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第58話 無くなった音と隠れ人2(番外編)
 頬を過ぎる風が心地よい。昂ぶった気持ちを静めてくれるような、そんな風。…こんなに気持ちが昴ぶるなんて、一体いつぶりのことだろうか。

 昴ぶるとは、私の中ではすなわち、緊張を指す。緊張と一言に言えども、その意味は捉え方次第でどうにでもなる。
 一般的には、何か大きな事柄の前だったり、一人でどうしたら良いのかわからないときに、緊張するものだと思っている。だが、今の私が感じている緊張は、それとは少し違う。“体に纏い付くような、べったりとした緊張感”とでもいうのだろうか。自分でもよくはわからないが、段々と脂汗が額に滲み、吹く風ですらも、絶え間なく溢れ出すそれは乾かし切れなくなっていた。
 シンと話し始めた時にはあまり感じなかった緊張感。それは刻を追う毎に昂り、私を支配していく。その緊張感に気付いた瞬間から、辺りの気配が気になりだした。それまでと何も変わっていないはずなのに、心のどこかが警鐘を鳴らし、私に注意を促し続ける。
 段々と、シンとの会話に集中出来なくなる。辺りに漂う気配を察することばかりに気を取られ、上の空になりつつある自分が、ひしひしと感じられる。
 “このままじゃ駄目だ”と、私は自分の中で一度考えたこと全てを崩し、再び整理する。どっちつかずのこの状態をだらだらと続けるのはシンにも申し訳ないし、再考すれば、妙案が浮かぶかもしれない。
 暫く、頭の片隅で情報の整理を試みたが、それにすら集中することは出来なかった。こんな状態で人と話すことは、経験上絶対に無理である。とりあえず今日はシンと別れることを決めた私は、最後の質問をシンにぶつけた。

「…シンは、たとえ私が大きすぎる厄を引きずり込むとしても、私と一緒にいてくれる?」


 …この、自分の中に流れる緊張感はどこかで受けたことがあると、ずっと考えていた。初めこそ思い出せなかったが、今でははっきりと思い出すことが出来る。
 この、纏い付くような緊張感は、私が昔に雪山で追われていた時に感じていた緊張感にそっくりなのだ。

 いつともなく、どこから狙われているのかすらわからない状況。そんな中、私に危険を察知させてくれたのがこの感覚だった。不思議なことに、特に確証もないこの緊張感に命を助けられたことは、数え切れない程ある。この感覚こそが私を生き長らえさせたと言い変えることも出来るだろう。
 そんな、ともすれば誇れるようなその感覚が、再び私に襲いかかる。久しくこの感覚に襲われることは無かった。少なくとも、シンと出会ってからは、一度も。
 それなのに、その感覚は私を捕らえたまま離そうとせず、不安な気持ちを駆り立てる。…ただ、この緊張感は私が生命の危機を感じた時に感ずるもの。それを改めて感じているのだから、誇れるといっても決して喜ばしいものではない。


 多分、その気持ちや諸々が具現化したものが、さっきのシンへの質問になるんだと思う。
 私の厄は、容易く人を殺す。私に近ければ近い程、死ぬ可能性も増す。何より私自身、気を抜いたら、死ぬ。
 本当なら、シンには私から離れて欲しかった。…いや、この言い方だと語弊がある。
 シンには、ずっと生きていて欲しい。その為には、私と共にいては駄目なのだ。私の厄を躱すことが出来た人なんて、いやしない。みんな私を置いて、遠い世界へ旅立った。だからこそ、シンには私から離れて欲しかった。
 ただ、私もシンとはそれなりの時間を共に過ごしてきた。昨日今日会ったばかりで何も知らない訳じゃない。相手の気持ちも何となくわかるし、シンの嗜好なども、把握しつつある。
 その“シン”という人物を知っているが為に、私は彼を突き放すことを諦めた。私から見た彼の性格は、ちゃんとした理由無しには、てこでも動かないというものになっている。日頃ははっきりせずに曖昧なことも多いのに、ここぞというときに限って、しっかりとした一面を彼は見せるのだ。
 多分、今は彼の“ここぞ”という時なんだと思う。今私が何を言おうとも、彼は私について来るに違いない。特にこれといった確証がある訳ではないが、私はそう断言出来る。

 そんな私の考えを彼は知っているのか、彼の出した答えは“「僕の命が続く限りは」”というものだった。
 意味の取りようによっては、私に一生の忠誠を尽くすと捕らえても間違いではない。ただ、この言葉だけでそう捕らえるのはあまりに安直すぎると思うし、何よりも私はそんな関係を望んではいない。
 とりあえず、この言葉によってシンが私から離れる意思がないことがわかった。まずはそれだけで大きな情報となる。
 私のこの緊張感と勘を正直に信じるならば、今日か明日の内には厄がやってくる。それも生半可な厄ではない。全てを無に返すような、とてつもなく大きい厄だ。そんな未曾有の厄を目の前にして、シンが私の側にいてくれるのは本当に心強い。
 シンは、私の心の支えになってくれる。自らに折れそうになる私を、守ってくれる。彼がそう思っていなくとも、私の中では既にそういう答えが出ているのだ。
 …ただ、その重要な支えが絶対になくならないという保証はない。シンがいつまでも側にいてくれるというのは、あくまでも口約束に過ぎない。もしかしたらいずれ、シンはシンの道を歩み始めるかもしれないし、それが明日になってもおかしくはない。
 そんな脆い約束に安心している自分に気付いた時、思わず苦笑いをしてしまった。

