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0-1:動けぬ逃亡者
 本当の意味での絶望を経験した人は、この世界にどれだけいるだろうか。
「ここで死ぬわけにはいかない」
 深い森の奥。誰にともなく一人呟く少年。
 少年は追っ手から逃げる為に、何の準備もなくこの深い森に逃げ込んだ。森に
慣れていない少年の体力は既に限界に近く、歩くのもやっとの状態。
 対する追っ手は、数人の魔術師。しかも、その全てが実戦経験を積んだ優秀な
魔術師である。
「絶望的ってやつか」
 自分の状況を再確認し、自嘲的な笑みを浮かべる。
 こんなものは絶望とは言わない。どんなに低い可能性だとしても、希望がある
限り絶望とは言えないからだ。死を迎えるその瞬間まで。例え死んだとしても、
希望を残す事は出来る。結局は個人の感情に過ぎないのだから。
 少年は諦めなかった。それは本当の絶望を知っていたから。だからと言って、
希望など持っていない。あるのは生きるという意志だけだった。
「俺は死ねないんだ」
 繰り返される呟き。暗闇に満ちたこの絶望の世界にしがみつく理由。簡単な事
だった。少年にとって、死がより大きな絶望だったからだ。このまま死ぬという
事は、自分の生きてきた時間、そして生かしてくれた人の想い。その全てが無意
味なものになってしまうから。それだけはどうしても許せなかった。
「ようやく見つけた」
 突然目の前から聞こえた女の声。そこに気配もなく姿を現したのは、ローブを
纏った人物だった。
「誰だ」
 周囲の警戒は怠ったつもりは無いが、目の前の人物には、声を掛けられるまで
気付く事が出来なかった。
「まさか生き残っているなんて。でもこれで役目が果たせるわ」
 フードによって表情は見えないが、その声は喜びに満ちていた。
 自分を追っていた魔術師ではない。だが、油断が出来ない事には変わりない。
 そう考えた少年は、目の前の人物に対し、いつでも攻撃出来るように構えた。
並の魔術師には負けないだけの力は持っているつもりだったからだ。
「はぁ。おとなしくしていれば死ななくても良かったのに」
 構えた瞬間、冷たい声が響いた。
 同時に感じる凄まじい威圧感と殺意。
「っ……」
 それだけで理解した。抵抗するだけ無駄だ。自分が勝てる相手ではない。
 相手がこちらを見ていないと気付いても、戦おうとは思えなかった。
「貴様。何処の手の者だ」
 新たに姿を現した人物。そのローブに刺繍されている紋章。それは、少年の命
を狙う追っ手であることを示していた。
「学院の魔術師ですね。命が惜しければ即刻立ち去りなさい」
「それは無理な相談だな。仲間を殺されたうえ、目標を目の前にして逃げ帰るな
ど、私の魔術師としての誇りが許さん」
 追っ手の魔術師から感じる強い意志。少年を殺す事が正義だと信じている。
「誇り?何が真実かも理解していない。しようともしない貴方から聞いても滑稽
なだけよ」
「私は自分の信じた道を進むだけだ」
 追っ手の魔術師の意志は揺らがない。強い意志により魔術は制御される。彼の
示した意志の強さは、そのまま優秀な魔術師であることを示していた。
「もう話す事は無い」
 一瞬で複数の火の玉を作り出し、一斉に襲い掛かってくる。
 目の前の人物は、右手を正面に突き出した。そこに迫る火の玉。しかし、手に
触れる直前に消滅し、僅かな衝撃だけが残った。
 その衝撃によって捲られるフード。その下から、長い黒髪の女性が姿を現す。
「愚かね」
 相手の魔術師は攻撃の手を休めない。次々と火の玉を作り出しては、正確なコ
ントロールで目の前の女性を狙う。
 腕の一振り。それだけで三つの火の玉が消えた。正確には、何かにぶつかって
消し飛んだのだ。
 二人の間にあった木は、熱に焼かれ、何かに切り裂かれてゆく。その正体は風
の刄。女性が腕を振るたびに風の刄は放たれ、相手の火の玉を相殺していった。
「これじゃあ埒があかないな」
 魔術師は地面に向かって火の玉を放ち、土煙の中に姿を隠す。
「……」
 女性は黙ったままだ。風の刄を放つのをやめ、腕を降ろす。そして次の瞬間、
物凄いスピードで土煙の中に飛び込んでいった。
 土煙は吹き飛ばされ、その向こうには、腹部を血で赤く染めた魔術師がいた。
「強いな……」
 魔術師は両手を前に突き出し、先程までとは比べ物にならない密度を持つ、炎
の塊を作り出していた。
「これで終わりね」
 いつのまにか魔術師の後ろに立っていた女性。彼女の腕が振られ、魔術師の首
を捉える。
 少年は見た。その瞬間、魔術師は確かに笑みを浮かべたのだ。
 女性も魔術師の意図に気付く。狙いはあくまでも少年なのだ。炎の塊は、術者
が死しても尚目標を狙う。
「いけないっ!」
 飛び出す女性。しかし、高速で撃ちだされた炎の塊の正面に回り込む時間は無
い。危険を覚悟で魔力を炎の塊にぶつけると、安定性を失った炎の塊はその場で
爆発を起こした。
 少年の方も、ただ黙って見ているわけではない。魔術師の浮かべた笑みを見た
瞬間、集中を高め、魔術を行使する。
「くっ……」
 少年の表情が歪む。疲れきった少年にとって、魔術どころか、立っているのも
辛いのだ。
「死ぬわけにはいかない」
 何度目になるか分からない呟き。その意志だけが、今の少年を支えていた。
 次の瞬間には、迫る炎が爆発を起こす。その衝撃が届く直前。少年の前には氷
の壁が作り出されていた。
 凄まじい衝撃。作り出した氷の壁が少年を守ったのは一瞬だけ。爆発の衝撃に
耐え切れず、壁もろとも吹き飛ばされてしまう。
 少年は木の幹に背中を打ち付け、その意識は闇の底へと沈んでいった。


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