その星では、長い間争いが絶えなかった。小国が乱立しては潰しあい、そしてどの国も長く存続する事はできずに滅亡して行った。
科学技術は不思議な発展の仕方を見せた。空を飛ぶ船や牛や馬が曳かなくても走る荷車などが開発されていたが、銃器は開発されなかった。延々と剣と徒手による戦闘を繰り返した。もちろん、槍や弓矢は存在した。そして、何よりも不思議な事に、魔法と魔法使いがその地位を確立していたのだ。社会にとって重要な職業として定着していた。彼等は専ら治癒・回復系の魔法を使い、異界の精霊を召還して使役していた。
その星の暦で言うところのシュトライド暦7898年、小国であったアストリア帝国が世界統一を果たした。その星には一つの比較的小さな大陸しか無く、表面のほとんどは海で覆われていた。即ち、大陸の支配が世界の支配と同義であった。
アストリア帝国軍は、戦争当初から破竹の勢いで勝ち進み、次々に乱立する小国を打ち破り支配下に置いた。しかし、戦争には金がかかる。戦費調達のために新税の発布と増税が繰り返され、民衆は疲弊していた。彼等民衆にとって唯一の救いは、戦争が軍人同士で行われる事だった。つまり、志願した兵士だけで戦争が行なわれていたのだ。
民衆の疲弊は、統一を果たした頃には頂点に達していた。不満は募り、抑圧される鬱憤の吐き出し口を探していた。帝国は統一後も軍事優先の政策を取り、それは不満に拍車をかけた。身分制度を頑ななまでに守るために、強圧的な政治運営を行なっていた。
そして、シュトライド暦7910年に全国的規模で反乱軍が結成された。
アストリア帝国首都アドミスには、想像を絶するほどに豪華な宮廷があった。皇帝エムレア四世は暴君として知られていた。何人もの家臣が彼の理不尽な怒りによって宮殿を追われ、殺されていた。民衆をどのように取り扱っていたかは言うまでも無い。
それでも、彼は妻を愛していた。愛する妻に男が近付かないように心を配り、溢れるほどの愛で彼女を守った。しかし、皇帝が待ち望む男子は産まれなかった。彼等が授かったのは、たった一人の王女だけであった。彼等は娘にティアと名付けた。そして、うんざりするほど過保護に育てた。
ティアは母親に似て美しかった。そして、誰に似たのか聡明で、身分に拠る差別や民衆を苦しめる事を嫌った。彼女は成長するに従い、父親の政治姿勢に疑問を持つようになった。常に読書をし、剣の稽古をした。そんな彼女を見て母親は憂慮した。自分が皇帝を愛し、そして愛されたように、彼女にも誰かを愛して欲しいと思っていた。世界で最も美しい娘、愛らしく聡明なティアであれば、相手を選ぶのに不自由はしないだろうとも思った。実際に、彼女を見た者は誰もが恋に落ちた。だが、皇帝を恐れて誰も言い寄ろうとはしなかった。
そこで、后は自ら人選に乗り出した。家格に拘らず、王侯貴族の独身男性の全てと面接した。容姿、剣の腕を中心に戦闘技術、学識、人柄を念入りに調査し、候補者を絞り込んだ。そして、長い時間を掛けて三人の恋人候補を選定した。
后は皇帝にこう言った。
「ティアにも恋をさせなくてはなりません。私があなたを命懸けで愛し、あなたが私を命懸けで愛したように、あの子にも誰かを命懸けで愛して欲しいのです。そのために私は充分な時間を掛けて候補者を選びました。その三人があの子に近付いて何を言い何をしようと、黙って認めて欲しいのです。このままでは誰も愛する事が無いまま人生を終えてしまいます。それではあまりにも可哀想過ぎます」
皇帝は長い間考えていたが、愛する妻の熱意に押されそれを了承した。彼は暴君ではあったが、自分の決めた事は絶対に守るという信念の持ち主であった。そうした傾向が彼女にとって良い事だったのかどうか、それは誰にも分からない。
一番目の候補者は、皇帝の側近の息子だった。十八歳のティアに対し、男は二十七歳だった。厳しい選抜過程を経た割には、身分や地位に拘り父親の威光を笠に着る傾向が強かった。皇帝の前で二人を引き合わせ、その後は二人で自由に宮殿を歩きながら話をさせた。
ところが、男が帰った後で彼女は母親にこう言った。
「あの男をなぜお呼びになったのです? あの男は私が自分に好意を持つのが当然だと言う態度で、自分の事ばかり喋っていたわ。私の話など聞こうともしなかった。あのような男は近寄られるだけで虫唾が走ります。今後宮殿にも入れないで頂きたいわ」
可哀想に、その男は二度と宮殿に上がる事はできなかった。
二番目の候補者は、建国以来皇帝に仕えている大貴族の息子だった。大貴族であっても側近にはなれず、彼の父親は側近たちの周りをうろうろと儲け話を探して飛び回っていた。良い男ではあったが、軍事関係については疎かった。更に言えば、彼女の好む文学についても無知であった。興味の幅が狭く、腕力にも欠けていた。
それでも彼等は何回かデートを重ねた。手紙を遣り取りし、何回か宮殿の中で会っていた。母親は安堵した。しかし、それは早かった。
彼女はある日、こう言った。
「あの方はご自分から話をなさろうとしないから疲れるわ。話題を探してもいい加減な返事ばかりで、面白くありません。それに、いつもおどおどしていて、私を恐れているみたい。そんなに怖いのなら会いに来なければ良いのよ。手紙だってつまらない内容しか書いていないし、もうお付き合いしたくありませんわ」
母親は頭を抱えた。三人の中で一番避けたいと考えた人物が残っていたのだ。家柄も悪く、貧しい貴族の息子であったため、将来の皇帝候補としては不適格では無いかと考えたのだ。
なぜそのような男が最後まで候補に残ったのか。
彼は帝国軍の出世頭だった。天才とも言える頭脳を持ち、剣や格闘技術は全軍で一番だった。士官学校を卒業して任官するとすぐにその頭角を現し、たった数年で将軍職に名を連ねるようになった。二十一歳と言う若さで将軍職に就いたのは彼が初めてであった。無口なくせに政治や文学、様々な風俗に通じていた。それに、軍人には珍しく温厚で優しい人柄であった。
つまり、彼はティアの母親が出した条件では常にトップだったのだ。そのため、外す事もできず、さりとて家柄と貧しさで積極的に推す事もできずにいたのだ。できれば皇帝のそばにいる貴族の子弟にして欲しいと願っていた。
ちなみに、最後に残った候補者の名前は、ツーク・マーリンと言う。そして、彼等が出会ったのは、帝国が世界制覇を成し遂げた7898年の春だった。
皇帝の前で引き合わされたとき、彼は何も知らされていなかった。彼は訓練計画の策定と人員配置に悩み、幾日も宮殿内の執務室で書類と格闘していたのだ。
ツークは急な呼び出しで慌てた。しかし、服を取りに屋敷に戻る事などできるわけが無かったので、簡単に身支度を整えるだけに済ませた。髪の毛を梳かし、髭を剃る程度しかできなかった。軍服はよれよれでマントだけが浮いて見えた。目は徹夜続きで充血して、食事を満足にしていないせいで顔色は悪かった。
