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胡蝶の天秤 作者:黒川うみ
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(四)

 件の彼女に関する諸見(四)――見守ってきた老人の見解

 胡蝶。そう呼ばれるに相応しい女に育ててくれとあの日若は仰いました。
 幼くして母を亡くした娘さんに、よくもまあぬけぬけとと思わずにはいられませんでしたが逆らえませんでした。いいえ、若にではありません。幼いお嬢様の強い決意に私は屈したのでございます。
 初めてお逢いした時、お嬢様は確か四つのお歳でした。まだ旦那様がご健勝の頃、お知り合いだった叔父上に連れられて当家を訪ねられたのです。何とも愛らしい双子の男女のお姿に、お客様や使用人一同ほっこり笑顔を浮かべたものでございます。利発なお子様方で、既に名家の風格をお持ちでした。そしてもっとも驚かされたことは、お子様方同士の会話がすべて外国のお言葉で交わされていたことでありました。私のような時代遅れの堅物には、もはや何を仰っているのかさっぱり理解できませんでしたが、まだ学生であられた若は強く衝撃を受けたご様子でした。
 その後、若は外国語を中心に様々な勉学に熱心に取り組まれ、軍に入隊した後も素晴らしい成績を上げられました。まったくもって時代は変わるものでございます。私の若い頃は皆揃って髷を結ったものですが、それはもはや遠い昔のことなのでしょう。
 お嬢様が再び当家にいらっしゃったのは、お母上が亡くなられてひと月も経たない頃でした。お一人で、共もつけずにおいでになったのです。若や私が覚えていなければ、危うく門番に追い返されるところでした。最初は体調を崩された旦那様のお見舞いかと思いました。いえ、他に当家においでになる理由を思いつけなかったのです。ですがよくよく考えれば、叔父上に連れられずにおいでになったのですから、そんなわけがなかったのです。
 お嬢様は正式に軍に所属した若に、ご自分の能力を売り込みにいらしたのです。
 いっそ恐ろしいほど賢いお子様でございました。もちろん、最初は若も私も、真に受けることなどできませんでした。しかし、お嬢様は根気よく当家を訪ねられ、二年をかけて若を口説き落としたのでございます。何とも、見事なお手前でございました。たった八歳のお子様が父のため弟のため、家のために、二十近くも歳の離れた男を論破しきったなどと誰が信じるでしょう。
 お嬢様はその後当家預かりの身となり、さらに二年の歳月を費やしてその聡明さと美しさに磨きをかけられ、この国を代表する人々の世界で働き始めたのです。僅か十歳の夏のことでございました。お坊ちゃまが当家においでになったのはその後です。どうやらそれまで姉君の居場所を知らなかったようでございました。
 胡蝶、そう呼ばれるに相応しい方になられたと、私は思っております。ですがお嬢様の心は当家にいらした時と同じく孤独のままのような気がいたします。時折見せるお寂しそうな微笑みに、この老人は胸が痛むのでございます。
 まったく、若もいじわるをしないで素直に接してさしあげたら、少しはお心が紛れるというものでしょうに……。


 この小さな家に双子が移り住んで二年程が経つ。
 ほぼ毎日、迎えの馬車がやってきて亜紀が、時には亜矢がそれに乗って出仕する。だが、朝に馬車が二台連れだってきたことはなかった。滅多にないことだが二人共一緒に出仕するか、多少ずれた時刻に二台迎えにくることはあっても、同時にやってくるという珍事は初めてである。
「え、なに?」
 朝の茶をそれぞれ味わっていた二人は遠くに聞こえた音だけで顔を見合わせた。
 今日から仕事に復帰すると主張した亜紀を、せめてもう一日だけ休みなよと亜矢が説得して、珍しく亜紀が折れた後のことだったので余計驚いた。ひとつ珍しいことが起きれば、立て続けに珍事が続くものである。
「二人とも呼び出し? それなら車はひとつでいいわよね。別々に仕事なのかしら」
「もー、せっかく説得したのにー。馬鹿藤野っ」
「亜矢、外では口に気をつけなさいよ?」
「わかってるよ」
 二人は軽く言い合いながら、手早く身支度の仕上げを済ませる。外套を羽織って鏡を覗くだけなのだが、この手順ひとつを省くと仕事への気持ちの切り替えできないばかりか、うっかり寝癖がついてようものなら出仕してまず叱られることになる。
 外に馬車が停まって玄関が叩かれた後、覗き窓から迎えの姿を確認して玄関の鍵を開ける。
 馬車の前に三人の軍人が、さらにその前に洋服を着こなす白髪の老人が頭を垂れて二人を出迎えた。
「おはようございます。お迎えに上がりました、亜紀お嬢様、亜矢坊ちゃま」
