登城
6・登城
翌朝、異変に気付いてないのは伊予乃介と一歳児の香枝の子だけだった。香枝の機嫌が著しく悪い。と言うよりも、他の者には優しく接しても小一郎にだけはつっけんどんと言うか無愛想と言うか、露骨に怒りを表現していた。これはかなり嫌われたようじゃと、小一郎は肩身の狭い思いで粥を食うた。伊予乃介はこういう事にはこの上なく鈍い。千鶴でさえも小一郎と香枝の様子を不思議そうに窺っているというのに、まったく無頓着である。これは旨い粥である。もう一杯所望したい。と言う。香枝は褒めてもらった礼を言いことさら優しげに粥をよそう。小一郎も茶碗を出しかけたがキッと睨まれ、恐ろしくて引っ込めた。
そこへ来客があった。礼儀正しき若武者が、こちらに鮎沢殿がいらっしゃると聞き参りました。私は水戸藩士茅根幸吉と申す。本当に鮎沢殿がご存命でいらっしゃるのですか?と聞いた。声を聞きつけ伊予乃介が顔を出すと、鮎沢様っ! 生きておいでとは! と涙を流して喜び後は声にならない。まぁまぁ、上がるが良いと招きいれ再会を喜び合う。伊予乃介はこれまでの事を、親切な山の老人に助けられたと説明し、小一郎のことは国元から呼び寄せた家来である、と説明した。老人はともかく俺の事は苦しい方便だなと小一郎は思ったが、相手は微塵も疑う様子はない。と言うよりも、なにやら違う意味に解釈したらしく意味ありげな視線を小一郎に向け、ではこの方も我らの?と、小声で伊予乃介に問うた。伊予乃介はそれについては言葉を濁し、話を違う方へ持っていった。豊永志功について聞いた。いわく、今や飛ぶ鳥を落とす程の勢いの出世頭であるとの事。出陣すれば必ず奇兵の村を突き止め殲滅する。これまでに八つの村を殲滅したと言う。それを聞き伊予乃介も小一郎も憤怒したが、敢えて今声を荒げて議論することは避け、ともあれ登城することとした。
さて、仕度もすみ出立である。なにやら表が賑やかしい。見れば三十人以上の水戸藩士が出迎えに来ている。伊予乃介が顔を出すと一斉に礼をした。
伊予乃介は至極当然のように先頭に立って歩き出す。小一郎は面食らって列の最後尾に付いて行こうとした。すると伊予乃介が寄って来て小声で言う。
「そなたは、私の護衛のふりをして傍を離れぬが良い」そしてまたもや悪戯っぽい笑みを浮かべこう付け加えた。「彼らは、そなたを水戸藩隠密と思うておる」隠密とはつまり忍びの者である。
「なっ、どういう意味じゃ?それは困るぞ。いや、そんなものすぐにボロが出るに決まっておる。何故そう思われねばならぬ?」
「案ずるな。そなたはただ黙っておればよい。そうすれば彼らの方から色々情報を持ってきてくれる。好都合であろう。それにそなたは隠密顔負けの牙の使い手ではないか」
そうは言われても小一郎が混乱するのは当然である。ただでさえ敵の牙城に入り込もうという時に、否、ならばかえって都合が良いのか?しかし、伊予乃介、かなり身分の高い侍であると思うていたが、自藩隠密を自在に使えるとなると一体どれほどの位にあるのか? 色々考えすぎて、小一郎は訳が分からなくなった。こういう場合常に彼は腹を決める。考えない、それ以上の解決策はない。
萩城へ着いた。
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