皇帝はツークを気に入って、あれこれと用事を言いつけていた。将軍たちはそんな彼を妬み、重要な会議や主要部署から遠ざけた。それでも彼は熱心に仕事をした。そうした彼を知っているからか、横暴な君主は顔をしかめたくなるような彼の身なりには何も言わなかった。ただ笑ってこう言っただけだった。
「ツーク、また徹夜か。ご苦労な事だ」
「はあ、皇帝陛下。これが私の仕事ですので」
彼は一見すると横柄な態度を取り続けた。ぶっきらぼうで、無愛想だった。皇帝の逆鱗に触れるのではないかと周囲は恐れたが、彼も皇帝も気にしていなかった。皇帝は彼の才能を買っていたのだ。
さて、二人が引き合わされたとき、ティアはツークを見てくすくすと笑い出した。
「姫、どうかなさいましたか?」
彼の不躾な問いかけに笑いながら答えた。
「どうしてそんなにみすぼらしい格好をなさっているの? 私と会う事が分かっているのだから、身奇麗にしてくるのが普通ではなくて?」
「つい先ほどまで執務室に篭っておりましたので。ご不快になられたのであれば、下がります。では、失礼」
彼は恭しくお辞儀をしてから、呆気に取られる皇帝一家を尻目に応接室から出て行こうとした。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい! 何も不快だとは言っていないわ! もう、待ちなさいよっ」
彼女はそう言って慌てて彼を追った。彼は知らぬ顔をしてどんどん歩き、執務室へ向かった。何度もあくびをし、何度も目を擦った。
途中でようやく姫は追いついてきた。
「待ちなさいっ! 命令よっ! もうっ、レディを置いていくなんて、礼儀知らずね」
「・・・これは失礼。気がつかなかったもので」
またあくびをし、目を擦った。
「どうしたの? 眠いの?」
「はぁ、四日ほど眠っていないものですから」
「眠れないの? ご病気?」
「いえ、仕事が溜まっていまして」
「そんなにお仕事は大変なの?」
「まあ、そこそこ、ですね。何しろ統一したばかりですので、今後の各軍の人員配置や基地の再編には時間が掛かります」
「誰も手伝ってくれないの?」
「まあ、それぞれ大変重要な仕事を抱えていますので」
彼等は歩きながらそう話した。姫は時折彼のほうから不思議な音を聞いた。
「あら、何の音でしょう? ぐぅぅって、聞こえるわ」
彼は顔を赤くした。そんな彼を見て、彼女の心臓は高鳴った。
「聞かれてしまいましたか、お恥ずかしい。食事もしていませんので」
「あら、それは大変! こっちよ!」
彼女は彼の手を引いて歩き始めた。彼女の顔は熱く火照り、心臓は大きく音を鳴らした。
彼が連れて行かれた先は、皇帝一家の台所であった。
「ちょっと! この方に何か食べさせてあげて!」
キッチンにいたコックたちはニコニコして彼に食事を出した。彼女は何度も味見や料理の勉強と称してつまみ食いに来ていた。そのため、彼等は顔見知りであり仲が良かった。それに、恋人候補の話は知っていたのだ。今までの候補者のときには、つまみ食いをしながら愚痴るティアが頻繁に見られた。
彼はゆっくりとキッチンに用意された食事を摂った。彼の隣に用意された椅子に座って見ている彼女がいらつくほどに、ゆっくりと食べた。
「ねぇ、お腹が空いているときって、もっとガツガツ食べるんじゃないの?」
「そうかも知れませんね。でも、空腹のときほどゆっくり食べないと、かえって身体には良くないのですよ。いきなりたくさんの食べ物を詰め込まれたら、胃がビックリしてしまいます」
彼女はまたクスクスと笑い、こう言った。
「本当に面白い人ね。あなたみたいな男性は初めてだわ。・・・そうだ、お仕事を手伝うわよ」
「折角の御言葉ですが、ご辞退申し上げます」
「何でよ!」
「私の仕事ですので」
彼女はそう答えた彼を見て、また笑った。彼は笑う彼女を見て、苦笑した。
ティアは、恋に落ちた。
「じゃ、じゃあ、あなたの邪魔はしないようにするから、見ていても良い?」
「・・・はぁ、お望みと有らば」
そして彼等はツークの執務室に向かった。
彼の執務室は宮殿の一番北側にあった。訓練場や兵舎に最も近く、そして最も環境の良くない場所である。日光は少しも入らず、春だというのに冷え冷えとしていた。
彼女はそんな彼の執務室に入って、目を丸くした。
「何よ、これ! 書類だらけじゃない!」
机や応接セットの上にまで書類が山積になっていた。彼の机の正面には大きな全国地図が貼ってあった。山や川などの地形や主要幹線道路まで詳細に書いてある地図だった。そこにいくつも印がつけられていた。机の後ろには刀架けがあり、何本かの剣が置かれていた。
「では、遠慮なく執務に戻らせて頂きます」
「どうぞ」
そして、彼女は目を丸くした。彼の書類を捌くスピードに驚いた。あっと言う間に一つの山を読み終わり、あれこれと書き込み、決済印を押していた。時折、正面の地図を睨んではメモ用紙に何かを書き込んでいた。
あっと言う間に日が暮れた。彼女は呆然と、いや、陶然と彼を見ていた。
「マーリン将軍閣下! 皇女様はこちらにおいででしょうか! 皇帝陛下が姫君をお探しです!」
ドアがノックされ、当番兵が外から叫んだ。
「当番兵! 姫君はこちらにおいでだ。お部屋までお送りしろ、粗相をするなよ」
「はっ」
彼女は嫌だと思った。もっと見ていたいと、そう思った。しかし、立場がそれを許さなかった。彼女はこう言って去った。
「明日も来るから!」
それに対する彼の返事はこうだ。
「明日は休みます。もうすぐ終わりますので」
「じゃあ、明後日!」
彼女の残り香に浸り、彼は不思議な溜め息をついた。疲れているような、嬉しいような、悲しいような、そんな溜め息だった。
彼等は急速にその心を近づけて行った。
ティアはツークの執務室に毎日のように押しかけ、様々な話を聞きたがった。戦場での話し、戦地で見た民衆の生活の話、文学の話、音楽の話、その他諸々。それに、彼を相手に剣の稽古をした。
最初に稽古をしようとして、彼女はこう言った。
「ねぇ、あなたの剣は片刃なのね。珍しいわ」
「まあ、そうですね。我が家に古くから伝わっている剣です。刃毀れもしないし、折れたり曲がったりもしないんですよ。拭くだけで研ぐ必要も無いんです」
彼はそう言って短剣と長剣を見せた。
「貸して」
「どうぞ」
訓練場の一角で、彼女は彼の剣を試した。
「何よ、これ! ・・・まともに使えないわ」
「まあ、そうですね。筋肉の使い方は独特ですので」
彼はティアから剣を受け取ると、腰に差してから静かに抜いた。左頬に鍔が来るように構えると、ゆっくりと振り始めた。
