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胡蝶の天秤 作者:黒川うみ
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番外編(一)

本編のその後のお話になります。
本編を読了後、読まれることをおすすめします。
神岡犬次郎の告白

 神岡家の離れに居を移してまもなく、亜紀は高熱を出して倒れた。
 様々なことに区切りをつけ、ようやく何の心配もなく休めると思ったら今までの疲労がどっと押し寄せてきたらしい。大方こうなるだろうなと予想していた犬次郎はあまり驚かなかった。今まで倒れなかった方がおかしいくらいだったのだから仕方がない。
 しかし三日、四日と熱が下がらないと心配になってくる。
 幸い、神岡家には日夜交代で看病できるだけの人数が揃っていたので、犬次郎も素直に家族を頼って亜紀の看病に当たったが、五日目ともなると心配で心配で側を離れられなくなった。ようやく熱も下がり始めてきていたものの、まだ高熱の域だ。
 その晩、亜紀は朦朧とした意識の中で、自分を身体の汗を拭って着替えさせてくれている人影を見つけた。
「……ほ、の子、さん……?」
「亜紀ちゃん? 気が付いた?」
 神岡家長男の嫁はほっとして微笑んだ。
 その声を聞いて障子戸の向こうに座っていた犬次郎はびくっとして振り返るが、蝋燭の影に少女がまだ半裸だと気が付いて慌てて背中を向けて座り直した。いくら安堵したからといってそこに乱入する度胸はなかった。ただただ脱力してへたりこむだけである。
「わ、たし…… っ」
 擦れた何か喋ろうとするのだが、渇いた喉では思わず咳き込んでしまう。
 ほの子は背中をさすってやりながら優しく囁いた。
「焦らなくていいのよ。お水、飲める?」
 夢見心地のまま亜紀は微かに頷いた。そうしてゆっくりと舐めるような速度で水差しからぬるま湯を飲ませてもらう。途中、幾度か咽せたがほの子はその度に首の後ろから背中にかけてやすってやった。
 まるで優しい母に看病してもらっているような気分になって、亜紀の眸からぽろりと雫が落ちた。どうにも件の大泣きから涙腺が弱くてかなわないのだが、今の彼女はそんなことまで思い至れない。
 ぼうっとした頭で言われるがままに浴衣の袖に腕を通し、前を揃えてもらう。
「よかった。みんな心配してたのよ」
「……みん、な……?」
「そう、みんな。亜紀ちゃんのお父さんに、鶴お義父様に冴お義母様、虎さんに鳥くん、もちろん犬くんも」
 改めて自分を寝かせようとしてくれた女性の胸に、亜紀はしがみついた。
「わ、たし……私っ」
 そっと抱き返してやりながら、ほの子は内心首を傾げた。いつもしっかりしていて素敵だなと思っていた少女が、小刻みに震えて何か伝えようとしてくる。まるでぐずついた子供のように。
「亜紀ちゃん? どうしたの?」
「……私、やっぱり……出てい……出て行き、ますっ」
「……亜紀ちゃん?」
 朦朧とした意識の中、亜紀はぽろぽろと涙を流してひっくひっくとしゃくり上げる。
「わ、たし……何もできないっ お料理も、お裁縫も、お掃除も、お洗濯も……なにひとつ、満足としてできないのに……っ」
 双子の事情はほの子とて耳にしたことがある。早くに母親を亡くして、苦労してきたことも断片的にだが目にして知っている。女としてできて当然のことさえ学ぶ余裕も、する余裕もなかったことを知っていた。
 だから赤子をあやすように頭を撫でて、優しく諭す。
「いいのよ、亜紀ちゃん。そんなこと、全部私がやるもの。亜紀ちゃんは亜紀ちゃんのお仕事をすればいい。そうでしょう?」
「ち、が……わたし……」
 熱があったからかもしれない。意識が朦朧としていたかもしれない。或いは、いい加減、誰かに吐露してしまわなければ耐えられなかったのかもしれない。
 亜紀はずっと気に病んでいたことを口にした。
