと周囲に知らしめるために、今まで幾度もタジットを突き放して、時には傷つけてきた。それでもタジットは笑みを向けてくれる。彼の立場を痛いほど理解しているからどんな扱いを受けても平気だった。
 平気でないのは、むしろヨシュアの方なのだから。
「なんか、もう、自分が情けなくて嫌になるよ」
 タジットは自分の背中を少年に預けて、そのまま上を向くようにして顔を覗いた。彼が自分に笑顔でいてほしいと望むように、タジットも彼には笑顔でいてほしかった。
「もう、ほんと。君がいないとだめだね、僕は」
 後ろから聞こえてきた馬蹄にため息をついて、ヨシュアは手綱を取るタジットの身体を抱きしめた。
「逃げよう。今彼女の顔を見たら、思わず泣いて謝りそうな気がする」
 こくり。
 タジットは馬の腹を蹴り、走る速度を上げさせる。
 別に従者の手綱さばきが下手というわけではなかったが、小柄とはいえ二人乗りでは、少女が一人乗っただけの馬が追いつくのに時間はかからない。ましてや乗り手の技量が違いすぎる。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
「…………」
 舌打ちをしたい気分だったが、できるだけ冷たい表情を取り繕って振り返る。
「まだ、何か、用があるの?」
「あるわよ! 言いたいことがたっぷりと!」
「あいにく、君の戯れ言につき合う暇はないんでね」
 彼の言葉を聞くや否や、パトリシアは二人の乗る馬に自分の馬を寄せて、小さな手から手綱を奪い取った。ゆるやかに歩を止める馬上で、彼女は挑戦的に笑った。
「悪いけど、馬の扱いも得意なのよ、私」
「……はー……、とんでもないじゃじゃ馬だな。淑女としての教育を受けてこなかったのか?」
「お生憎様。シーベリー家では代々、女も剣と馬を扱うの。私は槍と弓も習ったけどね」
「ああ、どっちかっていうと、暴れ馬か。じゃじゃ馬じゃ可愛すぎる」
「お母様にもよくそう言われたわ」
 厭味を軽くふふんと受け流して、彼女は少年を睨み付けた。
「ヨシュア。あなた、お父様のこと知っているのね? なら、知っていることを包み隠さずすべて話なさい。そうしたらこの手綱、返してあげてもいいわ」
「こだわっているのはそっちの話か……」
 おろおろと二人の顔を見比べた年少の従者は、おもむろに両手でぱんと大きな音を立てた。
「タジット君?」
 タジットは怒ったような表情で道の前方を指さした。それだけで意味を解した主人はやれやれとため息をついた。
「僕の従者の方がよほどか冷静だな。僕には向かうべき目的地がある。それも早急に。……昨日、雨ぐらいで延期するのは何事かと怒ったのはどこの誰だったっけ?」
 少女ははっとした。少し考えた後、渋々と手綱を小さな乗り手に返し、馬はまたゆっくりと歩き始める。
「いいわ、道々聞かせてもらうから」
 ぷいっとそっぽをむいたのは気まずさのせいだろう。
 やれやれどうしたものかと空を見上げた後、少年は小さく唇を震わせた。
「カファト・シーベリーが司教暗殺を企て、実行に移そうとしたのは本当だよ」
「……本当の、本当に?」
「そう。ただし彼を支持する者も大勢いたから、彼自身を処刑するだけで家に与えられた身分は剥奪されなかったと聞いている」
「……どういう、こと?」
 又聞きの又聞き、とヨシュアは前置きした。
「教会内部が真っ二つに割れる程の抗争だったらしい。どちらかというと、司教の方があくどいことをしていたみたいだね。それで対抗するために正義感溢れる聖騎士が祭り上げられた。それが君の父親かな。僕のところにはそういう話は一切合切届かないように細工されているから、詳しいことは知らないよ。ただ、聖騎士側が司教暗殺に乗り出して失敗したから、処刑されたんだろうね。現実として」
「……お父様は、正義を貫こうとしたの……?」
「だから、そこまでは知らないって。戻ってザイ司祭に訊いた方が詳しい話を聞けるんじゃない? 一緒に来たエルバ司祭は枢機卿の一人だからよく知っていると思うけど」
 いくつか嘘を交えて語り、少年は知っていることはこれだけ、と両手を広げた。
 聖騎士の娘は衝撃を受けたようで沈黙したまま、馬を並列させて進ませる。
 無言に慣れ親しんでいるタジットはまた、ぽすんと主人の胸に背を預けた。嘘をつくことに罪悪感を覚えている少年は、従者の気遣いに小声で感謝を囁いた。パトリシアはそんな二人の様子に気が付かないようで、ぶつぶつと独り言を繰り返している。
 会話のないまま太陽は空高く昇り、周囲の景色も大分変わってきた。町の側に広がる農地がなくなって緑が深くなってきたのだ。
 くるりと振り向いた従者に主人はうんと頷いた。
 二人の乗った馬が急に道を外れて立ち止まったのに、考え事に夢中だったパトリシアは少し先へ進んでからそれに気が付いた。
「えっ?」
 慌てて引き返すと、タジットが馬からひらりっと飛び降りるところだった。身軽な子供に続いてヨシュアが馬を下りる。
「……っ」
 だが、足が地面に着く直前に顔を歪めて転げ落ちた。痛んでいる右腕で手綱を掴んでしまったらしい。
 従者が血相を変えて起き上がるのを手伝う。
「……ああ、平気。問題、ない」
 その苦痛に歪んだ表情を見て、パトリシアは今さらながら後悔した。彼の傷は自分が思っているよりも深かったのだ。それなのに雨の中出発しろと言ったり、頬を叩いたり、昨日の自分の言動が恥ずかしくてたまらなかった。
「僕たちはここで少し休憩していくけど、シスターはどうする?」
 訊かれて、
「ご一緒させていただくわ。でも、私のことをシスターって呼ぶのはやめて。自分でなりたくてなったわけじゃないんだから」
 答えた瞬間にまた、昨日のやりとりを思い出す。
 彼だってなりたくて聖人になったわけではないのだ。本当に自分は、なんて恥知らずなのだろう。
「あの……ごめんなさい」
「は?」
「昨日、雨の中出発しようと言ったのは私の驕りだわ。怪我人に無茶を言って、ごめんなさい。でもああやって人を挑発するような言い方は、ないと思うわ」
 気まずそうにぷいっと顔を逸らしたパトリシアに、ヨシュアはきょとんとして吹き出した。
「謝るなら頭上からじゃなくて、目を合わせて言いなよ」
 いまだ馬上の少女はその正論に、慌てて飛び降りた。
「……っ」
 地に足を着けた瞬間、鈍い痛みが走る。そう言えば自分も足を痛めているのだと思い出した時には遅く、無様に地面に転がっていた。
「ぅ、ぐ……」
「君、とことん馬鹿だね」
 少年は少女の手を引いて起き上がるのを手伝い、木陰に誘った。
 幹に背を預けて、パトリシアは大人しく足を伸ばして座り込む。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 そんなやりとりの横で、働き者の従者は馬の手綱を細い木に結び、昼食の用意をし始めていた。メニューはパンにチーズを挟んだだけのものと、出発の前に煎れて冷ましてきたハーブティーだ。三人は無言でもくもくとそれを平らげる。
 そして食べ終わると、ヨシュアはタジットの頭を撫でた。
「タジット、彼女の足を診てあげて。新しくくじいたかもしれない」
「え、え、だ、大丈夫よっ」
「シスター、まともに歩けないようじゃ連れていけないんだよ。僕は危険な場所にいくの。そこをきちんと理解して欲しいな」
 少女はぐっと言葉に詰まった。
 少年の言葉はどこまでも正論で、歩くどころか本気を出して走れないと危険なことは的を射ていた。それだけあの悪魔は恐ろしいのだ。実際に味わった恐怖は鮮烈に心に刻まれていた。足を痛めている自分は、文字通り足手まといにしかならないだろう。
 それでも置いていかれたくなくて、渋々頷いた。
「タジット君、お願いできる?」
 こっくりと、小さな医者は頷く。
 靴を脱いでみると、包帯に薄く血が滲んでいた。しかも左のかかとの関節部が赤く腫れている。一昨日くじいたところが悪化しているのだ。
「うっわ、痛そう」
「大したことないわ」
 強がってはみたものの、改めて怪我を認識すると鈍痛が増してきたようで、包帯を巻き直してもらっている間中顔を顰め続けていた。
 そして気が付けば、身体が木に縛り付けられていた。
「……え?」
 痛みに耐えるのに夢中で全然気が付かなかった。
「じゃあ、そういうことで。タジット、お留守番よろしく」
「ちょ、ちょっと!」
「足手まといはいらないんだよ。帰りには拾ってあげるから安心して」
 パトリシアを木に縛り付けた少年は白々しく告げると馬に跨り、もう一頭の手綱を引いた。
「あっ」
「追いかけてこられると面倒だから、この子も連れてくよ」
 にや、と笑ってヨシュアは馬の腹を蹴った。
 移動手段を奪われて、少女は焦った。
「ちょ、タジットくん! これほどいて!」
 ふるふる、とタジットは首を横に振る。
 医者としても人としても、彼女を行かせるわけにはいかなかった。主人の判断は従者の判断でもある。
 じっくりと結び目が解けないように確認した後、タジットは敷布にしていた布を毛布代わりにして、少女の真横にころんと転がる。すると、数秒もしないですやすやと寝息を立て始めた。
「だめー、寝ないでー!」
 地団駄を踏みたかったが足が痛いので叫ぶだけに留めておく。
 なんとか紐をほどこうと足掻いてみるものの、どう縛ったのか腕を動かすこともできない。一通り足掻いて無駄を悟った少女は、眠る子供に目をやった。
「あ……」
 眠るタジットの表情には疲労の色が濃い。うたた寝というより、疲れ切って眠らずにはいられなかったという感じだ。
 それもそうか、とパトリシアは猛省した。
 自分でさえこんなに疲れているのに、自分よりずっと小さな子供が疲労していないはずがない。徹夜で怪我人を看病して、長時間馬を操っていたのだ。それは一日休んだだけで全快するものではない。事実、自分もまだ疲れが抜けきっていないのである。
「もしかして、この子を休ませたくて置いていったの……?」
 いやいやと頭を振って自分の考えを否定する。
 従者をあんなに粗野に扱っている乱暴者が、そんな気遣いをするわけがないではないか。だがそれ以外に納得できる理由を思いつけなかった。
 彼には、パトリシアだけをここに置いて先へ進む、という選択肢もあったはずなのだから。
「…………」
 パトリシアは考える。
 もしかして彼はわざと厭味に振る舞っているのではないだろうか、と。自分を巻き込みたくなくて冷たい素振りを見せたのではないか、と。
『君は、勇気があるんだね』
 あの呟きは、本心から零れたものなのではないだろうか。
「冗談じゃないわよ。私、こうやって置いて行かれるの大嫌いなんだから……!」
 父親の窮地を知らずに、故郷でのんびりと菓子を賭けて弟と喧嘩していたようなことを、繰り返したくない。例え役立たずと言われようとも、本当に何の役にも立たないわけではないはずだ。
 彼女はとことん『諦める』ことを嫌っていた。