ふわりふわりと彼の身体と剣が揺らめいているように見えた。彼が誰よりも強い事は彼女も知っていたが、これほどとは思わなかった。警護の兵士の誰よりも強くなっていた彼女には、彼の強さが理解できた。
(私では勝てないわ・・・。世界一の剣士かも知れないわね・・・)
彼女はそう思った。
彼女はいつでも彼を想い、彼と会いたがった。いつでも話をして、いつでも剣の稽古をしたいと願った。ずっと一緒にいたいと、そう思った。
しかし、彼がどう思っているのか分からなかった。自分が彼を恋しいと思うように、自分に恋して欲しいと願うだけだった。
半年が経った頃、ティアは思い切って彼に尋ねた。
「あの、私をどう思う?」
「は?」
惚けた返事に彼女は激怒した。
「どう思っているのよ! 私はこんなにドキドキして苦しいのに、いつも冷静な顔をして! いつもあなたを想っているのに! 私を好きになりなさいよっ! こんなに好きなのにっ!」
感情が高まりすぎて泣き出してしまった。彼は執務室で良かったと思った。なぜなら、姫を泣かせた事が知られれば、当然のように斬首だからだ。もっとも、最大の理由はこれだ。
「あの、そのですね、えっと、す、好きですよ。・・・姫の事しか考えられなくなっているんです。・・・こっ、恋人に、な、なりたいと、お、思うくらい、です」
「じゃあ、もう一度言って?」
女は怖い。一瞬で嘘泣きに転じている。
「う・・・、あの、その、それが、その・・・」
「うぇぇぇーん、好きじゃないのねぇ、片思いだったなんてぇぇ」
「あうあう・・・、言います、言います! あの・・・、大好きです、姫」
にんまりと笑う彼女がいた。
「姫? ティアよ。ティアって呼びなさい」
「あう・・・、はい、ティア姫」
「殴るわよ。・・・ティアよ。ティア、愛しているよ。・・・ほら、言って」
困りきった彼の顔を見て彼女は勝ち誇った。彼を手に入れたと信じた。
それは彼も同じだったのだが。
「むぅ・・・。ティ、ティア、あ、愛しているよ」
「まあ、良いでしょう。もっと素直になりなさい。もう恋人同士なんだからね」
「あうぅ・・・、承知しました」
パコーンという良い音がした。頭を押さえる彼に、彼女は言い放った。
「敬語は使わないのっ。恋人に敬語を使う必要は無いでしょっ」
更に困った彼に抱きついて、彼女は囁いた。
「好きよ、大好き、愛しているわ」
「・・・ティア、好きだよ。僕も大好きだ、愛しているよ、ティア」
彼等は何度も囁き合って、思いが通じた事を祝った。
そして一年が経った頃、彼等は思いが高じてその全てをお互いに手渡した。
彼は優しく彼女を包み、その一途な愛情で満たした。何度も彼女の中に思いを吐き出し、何者にも邪魔されない関係になりたいと願った。
彼女はそんな彼の愛情に包まれ、初めての苦痛や屈辱は一切感じなかった。まるで娼婦のように乱れ、彼の愛情をその胎内に欲しがった。彼自身を受け入れながら、彼女は愛の言葉を叫んだ。
彼等の逢瀬は、主にツークの屋敷であった。家柄の割に広大な敷地と庭を持つその屋敷は、宮殿を出て首都の街を抜けたところにあった。彼女はいつも宮殿の召使に変装して彼の許に走った。二人は毎日のように抱き合い、体液を交換し、愛の告白を繰り返した。そして彼女は興味の対象である政治について、そして剣と格闘技について彼から教わって身につけていった。
ベッドの中でも、執務室でも、宮殿の繁みの中でも、そして彼女の私室でも、彼等は交わった。二人を止められる者はいなかった。
彼女は信じた。生れ落ちたときに失った半身が彼であると。片方しかない翼のもう片方が彼であると。彼と一つになっていればどこへでも行けると。そして、自分たちは幸福であると。
彼も信じた。彼女だけが自分の全てだと。ティアだけが自分を幸福にさせるのだと。
彼女は徐々に危険思想に近付いていった。
彼の屋敷の往復で感じた民衆の不満と憤りを何とかしたいと考えていた。そしてある日から、街の書店で本を買い漁るようになった。帝国政府の思想統制を掻い潜るように、反乱軍構想や全土の解放を鼓舞する書物が売られていた。彼女は毎日のようにそうした書物を読み、毒されていった。
父である皇帝の政策には、以前から同意しかねる部分があった。彼女はその解決策として、帝国を解体し民衆が実権を握る事を夢想した。さすがに父親の前ではその発言はしなかったが、愛する彼の前ではそれを平気で話した。
「・・・解体するのは良いけど、軍事力はどうするんだ? 散発的に反乱を起こしてもすぐに鎮圧されるぞ。いくら統一して兵士の士気が落ちているとは言え、あの過酷な戦争を生き残った歴戦の勇士たちを相手にするんだ。良く考えろ」
彼の言葉は、唆しているようにしか彼女の耳には入らなかった。つまり、全国的な解放軍を組織して一斉に蜂起すれば良いのだと。主要拠点を組織的に攻略して、首都を奪えばよいのだと。帝国に戦争を仕掛ければよいのだと。
そして、二人がいればその目論見は成就すると考えた。
そんなある日、彼女に書店の老主人が話しかけた。
「お嬢さん、いつもそうした非合法の本ばかりをお読みになるが、面白いかい? 女性にはつまらないだろう? それに、警察に捕まるよ。もうお止しなさい」
「止めるだなんて、とんでもないわ。たとえ捕まっても読み続けるつもりよ」
主人は小さな眼鏡の奥から彼女を見つめ、そしてこう言った。
「じゃあ、少し話をしようか。・・・こちらへどうぞ」
彼女は書店の奥に連れて行かれた。そこには老若男女が集い、反乱軍構想を熱く語っていた。彼女はその熱気に侵され、自らの構想を熱く語った。
その集団のリーダー格は、チョスと言う若者だった。小柄でエキゾチックな顔立ちで、人目を引いた。彼のアジテーションに議論は熱く加速した。誰もが酔ったように帝国政府をなじり、政策の欠点を語り、帝国軍を打ち破る事を夢想した。
集団はティアが参加するようになってから大きくなり始めた。全国各地の同志との連絡網もできあがり、武器の収集も順調に進んだ。全てティアの構想から発展した。彼女は自分が皇女である事を隠していたが、ふとした事からそれが露見した。それまでの彼女の功績とその美貌で、集団は彼女を自らのナンバー2に選んだ。それを強く推したのはチョスだったが。
主要メンバーは、チョス、ティア、ナビ、リリー、マット、アミンの若者たちだ。ナビとリリー、マットとアミンは恋人同士で、仲が良く幸せそうだった。チョスはティアを自分の相手に相応しいと思い込み、いつか手に入れると心に誓った。ティアはツークを引き入れて、彼等のように幸福に過ごすべきだと考えた。
「・・・僕はその集会には行かない」
「何でよ?」
「僕は軍人だ。非合法の集会に参加することはできないし、将軍としての立場を守らなくてはならないんだ」