「私、子供が産めない、身体、なんです……っ」
「え……?」
「それなのに、それなのに……っ 優しさにつけこんで、楽になろうなんて、虫が、よすぎる……っ」
 女の仕事は第一に子供を産むこと、世継ぎや働き手を産むこととされていた時代である。いくら手に職があったとしても、いくら稼ぎが良くとも、外へ働きに出ることなど以ての外。子供を産めない女は社会不適合の烙印を押されてしまう。
 今までひた隠しにしてきたが、いざ結婚するとなればいつまでも隠してはおけない。
「私、出ていき、ますっ」
 こんなに優しくされても、自分は何も返せない。
 そう告げてほろほろと涙を流す少女を、ほの子はぎゅうっと抱きしめた。彼女が背負ってきたものがあまりにも重すぎて、抱きしめずにはいられなかった。
「亜紀ちゃん、聞いて。よく聞いて」
「……っ」
「私たちはね、この家の人たちはね、亜紀ちゃんにもう十分、返せないくらいのものをもらっているの。亜紀ちゃんがいなかったら、亜紀ちゃんと出逢えてなかったら犬くんは、犬次郎くんはね、絶対に私たちに心を開いてはくれなかった」
「……」
「犬次郎くんが生まれつき強すぎる神通力を持ってることは知ってるでしょう? 犬次郎くんは私たち生身の人間を、人間の世界に絶望して見切りをつけていた。自分からあちら側の世界へ行こうとしていた。もう誰にも止められないと思ってた。それを、亜紀ちゃんは犬次郎くんを私たちのところに繋ぎ止めてくれた。感謝してもしきれないくらい、何をしてももう返せないくらい大きなものを、私たちはもうもらっているの。だから、亜紀ちゃんが気に病むことなんて何もない。亜紀ちゃんはここにいていいの。お願い、ここにいて。出ていくなんて言わないで!」
 くすんくすんとひとしきり泣いた後、亜紀はほの子の腕の中でこっくり、こっくりと頷いた。そして唐突にかくっと全身から力が抜けて気を失った。
 静かに寝かせてやり、頬に手をやると熱は殆ど下がっていた。彼女はここにいてもいいと言ってもらえて安心して、最後まで張り詰めていたものが切れてしまったのだ。
 布団をかけ直してやりながら、ほの子はぐすっと鼻をすすった。どうして彼女ばかりこんな辛い目に遭うのかと思うと胸が痛んで涙が溢れそうだった。だが、自分が泣いたところで何が解決するわけでもない。
 障子戸を開けて部屋を出ると、中でのやりとりが筒抜けだったろう犬次郎が複雑な表情を浮かべていた。
「犬くん……」
「……ほの子さん」
 彼は今にも泣きそうに顔を歪めて、兄嫁に言った。
「今の話、亜紀が起きて覚えてなかったら、何も聞かなかったことにして下さい。あいつは律儀だから、こんな状況じゃなくて、面と向かって話したいと思ってると思うんです」
「ええ、わかってる」
 喩え覚えていたとしても、彼女は犬次郎が聞いていたことを知らない。こんなふうに彼女の弱味を知るのは卑怯な気がした。
「ねえ、犬くん、」
「俺はっ ……子供を残したいとか、考えたこと、ないんです。こんな力を、残したいだなんて、一度もっ」
 他人に、血の繋がった家族にすら心を閉ざす原因となった強すぎる神通力は犬次郎自身をも苦しめてきた。御神体たる『彼女』がいてくれなければ心が壊れていただろう力を憎んでさえいた。こんなものがなければ普通に、人並みに生きられただろうにと、疎んで疎んで疎み続けて生きてきた。
 子供を作って、もしもその子にこの力が受け継がれてしまったら。
 考えるだけでぞっとした。
 だから、
「俺は、亜紀が生きていてくれさえすれば、それでいいんです……」
 きっと、両親はともかく一族の人々は自分が子供を残すことを期待していることだろう。厄介な御神体と交流を持てるものを絶やしたくないというのが彼らの本音なのだ。特に『彼女』の姿を見、意思の疎通が自由にできる犬次郎を当主にと望む声も少なくはない。