 代表して白髪の老人が挨拶をする。
 亜紀は驚きつつも平常心を保ちながら挨拶を返した。
「おはようございます、田中さん」
「おはよ……って、え、なんで田中さんが?」
 きょとんとした亜矢を老人は珍しく行儀が悪いと叱りつけなかった。
「昨日は大変失礼致しました。私の目が行き届かないために、とんだ不躾者が迎えに来たようで」
「ああ、いえ、私たちの身分は公にされていませんから、軍服さんでは仕方ないかと」
「まして亜紀お嬢様の体調が優れないというのに、うちの若が無理を申したようで、本当に申し訳在りませんでした」
 彼、田中勝一は藤野康一郎の実家の家老であると同時に亜紀と亜矢の教育係でもあった男だ。彼の躾は過剰と思えるほど厳しいものだったが、おかげで今、二人は大人に混じっても遜色しない存在として働けている。特に亜紀は、甘ったれだった弟を良い方向に矯正してくれた恩人だと思っている。逆に亜矢はちょっと苦手なのだが、齢七十を超える現役家老には頭が上がらないままだ。
 ただし、彼への信頼は二人とも、決して揺るがない。もしかしたら上司の藤野よりよっぽど頼りになるかもしれない最後の砦のような老人だ。そもそも藤野でさえ彼には頭が上がらないのだから、大した人物である。
「それで、亜紀お嬢様。お体の方はもうよろしいのですか?」
「心配をかけてごめんなさい。昨日には熱も下がってましたし、今日は気分も良くて、いつでも仕事に戻れると弟にも言ったのですけれど」
「だからだめだって! ……もう、田中さんも止めて下さいよ。せめて今日一日、大事を取って休むべきだって言ってるのに全然聞いてくれないんです」
「あら、さっきちゃんと頷いたじゃない。今日の仕事は亜矢に任せるって」
「だって……」
 と、亜矢は拗ねたように二台の馬車を見る。いくら亜矢が優秀でも、二カ所同時に仕事へ出ることはできない。片方を亜紀が担うしかないのだ。
 亜矢の言いたいことを察して、田中はそっと片手を立てた。
「いえ、本日のお仕事には亜矢坊ちゃまにお願いしたいとのことです。亜紀お嬢様にはお手間をかけますが、若が心配していらっしゃるので、少しだけ顔を出して頂ければと思いまして」
 それを聞いて、亜矢はぱっと笑顔になった。
「じゃあ姉さんはすぐに帰れるんだね? 仕事じゃないんだね?」
「当然でございます。亜紀お嬢様は働き過ぎなのですから、きちんとお休みを取って頂かなければ。若にも重々申しつけておきましたゆえ」
「よかった、安心したー。田中さんありがとー」
 飛び跳ねて喜びを体で表現しかねない亜矢を老人はうまく馬車の一台に誘導する。
「それでは亜矢坊ちゃま、いってらっしゃいませ。くれぐれもお体にはお気を付けて」
「はい、行って参ります」
 見事に、うまい具合に亜矢を調子に乗せて一台見送ると、老人はもう一台の馬車に亜紀を誘った。
「では、亜紀お嬢様はこちらへ」
「ええ、ありがとう」
 差し出された手を取り、亜紀は優雅に馬車へ乗り込んだ。すっと上質な腰掛けに身を沈め、瞼を閉じる。
 後から乗り込んできた田中に、亜紀は小声で尋ねた。
「行き先は、藤野中佐のお屋敷ですね」
「左様でございます」
 あまり良い思い出のある場所ではないが、この家老を前に溜息などつけない。
 亜紀はただ押し黙って車輪の振動に身を委ねた。
 屋敷に呼びつけるということは、どうせきっとろくでもない用事に違いない。わかっていたけれど、彼女に拒否権はなかった。どんなに気分が乗らなくても行かないわけにはいかないのだ。上司に逢ったらちゃんと笑顔を作らなくてはならない。どんなに気が重くても。

 彼女が大人の世界で働くために最初に世話になったのが藤野中佐の屋敷だった。案内がなくても勝手知ったる場所である。だから家老とは玄関で別れ、一人で長い廊下を進む。無駄に広い屋敷の奥の奥に藤野の執務室兼寝室がある。主な業務は軍の執務室で行っているため、ここでの彼の仕事は当主としての雑務に他ならない。
 軽く扉を叩き、亜紀は返答を待たずに扉を開いて足を踏み入れる。
 この時間に家にいるということは今日は非番のはずだ。ということは、扉を叩いて返事を待っても無駄に決まっている。
 藤野中佐――藤野康一郎は、休みの日はとにかく惰眠を貪る男なのである。普段ばりばりに、過剰気味に働いている反動なのかもしれないが、呼び出される方はたまったものではない。
 案の定、すっかり朝日が射し込んでいるというのに、彼は洋式ベッドに埋もれてまだ眠っていた。
 亜紀は後ろ手で部屋の鍵を掛けると、寝ている部屋の主の元へ歩み寄った。
「……康一郎さん、起きられないのがわかっているなら、朝っぱらから呼びつけるのはやめてもらえませんか」
 声をかけても返答はない。