ティアに誘われたツークは、そう言って断った。それからも彼女は彼を誘い続けたが、彼の返事は変わらなかった。
意見の食い違いが大きくなっていたが、二人はそれでも愛し合っていた。どちらも一つになることを願い、愛の言葉を交わす日課は止めなかった。依然として彼は彼女の全てであり、彼女は彼の全てであった。
そして、一年半が過ぎ、彼は正式な夫婦になる事を考え始めた。
(どうしても彼女を手放したくない。そのためには皇帝陛下に結婚を認めてもらうのが一番だろう)
しかし、そのとき反乱軍の結成への布石はいくつも打たれ、メンバーが地下に潜るだけにまでなっていた。当然、彼女は彼等と行動を共にしなければいけなかった。
「ツーク、解放軍に来て。これが最後のお願いよ」
「・・・そうか」
ティアがそう言い出したとき、彼は全てを理解した。彼女の心が自分から離れたと。皇族でありながら帝国に反旗を翻す夢に囚われたのだと。そして、他の男に惹かれ、愛されていると。
後半は思い違いであったが。
「じゃあ、すぐに出発するから、用意して」
「・・・僕は行かない」
「何で?」
「・・・年老いた母と、古くからの召使たちを守る義務がある。僕がここでそれを放棄すれば、彼等は生活の手段を失うばかりか処刑される。それには耐えられないよ」
彼女は彼が考えたように、夢に囚われていた。民衆の民衆による民衆のための政治。そんなものはどの世界にも有り得ないのに、民衆が権力を握れば世界は平和になると考えていた。それを実現するために全てを賭けるのだとまで考えていたのだ。
「・・・じゃあ、一人で行くわ。・・・元気でね」
「ティア、待て。・・・嫌でなければ、これを持って行け」
彼が差し出したのは、家宝の短剣だった。
「え? これ、あなたの大事な物じゃないの。もらうわけには行かないわ」
「・・・嫌か?」
「ううん、そんなわけないわよ。嬉しくて、悲しくて、寂しくて・・・」
咽ぶ彼女の肩に手を置き、彼はポツリと言った。
「・・・形見分け、だな」
「え?」
彼女の問い掛けに、彼は何でもないとしか答えなかった。
不可解な顔をしたまま、彼女は姿を消した。
ティアが行方不明になった事はすぐに皇帝の耳に入った。当然の事ではある。
「ツーク! 貴様がついておって、このざまは何だっ! 貴様の目は節穴かっ、ティアが何を考えているのかも分からなかったのかっ! そのような節穴な目であれば不要であろうっ! 衛兵! こやつの目を抉れっ! 貴様は少佐に降格だっ、辺境の守備隊でも指揮しておれっ!」
皇帝は激怒していた。衛兵はすぐに動いたが、躊躇した。全軍一般将兵の憧れであるマーリン将軍の目を抉るなど、その人柄と能力に心酔していた彼等には拷問とも呼べる厳しさであった。
だが、ツークは毅然として衛兵たちに言った。
「皇帝陛下のご命令である。・・・やれ」
そして、衛兵たちは泣きながら命令を完遂した。
ツークは傷が癒えるまで休む事も許されず、すぐに任地に送られた。大陸の最北端の町イェールに近い駐屯地だった。それでも、殺されずに済んだのだ。
悲しむべき事に、彼が心配した者たちは、皇帝の怒りを買って目を抉られ流刑同然の処遇となった彼を悲しみ、自決して果ててしまった。年老いた母はもちろん、召使たちまで一人残らず。
彼が目を抉られて宮殿を下がろうとしていたとき、宮殿付きの魔法使いが声を掛けてきた。どれだけ長く生きているのか誰も知らないくらいの老婆だ。
「ひゃひゃ、お待ち、ツークよ」
「・・・おばば殿か。何用か」
おばばは呪文を唱えた。
「シュリヒテ、シュライヒ、・・・シュラ」
治癒魔法であった。彼は丁寧にこう言った。
「ご好意、痛み入る。おかげで出血も痛みも無くなったようです。御礼の言葉もありません。・・・私はすぐに任地に向かわねばなりません。二度とお会いする事も無いでしょう。では、お元気で」
老婆は泣きながら彼を見送った。彼が見えなくなってから、呟いた。
「悲しいのう、愛し合う二人が引き裂かれるのは・・・」
彼は目を失っても、感覚は鋭かった。周囲の気配を察知して、まるで見えているかのように動いた。それでも、相手が誰かは全く分からなかった。
何日もかかって任地であるイェールに着いた。その守備隊は柄が悪く、腕に自信が有る人間の集まりではあったが、軍のはみ出し者の集団でもあった。
「おうおう、隊長さんよぉ、俺たちぁ、あんたの指図なんて聞く気はねぇからな」
リーダー格のパンサ・コール大尉がそう言って笑った。周囲の連中も同じ事を言って笑った。
「腕には自信が有るのか。それは結構な事だ。最初に一つだけ言っておく。これは命令だ。背いた者は私が斬る。・・・今後諸君が対戦するのは解放軍と称した民衆になる。彼等は戦争が終わればただの農民や商人に戻る。殺すな。怪我をさせても、絶対に殺すなよ。諸君同様に国の柱なのだ。良いな」
「何でぇ、何でぇ、いきなり難しい事を言いやがって。良いぜ、勝負してあんたが勝ったら聞いてやらぁ。俺様に勝てる奴ぁ、いねえんだ。ほら、来いよ」
パンサは剣を抜いた。ツークは柄に左手を置き、鯉口を切った。
カチン。その音がしたとき、守備隊の面々は目を疑った。
「うぇぇっ、な、何でぇ! べ、ベルトが・・・」
「見ろよ、ボタンまで斬っているぜ! 見えなかったじゃねぇか!」
パンサはずり落ちるズボンを右手で押さえ、はだける上着を右手で押さえた。それから少し考えた顔をして、押さえるのも止めてズボンを脱いだ。
「参りました。少佐殿! パンサ・コール大尉であります! ご無礼、お許し下さい!」
恥ずかしい格好で敬礼して叫ぶリーダーを見て、いや、ツークの腕を見て、二十人ほどしかいない守備隊全員がそれに倣った。
「ツークと呼んでくれ。今日から世話になる。よろしく頼む」
「はっ! ・・・少佐、いえ、ツーク。なぜ目を閉じていらっしゃる? おや・・・、ま、まさか・・・」
「ああ、目玉が無いんだよ」
後ろからざわざわと声がした。
「お、おい、ツーク・マーリン少佐って言ったよな?」
「ああ、そう聞いたぞ」
「あの全軍一の剣士と名高い、あのマーリン将軍じゃねぇか?」
「そうだ、ツーク・マーリン将軍閣下・・・。皇帝陛下も人を見る目が無いよな」
「ああ、役立たずの将軍ばっかりでよ。俺たちを石ころみたいに扱いやがる」
「マーリン将軍は違うって話だったぜぇ・・・」
そして、歓声が沸き起こった。伝説とも言うべき彼等の英雄が、直属の上司になったのだから。
「ところでツーク。何をやらかしたんです?」
「ティア姫が反乱軍に参加するのを止められなかった」
歓声が一瞬で収まった。
「な、何ですってぇ! 姫様が、反乱軍にっ?」
