香枝
8.香枝
「香枝殿、まだ起きておるか?」小一郎は襖越しに聞いた。今宵入り口の部屋に寝るのは小一郎である。「起きているのなら、少し話をしたい。こちらに来られぬか?」暫く待っても返事は無い。そうか、もう寝ているのだなと思った時、襖の向こうで香枝が言った。
「いやです。また襲われます故」
小一郎は憤慨して、あれは、戯れに、と言ってしまったものだから、
「小一郎様は戯れにあのような事をなさるのですか」と、反撃を受けた。どうにも分が悪い。小一郎は正直に「あれはあの時、そなたがあまりにしつこく聞いてくる故追い払ってやろうと思って脅かすつもりでやった事じゃ。言いかたは悪いが・・・。気を害したのなら誤る。この通りじゃ」誤ってはいるが、正直すぎて火に油を注いだような物言いだ。
「謝って貰わなくても結構です。どうせしつこうございます」と、ますます取り付くしまも無い。小一郎は話題を変えた。
「香枝殿は最近話題の狗のこと、どう思われるか?」
「この頃では義賊気取りで、鼠小僧の真似事をされているとか、ご立派なことで結構ですね」冷ややかに言いきった。「傍で心配されているお身内の方もいらっしゃいましょうに」
彼にしてみれば心外とも言える答えだった。弁護するつもりで「いや、おそらく天涯孤独の身であろう。俺はそう思うが」と言った。
「でしたら」香枝は憤った口調で答えた。「好きになさるが良いでしょうね。そうしていずれ命運尽きて捉えられるか、殺されてしますのですわ」
小一郎も、自分の事となれば伊予乃介と並び劣らず鈍い。まさか香枝に見抜かれているとは思いもよらず、また香枝が彼を心配して思う心にも気付かず、答えに窮したまま沈黙した。香枝もまた黙ったままだった。
その夜、彼は香枝に告げるか否か、迷っていたことをとうとう切り出すことが出来なかった。萩城で名簿を見つけたのだ。連行され処刑された萩の人々の。その中に彼女の夫の名があった事を。
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