 馬を走らせて随分経った頃、ようやくヨシュアは後ろを振り返った。
 誰もついてきていないことにほっとする。
 あの足では歩くのも辛そうだが、縛り付けなければ根性で追いかけてきそうな気がしたのだ。我ながらやりすぎだと思ったが、あれで正解だったかもしれない。
「まったくもう、本当に父親そっくりなんだから」
 諦めが悪すぎて、自分の身を滅ぼしかねないところなんて特に。
 恩人の娘を自分のせいで死なせたくなんてないのに。
「…………」
 だが、ここまでしても追いかけてきたら、諦めるしかない。
 ため息をついてぽくぽく馬を歩かせていると、大分先で誰かが手を振っているのが見えた。少し速度を上げて近づいてみると、手を振っていた壮年の女性はあれ、と目を丸めて驚いた。
「ああ、ごめんねえ、人違いやったわ。そろそろ息子が帰ってくる時期だから、息子かと思ってねえ。よく考えたら、あの子がこんな立派な馬を二頭も連れてくるわけないわねえ」
「この先の村の方ですか?」
 女性はにこやかにそうよと答えて、背負っていた籠を見せた。食用の木の実がぎっしり詰まっていた。
「村はもうすぐそこですよ。どんなご用ですか? お客様は珍しくて……」
「教会から派遣されてきました」
 え、と彼女はまた目を見開く。
 ヨシュアは外套を軽くめくって修道士服を見せ、優しい微笑みを浮かべる。
「こちらの村の付近で怪しい人影を目撃したという件の、実地調査に参りました」
「まあまあ、それは遠いところをありがとうございます。本当に来てくだすったんですねえ」
 ありがたやありがたやと、村の女性は少年に向かって手を合わせた。
 彼女の話では、男たちは皆出稼ぎに出てしまって、村には年寄りと女子供ばかりで、山賊が出るんじゃないかと夜な夜な怯えて過ごしていたらしい。さらに間の悪いことに、ひと月ほど前の大嵐で村の家屋の損傷が激しいのだという。直すに直せず、いざという時籠城もできないので、本当にどうしたものかと頭を悩ませていたとのことだ。
 たまたま訪れた行商に相談したら、教会に話を通してみると言ってくれたので少なからず期待していたらしい。
 ひとまず村が無事なことに安心して、ヨシュアは女性の背負っている籠を預かって村への案内を頼んだ。彼女はひとしきり遠慮した後、おずおずと籠を差し出した。ずっしりとした籠も、馬の背に乗せてしまえば大したことはない。
「では、息子さんがもうすぐ帰って来られるんですね」
「ええ。頼りない子ですけど、手先が器用でねえ。帰ってきたら屋根を直してもらおうと思っていましてね。それに、あんな子でも男ですから。みんなで心待ちにしていたんですよ」
「なるほど」
 母親ならではの酷評だが、男手があるのとないのではやはり気持ちが違うのだろう。まして一年に一度しか帰省しない息子が帰ってくるというのだから嬉しくないわけがない。彼女は楽しそうに息子のことを語る。
「あの子は本当に運が良くて、たまたま来てくだすったお偉い方の目に留まりましてねえ。大好きな彫り物をやらせてもらっているんですよ。去年帰ってきた時には絵の勉強もさせてもらえることになったって、そりゃもう大喜びで」
「芸術の才能がおありなんですね」
「ええ! だけども貧しい家ですから、学校へ通わせてやることもできなくて。それが今じゃいっぱしの芸術家気取りで、笑っちゃいますよう」
 けらけらと笑いながらも、その内には親愛の情が満ちあふれている。
 いいなあ、と少年は思った。
「息子さんは素敵なお母様に恵まれて、幸せですね」
「ま、まあ! そんなこたあありませんよお。からかわないでくださいな」
「僕は産まれてすぐに孤児院に入れられたそうで、両親のことは何も知らないので、正直、羨ましいです」
「まあ……お若いのに苦労なすってるんですねえ」
 憐れみとは少し違う優しい敬愛の眼差しに心が熱くなる。それにそっと蓋をして、言葉を並べる。
「見えてきましたね。みなさんにご挨拶したいので、村の方々を集めていただけますか?」
 おやすいご用です、と彼女は胸を叩いてみせた。
 村人は訪れた修道士の若さに驚きながらも、真摯に話を聞いてくれた。
「……ですから、僕は先遣隊に過ぎません。この周辺を見回って怪しい痕跡がないかを調べて、ひとまず皆さんの安全を確認します。それから危急時の連絡手段をお教えしますので、皆さんにはいつでもかがり火を作れるよう薪を集めてもらいたいんです」
 賢そうな少年が懇切丁寧に低姿勢で繰り返すと、彼らは皆一様に頷いた。年若い修道士を信頼しても良いと思ってくれたらしい。
「ここに、煙に色をつける特殊な塗料を固めたものがあります。いざという時はこれを炎の中に入れて下さい。そうすれば例え二村、三村離れていても、緊急事態を報せることができます。こちらで不審な人影を見たという報せは隣町の教会にも伝わっていますので、すぐに応援が来ます」
 初めて聞く連絡方法に村人はへええと目を丸めた。
 煙に色を付けるなど考えたこともなかったのだろう。
「ただ、こちらの村の建物の損害が酷いようですので、周囲を確認したら僕は一度教会へ戻って資材の調達をお願いしてきます。このままでは山賊が出なくても大変でしょうから」
「それは助かる」
 すっかり村人の心を掴んだヨシュアは、一通りの説明を終えてから、かつて村の教会があったという場所へ向かった。なんでも十年程前に火事で全焼してしまったとのことで、今現在この村には神父はいないらしい。再建のめども立たず、件の女性の息子が自分が立派な教会を建て直してみせると主張して、費用を貯めているところなのだという。
 なるほど、山賊に襲われてはたまらない。
 今この村にあるお金には大切な想いが詰まっているのだ。
 教会跡の瓦礫の側に、小人の住むような小さな教会が造られていて、その中に木彫りの聖母子像が置かれていた。なるほど、才能を感じさせる素晴らしい出来映えである。独学でここまでの技術を身に付けたのなら、引き抜いて育ててみたくなるという気持ちもわからなくはない。
 本当ならすぐにでも村の周囲を見回ってきたいのだが、右肩の傷が酷く痛んで歩くのが辛かった。痛み止めが切れてきたのかもしれない。従者がいれば村人に隠れて診てもらうこともできるのだが、置いてきてしまったのだから仕方がない。治療道具はあっても、彼自身は詳しくないのだ。
 少なくとも、今のところこの村に悪魔がくるという確証はない。見間違いの可能性も高い。ならば一度引き返して二人を連れてきてもいいかと思った。本当に賊であれば、それはヨシュアの管轄ではないから早々に引き上げても問題ない。
 だがそれも、まずは一晩様子をみてから判断した方がいいだろう。夜になれば彼らの気配は濃厚になる。顕現できなくとも、自分の天使がそれを教えてくれるはずだった。