「ああ。無政府思想に囚われ、終末思想と英雄幻想に酔っている。恐らく、もう暫くしたら全国規模で攻勢を掛けてくる。この町も例外では無いな。奴らは首謀者と末端が直結する組織形態のはずだ。末端は殺すな。さっき言った通りにな。首謀者を逮捕すれば終わる」
「はっ、承知しました!」
そんな遣り取りがあって、イェール守備隊はツークの直衛部隊を名乗るようになった。
彼がイェールに着任して数日が過ぎた。
「太陽が眩しいな。・・・光を感じる事などできないはずなのに、面白い事だ」
「ツーク、痛みますか?」
「ああ、少し」
パンサは少し考えてから、数人の部下を連れて町に出かけた。
彼等は帰ってきたときには何着もの軍服とマント、それに目を覆い隠すようなマスクを持っていた。全て黒だった。
「ツーク、これに着替えてください。このマスクも」
彼は言われるまま着替えた。そして皆の前に出ると、感嘆が部屋に満ちた。
「おいおい、ツークさんは似合いすぎだぜ」
「格好良いですねぇ。・・・んー、黒仮面ってとこか」
「おお、良いね、それ。黒仮面殿だ」
あっと言う間にニックネームが決まってしまった。もちろん、上司であるから面と向かって呼ぶ事はしなかったが。
ツークは自分の姿を見る事ができないので、どうでも良いことだった。ただ、マスクをしていると目の痛みが和らぐような気がしていたので、それを好んで着けた。
そして、ツークが予言したように、7910年11月に反乱軍が一斉に蜂起した。
もちろん、イェールの町でも反乱が起きた。
「砦を固めろ。多勢に無勢だ。時を待て」
「はっ」
ツークは一旦篭城作戦を取った。そして、その間に首謀者の陣を確認させた。
「正面か。・・・他には目もくれるな。夜明け前に奇襲する」
そして、反乱軍は壊滅した。首謀者がいなくなると、残りは烏合の衆だった。ツークの呼びかけにほとんど全員が応じた。
「皆さん! もう戦いは終わりです! 家に戻り、家族と過ごしてください! 我々は皆さんと戦う意思はありません! 武器を捨て、家族の許へ帰るのです!」
民衆はどうしてよいか分からず、家に残した妻や子供、夫や両親を想い、帰っていった。
イェールを含めて数箇所は解放軍が敗退した。しかし、全体の戦況としては解放軍有利に進んでいた。チョスはまた一歩ティアに近づけたと思ってペニスを硬くした。
「帝国軍は砦からほとんど動いていないわ。進軍していないの。もっとも、私たちは街に紛れ込んでいるからどうして良いのか分からないのよ。このまま残っている砦を攻略しましょう。コースは、ここと、ここ。それから、こっち。本隊は首都攻略を優先するわ。あのマーリン将軍が指揮を取る前に、終わらせるのよ」
ティアがそう言った。チョスが不満そうに鼻を鳴らした。
「ふん、随分と奴の肩を持つじゃないか。マーリン将軍など蹴散らしてやる」
「彼は天才よ。彼に勝てる将軍も、剣士もこの世界には存在しないわ。私の恋人だもの、それくらい分かるわよ」
チョスはそれを聞いて腹を立てた。この美しい女は自分のものだと。なぜ自分のように剣も強く将来の支配者となるべき人物になびかないのかと。
絶対にこの手で殺してやる。チョスはツークを八つ裂きにする幻想に酔い、熱く硬い分身を扱いた。
彼が驕り高ぶるのも無理は無かったかも知れない。反乱軍の中で彼に勝てる人間はいなかったのだ。徒手や槍と言う限定で言えば、格闘技の天才ナビ、槍の名手マットには敵わなかったが。ちなみに、リリーとアミンは二人とも魔法使いである。特に精霊召還を得意とし、彼女たちが呼び出す精霊は町や砦を破壊できるほどに強かった。
あっと言う間に各地の守備隊は投降し、ほとんどの将軍が戦死した。そんな中、解放軍の間で噂が流れた。
「黒仮面を見ると、壊滅する」
埒も無い噂である。それでも、ティアはその噂と戦歴を確認し始めた。
「こいつ、強いわ。辺境の守備隊を率いて私たちの攻略地を読むように現れている。階級は少佐、か・・・。彼ではないのね。こんな人物が帝国軍にいたなんて、予想外だわ」
彼女はそう言って黒仮面の部隊から先に潰すべきかと考えた。
そして、彼女の耳に悲報が飛び込んできた。
「ティアさん、マーリン将軍は失脚したそうですよ」
「何ですって?」
「ええと、何でもティアさんがこっちに来るのを止めなかったからだって」
「で、どうなったの? 殺されたの?」
「殺されたと言う話と、降格されて流刑になったと言う話と両方飛んでいます。一般将兵がそう言って嘆いていましたから、失脚したのは間違いないですね」
彼女は泣いた。自分のせいで彼が責めを負った事を思って泣いた。気性の荒い父親だから、間違いなく殺されているだろうと思って泣いた。
「ティア・・・。聞いたよ、残念な事だ」
チョスは優しくそう言って、彼女を慰めた。彼が肩に手を回そうとしたら、跳ね除けられた。
「止めて。私の身体に触れて良いのはツークだけよ。触らないで」
チョスは怒った。怒りに任せて彼女を押し倒し、服に手をかけて破いた。
しかし、彼は冷や汗を流してその鬼畜な行為を諦めざるを得なかった。彼女の右手には、彼の形見となった短剣が握られていた。冷たい目でチョスを見て、鋭い刃を彼に向けた。
「う・・・、ご、ごめん・・・。悪かった、ど、どうかしていたんだ。ゆ、許してくれ、お願いだ。この通りだ」
チョスは許してもらえた。彼は自室でまた怒り狂った。自分の手で殺してやれなかった憤りと、行き場を失った性欲が彼の怒りに油を注いだ。
次の戦いから、チョスはそれまで以上に帝国軍を厳しく攻めるようになった。
解放軍の幹部たちは、飛行艇から黒仮面の戦いぶりを見る事にした。
二十人ほどしかいない。屋根の無い移動用車両に乗っているのは黒仮面ともう一人しかいなかった。残りは歩兵である。彼等は上から見られているのを承知しているのか、森に入って姿をくらまし、宿営した。
そして、真夜中に彼等は動いた。
「ティア! 黒仮面が動いたぞ!」
飛行艇の制御室でナビが叫んだ。眠りについていた人間が起きてきた。
「んだよぉ、そんなわけないだろぉ・・・。誰が真夜中に攻撃をするかよぉ」
「マット! 下を見ろ! 味方の陣を見ろ!」
「え・・・? あ、あれ、指揮官テント・・・。も、燃えている・・・」
いつものごとく奇襲をかけ、首謀者の殺害に成功すると姿を消した。暗闇に紛れ、どこかに去った。夜が明けても、解放軍の兵士たちは混乱したままだった。徐々に家に帰り始めた。
「ちっ、意気地なしどもめ! 降ろしてくれ! 黒仮面とやらを追わせるんだ!」
「チョス、無駄だ。彼等は移動用車両も持っていないんだぞ。どうやっても追いつけないさ。今回は諦めろ」
ナビがそう言って諭した。
蜂起してから一年近くが過ぎた。