 それから暫くして、私は適当な言葉を羅列してシンを言いくるめ、家に帰した。
 側にいて欲しいという気持ちもあったが、こんなまとまりのない心境で一緒にいても会話すら成り立たないだろうし、段々と言葉が発せられる頻度も希薄になってきた。俗に言う、解散時である。
 それに、どうにも私にお客さんがいるらしく、それもそのお客さんはどうにもシンが少し邪魔らしい。私にだけ存在が解るように、それでいて存在が他から解らないように、上手く隠れている。
 シンに軽く別れの挨拶を告げ、手を振る。シンは私と同じように手を振った後、くるりと背を向け、帰路についた。私から離れ行くシンを漆黒の闇が飲み込み、瞬く間にその姿を隠してしまう。ただ、そんな闇でも音までは消すことが出来ないらしく、足音だけが周囲に寂しく木霊している。だがその音すらも段々と小さくなっていき、幾許もしない内に辺りは静寂に包まれた。それを確認してから、私は目線をシンからお客さんの方に切り替える。

「……。
さて、そろそろ姿を現してもいいんじゃないかしら」

 その問いかけに答えはなかった。その代わりに、極々僅かな足音が、闇の中から近付いてくる。その足音は私から少し離れた所まで近付くと、ぴたりと止まった。その場所は、何とか相手の顔が視認出来るぎりぎりの距離。闇に浮かんだお客さんの顔は、予測した通り見慣れた顔の男……マーカーだった。

「流石リナちゃん。あの距離から気付くなんて、なかなかやるねぇ」

「何言ってるの。あなたが私に気付かせたんでしょう」

 暗くてよくわからないが、感覚からマーカーが笑みを浮かべているのがわかる。言葉は続かず、流れるのは沈黙のみ。まるで空気を相手にしているようでいて、相手は確実に、声もなく笑っていた。
 ただこれ以上待っていても、何も進展することはない。そう考え、こちらから質問することにする。

「それで、何の用なの?
まさか、わざわざ顔を見せに来た訳じゃないでしょう」

「いやぁ、これといって用事はないんだけどねぇ」

 …気に食わない。気に食わないがマーカーは私から会話が進むことを望んでいるのだろう。それも、なんの変哲もない他愛も無い話ではないだろう。……だが、そんな途方もないようなことでも、マーカーが望んでいる話題はおおよそ見当が付く。私の知っている、厄についての話だ。
 どうせ、マーカーとは一度話さなければならない時が来ると思っていた。それが今という瞬間に訪れただけなのだ。それならば、その誘いに乗せられてみようではないか。

「…私の村を襲ったのは、あんたの仲間でしょう」

 返答はない。

「あんたの出す気配、そしてその気配の消し方。歩き方、走り方、呼吸の仕方までそっくりだわ。気持ち悪いくらいに」

「…そう思うなら、僕を殺さないのかい?
僕は村の…。もとい、大切な人の仇なんじゃないのかい?」

 私はマーカーが村を襲った奴らの仲間だと、初めて会った時からそう思っていた。むしろ、初めて会った時の方がその思いは強かった。
 私がマーカーと出会ったのは、奴らから逃げている内にたどり着いた密林である。それまでに散々追い回されていた奴と全く同じ気配を纏うマーカーを見て、疑わない方がどうかしている。
 “疑わしきは罰せず”とも言うが、何度かマーカーを殺したいという衝動に駆られたことはある。
 それでも、私が行動に出ない理由。まず、単純に実力で適わないということ。
 語尾もだらしなく、一見のんびりしていそうなマーカーだが、それも演技だろう。のんびりしているが隙は無い。笑っているようで目は睨んでいる。それに、日頃ならともかく、狩りの時に垣間見た、背筋を凍らせるかの如き殺気。それら全てから、今の私ではマーカーを殺すことは出来ないという事実を、悟っていた。
 次に、絶対の敵として認識するまでの確固たる証拠がないこと。
 マーカーが私の村を滅ぼした奴らの仲間であることは、多分間違いではない。だが、マーカーは何かにつけて、私と友好的であろうとする。
 私を殺したい訳ではないと思う。もしもそうならば、マーカーは今まで山ほどあった私を殺す隙を全て見逃したお馬鹿さんか、はたまたよっぽど警戒しているかのどちらかだろう。
 近すぎず遠すぎず。まさに、そんな関係だろうか。無関係でも問題ないはずだが、関係はある。だが、目と鼻の先にマーカーがいるかと言われれば、そういう訳ではない。一言でいうならば、関係はあるが邪魔にならない、丁度良い位置関係とでもいうのだろうか。
 だからこそ、マーカーが敵かどうかで、迷う。敵と言えば敵。味方と言えば味方。そんな曖昧な関係だからこそ、マーカーとの関係が今まで続いてきたのだろう。私が警戒していることも計算に入れれば、私と問題を起こすことなく交流出来る最も近い位置とも言えるかもしれない。


「……帰るのかい?」

 会話も続かず、話題も上がらず、知りたいことも教えたいことも見つからない以上、ここにいる意味はないと判断して私はマーカーに背を向けた。もしもマーカーが敵ならば、殺されてもおかしくない行動。ただ、今までにこのような隙を見せても襲って来なかったマーカーのことである。多分今回も、何事もないだろう。最も、こんないつもとは違う状況の中で惰性を信じて行動するのは、間違っているのかもしれないが。
 “帰るのか”という質問に返事をせぬまま、一歩、二歩と私はマーカーから遠ざかる。 そんな私に、マーカーも声をかけてくることは無かった。
 そんな中で、私は五歩程進み、立ち止まった。そして最後に一言だけ、その場に置き去りにしてその場を後にした。

「あなたが、敵にならないことを、祈っているわ」

 その声は虚しく闇に飲み込まれ、辺りに漂うのはどこまでも続く静寂と、歩き続ける私の足音だけだった。


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