逃避行
6.逃避行
とりあえず、お金とわずかな米、幼子の身の回りの物、必要最小限の物を荷物にまとめた。作蔵は小一郎にもらった人消しに弾を込めた。
「作蔵さん、出来る限り撃たないで」香枝が言った。
「へい」
「千鶴、大丈夫?」
千鶴は小さく頷いた。香枝は我が子の良太を抱き上げた。
「行きましょう」
幕兵に囲まれているのが判っているのなら、逃げ出したほうが得策だ。一行はそっと裏口から外へ出た。しかし程なく、それが甘い考えであったことに気付かされた。路地という路地、どの道を辿っても人影が付いてまわる。幕府の捕り方に違いない。影を避け裏路地に入れば、そこにも何者かが待ち受けている。それを避け違う道を選べばそこにも影がある。とうとう袋小路に入り込んだ。もう抜ける道は無い。影は人数を増し近づいてくる。すぐ側まで来た。影が口をきいた。
「斑の狗こと鮎沢伊予乃介と小一郎が一味、作蔵と香枝であるな?神妙に従え。手向かわずば殺しはせぬ」
「違います。斑の狗とは何のことやら知りませぬ」香枝が気丈に答える。
「言い逃れるか、ひっ捕えい!」一斉に幕兵が刀を抜く。その時である。兵の前に一人の男が立ちはだかった。コートのようにはおった黒い鎖帷子、黒い仮面。民家の屋根の上からひらりと降り立った。香枝らを背後にかばい、
「何故、茶店に潜んで居らなんだ?お陰で探したぞ。晴蔵は何を伝えたのか、まったく役に立たぬ爺だ」男は軽口を叩くように言う。
「小一郎様?」香枝が聞く。
幕兵が一斉にたじろぐ。
「狗じゃ、狗が出たぞ。捕えい!」
「作蔵、この道切り開くぞ。手伝え」
「香枝、子供らの手を引け」矢継ぎ早に言うと目にもとまらぬ早業で男は牙を飛ばす。異形の型の人喰い牙が向かってくる捕り方の顔面を割る。敵は梯子を用意していた。それで男の身を押さえ込もうとする。男は鼻で笑い、
「こやつら“徳川”時代の捕り手じゃな。既に時代は・・・・」拳銃を抜くと捕り手の眉間を撃ち抜いた。道は幸いにも狭い。敵は一斉には襲ってこられない。正面の敵だけ次々倒していけば良い。が、ライフルを持った敵が数人いた。
「香枝っ、作蔵、伏せい」男は敵がライフルを構えるより早く撃った。
「作蔵、撃てっ!」作蔵が人消しを撃つ。一発で三人まとめて吹き飛ばした。その空きに、敵陣の後方にいるライフルを持った敵を狙い三日月を飛ばした。三日月は弧を描いて飛び狙い違わず命中した。後は刀と槍のみである。「容易い」男は呟くと再び拳銃を握った。
作蔵はすばやく弾を込め、人消しを撃つ。始めて共に戦ったが改めて小一郎の銃の腕に驚いていた。あまり頭の回るほうではない。が、小一郎と伊予乃介が斑の狗だと朧げながら気付いていた。今、始めて共に戦って納得した。これなら三十人相手にも勝てるはずだ。
数分後、累々たる屍の山で路地は埋まった。銃声に驚いた人々が窓を開け様子を窺っている。
「香枝、作蔵、行くぞ」男は言い、千鶴を抱き上げると先頭に立って歩き始めた。後に、香枝と作蔵が続く。香枝が聞く。
「小一郎様でしょう?」男はそれには答えず、
「今は急げ、ゆっくり話している暇はない。今の騒ぎで次の捕り手が来る。早く萩を抜け出そう」と、香枝を促した。そして、怪我はないか?と気づかった。ありませぬ。と香枝が答えた。さらに、歩けるか?と問う。大丈夫です。と香枝が答える。
「遠い道のりになる。千鶴の里、上吾野のさらに深い山中に晴蔵という爺の住む小屋がある。長州でもっとも安全な場所だ。そこへ行く」
一行は市街地を抜け田畑の広がる郊外へ出た。月が夜道を照らしている。背後の萩市中が騒々しい。兵隊の怒声と捕り方の笛の音が風に乗って聞こえてくる。
「香枝殿」男は言う。
「そなたに再び会えて・・・嬉しく思う」
「はい」香枝が涙ぐむ。追手の声が近づいてくる。
「俺はここで敵を待ち受ける」男は足を止めた。傍らに神社の鳥居と石段がある野道だ。
「いやです。一緒に逃げてください」香枝が言う。男は微笑み、
「案ずるな。必ず後を追う。作蔵、上吾野まで皆を案内できるな?」そう言って千鶴を作蔵に抱かせた。その時、である。
「・・・・っゃやだよ・・」聞き取れぬほどの声だった。
「反対の方へ行っちゃやだよ・・・」千鶴が口をきいた。本当の意味は分からない、だが大事なことらしい。
「勿論だ。すぐに後を追う」そう言って千鶴の頭を優しく撫でた。
「身を守る為にこれを持っていけ」拳銃と奇兵刀を一丁ずつ香枝に渡した。
「一緒に、・・・」香枝が懇願するが彼は聞かない。
「香枝殿・・・。このような時代に生まれたことを俺は恨む。出来ればもっと平和な時代に平和な国で生まれ、もっと早くそなたと出会いたかった・・・」次に続く言葉を小一郎は飲み込んだ。そして「必ずまた会える日が来る」とだけ言った。
「行け」そう言って後ろを向くと振り返らなかった。
香枝たちは立ち去りがたい思いでその場を去った。
一行が去った後、小一郎は奇兵刀を抜くとその場に仁王立ちになり敵を待ち受けた。拳銃の弾は既に残り少ない。やがて追手の提灯が無数の蛍のように近づいてきた。
境内に小さなお堂があった。小一郎は這うようにして中に入ると、床に倒れ、傷だらけの体を横たえた。そばに木彫りの仏がある。月明かりが格子を抜け、仏の顔を仄かに照らす。誰の手による像かは知らぬ。何菩薩か彼にはわからぬ。だが、その笑みが小一郎の心を打つ。如何な宗教的境地に至ればこのような笑みを刻む事が出来るのか?暗闇に浮かんだ仏の笑みは静かに、静かに、疲れ果てた彼の心を癒していった。
それは約百年の後、柳宗悦によって見出される木喰上人の彫りし菩薩像であった。
やがて彼は、その仏の足元で、深く安らかな、眠りに沈んでいった・・・・・・。
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