解放軍本隊はいくつもの城や砦を破壊し、多くの帝国軍兵士を殺した。地方の各部隊は砦を攻略すると普段の生活に戻って行った。帝国軍の兵士の士気は回復できないほどに下がり、脱走が相次いだ。いつしか将軍も一人しか残っていなかった。黒仮面が抵抗してはいたが、焼け石に水だった。
「陛下、奴等は首都に近付いております。私は郊外の陣で彼等を迎え撃ちます」
「サイー、今までよく仕えてくれた。礼を言う」
「陛下・・・、何を仰せで。私こそ目をかけて頂いたご恩、忘れてはおりませぬ」
「・・・ツークを呼び戻すか。あ奴しかあの忌々しい反乱軍に勝ち続けている男はいないからな」
「御意。・・・では、すぐに首都防衛に就かせます」
「頼む」
最後の将軍と皇帝は、寂しそうな顔をして別れた。
皇帝は隣に座る妻にこう言った。
「もうすぐか・・・。ティアに会いたかったが・・・」
「・・・ええ、ツークと幸せに暮らすあの子が、見たかったですわ・・・」
泣き崩れる妻に、皇帝は優しく声を掛けた。
「今夜も夢で会えるであろう。なあ、后よ」
「は、はい、陛下・・・」
二人は抱き合って泣いた。それを見ていた重臣や衛兵たちも泣いた。
パンサが黒仮面に報告した。
「ツーク、無電連絡。・・・イェール小隊に宮殿防衛に専念する事を命ず、帝国軍総司令官サイー・ルドン大将。・・・どうします?」
「命令だ。どうしようもないな。まあ、もう終わりだから、気楽に行くさ。宮殿に入ればベッドでも眠れるし」
全員が笑った。中の一人が声を掛けてきた。
「でも、ツークさん。帝国がぶっ潰れて、そいでどうなるんすかね。俺等どうすればいいっすか?」
「簡単な事さ。僕等の戦いが最後になって、その後は無政府状態だ。つまり、何がなんだか分からないまま争いを続けるのさ。昔みたいに誰が強いかを延々と殺し合いで決めていくんだ。だから僕等は好きなように動くのさ。田舎に行って誰かを嫁にもらって農業をするも良し、強さを競うも良し、商売を始めるのも良しだ」
「ツークさんは、どうするんすか? 王様にならないんすか?」
「その気は無いよ。どこか暖かい田舎でのんびりと暮らすさ。釣りでもしながらね」
彼はそう言った。本心ではなかったが。
「じゃあ、俺はツークの隣で釣りをしよう」
パンサがそう言うと、皆が同じ事を言い出した。
「なんでぇなんでぇ、今と変わんねぇじゃんかよぉ。ちったぁ自分で考えろい」
パンサの文句に、皆は笑った。ツークも笑った。
ツークは考えていた。集めた情報と解放軍本隊の戦いぶりのデータから。
「リーダーはこの男、か。まるでティアに見せ付けるような戦い方だ。残忍な性格のようだな。ティアは控えめな戦い方だ。躊躇しているようだな。まあ、もっともか。二人の男はどっちもどっちか、コメントしようが無いな。無視しても構わないだろう。問題は、女二人だ。召還した精霊が厄介だな。・・・よくもって数時間、か」
彼は、精霊たちが宮殿を崩壊させ、その隙に皇帝と重臣を逮捕するだろうと考えた。彼等は見せしめに広場で殺されるだろう。そして、王族であるティアは解放軍の指導者であるチョスの奴隷になるだろう。帝国解体の英雄でも、復古の芽は摘まなくてはならない。それは誰が考えても同じ事だ。誰もが恋に落ちるほどのティアなら、殺さずに奴隷にしようと考えるだろう。周囲が殺そうとしても、恋する男ならそれを止めるだろうと考えた。
そして、一年間も生活を共にした彼等に肉体関係が無いはずは無いと思った。きっかけはレイプであろうが何であろうが、あれだけ男の肌に馴染んだ女がなびかないはずが無い。もう既に恋人としての地位を確立しただろうとも考えた。
(それならそれで良い。ティアが幸せだと感じるのなら、満足しているのなら、それで良い。ツーク・マーリンは死んだんだよ)
彼等イェール小隊は数日後に宮殿に入った。戦況は落ち着いていた。首都にいる民衆はほとんどが非戦闘員で、逃げ遅れたと言っても良いくらいだった。
ツークは宮殿に入るとすぐに謁見した。
「ツーク・マーリン、お召しにより参上しました」
「おお、ツーク。ご苦労だな。・・・息災のようで何よりだ」
「勿体無いお言葉で御座います」
「ところで・・・、ティアの話は聞いておらんか?」
「申し訳御座いません」
「そうか・・・。で、いつ来るかな?」
「明日か明後日にはルドン将軍の部隊が攻撃されると存じます。それと同時に本隊がここを奇襲するかと」
皇帝は溜め息をついた。隣の后も同じだった。
「・・・ツーク・マーリン少佐。只今をもって、貴官を大将に任じ宮殿警護を命ずる」
「はっ、早速任務に就きます」
皇帝は彼を将軍に復帰させたが、最後のセレモニーであった。
「ツーク・・・、ティアを、娘を、許してね・・・」
愛する人の母親が泣きながらそう言った。ツークはただ深くお辞儀をした。そしてマントを翻して部屋を出て行った。
チョスは飛行艇の自室で、熱く硬い自分から濁った物を出そうとしていた。
「もうすぐだっ、もうすぐあの女は俺のものになるっ。嫌だと言えば皇帝と一緒に殺してやるっ。ツークとやらのところに送ってやるっ。ハァハァッ、今に見ていろっ、俺を馬鹿にした連中に、正義の力を、思いっ、知らせてやるっ、・・・ウゥッ!」
言うべき言葉が見当たらない。
ティアは泣いていた。愛する父母に逆らい、断頭台に送る事を思って泣いた。
「ごめんなさい、民衆のためなの。すぐに私も行くから、許して・・・。ツークにも謝らなきゃ・・・、私のせいでお父様に殺されたなんて、ごめんなさい・・・」
ナビとリリーは何度も愛し合った後で、話していた。
「ねぇ、チョスってヤバくない? あいつ、いつかティアをレイプするんじゃないかしら。それに、降伏した将軍まで嬲り殺しにしてさぁ。どっかおかしいんじゃない?」
「お前もそう思うか? 帝国が崩壊するのはもうすぐだ。いや、もう崩壊しているんだけど、あいつ、全部終わったらティアを奴隷にするつもりだろうな。嫌だと言ったら殺すだろ」
「それってマズくない? 解放の英雄としての人気が凄いのよ? あんだけの美女が最前線で指揮をするから、皆がついてきたんだし。そんな事をしたら、また反乱が起きるわよ?」
二人は溜め息をついた。
マットとアミンも同じように話していた。
「あの黒仮面の正体は誰だと思う? ねぇ、マットは分かる?」
「ん? さあ、分かんね。報告だといつも車両から指揮するだけみたいじゃん。強ぇか弱ぇかも分かんねぇよ。黒仮面が宮殿に入ったけどよ、どっちにしてももう終わりじゃんか。あれが誰だって、関係ねぇよ。んな事よりよ、ティアのほうが心配だぜ。あいつ、笑わねぇしよ、必要な事しか言わなくなっちまったじゃんか」
「んー、恋人が自分のせいで殺されたと思っているからかな。それに、終わったら王族と重臣たちは処刑されるでしょ? それも自分のせいだと思っているんじゃないかしら」