 子供を残したくないなんて親不孝だとわかっていても、それでも嫌だった。それだけはどうしても受け入れられなかった。どんなに愛しくても大切な女性に触れられない理由がそこにあった。
 そんな切な思いを感じ取って、ほの子は口元を覆った。涙が出そうだった。
「だから、ほの子さん」
 犬次郎は困ったように微笑んだ。
「お腹の子供、大事にしてください」
「え?」
「たぶん、自覚症状が出てくるのはもう少し先だと思いますけど、その子は元気に産まれて来られます。でも、無理はしないで下さい。手伝えることは手伝いますんで」
 嫌でも視えてしまう。
 だけどこんなめでたくて嬉しいことなら、偶には視えることに感謝してもいいと思う。最近はそう思えるようになった。
「え、え? 本当、に?」
「はい。まだ黙ってた方がいいですか?」
 にくい心遣いをみせるようになった義弟に、ほの子は明るく笑い返した。
「もう! 犬くん、そろそろお義姉さんって呼んでくれてもいいんだからねっ」
「はは、そうですね。努力してみます」
「もう……いいわ、早速報告してくるから。犬くんが言うなら間違いないもの。亜紀ちゃん、熱は下がったけどしばらくは寝てると思うから、起きたら教えて。ちゃんと御飯食べないとだめなんだから」
 義弟が頷くのを見て、ほの子は満足そうに微笑んで母屋の方へと歩いて行った。いつもより、少しゆっくりめに。
 犬次郎は亜紀が寝かされている部屋に入り、はあ、と肩を落とした。
「お前、どんだけ秘密抱えてんだよ……」
 僅か十五年しか生きていない、今にも壊れてしまいそうなその小さくて華奢な身体に。
 ずるずると壁を擦るようにして座り込む。
 本当に自分なんかでいいのだろうか。自分なんかが彼女を幸せにできるのだろうか。考え始めたらきりがない。いやいやと首を横に振って、自分の頬を叩く。
 今はただ、早く彼女の体調が回復してくれることだけを願えばいい。話はその後で十分だ。犬次郎はそう思い直して、まんじりとして夜を過ごした。

 目が醒めた後、亜紀はけろりとして出された食事を平らげた。熱も下がってすっかり元の調子が戻ってきたが、衰弱した分体力だけが追いつかず、一日の大半を縁側のある部屋でのんびりとしてすごすようになった。時には洋書を読みふけったり、写経したり読経したりと意外な一面も見せたが、犬次郎の、
「いや、うち宗派違うし」
 との生真面目な発言に笑い吹き出した。一応神道の作法を則ってはいるものの、若干毛色の異なる神を奉っているこの神社では、まあ仕方がない。
 忙しいことに慣れすぎて、目を覚ました後は暇だ暇だとぼやいていたが、昼間は写経で精神修養と決めてからは大分落ち着きをみせてきた。それでも己の半身たる弟がいないことが効いているのか、十日ほどはずっとふさぎこんでいた。
 それでも随分と明るさを取り戻した亜紀は、写経しながら縁側に腰掛ける男に問い掛けた。
「……そういえば、アンタ、だいぶ前に野木中尉に無茶言ったでしょ」
「なんのことだ?」
「砂子のために仕事の紹介状書けだなんて、アンタにしちゃ気の利いたことだけど、砂子自身に口止め忘れたら本末転倒じゃない?」
 情報というのは思わぬところから漏れるものである。
「別に……、ちょっと世話を焼いてやっただけだよ。お前の弟の手伝いしてた時とか結構差し入れなんかもらってたしな。恨み辛みは消しにくい感情だけど、やり直す機会くらいあったっていいと思ったんだ」
「やり直してみせた経験者の言葉は重みが違うわねえ」
「俺はお前の意思を尊重しただけだ」
 ぷいっと横を向いた男の言葉を聞いて、亜紀は目を細めた。
「前にもそう言ってくれた人がいたけど、アンタの方が優しいかもね」
「は……?」
「いいえ、違うわね。あの人は私の言葉を尊重してくれただけだわ。意思を尊重してくれたわけじゃない、か。全然違うわね」
「何の話だ?」
 彼女はしれっと答えた。
「昔の男と比較してみただけよ」
「っ」
