第二話 しぃちゃん
「うわーっ、お姉ちゃん綺麗!!」
「そう、ありがとね」
私の妹である真耶の右手に握られているのは私の大学の入学式のときの写真である。
「私がもし男の子だったら絶対ナンパするよ。絶対」
「ふふふ、お世辞でもうれしいけど、何もおごらないわよ」
四月に入っていよいよ大学生活がスタートした。今日からオリエンテーションが始まる。私が所属する文学部の簡単な説明とかを受ける。
その後各時間に行われている授業の中から自分が今年受ける授業を決めることになる。
考える期間は一ヶ月。その間に課題が楽で出席確認もそんなに厳しくない授業を選ばなければならない。もちろん自分が受けたい授業も。
しかし晴れの大学生活初日に私は重大な問題に直面してしまったのだ。
「こ…、この坂を毎日自転車で上るのか……」
私の目の前に現れたのは歩いて上るのすら億劫に思えるほどの急な坂だった。
この坂の名前は「団子坂」。江戸川乱歩の小説のファンの方ならこの名前を聞いただけで感激するのだろうけど、今の私にとっては厭わしい坂にしか思えない。
「しょうがない……。自転車を押していくしかないか……」
私は諦め気味にハンドルを前へと押した。
狭い歩道の上を行きかう人を避けながらゆっくりと上る。自転車の重さとかごに入っているかばんの重さを考えると、かなりの運動量だと思う。今の季節だからまだしも、これからやってくる暑くて湿った季節を思うと私はぞっとした。
そんな私のすぐ横をバスが通る。楽に移動する人々を羨ましく見ていた私は一瞬一人の女性と目が合った。
(はて、誰だろう……。それにしてもかわいい子だなぁ……)
なんとなくその女性のことを気になった私だが、それは一瞬で吹き飛んだ。私はある事実に気づいたからである。
「……!バスで通えばいいじゃん!!」
大学の正門の目の前にバス停があったのだ。
空から見ると「く」の字がうつ伏せになっているような坂を上りきると、私は車道に出て、思いっきりペダルを踏んだ。無駄な労力を使った悔しさを発散させるため。私は猛スピードで大学へと向かった。
急いできたのにも関わらず教室は人であふれていた。一目見ただけで二百人くらいは入るであろう教室だが、空いている席は僅かしかない。それもほとんど前の方。
(う〜ん、できれば後ろの方でのんびりと話を聞きたかったなぁ……。しょうがない、前に座るしかないのか)
「あ、よかったら座ります?」
諦めかけていた私に救いの手がおりたのはその時だった。座っていた生徒の一人が、隣の席に置いていた自分の荷物を避けてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます……」
と声の主にお礼を言った私は目を瞠った。
少し色が入っている私とは違ってさらさらの黒のストレートヘアと、とても大きく見開かれた目。いや、目について言えば私は普段目のものすごく細い人と生活しているからオーバーかもしれないが、それでも私よりは大きいことは分かる。外見も気になるが、それ以上に私はこの子とどこかで会ったような気がしてならなかった。
相手も同じことを考えているのだろうか、私たちはほんの数秒の間見つめ合った。そのうち向こうがぷっと笑い出した。
「ごめんなさい。じっと見てしまって。ひょっとしてさっき急な坂道を自転車で上っていませんでした?」
ああそうだった、思い出した。団子坂を上っていたときにバスにいた子だ。
「えー、そうだよ。その自転車押していたの私だよ!一瞬目が合ったよね。誰だろうと思っていたけど、同じ大学の同じ学部だったんだー!」
「私はあなたが自転車押しているのを見て、あの人は大学生だったら同じ大学の人かなと思っていたのですけど、同じ学部だったんですね」
私は彼女の隣に座った。その時の頭の位置を比べて、私より彼女のほうが背が低そうだ。そして互いの自己紹介が始まる。といっても私は名前の件があるので、私は名前以外の情報を聞きだすようにしている。
彼女は山形県米沢市の出身で、大学進学と同時に上京。家はなんと私の近所ということだ。
「私、高校の友達と離れて一人になってしまったので、知り合いの人いなくて心細かったのですけど、近所の人が見つかって嬉しいです」
大学の近くに住みながらも高校時代の友達はみんな進路がバラバラだったため、私も彼女同様一人になっていたから早くに知り合いを作れたのは嬉しいことだった。
大学の教授たちが入って来て、説明していても、私たちは小声で話し合った。家のあたりは猫が多いこととか、大学まで行けるバスが実は近くを走っていたことなど。もっとも重要な部分は一つも聞き逃さずメモを取る。
チャイムがなり教授たちが教室を出て行く。生徒たちもぞろぞろと部屋から出て行く。元からの知り合いか、私たちのように早くも知り合いを見つけたのかどうか、複数人で笑いあいながら教室を出て行く人たちもいた。
「あたしたちも外へ出ようか」
私はカバンを手にとって彼女を見た。彼女はちょっと困った顔をして。
「……そういえば私たち名前を聞いて無かったですよね……」
……ついに来たか。この瞬間が。なるべくなら彼女にとって私はずっと「自転車で坂を上っていた人」でいたかったのだが、そうもいかないだろう。
「……名前……?そう言えば聞いてなかったね……。言おうか?言っちゃおうか?」
お笑い芸人が一発ギャグを出す前のような発言をしてしまった。これ以上くどくどと伸ばすのも不審がられるので、覚悟を決めてはっきりと声に出して私は名前を言った。
「私の名前は「おかち まち」です!」
彼女は驚いて私のほうを見る。声に驚いたのか名前に驚いたのか。おそらく今までのパターンからいって後者だろう。
ところが彼女は私の予想と違う反応を見せた。
「私と名前同じだ!!」
「えっ、何が?」
「名前ですよ名前。私も「まち」って言うんですよ」
この子はなんて嬉しそうな顔をするのだろう。私の名前「おかちまち」全体を見ずに名前の部分の「まち」だけに注目して感動している。
「おかちまち」が「御徒町」であることに気づかれないうちに他の話題を振っておかないと。
「そうなのだ…。じゃああなたは何「まち」さん?」
「椎名です。椎名真智です」
(「椎名町」!!)
今度は私が嬉しそうな顔になった。「椎名町」と言えば、西武池袋線の駅名ではないか。この子もきっと小さいころから名前でからかわれていたのだろう。言うなれば私と同じ悩みを持つ同士である。
「そっか……、苦労したんだね……」
「え、ええ……。一日十二時間も受験勉強しましたから……」
なんか話がかみ合っていないようだけど、これで私は強力な味方を得た。一人で名前についてからかわれるのは嫌だけど彼女と一緒ならば、私の悲しみは半減される。
これが私の大学時代最高の友人である椎名真智こと「しぃちゃん」との出会いであった。
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