 夕刻。
 女性の息子が帰ってきて村は一層賑わいをみせた。それはよかったのだがおまけがついてきた。
「ヨーシューアー。よくも置いてったわねえ!」
「……来なくていいのに」
 偶然通りかかった女性の息子に頼んで紐をほどいてもらったらしい。人気のない村の入り口で、一応小声でやりとりをする。
「ちゃんと説明しなさいよ。そうしたら大人しく帰ってあげてもいいわ」
「何を偉そうに。……タジットは?」
「置いてきたわよ。むかついたから私と同じ目に遭わせてあげた」
 そう、と少年は軽く頷く。
 置き去りにしたのは大分離れた場所だから問題ない。最悪タジットだけ助かればいいと思った。だが、おぉおおおんという不気味な声は村の遠くから響いてきた。
「出た!?」
「この方角は西か…… っ 待て!? ナイフは!?」
「え?」
 ヨシュアはパトリシアの肩を掴んで問い質す。
「ナイフだよ! タジットが護身用に身に付けているナイフ! あれがあったら紐で縛ったって意味なんてない!」
「……っ し、知らない……そんなの、持ってたの……!?」
 ――まずい。
 従者の性格を考えれば彼女を追ってくるだろうし、悪魔の声が聞こえたらなおさらここに来ないわけがない。それにパトリシアがこっちに向かってから結構な時間が経っている。
「最悪だっ」
 声は西から響いてきた。
 東へ向かう彼らが道なりにやってきたら小さな従者はその餌食になりかねない。
 ヨシュアは慌てて馬の手綱を取った。ひらりと馬に飛び乗って駆け出す。肩の痛みなんてもうどうでもよかった。さすがにパトリシアも状況を理解して顔を青ざめさせた。
「や、やば……」
「パティさーん。みんなが夕食をご一緒にと……あれ? どうかしたんですか?」
 呑気な若者の手をがしっと掴んで、パトリシアは言った。
「トーマスさん! 一緒に来て下さい!」
「……へっ?」

 タジットはひた走る。
 彼女を行かせてしまったことを悔やみながらひた走る。
 小さな足で、手にはナイフを鞘ごと握りしめて。
 はあはあ、はあはあと肩で息をする。
 走るのは得意だが、馬と同じ速度で走れるわけがない。必然的に苦しい息になってしまう。それでも追いかけて止めなければならなかった。
 彼女を見殺しにしたら、心優しい主人は酷く悲しむ。自分を助けようとして処刑された男の娘を、見殺しにするだなんて。彼はまた泣くだろう。増え続ける重荷は少年の心を確実に虫食んで、終わらない悲しみが彼を苦しめる。
 これ以上苦しんで欲しくないのに。
 だから必死で走った。
 追いつけないと知りつつも走った。
 間の悪いことに、悪魔の声は背後から聞こえてきた。