「だよな。・・・ティアを守ってやんねぇとな。チョスもヤベェし、手前ぇでおっちぬかもしんねぇし」
愛し合う二人の空気が、どんよりとした重たい空気に変わった。
ツーク、いや、黒仮面が予想した通りに最終決戦の幕が上がった。
ルドン将軍の率いる部隊は三千の兵力しかなく、近隣から集められた民衆四万五千に圧倒されていた。徐々にその数が減り始めた。そして、帝国軍は壊滅した。
時を同じくして、宮殿に精霊たちが現れた。それらは美しい宮殿の壁や屋根や床を壊し、丁寧に手入れをされた花園を蹴散らした。宮殿のあちこちで泣き叫ぶ声がした。助けを求める声が、徐々に小さくなって消えた。
大地震のように揺れて建物が崩壊していく中で、皇帝は黒仮面を呼んだ。
「ツーク、ご苦労だったな。お前には辛い思いをさせた。許してくれ」
「何を仰せですか、辛い事など一つも。陛下には身に余るほどの幸福を頂きまして御座います」
「・・・そう言ってくれると、気が楽だ。・・・ところで、もう終わりかね?」
「あと数十分で反乱軍幹部が宮殿に入るかと。宮殿にいたほとんどの者は、崩れる建物とともに去りまして御座います」
すでに彼の直衛である二十人しか残っていなかった。ツークの後ろに彼等は泣きながら控えていた。
「皆の者、今までご苦労だった。死に急ぐ必要は無いぞ。強く生きてくれ。・・・ツーク、お前もな」
「勿体無いお言葉に御座います。皇帝陛下と皇后陛下のおそばに控えております」
「・・・ツーク、頼みがある。来てくれ」
皇帝は后の手を取り、謁見の間の隣にある応接室に入った。
暫くしてから、一人で彼は出てきた。
彼は重い口を開いた。
「アストリア帝国皇帝エムレア四世陛下とエレア皇后陛下は、崩御なされた」
「えぇっ!」
謁見の間がどよめいた。ツークは顔を上げ、皆に宣言した。
「本日只今をもって、アストリア帝国はその歴史に幕を下ろした。諸君は既にアストリア帝国軍人ではない。軍服を脱ぎ平服に着替えここに集合しろ。・・・五分だ、急げ」
珍しく有無を言わせぬ指揮官の命令に、彼等は慌てて従った。ある者はコック服を見つけ、ある者は召使の服を見つけた。またある者は見つけた服を組み合わせてちぐはぐな格好をした。
指定された時刻に、彼等は集まってきた。精霊たちが暴れる音が徐々に近付いてきた。
「ツーク・マーリン大将直轄イェール小隊を、只今をもって解散する。正門から反乱軍本隊が攻め込んでいる。諸君は裏門ないし東門を利用して脱出するように。私は後から脱出する。・・・どこかの湖で会おう。のんびりと釣りを楽しむことを期待して、ここから逃げろ。良いな」
「ツークさん! する事が有るのなら手伝いますぜ!」
後ろからの言葉に、そうだそうだと皆が同意した。しかし、彼は首を横に振った。
「皇帝陛下から直々のご命令だ。最後のお言葉でもある。諸君はすぐに退去してくれ。頼む」
パンサが渋い顔でこう言った。
「ツーク、分かりました。言う事を聞きます。でも、すぐに来てくださいよ。レマ湖で待っています」
「・・・分かった。・・・気をつけてな」
そして彼等は散った。そもそも全員が有能な軍人だけあって、彼等は誰にも見咎められず、誰にも邪魔されずに宮殿から脱出した。
パンサは崩れていく宮殿を振り返って、呟いた。その顔には悲しみの色があった。
「・・・生きて会える事を祈っています」
そして涙を拭きながら、彼は街に消えた。
皇帝だった男は、妻と手を握って息絶えていた。二人で同時にお互いの胸に、短剣を突き刺したのである。ツークは仕損じたときに止めを刺すように頼まれたのだ。
二人は見事にしてのけた。ツークは二人から短剣を取り上げ、愛し合う二人が寄り添うように体勢を整えた。彼等の身体が血で汚れていなければ、眠っているようにしか見えないだろう。もっとも、ツークには二人の顔を見る事もできなかったが。
皇帝は最期にこう言った。
「もしティアに会う事があったら伝えてくれ。・・・自分の為してきた事に自信を持てと。自らが信じて為した事の善悪を判断するのは自分ではない、他者なのだと。己の信念を貫く事は、時には善と言われ時には悪と言われるのだ。それは自分自身には関係の無い事だ。それに惑わされるなと。そう伝えてくれ。・・・ああ、そうそう、もう一つ。孫の顔が見たかったとも言ってくれ。・・・幸せになれよ。さらばだ」
ツークは崩れていく宮殿を気配で感じ、走ってくる六人の足音を聞いた。彼は溜め息をつくと、壁にかかっていた槍を取って、首を回して筋肉をほぐした。
大きな音がして謁見室のドアが開いた。
「よぉーし! 全員おとなしく・・・、あれ?」
マットが叫んだが、一人しかいないのを見て呆気に取られた。
「く、黒仮面・・・」
リリーが呟くように言うと、チョスが叫んだ。
「黒仮面! 皇帝をどこに逃がした! どこに隠した! 他の連中はどこだ!」
黒仮面は無視した。チョスは激怒して剣を抜いて襲い掛かった。
「チョス! 止めろっ!」
ナビが止めるのも聞いてはいなかった。だが、止まらざるを得なかった。なぜなら、喉許に槍を突き立てられていたからである。残り二センチ程度で彼の首は槍に串刺しになっていたはずだ。黒仮面はただ口元を歪めてニヤリとしただけだった。
「黒仮面さん、私はアミン。魔法使いよ。あなたのお名前は?」
自己紹介をしている場合だろうか。
「・・・黒仮面、お父様、いいえ、皇帝陛下と御后様はどちらに? ご挨拶がしたいわ」
ティアが自嘲気味にそう言った。その声を聞いて、黒仮面は少し顔を動かした。
「ティア姫か」
「ええ、そうよ。あなた、私を知らないの? ・・・まさか、目が見えないの? 嘘、そんな、嘘でしょ・・・」
彼等は愕然とした。目が見えなくてあれだけの戦闘を指揮できるとは思ってもいなかったのである。確かに、ティアが指摘したとおり彼は盲目だ。なぜ彼女はそれに気がついたのか。マスクがずれていたからである。マスクと言っても、眼の部分に少しだけ穴を開けた布であって、後頭部で結ぶだけのものだったのだ。今は右目の部分が鼻の上辺りにある。
黒仮面が動いた。
突然の攻撃に彼等は対処できなかった。急所を突かれ、崩れるように倒れた。なぜか血は出ていない。彼は槍の柄で攻撃したのだ。
ティアが震える声で言った。
「ま、まさか・・・、その速さ・・・、その、身のこなし・・・。ツーク・・・? ツークでしょ? ねぇ、ツーク!」
感極まったような彼女の声を冷静な彼の声が否定した。
「ツーク・マーリン将軍は死んだ」
「駄目駄目、正直に言いなさい。黒仮面、いいえ、ツークさん」
アミンの悪戯っぽい声が響いた。黒仮面は頭を掻いて、マスクを取った。
「ツーク!」
ティアが叫ぶと、彼は固い笑顔を作った。
(ああ、ツーク! 生きていた! 私のツーク! 会いたかった!)