 ごふっと妙な音を立てて吹き出す犬次郎を見て亜紀はくすくすと笑う。
「ほーんとうに、犬はからかい甲斐があるわね」
 亜紀は筆を置いて軽くのびをした。
 小山の上に立つ神岡家の屋敷は全体的に日当たりが良くて、特に縁側は眩しいくらいだ。家事一切を仕切るほの子は『このくらい食べなきゃだめ』と亜紀に一定の食事量を課し、しかしその量が彼女にしては少し多めなので、食後は動くのがかったるくて仕方がない。
「あぁ……お昼寝したら気持ちよさそう……」
 少し前までの彼女ならそんな当たり前でのんびりとした誘惑に負けそうになることはなかったのだが、特別やることがなく、平和な日常が続けば無防備にうたた寝もしてみたくなるというものである。それにごろんと横になったところではしたないと咎める人はここには誰もいない。
 縁側の犬次郎も、
「なら、すればいいだろ」
 とさも当然のように誘惑に負けることを勧めてくる。他意はなくともそんなふうに言われたのは初めてだったので、余計に目がとろんとしてきた。忙しすぎた日常から解放されると、一日はこんなにも長いのだと思い知らされた亜紀は口元を隠してふああと欠伸した。
 いけない。本当に眠くなってきてしまった。
「お昼寝かあ……それも悪くないわねえ」
 微睡みかけていると、こんこんと壁を叩く音と男の声が思考に割り込んできた。
「気持ちよさそうなところ悪いが、起きられるかい? それとも、君が起きるまで待ってた方がいいかな?」
「……っ」
 目をかっと開いて両手で口元を隠す。一気に目が醒めた。縁側の端に洋服を着た男が立っていた。
「まあ、君の可愛い寝顔が見られるのなら私はそれでもいいけれど」
「てめ」
「康一郎さん! なんでここにっ」
 慌てすぎて舌を噛みそうだった。こんなだらけたところを一番見られたくない人に見られてしまった。藤野康一郎という男はこういうちょっとしたことを後々まで話題にしてくれるので、できるだけつけ込まれないよう規律正しく見せてきたのに台無しである。大声を出してしまったことさえ不覚だった。
 さっと身形を整えて縁側に出る。
「……、お一人でいらしたんですか? いつもと衣装が違いますけど」
 亜紀は怪訝そうに問う。彼にはしっかりと、用事もないのに、そして一人で来たら階段の上から突き落とすと念入りに釘を刺しておいたから尚更だ。
「まさか。実は途中まで尚之先生と一緒だったんだが、少し休んでいくから先に行ってくれと言われてしまってね」
「お父様? お父様も来てるんですか?」
「ああ。もう少ししたら到着されるんじゃないかな? 先生にはちょっと、ここの階段はお辛いようだ」
 ああ、と亜紀も犬次郎も納得せざるを得ない。脂の乗った現役軍人と寺子屋の雇われ教師ではそもそもの体力に差がありすぎる。ましていつもぜーぜーと死にそうな顔になりながら上ってくる尚之のことだ。途中でへたばって休んでしまっても無理はない。
 康一郎は手を伸ばして亜紀の顎に指をかけ、無造作にくいくいと彼女の顔を左右に動かした。
「熱を出してまた倒れたと聞いて心配してたんだが、だいぶ顔色が良くなったじゃないか。安心したよ」
「ええ、康一郎さんがいらっしゃるまでは気分もかなり良かったんですが……急用ですか?」
「いや、今日は本当に様子を見に来ただけだ。自分の目で確認しないと気が済まなくてね。ほら、その証拠に、おみやげだって持ってきたんだぞ」
 不機嫌そうに細められていた亜紀の眸が、差し出された包みを見て僅かに動揺した。
「そ、れは」
「そう。君の大好きな長命寺の桜餅だ。東京まで行って朝一番で買ってきたんだ」
 亜紀は一度考え込むように瞼を閉じてから、ふるふると包みを受け取って、次に破顔した。
「甘いものに罪はありませんから、これはありがたく頂戴します。ありがとうございます」