 馬は途中で異質な気配を感じ取っていうことをきかなくなったので乗り捨てた。
 ずきんずきんと痛む右肩を左手で抑えながらヨシュアは走る。
 人が死ぬのは悲しい。それが大切な人ならなおさらのこと。自分の従者の少女は身をもってそれを体感した。言葉を交わせなくてもわかる。だからあの時、途中の村々に置いていくということをせずに連れ帰ってしまったのだ。
 彼女の心を救いたいと思ってしまった。
 己の身に宿る天使の力を借りずに、誰かを救いたいと望んでしまった。
 凍り付かせた人間らしい感情を蘇らせれば苦しむのは自分だと気付きながら、あの子を守ると誓ったのだ。
 それなのに。
 遠目に歪な人影が蠢くのが見える。従者の姿は見当たらない。
「どけ……っ」
 怒りでも、正義感でも、焦燥でも役に立たない。天使が手を差し伸べるのは絶望した人々にだけ。自分の天使に課せられた制約はあまりにも重い。
「アンジェリカ……頼む、頼む、あの子だけは……っ」
 走って、走って、歪な人影と対峙する。無視してすり抜けようとした彼を容赦なく悪魔が襲う。宙に吹き飛ばされた刹那、彼は見た。
 ほんの少し向こうに倒れた小さな身体と、アカイイロ。
「あ、ああ……あぁああああああっ!!」
 胸を抉る衝動――それが絶望。
 天使が炎の剣を振るい、悪魔と呼ばれた者たちを浄化していく。仮面の下に憤怒の形相を浮かべながら。やがて天使が姿を消しても、少年は大地に横たわったまま動けなかった。もうどうでもよくなってしまった。何もかも。タジットがいない世界なんて。
「ヨシュア!」
 追いかけてきた少女が痛む身体を無理矢理抱き起こすが、少年は小刻みに震えて返事をしなかった。
「大丈夫!?」
「…………」
 呆然とした視界に、タジットの亡骸が映りこむ。
 釣られてそちらに視線を向けた少女は息を呑んだ。
「タ、ジット君……?」
 彼女は気丈にも亡骸に歩み寄って、それを抱き上げた。
 耳をつんざく悲鳴は、聞こえなかった。
「ヨシュア!」
 歓喜に満ちた、涙声。
「大丈夫よ! 気を失ってるだけ!」
「…………っ」
 のろりと身体が動いた。
 恐る恐る歩み寄って、首に手を当てる。とくんとくんと温かな鼓動が脈打っていた。
「タジット……!」
 どこも怪我をしていない。
 本当に、気を失っているだけ。
 大切な従者の身体を抱きしめると、確かな体温を感じて全身から力が抜けるようだった。身体の震えが止まらない。神に感謝したくなる時というのはこんな時なのだろう。だが――。
「何よこの血……タジットくんどこもけがしてないのに、……! これ、人間の血じゃないわ」
「それはただの憐れな小鳥の血だ。安心したか、ヨシュア」
 唐突に振ってきた声に、パトリシアは周囲を見回す。
 その男は森の木に隠れるようにして立っていた。だがその装束は紛れもなく、
「聖……騎士……?」
 少女の言葉に唇の端を上げ、銀髪の男はくつくつと笑う。
「大切なものからは目を離すなと、いつも言っているだろう。可哀想に、その子は危うく死ぬところだった」
「アーネスト……」
「そう睨むな。俺はお前の大切な従者を守ってやったんだ。ちょっと眠ってもらって、小鳥の血をかけはしたがな。……まあ、それでもお前には十分な刺激になったようだが」
 ひと目で絶望して、天使が顕現してしまう程には。
 少年は何を言っても無駄な相手と知っていたから、ぎゅうと従者の身体を抱きしめた。
「なん、なのよ、あなた」
「さてと。任務に失敗してしまったな、ヨシュア。わかっていると思うが、今回のペナルティは軽くないぞ。本来見捨てるべき者を救おうとし、悪魔が村にたどり着く前に天使を顕現させてしまった。失敗の上塗りだ」
「何なのよ、あんた!」
 少女の叫びに聖騎士は冷たく笑い返した。
「シーベリーの娘。やはり修道院送りでは甘かったな。親子共々断頭台の露と消えるか」
「……っ」
「だが、まあ、彼を連れて来たのは悪い判断ではない」
 聖騎士がついと見たのは、大分離れたところで立ちつくしている芸術家だった。天使が悪魔を浄化するのを目の当たりにして、茫然自失としているのだ。
「彼の作品は人を惹きつけるものがある。これから先、彼が描くのは救世主と天使の姿のみになるだろうな。世間に与える衝撃は村を救ったことより強いはずだ」
 そのくらい衝撃的な光景だったはずだと男は笑う。
 パトリシアは反論できなかった。
 彼を連れてきたのは男手があれば何か役に立つかもしれないと思ってのことだったが、彼は芸術家なのだ。それも聖母と天使にかなり傾倒している。道々聞いた話だけで感じられるほどに。
 そんな芸術家にとって、二度と出逢えない運命の光景だ。描かないわけがない。
 バサバサと大きな羽音を立て、旋回して下りてきた大鷹を腕に止まらせて、聖騎士は言い放った。
「ヨシュア、タジット、シーベリーの娘。お前たちはこれから来る馬車に乗って聖都へ向かえ」
「え、聖都……?」
 教会総本山のある街を人々はそう呼ぶ。
 驚いたのは少女だけで、ヨシュアは無言で従者の短い髪を撫でている。その反応が物足りなかったのか、男は銀色に光るナイフを彼の足下に投げつけた。
 ナイフはもはやその役目を果たせないほどぼろぼろになり、刃の半分は欠け落ちていた。
「それが犠牲になって、お前の従者の命を救った。戻ったら新しいものを作らせろ。あまり手間をかけさせるな」
 言うや否や、男は森の中へと姿を消した。
「……カファト……君が、守ってくれたのか……」
 ヨシュアが震える指で拾ったナイフを見て、パトリシアは瞠目した。そのナイフの柄に描かれていたのは紛れもなく、シーベリー家の家紋だった。
 そして、まもなく馬車はやってきた。

 聖都までの道のりは長い。
 検問や関所で引き留められない特殊な紋章の入った馬車でも、休みなく走って五日はかかる。七日かけて参ります、と御者は最初に告げた。結構な強行軍である。
 目を覚ましたタジットはパトリシアの胸を叩いて号泣し、主人の新しい傷を見てまた泣いた。怒ったように少年の手当を終えると、主人から手渡された折れたナイフを手にして、また泣いた。ナイフを額に当ててひたすら泣いた。
 感情をあまり表に出さないようにしている主人の分まで涙を流し、嗚咽にならない嗚咽で喉を引きつらせた。
 やがて泣き疲れ、膝の上に頭を乗せて眠ってしまった従者の髪を撫でながら、ヨシュアはぽつりと呟いた。
「カファトは、僕の専属の護衛だった」
「え……」
「剣の腕と、その敬虔さが抜擢の理由だったらしい」
 夜の闇の中、馬車の中の灯りはあえて落とされていた。
「天使を喚ぶ、神の子の護衛だ。彼はとても優秀だったけど、正義感が強すぎた」
「…………」
「彼と出逢ったのは随分昔のことだ。その頃の僕の扱いは酷いものだった。どんなことが引き金になって天使が現われるのかわからなかったから、虐待みたいな目に遭うのはしょっちゅうだった」
 断食、むち打ち、生きることが拷問に等しかった毎日。
 ありとあらゆる辱めを受けた日々。
 完全に感情を感じなくなったことも一度や二度では済まない。優しく接して心を取り戻させてはまた奈落に突き落とされた。何年もかかって、ようやく引き金は絶望という感情なのではないかという結論に至った。
 既に、ヨシュアは身も心もぼろぼろだった。
 それを側で見てきた正義感の強い聖騎士は、彼を神の子だときちんと崇めるべきだと主張した。おそらくはそれがいけなかったのだとヨシュアは思う。
「彼は僕を助けようとして、司教暗殺を企てたらしい。本当かどうかは知らないけれど、似たようなことをしようとしたか、それとも僕を外へ連れ出そうとしたのか。とにかく彼は処刑された」
 本当は教会最高権力者の教皇暗殺計画だったのだが、それでは内部の反乱を外に伝えることになる。だから狙われたのは一司教だったと発表された。
 あの時の絶望は忘れられない。
 父のように優しく接してくれた人が、いきなり首だけの姿で現われたのだ。お前が自由を望めば犠牲が出るのだと、その首を持たされた。まだ生温かく、血がしたたり落ちる生首を顔にあてがわれた。
 恐怖した。戦慄した。それ以上に、自分の生きる世界に絶望した。
 救いなど何もない世界で、アンジェリカだけが自分を守ろうとしてくれた。皮肉なことに、その天使の存在が自分を苦しめる原因だった。
 詳細は何も語らない。ただ、思い出すだけで涙が溢れて止まらなかった。
「このナイフは、カファトが僕にくれたものだ。護身用に、或いは辛くてたまらないなら自害するために。一度は取り上げられたものだけど、僕と違ってアンジェリカに守ってもらえないこの子のために返して欲しいと頼んだ。これを渡す時カファトの話もした。シーベリーの名前も言ってしまった。だからタジットは、君が傷つかないようにと必死だったんだ」
「…………そ、んな……」
「僕は、教会から逃げる気はない。犠牲を出してまで逃げようとは思わない。君には、それだけは理解してほしくて、この話をした。カファトと同じ道を歩むことだけはやめてほしい。あんなのは、一度だけで、もう、十分だ。これ以上彼に顔向けできなくなるようなことは、したくない」
 村を救え、町を救え、民衆の前でその奇跡を。
 求められる度に絶望を捧げてきた。
 心を殺す抵抗をやめて、絶望しては心を癒し、心を癒しては絶望する日常を淡々と繰り返すことを受け入れた。その過程でかけがえのない従者を手に入れた。従者の無垢な優しさに甘えなければ心が耐えられなくなってきていたのだ。常に側に置いておかないと人間らしい感情を放棄してしまいそうだった。まだ十四年しか生きていないのに、軽く百年は生きているような気がした。
「聖都に着いたら、君が故郷に帰れるよう頼んでみる。だからすべてを忘れたふりをして帰ってほしい。彼の愛した故郷に」
 パトリシアには何も言えなかった。
 ただただ、自分の愚行が彼を苦しめていたことが悲しかった。
「わか、った」
 頷く以外に何ができただろう。
 父は正義を貫いた。貫いたがゆえに彼を苦しめた。そしてその娘には父と同じ道を歩まないで欲しいと彼は口にする。頷くしかないではないか。
 涙を拭って、ヨシュアは微笑んだ。パトリシアが初めて目にする、聖者の優しくも儚い笑みだった。
「君は思慮不足なのが欠点だけど、行動力もあるし、他人を思うこともできる。幸せになれるはずだ。退屈でも、平凡な日々で満足してほしい」
「それ……は、どう、かしら。私、暴れ馬、だから」
 ヨシュアの微笑みを直視することができなくて俯く。笑い返さなければいけないとわかっているのに、笑えなかった。
 優しい少年は静かに微笑んで、頷いた。
「そうだね。君は、きっと、平凡で退屈な毎日じゃ満足できなくて、森へ悪魔退治にでかけたり、誰も住んでいない屋敷に幽霊退治にでかけたりするんだろうね」
 その言葉に、少女は膝の上で手をぎゅううっとにぎりしめる。
 それは幼い頃の恥ずかしい思い出。だけど彼が知っているということは、父は確かに、彼の側にいたのだ。自分の故郷や家族の話を幼い彼に聞かせたのだ。敬虔で、正義感が強くて、家族思いだったあの人らしくて、あまりにも父らしくて、手の甲に雫が落ちた。