彼女はその思いで一杯になった。
「良い男だわぁ。ティアったら、面食いなのねぇ」
リリーが場に似合わない事を言った。ティアは顔を赤くしたが、真面目な顔で叫んだ。
「お願い、ツーク! 投降して! まだ間に合うわ! お願い、降参して!」
「そういうわけにもいかないんだよ。何しろ最後なものでね。ええと、お父上からのご伝言だ。会ったら伝えるようにと頼まれた」
彼はそう言って淡々と皇帝の遺言を伝えた。孫の顔という部分は言わなかった。ティアの泣き声が響いた。
「お父様・・・、お母様・・・・、許して・・・」
そして彼女は応接間に飛び込んだ。彼女の泣き声が謁見の間まで届いた。
「皇帝と后は自殺したか! そうか!」
チョスが言わずもがなの事を叫んだ。しかし、全員から黙殺された。
ティアが暗い顔をして戻ってきた気配を感じて、ツークがこう言った。
「さて諸君、死ぬ準備はできたかい? 諸君が指揮する解放軍とやらは、幹部がいなくなれば烏合の衆だ。実際、現場指揮官がいなくなっただけで部隊が解散するほどだからね。ここまで来たのも六人の幹部に負うところが大きい。そこでだ、この場で諸君を殺せば、混沌とした未来に道が開けるかも知れない。そう思わないか?」
「貴様! 何を!」
チョスの叫びは冷笑をもって迎えられた。
「チョス、か。君の思い上がりと安直なヒロイズムでは世界を支配する事は不可能だ。降伏した将兵に縄を掛けてから殺していては、民衆も不安に思うぞ。君は血に飢えた狼、いや、狂犬だな。僕と同じ人種だよ」
「違う! あなたは違う! ツーク! お願い、武器を捨てて! あなたのお母様のためにも武器を捨てて!」
彼女の悲痛な叫びにも、彼は顔色を変えなかった。冷たく言った。
「母も召使たちも死んだ」
「え・・・?」
「僕が目を抉られてイェールに降格転属になったときに、世を儚んで自決した」
暗い空気が漂う部屋に、場違いな笑い声が響いた。
「ひゃははははは! お前も一人ぼっちか! 俺と一緒だ! お笑いだ!」
チョスの笑いはすぐに治まった。恥ずかしかったのかどうかは分からない。恥と言う単語を知っているのかさえ不明だ。
ともかく、気を取り直すようにツークが口を開いた。
「ティア、そして諸君。今後の世界を予想してみたので、それを聞いて頂く事にしようか。・・・諸君が生き残ったとしても、ここで死んだとしても、無政府状態になって世界は混沌とした状態になる。やがて小国が乱立し、争いを繰り返すようになる」
チョスがまた叫んだ。
「そんなはずは無い! 民衆が実権を握れば、民衆のために政治をするんだ! 争いも憎しみも無い世界になるはずだ!」
「チョス、君はリーダーとしての才能が一つも無いね。上手なのはアジテーション演説だけか? さぞかし感動的な演説なのだろうね。うーん、例えば・・・。虐げられた民衆諸君! 権力をほしいままにする横暴な解放軍を我等と共に打ち破ろうではないか! 民衆諸君! 我等無辜の民から搾取し、我等善良な民衆に屈辱を与える解放軍に正義の鉄槌を下すのだ! 諸君を抑圧する全ての頚木から解き放たれるときが来た! さあ、立ち上がれ! さあ、武器を取れ! いざ我等と共に戦わん! ・・・てなところか」
「すっげ、チョスよかうめぇじゃん。マジ感動」
マットが驚いた顔でそう言った。ツークは苦笑して、話を続けた。
「さて、諸君。民衆による民衆のための政治とは何だ? 実権を握る民衆とは誰の事だ? この大陸、いや、この国の全国民の事か? 全国民が実権を握ると言う意味は、全員が政府であるという事だ。それは即ち民衆による民衆のための政治とは、各個人が好き勝手に生きて良いという意味だ。ルールも何も無い世界でお互いを信用する事ができるのか? 諸君の言う政治とは、無政府状態にする事を意味する。さて、そこでチョスを最高指導者に担ぐ解放軍が、帝国に代わって政治を行なうとする。それで問題になるのが統治組織だ。解放軍は帝国の財産を全て破壊してきた。地方の役所から警察署、学校まで破壊してきた。つまり、そうしたインフラを全て自前で整備する必要がある。インフラ整備には膨大な資金が必要だ。それをどこから集める? 民衆から集めるしかないよね? 具体的な集め方は? 誰が集めて誰がまとめて、誰が管理するの? 全て幹部がやる? そんなわけいかないよね。で、信用できるほどの人間はいないから、組織で行なって責任の所在をはっきりさせるほうが分かりやすいよね。解放軍はそこからやらなきゃいけないんだよ。現状の地方組織は機能していないだろう? 戦闘が終わると解散してしまっているじゃないか。皆が好き勝手に生活を送り始めている。美しい大地が荒廃すれば人心も荒廃するんだ。その軌道修正をするのに理を説くのは時間が掛かりすぎる。分からない奴だっている。そうすれば、自ずと強権的にならざるを得ない。強権をもって民衆から資金を吸い上げれば、結果的に民衆は不満を持つ。ましてや帝国と名のつく肩書きの人間を皆殺しにしてきたんだ。抗議しようとする民衆は恐怖する。次は自分が殺されると思って恐怖する。それは解放軍政府へのサボタージュに繋がり、いつか爆発する。延々と争いが絶えないと言ったのはそういう理由だ。諸君は解放後の展望と政策そして戦略を何一つ持たず、帝国は悪と言う子供じみたスローガンだけで突っ走ってきた。そのつけは民衆が払うのさ。自分たちが支持したんだから当然の事だけどね」
ティアを含めた全員がツークの演説に心を揺さぶられた。自分の信じてきたものが揺らぎ始めていた。
「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ・・・」
チョスは壊れてしまったのだろうか。ぶつぶつと呟き始めた。
「では諸君。あの世でお会いしよう」
ツークが槍を構え直した。それを見て、リリーとアミンが呪文を唱えた。召還魔法だ。
「シュリヒテ・マフメイ・イル!」
ツークの背後に巨人が出現した。異様な気配に彼が振り返ったとき、それは起きた。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇーっ!」
グサッ、ドシュッ、ビシュッ、ドスッ、グサッ。何度も剣が肉を抉る音がした。チョスがツークの背中から剣を突き立て、滅多刺にしていた。何回もツークの胸や腹からチョスの剣先が顔を出した。たくさんの血が噴出して、黒い服が更に黒くなった。
ツークは槍を落とし、剣を抜いて背後に振った。彼の剣はチョスの腹を切り裂いた。彼は振り向いた。絶叫を上げて転げまわる男が彼の足元にいた。彼はマントで刀を拭うと、静かに鞘に納めた。そして、無言で後ろに倒れた。
「ツーク!」
ティアはそう叫んで駆け寄った。ヒューヒューという肺から漏れる音が聞こえ、ゴボゴボという肺に血が溜まっていく音が聞こえた。そしてそれは次第にゆっくりになり、消えた。ティアの絶叫だけが響いた。
「せっかく会えたのに! ようやく会えたのに! あなたがいないと私は生きている意味が無いのよぉっ! ツーク! ツークゥゥッ!」
ティアは愛する男に取りすがって泣いた。
「・・・ツーク、すぐに行くわ」
彼女はそう言って腰の短剣を抜いた。彼の形見である。それを胸に突きたてようとした。
しかし、それは果たせなかった。仲間たちが彼女の手を押さえ、優しい顔で首を横に振った。
そして、ティアの泣き声だけがいつまでも響いた。
帝国が崩壊した後、解放軍は政治に関与しなかった。チョスはツークに斬られた後に放置され、苦しんで死んだ。他の幹部は行方不明になった。つまり、帝国の崩壊と共に解放軍は解散したのだ。
ツークの予想通りになった。無政府状態が続き、人心は乱れ、各地で犯罪が多発した。それが何年も続いた後、軍隊経験者を中心に自警団が組織された。自警団は徐々に発展して地方政府の形態を取るようになった。ある地域では人望のあるものが王を名乗って統治するようになり、またある地域では選挙によって自分たちの代表を決めたりした。
長い年月が経つと、以前の歴史に見られたように小国が乱立していた。争いを起こしたり、穏やかに暮らしたりして、時間は流れた。
アストリア帝国の盛衰は、その星の歴史書には数行しか記載されていない。もちろん、ティアとツークの物語など、誰も知らない。
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