 ほくほくと嬉しそうに浮かんだその笑顔を見て、犬次郎は少なからず衝撃を受けた。彼女がころっと態度を変えたこともそうだが、顔をぞんざいに扱われても一切文句を言わず、むしろ慣れたやりとりのように見えて胸にぐっとくるものがあった。自分は彼女の手をにぎることさえ勇気を振り絞っているというのに。少なからず嫉妬していることを自覚して黙り込んでいると、ちらと男の目が犬次郎を見た。嗤っていた。
「……っ」
 亜矢といい、目の前の男といい、どうしてこう自分に当てつけがましいことをするのだろうか。自分はそんなにも人の目に情けなく映っているのだろうか。否、実際彼女に対して弱気になってしまうのは認めるが、こうもわかりやすく当てつけられるとむかっとくる。亜紀がこの場にいなければ掴みかかっている勢いだ。
「ところで亜紀。終わってなくても構わないんだが、先日頼んだ件の進み具合はどうだい?」
「ああ、例の急ぎのものですね。あれでしたら終わってます。丁度良いので、今部屋から取ってきますね」
 大好きな菓子を大切そうに胸に抱えて亜紀は早足で廊下を駆けていく。実に嬉しそうな足の軽さだ。
 やれやれと縁側に腰掛けた男を、犬次郎はじろっと睨み付けた。
「俺に、何か恨みでもあんのか」
 ぶっきらぼうな苛ついた声に、康一郎はあくまで笑顔で返す。
「君は馬鹿ないのかい?」
「な」
「亜紀の許嫁。しかも彼女自身が選んだ男。まして一つ屋根の下ときた。この国、いや、全世界の男に恨まれても文句はいえないと私は思うけどねえ」
 うぐ、と言葉に詰まったのはその理由が嫌でも納得できてしまったからだ。思えば亜紀が結婚するといった時、自分もこの男に嫉妬したのだから人のことは言えない。当てつけたくなっても無理はない。
 無理はないが、やはりいらっとくる。
「別に、あいつが母屋に来るのは昼間だけだし。人様に羨ましがられることは何もねーよ」
 おや、と康一郎は目を見開いた。わざとらしい驚き方だった。
「私はてっきり、とっくに床を共にしていると思っていたのだが、違うのかい?」
「は……?」
「それは可哀想に。お預けを食らっているわけだ。しかし意外だな。噂を聞いた限り、君は遊郭の女性に結構な人気があるそうなのだが、人違いかな。こんなに奥手な男だとは聞いていないぞ」
 喧嘩を売られている。あまりにもはっきりとわかりやすい明確な敵意を持って、喧嘩を売られている。ここまで馬鹿にされて大人しく引き下がる気はしなかった。何しろ藤野康一郎は亜紀を一度見捨てているのだ。
「てめえ、人が黙って聞いてれば」
 康一郎は犬次郎を無視してどこかに手を振った。
「ああ、尚之先生、こっちですこっち」
「はー、やっと着いたー。本当にここの階段はきついねえ。あれ? 犬次郎くん、どうしたんだい?」
 少女の父親にきょとんと見つめられて、怒りに震えた拳は行き場を失う。ぷるぷると立ちつくしていると、件の少女が戻ってきた。
「あら……?」
 その場の空気に敏感な亜紀は、康一郎に大きな封筒を渡しながらそっと囁いた。
「あんまり犬で遊ばないで下さいよ。単純ですぐ引っかかって面白いのはわかりますけど」
「え、なに、犬次郎くんは面白いのかい?」
「ええ、とても愉快な人物だなあと感心していたところです」
「……っ」
 丸聞こえの会話に顔が赤くなる。
 亜紀はそれをまるっと無視した。
「で、お父様はどんなご用件でいらっしゃったんですか?」
「ああ、えーと、うん、あのね」
 尚之はごそごそと懐から分厚い文を取り出して、愛娘に差し出した。
「誠一くんから文を預かってきたんだ」
「ぅげっ」
 彼女がここまでの反応をしてしまうというのはとても珍しい。犬次郎は怒りをひっこめて首を傾げた。
「せいいち……?」
 奇妙な声を出してしまったことが恥ずかしかったのか、亜紀はこほんと咳払いして遠い目をした。
「私の、叔父様よ」
「って、確かお前のおふくろさんの……」
「そう。母の腹違いの弟さん。うわー……それ、どうしても受け取らなきゃだめですか、お父様」