 聖都。
 正式名称ではない呼び方だが、一番有名で、もっとも正しくこの街を表しているのがその名だった。
 人々が慣れ親しむ教会の総本山、もっとも神のしもべに近しい者が治める都。
 パトリシア・シーベリーは着いてすぐに身柄を大聖堂近くの修道院に移され、毎朝毎晩礼拝に出席し、就寝と食事以外の時間はすべて修道院奥の小部屋で祈り続けることを課せられた。司教に剣を向けた時も、ごく短期間だがこの修道院預かりとなったことがある。その時と打って変わって敬虔に取り組むようになった姿勢に、年嵩の修道女たちは驚きながらもそれを歓迎した。
 自らの罪を悔い改め、主に祈りを捧げ、時には夜通し祈り続ける姿は、神に仕える覚悟ができたのだと皆密やかに噂した。
「………………」
 彼女が祈りを捧げる相手は神でも主でもないと、誰が知るだろう。彼女はただただ、あの少年と小さな従者の幸福を天使に向かって一心不乱に祈っていた。

 大聖堂内部に教会の実権を握る権力者たちが集められ、会議が開かれた。
 議題は先の聖者の態について。
 だがそこに当の聖者と従者の姿はなかった。彼の言い分は既に聴取されており、従者は黙ってそれに従うことを示していた。
「……して、騎士団に犠牲がでたとのことだが」
「はい。二名が死亡、七名が負傷し現在治療に当たっております」
「二名もか。久方ぶりの犠牲者だのう」
「陽が落ちきる前という、完全に不慮の事態でした。我々の驕りが招いた結果です。申し訳ありません」
 聖騎士の鎧を脱ぎ、修道士服に身を包んだ男に、司教たちは慰めを口にする。
「ヨシュア様の従者を守りきったのだ。無駄な犠牲ではあるまいよ」
「ですが、もっとはやく彼女を保護することもできました。時期を読み誤った小隊長の私に責があります」
 アーネストは悔しそうに唇を噛みしめる。
 当の少年は再会するなり彼に謝罪と感謝を口にした。監視兼護衛役の自分たちが密かについてきていることを知っていたから油断してしまったと、己の非を全面的に認めたのだ。彼にそれだけの信頼を寄せられていることを知りながら失態を冒したことが口惜しかった。
 彼はいつも、守ってくれてありがとう、と言う。
 彼が逃げ出さないように監視していることを知っての上で、自分と従者を守ってくれてありがとうと言うのだ。
 それがアーネストには不可解だった。彼のことを憐れだと思うし同情もする。それでも彼の奇跡は本物だから命を賭けて、危険を承知で守護する。それが自分たち聖騎士の役目なのだ。
 だが本当の意味で万人に優しい聖者がいるわけないと、そんな憧憬を抱くほど幼くはないから彼の言葉が余計に重く感じられてしまう。僅か十四の少年から自由を奪い、ほんの些細な我が儘も赦さず、都合の良い道具として使い続ける聖職者とは名ばかりの穢れた大人たちを前にして、彼を庇う発言はできない。それでは聖騎士団前団長の二の舞になるだけだ。
 どうしたらいいかわからなくて、彼にはいつも辛く当たってしまう。それなのに、彼はそれすらも見透かして赦すのだ。
「それで、今回の件に関して、彼は何と?」
「彼は三つの要求を提示しました」
 ほう、と何人かが笑うのがわかった。また身の程知らずなことをとでも思っているのだろう。
「ひとつはパトリシア・シーベリーを還俗させ、シーベリー家の領地へ帰すこと。もうひとつは、カファト・シーベリーは聖ヨフィエルを守るために命を落としたと、教会の主張に誤りがあったことを認めること。つまり彼は、シーベリーの娘を罪に問わず、無罪放免しろと言っているのです」
「もうひとつは?」
「こちらにお持ちした、彼がカファトから譲られた短剣を模倣して新たに二本作り、内一本を従者の新しい護身用に、もう一本をパトリシア・シーベリーに自らの手で返したいとのことです。どうやらこの短剣はシーベリー家に代々伝わるもののようです。シーベリー家に返却したいということなのでしょう。彼はこの三つの要求すべてを呑むのなら、今後一切教会の意思に背いた行動は取らないと正式に誓いを立てるそうです」
 ざわり、とその場がどよめいた。
 彼の優しさからくる戸惑いと罪悪感により、度々行事が中断されるということがあった。正式にお披露目したくとも、天使を喚ぶ感情の特殊性からなかなか公にできなかったのだが、あの少年がそこまでいうということは、それすらもきちんとこなしてみせると断言していると見て間違いない。
 アーネストは渋面になりそうになるのを必死で堪えながら、彼から告げられた言葉をそのまま繰り返す。
「今後どんな生け贄が来ても助けることはなく、裏で画策されている彼の子孫を残す計画についても、無条件で従っても良いとのことです。従者の少女も全面的に彼の言葉に従う意思を示しています」
 正義感なんて陳腐なものは持ち合わせていないつもりだったが、自分で口にして吐き気を覚えた。あんな小さな子供たちをどれだけ卑劣な目に遭わせれば、この名ばかりの聖職者たちは満足するのだろうか。
 結論は最高権力者たる教皇に委ねられた。
 年老いた教皇は穏やかに微笑んで、男がさらに苛つくようなことを平然と述べる。
「ヨシュア様にもようやく聖人としての自覚がお生まれになったようですね。喜ばしいことです。今までの私どもの努力も無駄ではなかったということです。よろしい、彼の望みを叶えて差し上げなさい」
 この国で、この都で、この場で一番狂っているのはこの男だとアーネストは思っている。神の子の存在が内部に公開されたのは彼が教皇になってまもなくのことだった。それからの残虐非道極まりない扱いを指示したのもすべてこの男だ。
 神に選ばれ、天使の守護を受けているのはあの少年なのに、まるで自分が神に選ばれたかのように振舞うこの男が嫌いだった。
 喉までこみ上げた苦いものをなんとか呑み込んで、男はしずしずと頭を下げた。
「仰せのままに」
 神なんてくそくらえだ。

 会議の結論を伝えようと彼の部屋を訪れると、珍しいことに鍵が開いていた。命を狙われるかもしれないからいつもは絶対に鍵を閉めるよう口うるさく言われているのに、部屋の扉さえ少し開いていた。不用心だった。
「入るぞ」
 一応声を掛けて扉を開くと、少年はベッドに横になっていた。ただ横になっているのではなく、赤らんだ顔や身体に負った傷のせいで起き上がれないのだと言うことはすぐにわかった。
 彼の従者兼主治医は慌ただしく動き回って看病している。額に布が置かれているのは熱があるからだろう。
「ヨシュア、タジット」
 改めて声をかけると、従者の少女はびくっと肩を震わせた後振り向いて、入ってきたのが見知っている男だと気が付いてふーっと安堵の息を漏らした。
 一方、その主人の方は反応がない。
「ヨシュア? ……熱が高いのか?」
 尋ねると、少女は不安に顔を歪ませてこっくりと頷いた。
 喋れなくとも、慣れてしまえば意思の疎通は簡単なことだ。この少女はとても頭が良く、人の言いたいことを察して、的確な動作と表情で応えてみせる。
「そうか……、だが、扉を開けっ放しにするのは感心しないな。気をつけろ」
 こっくりと、彼女は恥ずかしそうに頷く。看病に夢中でそこまで気が回らなかったことを恥じているのだ。ぽんぽんと軽く頭をたたいてやると嬉しそうに笑い、部屋に唯一の椅子を勧めてきた。断る理由もなかったので大人しく少年の枕元近くに座らせてもらうことにした。
 彼は小さくうめき声を上げながら、苦痛に顔を歪めている。
「怪我をしているのに無理をするからだ」
 悪魔と対峙する度、彼は何かしらの傷を負う。小さな傷か大きな怪我かは時によりけりだが、ここのところは大怪我になる割合が増えているような気がする。つまりはそれだけ、彼が絶望という感情に鈍くなってきているということだ。だから時間がかかるし、怪我を負う。
 騎士団を乱入させて守らせようと思ったことは数知れないが、それでは彼の役目を失敗させることになるから、守りに入れない。
 タジットは甲斐甲斐しく額の布を取り替えたり、吹き出る汗を拭ったり、時には水差しから水を飲ませたりしている。この従者は、彼が悪魔と対峙する時はできるだけ安全な場所に避難して、時には怪我人の治療に当たっているので、彼が心をすり減らせて天使を喚ぶ場面には居合わせたりしない。アーネストは、それについては正しい判断だと思っている。
 彼女は悪魔に襲われて声を失ったのだ。声だけではなく、家族や親しい村人すべて。生まれ故郷を失った。そんな子を悪魔に遭わせる必要はないと男でも思う。嫌なことを思い出してしまうだろうから。
 この子供を助けた時、途中の村や町にある教会に預けて行くべきだと何度も進言したが、ヨシュアは頑として男の言葉に耳を貸さなかった。
 今ではそれで正解だったのだと思わざるを得ないから、やはり納得がいかない。彼女は絶対にヨシュアを裏切らない。だから彼がけがをしたり熱を出したりしても他の医者に診せることはない。こう言ってはなんだが、この聖都でさえ信用できる者は少ないのだ。
 騎士の家に生まれ、神の子を守るという役目を負ったからには果たすつもりでいた。それなのに任命した教皇も枢機卿たちも信用できないという現実がある。まったく、とんだ貧乏くじを引いたものだ。
「……あれ……アーネスト……?」
 どこか虚ろな眸だが、彼に意識が戻ったようなので報告をする。
「例の件は受理された。ただし、あの凝った短剣を複製するのに二週間はかかる。シーベリーの娘はそれまで修道院に入れたままだ。文句あるか」
「……ない……」

 ヨシュアはへにゃあとだらしなく微笑んだ。
「ごめんね……嫌な思いばっかり、させて……」
「これが俺の仕事だ。お前こそ、もっと後先考えて動けないのか。お前の一言一動にこの子の将来がかかっていることを忘れるな」
「あー……返す言葉もないです……」
 相手がこんなにへろへろだと厭味を言うのも馬鹿らしくなってくる。ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向くと、従者の少女が音を立てずに仕草で笑っているのが目に入った。子供の扱いは苦手なのだが、彼女は唯一の例外だった。小さな身体を片手で持ち上げて膝の上に座らせると、彼女は不思議そうに見上げてくる。仏頂面しかしない男でも、泣いて逃げたりしないのはとてもありがたいことだった。
「……ちょっと……幼女趣味って言いふらすよ……」
 案の定、彼は不服そうに口をへの字に曲げた。ことこの少女に関することだけは、普通の少年のような表情をするのだ。
「どっちが幼女趣味だ。あちこち連れ回して、床で寝かせるからベッドはひとつでいいとかのたまって、いまだに独り寝もできないくせに」
「えー……それは表向きの事情もあるしー……大体兄と妹が一緒に寝て何の問題があるのさー」
「馬鹿。大ありだ。お前がそうやって寝込んでいたら、この子は本当に床で寝るしかないだろうが」
「……くー、痛いところを……」
 くすくすと、膝の上で少年の恰好をした少女が吐息だけで楽しげに笑う。その小さな頭を撫でながら、ふんと鼻で笑った。
「俺はお前が嫌いだが、聖騎士の役目はまっとうする。前にも言ったが、最悪の場合、俺はお前を見捨ててでもこの子を助けることを優先するからな。お前が巻き込んだんだ。その責任はお前が負え」
「あはは、うん、わかっている」
「それと、外では気軽に声をかけるな。こっちにも立場というものがある。お前に頭を下げるのは屈辱以外の何者でもない」
「……僕は君のそういう正直なところ、結構気に入っているんだけどなあ」
 外でこんな会話をしたら騎士の座を剥奪されかねない。
 それでも本音を聞かせてくれ、従者のことをそれとなく気に掛けてくれる存在がいることは心強かった。
「たぶん、これから、もっと、目を覆いたくなるようなことが、起きる。耐えられなくなったら、無理せず、辞めたほうがいいよ」
「生意気な口を利く余裕があるのなら、さっさと傷を治すんだな」
 何も好きこのんで、自分から進んでお前を守っているわけではない。
 そう暗にほのめかしてアーネストは部屋を出た。閉めた扉の前で、今度こそ従者の少女が鍵を閉める音を耳にする。これでいい。


 そこに、司教の一人が顔を見せた。
「これは騎士殿。ヨシュア様の部屋の前に見張りは不要とされているはずですが?」
「ベルン司教殿。たった今、彼に教皇様の意思をお伝えに参ったところです」
「ああ、それはご苦労。私はヨシュア様に内密の話があるのでね、通してもらえるかな?」
 司教とは思えぬ下卑た笑いに、アーネストは冷淡に答えた。
「現在、ヨシュア様は長旅の疲れによりお休みになられておられます。私も時間を置いてまた参ります。申し訳ありませんが、日をお改め下さい」
 ベルン司教は不快を隠しもせずに舌打ちをして、そそくさとその場を後にする。彼は上層部に食い込む程の実力がないから、神の子が何らかの特権を持っていると信じてごまをすりに来たのだろう。
 アーネストは内心で激しい不快感を覚えていた。
 そうとも、好きこのんでヨシュアのために命を賭けるのではない。ただ、ああいう腐りきった奴らを守るより、彼を守る方がよっぽどましだから聖騎士の座に居続けるのだ。彼に特別な思い入れなどない。あってたまるものか。