 ずっしりとした厚みが何事かの執念を感じさせる。
「いやあ、受け取ってもらえないと私も帰れないんだよねえ。それに亜紀の婚約報告の返事だから、読まないわけにはいかないと思うんだ」
「あー、あー、あー……わかりました。いただきます。ああ……」
 実に嫌そうに文を受け取った亜紀は、それをそのまま床に置いて、深呼吸と共にばっと投げ飛ばす勢いでそれを開いた。
「長い! いつものことながら!」
 開く前からわかっていたことだが、少女が思わず脱力してしまうのも無理はないほど、その文は長かった。
 季節の挨拶から始まり、姪の身体を心配する言葉、顔を見せにきて欲しい云々、逢いたい云々、帰ってきて欲しい云々、戻ってきて欲しい云々、自分の養子になって欲しい云々、挙げ句の果てには取り乱した字で、
「世が平安なら亜紀を私の正妻にできたものを」
 などと書きつづられている。頭の痛くなるような内容で、受け取りを拒否したくなる気持ちも、わからなくはない。むしろ受け取りたくない。
「相変わらずですね。誠一様は」
「うーん、いつも通りだねえ」
 慣れているのか尚之と康一郎は苦笑しただけだが、犬次郎は初めて見た噂の溺愛っぷりに絶句してしまった。読んでも読んでも終わらない。ばっさばっさと次から次へ開かれる半紙の長さは部屋の直径よりも長い。電光石火の勢いで読み進め誰よりも先に締めに辿り着いた亜紀は無言で文をくしゃくしゃと丸め始めた。
「犬! 火種持ってきなさい! 火!」
「お、お、おおう?」
「こんな気違いな文、触るのも汚らわしいけど存在自体気色悪い残しておくなんて許せない! 消す! 燃す!」
 丸めた次はびりばりと破ったり拳でだんだんと叩いたり、彼女にしては珍しく完全に取り乱していた。
「今時吉原の遊女だってこんな時代錯誤で長い文書いたりしないわよ……お父様! 叔父様からの文は全部読んだ上で必要な部分だけ切り取ってきてくださいと言ってるでしょう!?」
「それがねー、ばれちゃってねー、全文届けないと殺すって脅されちゃってー」
「この役立たず!」
 愛娘に役立たずといわれてしょんぼり落ち込んだ父親を放置して、彼女は本当に文を燃やし始めた。風に乗ろうとする紙片を瞬時に捕まえて炎につっこむ。一言一句他人の目に触れさせたくないという、彼女なりの執念がそこにあった。
「……ふ、ふふっ 全部燃えちゃいなさい……!」
 なんとなく、彼女が槻路家を出た理由がここにもあったというのは邪推だろうか。否、恐怖を感じるほどの愛情が籠もっていた。他人の感情に敏感な彼女なら、幼くてもおぞましいほどの愛情を感じて怯えていたのかもしれない。
「で、誠一殿はなんと仰ってたんだ?」
 チラと見ただけで読もうとしなかった康一郎は亜紀に問うた。その亜紀は亜紀で、見たこともないくらい不機嫌な表情を浮かべて、はんっと鼻で笑った。
「ひとまず顔を見せに来い、話はそれからだ。……だそうです。まったく、時間と紙と墨の無駄遣いもいいところです。大体あの屋敷に行ったら外へ帰す気なんてさらさらないのに良く言いますよね。こういう人と諦めてても頭にきます」
「あのー。亜紀、返事、は……」
「お父様の口から直接お伝え下さい。私は、槻路の家に戻る気はさらさらありません。従ってお屋敷へ行く必要もありません。お父様の旧姓を名乗るほうがよっぽどましです! と」
「えええええ、そんなこと言ったら誠一くん怒って」
「知りません! 康一郎さんも用事が済んだのならさっさと奥様の元に帰られたらどうです? あの衣装部屋の服は装飾品も含めてすべてお譲りしますと麗子さんにお伝え下さい」
 きらっとした笑顔に逆らうことなく、康一郎は肩を竦めてじゃあと足軽に去っていった。
 叔父の文が届いたときの亜紀に逆らうべからず。彼の中での鉄則である。最初に甘いものでご機嫌を取ったが、やはりこうなってしまった。まあ元気そうなのが確認できたので康一郎としては問題ない。許嫁の男が殊の外彼女に弱いことも知ることができた。今まで彼女に惚れた者はしつこく愛を囁いて彼女を求めていたので、ある意味面白い組み合わせだと思う。