 そして、二週間後。
 場所は聖都、北の門。
 馬車と、聖騎士と、還俗した修道女と、従者と、聖者。
 淡い緑のドレスに身を包んだ少女は紛れもなく貴族の令嬢で、修道女にはまったく見えない。パトリシアは涙を堪えながら聖者に向かって膝をついた。
「お父様の、名誉を、取り戻して、下さり、ありがとう、ございました」
 既に、カファト・シーベリーの死について誤りがあったことを教会は発表していた。彼女にとっては思いもよらぬことだったに違いない。自分の身すら故郷に帰れなくても仕方がないと諦め始めていたのだから。
 聖者は横に立つ聖騎士に目配せをする。
 聖騎士は恭しく膝をついて、両手に乗る大きさの木箱を差し出す。それを受けると、ヨシュアはアーネストに小声で言った。
「少し、離れていてくれないかな。彼女と話がしたい」
「……少しだけなら」
 アーネストが離れるのを待って、ヨシュアは木箱を従者に渡して蓋を開いた。
「それは……」
「君は厳しい現実と戦うことができる女性だ。だから、これをお返しする」
 ヨシュアがナイフを鞘から抜くと、銀色に輝く刃が姿を現した。
「……いい腕だ。複製とは思えない」
「わざわざ、つくって、くれたの?」
「これはカファトから預かったもの。シーベリー家に返すのが妥当だと思う」
 ナイフを鞘に収め、木箱にしまう。
 パトリシアは恐る恐る、差し出された木箱を受け取ると、ぎゅうっと胸に抱きしめた。
「ありがとう……ここまでしてくれるなんて、思わなかった」
「君が諦めずに戦っていたからだよ。これは、君の魂に対する評価と賞賛のたまもの」
 ヨシュアはそっと従者の肩を押した。タジットは年上の少女にしっかりとしがみつき、ぱらぽろと涙を流す。再会できた喜びと、今生の別れに対する悲しみの涙だった。
「タジット君……。あのね、もうすっかり、足、よくなったから。あなたのおかげよ」
 ふるふると子供は首を横に振る。タジットは涙が止まらないようだ。
 それを見て頃合いだと思ったのだろう。聖騎士が聖者の後ろから声を掛けた。
「そろそろ出立させろ」
「そうだね」
 最後に、ヨシュアはこう呟いて、少女の額に祝福のキスをした。
「パトリシア・シーベリー。君に、アンジェリカの加護がありますように」
 神でも主でもなく、少年が唯一信頼する天使の祝福を。
 泣き崩れそうになりながら、パトリシアは深々と頭を下げた。それが別れの挨拶だった。


 傷が癒え、ようやく通常の職務に復帰することが決まったヨシュアの最初の勤めは、聖なる水の間で祈りを捧げることだった。
 純白の大理石のみで造られた特別な礼拝堂は、部屋の三分の二が清い水で満たされている。聖者はそこに身を浸して神と主に祈りを捧げるのが、外出しない時の毎日の日課だった。
 祈りの時間、礼拝堂には聖者とその従者しか居ることを赦されない。扉に鍵は付けられていないし、隠し扉も二つほど設置されているが、聖者の祈りは神と主との対話である。彼の認めた正式な従者以外、目にすることさえ赦されない掟だった。
 厳重な警備の中、ヨシュアは白い服を纏って礼拝堂の扉をくぐった。少し遅れて、危険物を身に付けていないかチェックされたタジットが替えの衣服などを胸に抱いて入ってきた。
 そして扉は閉じられる。
 ちゃぷん、ちゃぷんと水音を立てながら、石段を下り、腰まで水に浸しながらヨシュアはその石段に腰掛けた。その傍らに、やはり白い服を着たタジットが立った。張り詰めたような表情で、今にも泣きそうになりながら少年の頭を抱きしめる。
 彼は小さな身体を抱き返しながら小声で囁く。
「こんなところまで見せることになるなんて、僕は本当に罪深い罪人だね」
 自室にいても監視の目は常に光っている。
 この祈りの時間だけが唯一、監視の目が外れる時だった。
 今日は久しぶりの礼拝だから、いつもより長く時間をとって欲しいという願いは簡単に受理された。こういうことにだけ寛容なのが教会というシステムの穴だった。
 ヨシュアは従者を離すと、右腕の袖から短剣を取りだした。シーベリー家の紋章が刻まれたナイフは、つい先日複製されたもの。本来彼の手に渡ることのないそれの鞘を抜き、外に気付かれぬよう水に沈める。
「タジット。君に、アンジェリカの祝福を」
 小さな従者の額にキスをして、自分の首にさげていた銀のロザリオを彼女に首に掛ける。
「君にあげられるものが、これしかなくて、ごめんね」
 だが、少女はとても嬉しそうに微笑んでくれた。それが彼には嬉しかった。
 余計なことを考えないうちにと、彼は抜き身のナイフを逆手に構える。深呼吸と共にナイフを深々と己の胸に突き立てた。
「……ぅ、ぐ……」
 異物が内臓を傷つける感覚に強い吐き気を覚える。だが、これではだめだ。これでは死に至れない。
 躊躇いが的を外してしまったのかもしれない。
 もう一度、とナイフを引き抜くと、それは血濡れた手から水の中に滑り落ちた。
「……っ」
 溢れ出る血に少年は思わずにはいられない。
(いやだ! 死にたくない! 生きたい!)
 だが生きのびたところで、苦痛の中に身を置くだけだ。これまで以上の辱めに心が耐えられるわけがない。自分も天使も、そしてこの小さな従者も。
 ナイフを、拾わなければ。
 しかし金属が大理石に当たった音が聞こえてしまったのか、扉の向こうで誰かの話し声がした。
 ――急がなければ。
 従者が慌てて拾ってきてくれたナイフを今度は首にあてがい、深呼吸をする。手ががたがたと震えた。反対の手で押さえつけても震えは止まらない。
(死にたくない……)
 だが、死ななければ。
 生を願う本能と、死を望む理性に揺れるヨシュアの気持ちを察したのか、タジットはその小さな掌を彼の手に添えた。
「だめだ、君は」
 君にそんなことをさせるわけには、そう言おうと思ったのに、眸に涙を溜めた少女は歯を食いしばって僅かに頷いた。彼女はこれ以上少年に苦しんで欲しくなかった。だから刃物を手に入れるための協力も惜しまなかった。
 これ以上、彼に絶望に身をやつして欲しくないと、赦されぬ自害の手引きをした。
 ここまできたら同じだと、少女はなんとか微笑んだ。
「……ありがとう」
 そうだ、自分は自分の意思で死ぬのだ。
 自分が自分だと思える正しい誇りを失わないうちに。
 これ以上あやまちを重ねないうちに。
 少年は眸から涙を流し、瞼を閉じて、ナイフを首に突き立てた。
「――っ」
 先程とは違う確実な死の気配に、安堵する。
 こふ、と口から血が溢れた。
 それでも少年は穏やかな微笑みを浮かべて、震える指を少女の頬に伸ばす。
 声になったかはわからないが、唇は動いた。
(うたって)
 声無し(タジット)と名付けられた少女は、愛する少年から譲られたロザリオを握って、瞼を閉じて唇を震わせた。どんなに想いを乗せても響かない声。口を開こうと、舌を動かそうと、喉を震わそうと、出てこない声。それでも彼女は必死に歌った。声にならぬ声で歌った。
 ヨシュアは嬉しそうに目を細めると、最期の力で首に刺したナイフを一気に引き抜いた。反動で身体が前のめりに倒れ、派手な水音が立つ。どくどくと溢れ出る血が、水の中にいくつもの帯を描いていく。
 水を伝って白い服が血の色に染まっても、従者の少女は歌い続けた。
 死の間際、彼が感じるのが絶望ではなく、やすらぎでありますようにと、祈りの歌を。
「ヨシュア様!?」
 異変を聞きつけた聖騎士たちが礼拝堂に駆け込んでくる。しかし彼らが見たのは、赤い水面にたゆたう少年の姿だった。
「なんてことだ……!」
 絶対にあってはならない事態に動揺する騎士たちの目の前で、突如光が弾けた。天使は少年の亡骸を抱きしめ、その額にキスをした。それから、瞼を閉じて歌い続ける従者に優しい眼差しを向け、姿を消した。
 だがその時、従者以外のすべての者は天使の声を聞いた。少なくとも教会内部の者は皆聞いたと後に述べている。
 ――聖者の従者に悪意を持って害をなそうとする者は、聖ヨフィエルの御名において天罰を下す、と。


 愛する故郷に帰り着いた少女を、家族や領民は諸手を挙げて出迎えた。絶対的な権力を持つ教会を相手にして父の汚名を晴らし、聖者の祝福を受けて帰ってきたパトリシアはまさに英雄だった。
 懐かしい生家の自室についてようやく、彼女は少年から預かった木箱を開いた。母と弟に見せようと思ったのだ。
 しかし、その銀色の鞘は細かい傷がつきどこか薄汚れていて、出発の時に見たものと印象が違って見えた。慌てて鞘から引き抜くと、それは折れて、刃をすべて削られ役に立たなくなったナイフだった。
「え……?」
 ナイフの丸く削られた刃には小さな紙切れが巻き付けられている。パトリシアは慎重にそれを剥がして、書かれている文字を読んだ。字は赤黒く変色していて、インクで書いたとは思えない。おそらくは血で書いたものだろうと思ったが、その内容に目を見開く。
「喩え、刃が折れようとも、役に立たずとも、贋物ではなく、本物を、返す……?」
 読みながら、別のことを考えてしまう。
 では、出発の時に見たあのナイフはどこに行ってしまったのだろう。確かにこの箱にしまわれたのを目にしたのに。いやしかし、ところどころ涙をこらえようとして俯きがちだったし、見張りの聖騎士は少年の後ろに下がっていた。ヨシュアとタジットが二人で協力して取り替えようとすれば、それは可能だったのではないだろうか。
「お父様の、ナイフ……」
 時の権力者から下賜され、シーベリー家に代々受け継がれてきたもの。
「お父様が、持っていた……」
 いつか家を継ぐ弟が成人した暁には、譲ると言っていたナイフ。
 模倣品ではなく、本物。
 堪えていた涙がこみ上げてきた。彼は本当に、どこまで自分たちのことを聞いていたのだろうか。
「お母様! テッド!」
 気が付けば、彼女は家族の元へ駆け出していた。一刻も早く伝えたかった。父は立派に役目を果たしたと、このナイフは聖者の従者を守って立派に役目を終えたのだと、教えたかった。


 一方、教会上層部に走った衝撃は表現しがたいものがあった。
 よりにもよって、聖別されたものが固く禁じられた自害をするなど、否、自害をさせることを赦すなど信じがたいことだった。
 彼にはそれこそナイフの一本も持たせていなかった。万が一を想定して命を断てるような道具を身の回りから徹底的に排除してきたのだ。それこそ、ペンの一本すら見張りがいなければ使えないように。彼の従者にしても、彼と一緒にいる時は鋏一本も持たせることを赦さなかった。
 それなのに彼はナイフで首を裂いて自害してしまった。
 そのナイフは先日造らせたばかりのシーベリー家の家紋入りで、彼が持っているはずのないものだった。シーベリーの娘が持ち帰るのを聖騎士は確かに見ていたし、従者に与えられるはずのものはいまだ教皇の手元にあった。
 これではナイフが三本あったことになってしまう。
 否、本当は三本あった。折れた本物は、刃を削って完全に使い物にならなくしてからでいいから手元に置いておきたいとあの少年は嘆願し、上層部もそれを許可した。だが、折れたナイフは完全に使い物にならなくなっていたはずだ。首を裂くなど到底できない程に。
 そしてそのナイフの行方がわからなくなっている。
「まさか、シーベリーの娘が持っていったのは……」
 しかし既に問題の論点はそこになかった。仮にシーベリーの娘が共犯だとしても、カファト・シーベリーは名誉の死であったと発表してしまった後だ。これから先、シーベリー家に対して教会が手を出そうとすれば民衆が黙ってはいないだろう。
「それが狙いか……!」
 あの娘の自由と安全を確保し、自らは死に逃げる。彼の従者は現在軟禁されているが、皆天使の声を聞いたと恐れおののいて使い物にならなくなっている。聖ヨフィエルが天使の守護を受けていることは殆どの者が知っていたからなおさらだ。
 彼は見事教会の手から逃げ切ったことになる。
 教皇はこれから行うはずだった計画をすべて壊され怒りに打ち震えていた。天使を喚ぶ少年の死は急な病だったと偽の発表をする予定だが、自分に向けられる不審の目は増えるばかりだ。事情を知らないものまで天使の声を聞いてしまったのだから打つ手がない。
 このままでは自分は教皇の座から引きずり下ろされてしまうかもしれない。彼が死んでしまった以上、彼にしてきたことを誰かが洩らすことだって考えられる。否、それ以前の失敗続きだった実験のことさえも露呈する可能性がある。
「おのれ……!」
 だんと机を叩いて、彼は引き出しから件のナイフを取り出し叫んだ。
「あの娘を連れてこい! 奴と同じように首を裂いて後を追わせてやる!」
 完全に取り乱した言葉にその場にいた者は唖然とし、次の瞬間、驚愕した。教皇が突然血を吹いて倒れたのだ。医者が呼ばれた時には既に事切れていた。
 この出来事を、裏の事情を知る者は天からの警告として受け止めた。教皇と同じ道を辿りたくなければ、決して彼女に悪意を向けてはならないのだと。




 死の前夜、聖者と天使は夢の中でこんな会話を交わしていた。

「アンジェリカ、ごめんね。僕は君と一緒に神の御前にいけそうにない」
「いいの。いいのよ。あなたの魂がどこへ堕ちようと、私が必ず見つけ出す」
「……アンジェリカ」
「私はあなたと同罪だもの。一緒に罪の告白をしましょう」
「……ありがとう……」
「私こそ、何もしてあげられなくて、ごめんね」
「……ねえ、もしも、次に生を授かることができたら、君と兄弟として産まれたいな。双子がいい。神の子なんて呼ばれないところで、静かに暮らしたい」
「……私もよ、ヨシュア。いつでもあなたを抱きしめられる肉体が欲しい」
「それまで、少しの間、お別れだね」
「おやすみなさい、ヨシュア。ほんの少しの間眠るだけよ。さよならはいわないで」
「うん……おやすみ、アンジェリカ。……また、すぐに、逢おう」
 聖者と天使は微笑みあい、同時に小さく頷いた。
「私はあなたが産まれる前からずっと側にいた。だからこれからもずっと、あなたの側にいる」
 天使を喚ぶ能力が露見し、彼が教会の手に落ちたのは本当に偶然のことだった。彼の能力は決して残酷な実験の成果ではない。おそらくは産まれながら持っていた能力である。こんなふうに利用されるだなんて誰が想像しただろう。
 それを運命と呼ぶ人もいるかもしれない。
 だが、平凡な人生の上で世界のすべてに絶望することが幾度あるだろうか。本来なら、そのたった数回のために彼の天使はいたのに。
 絶望した彼の心に手を差し伸べるために天使は宿っていたのに、歯車は大きく狂ってしまった。
 だからやり直そう、と二人は微笑む。
 できることなら、その時にはあの小さな従者も一緒にいられますように、と。





 タジットは毎日の礼拝を欠かさない。
 修道服とは意匠の異なる白い衣服に身を包み、主人から譲り受けたロザリオを手に祈り続ける。
 あれからもう、十年の月日が流れた。
 十年の間に三度も教皇が変わり、実権を握っていた司教や枢機卿らが次々に辞めたり姿を消したりと前代未聞の事態が続いたが、最近はようやく身の回りも静かになってきた。
 彼女は修道女たちと共に暮らし、孤児院や施療院を回っては、怪我人や病人の看護をしている。
 彼のことを一切外にもらさない、記録に残さないという約束を交わして、彼女はこの生活を得た。
 今ではもう、天使を喚ぶ、神に選ばれた少年がいたことなど誰も覚えていないかのようだった。悪魔と呼ばれる彼らが現われることもなくなった。きっとヨシュアの魂と共に、アンジェリカが連れていってしまったのだとタジットは信じている。
 十八の歳を迎えた今も、タジットの声は戻らない。
 今ではもう、一生戻らなくてもいいと思っている。自分の声と歌は彼に捧げてしまったのだから……。
 だから彼女が祈り、願うことはひとつだけ。あの時、ヨシュアに凄惨な日々を終わらせる勇気を持たせ、背中を押してくれた少女が罪の意識に囚われていないことを、彼女が何も気負わず幸せな毎日を送れていますようにと、ただそれだけを祈り続けている。
 これは同人誌として出した小説です。
 挿絵のあるものを、サイト・イベントでの頒布を行っています。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
― 感想を書く ―

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項をご確認ください。

名前:

▼良い点
▼気になる点
▼一言
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