 それに、
「亜紀があんな無防備な姿をさらすなんて、やはり妬けてしまうね」
 彼女は最後まで自分には綺麗に取り繕った姿しか見せなかった。あんなふうに午後をまったりとしてすごす姿など思い浮かべるのも困難なほどに。
「まあ、どうせ切っても切れぬ仲だ。表舞台から身を引いても、裏で色々頑張ってもらわないとね」
 康一郎が去った後、ぜえぜえと文をすべて炎に投げ入れ終わった亜紀はようやく落ち着きを見せた。
「ったく、叔父様はろくなことしないんだからっ」
 ぷりぷりと怒るくらいなら、先程の激怒に比べれば可愛いものだ。
 さすがに騒ぎに気が付いたのか、ぱたぱたとほの子がやってきた。
「どうしたのー? なんだか騒がしかったけど、あら。亜紀ちゃんのお父さん、いらしてたんですか?」
「ええ、つい先程。どうぞおかまいなく、もう帰りますので」
「お父様」
 亜紀は両手を合わせてぱんと音を立てた。
「ほの子さんがこの度めでたくご懐妊されたそうです。お祝いの言葉のひとつも述べてから帰って下さい」
「え、あ、そうなんですか? それはおめでとうございます。鶴太郎さん喜ぶでしょうね、初孫ですから」
「ありがとうございます。鶴お父様ったら、今から名前はどうしようとか、産婆はどうしようとか、気が早くて」
「無理もないですよ。子供ができるというのは、とても、とても嬉しいことですから」
 へにゃあと幸せそうな笑顔に、それを見た三人は笑い返すのに数秒かかってしまった。子供がいなければ命を絶っていた父親の言葉にはずっしりとした重みがある。亜紀の眸にふっと陰が落ちたことに尚之は気付かないようで、
「いつかね、私も孫を抱いてみたいものだけど」
 へにゃへにゃと笑って愛娘の頭を撫でた。
「まずはしっかりと体調を戻すことだけを考えなさい。亜紀が倒れる度に、私は心臓が止まりそうになるよ」
「……はい。ほの子さんをはじめ、みなさんにとても気を遣っていただいていますので、ゆっくりと養生したいと思ってます」
「うん、そうしなさい。それと、あまり無茶をしないように。できないことはできないって言っていいんだから。ほの子さん、大変な時になんですが、娘をよろしくお願いします」
 深々と頭を下げた尚之は、がし、と犬次郎の肩を掴んだ。
「時に犬次郎くん。今日はこれから何か予定があったりするかな?」
「へ? あ、いや、家の手伝いがある程度で……別に、これといって」
「なら丁度良い。ちょっとお茶でもつき合ってくれないかな?」
 意外な申し出に亜紀も犬次郎も驚いた。
「お父様?」
「いや、なに、娘婿と親交を深めたいと思っていてね。よく思い直してみれば、二人きりで話したことって一度きりだし」
 三年前、彼に娘の許嫁として名を貸して欲しいと、頭を下げた一度きり。
 それから殆ど逢う機会もなく、先日の一件からちょくちょく顔を合わせてはいたが事態が事態だっただけにろくに話はできなかった。
「できれば晩酌にもつき合ってくれると嬉しいんだけどね」
 犬次郎は一瞬後ろの二人を振り返ったが、大人しく素直に頷いた。
「別に、いいですけど」
 断る理由は特に浮かばない。
 むしろ呼び出されて当然のような気もしたので、犬次郎はその場でほの子に自分の分の夕飯はいらないから、と告げて尚之と肩を並べて歩き出した。
「お父様、何なのかしら……」
「さあ……でも、可愛い娘を預ける相手だもの。話をしたいと思っても不思議じゃないと思うわ」
 亜紀はうーんと首を傾げた。
 果たしてあの狸な父親が、それだけを理由に彼を呼び出したりするだろうか。彼女の疑問が的を射ていたことに、幸いにして誰も気が付かなかった。
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