 わかっている。これが彼の手なのだ。
 無駄に広いベッドの縁に腰掛け、殺風景な部屋を見て亜紀は溜息をつく。
「本当に、亜矢が知ったら、あなた殺されますよ」
 気配なく背後から伸びてきた男の腕に亜紀は逆らわない。
「大丈夫さ。君は言わないから」
 軽々しく後ろに倒されても、彼女は抵抗のかけらも見せなかった。
 乱れてしまった黒髪を指に絡ませ、彼は寝ころんだまま愛しそうにそれに口づけをする。
「それに、そういう契約だろう?」
「わかってますよ」
 頬に男の大きな手が添えられ、彼の顔が近づいてくる。亜紀は無表情に瞼を下ろし、口づけを受け入れた。こうして彼の口づけを受け入れるのは何度目だろうか。数えたくないから数えていないが、もう随分と長い付き合いになる。
「まったく、休みを取ったら取ったで呼びつけるんですから、こっちは全然休みになりませんよ」
「なあに、私だって病み上がりの女性に乱暴はしないさ」
「どうだか」
 嘆息しかけた少女の唇を男は強引に塞ぐ。それで満足したのか、康一郎は少女を抱き起こして後ろから抱きしめた。
 まるで幼い子供かおんぶお化けのようだ。
「今日はちゃんと、用件があって呼び出したんだから、勘弁しておくれよ」
「どうだか……」
 亜紀の黒髪を愉しげにいじる男は、ふむ、とわざとらしく考え込んでみせた。
「どの話からしたら君は納得してくれるかな。やはりあれかな。いやしかし」
「人の耳元で囁きながら考え込むのはやめてください」
「だって、私は君の髪が好きなんだ。この見事な黒髪、手触り、香り、つい触りたくなったって仕方ないじゃないか」
「あなたが触るのは髪だけじゃないでしょうが」
 胸元に伸びてきた手をぱしんと払いのけると、彼は愉快そうに笑った。
「私は亜紀のその強気で淡泊なところにも惹かれているのだがね」
 康一郎は華奢な肩を優しく抱きしめて囁く。
「いい加減諦めて、私の妻になってくれないか」
「それだけは絶対に嫌です」
 取りつく島もない返答。だがこれは既に幾度となく繰り返されたやりとりである。
「仕事だけでも面倒が多いのに、あなたの世話までするつもりはありませんよ。私が得をすることなんてひとつもないのに」
 むしろ損しかしない気がする。
「士族と軍人は、まだお嫌いかね?」
「私が嫌ってるんじゃなくて、私の周囲に配慮してるんです」
「おや、それはよかった。嫌われてるわけじゃないんだね」
「あなたのことは嫌いです」
「うーむ、残念」
 大して気にした様子もなく、しかし少女を離すつもりはないようで康一郎はそのまま話を続けた。
「まず、ひとつめの話。最低でも半年から数年先になると思うんだが、君たち二人に海外への使節団と共に遊学に出て欲しいという要望が出されている」
「遊学、ですか?」
「もちろん、結構な危険が伴うから、断ってくれてもいい。それに二人同時にいなくなられるのはとりかえしのつかない痛手になりかねないしね。上も、本人たちの意思を尊重したいと言ってる」
 亜紀は目を細めて少し考える。
「……私は、ここを離れるつもりはありません。ただ……」
「問題は亜矢だな。君たちを別々に呼び出したのはそういうことだ。君の弟は、君が行かないといえば行かないだろうし、行くといえば行くだろう。困った子だ」
「ええ……」
 まったくもってその通りだった。
 姉離れのできないあの弟が一人で海外へ行く? 想像もつかない。
「彼には別個、話をしてみるつもりだ。君にその気がないのなら、彼個人へ要望が出ていることにするよ」
「それがいいでしょうね。私への相談は不可にしておいて下さい」
「もちろんだ。では二つめの話に移ろう」
 亜紀の小柄な肩に顎をかけて、康一郎はより声を低くして囁く。誰かに聞かれたらまずい用件の時の動作だ。
「『茅吹の君』への薬が仕上がったから、次の話が済んだら届けてあげなさい」
 そっと袖の中に何かを落とされたのを感じて、少女も声を落として答える。
「……ありがとうございます」
 神妙な表情。僅かに陰を落とした横顔は艶めいていて、男心をいたくくすぐる。こんな表情を見せられたらどんな男でもころっと恋に落ちてしまうだろう。本人に自覚はないのだから、まったく、罪深い話である。
 もっともそうなるよう育てたのは自分なのだが、自分で魅了されてしまっては本末転倒だった。
「で、肝心の三つめの話だが」
 康一郎はようやく少女を離し、ベッドの縁へ腰掛ける。
 体を鍛え上げた軍人と並んで座るとどうしても亜紀の華奢さがより強調されてしまうのだが、どうにもわざとらしい。彼の趣味はこの少女で遊ぶことなので、おそらく意図的に隣に座ったのだろう。
 ひどく真面目な顔をして、上司は彼女の顔を覗き込んで尋ねた。
「野木と見合いをしてみるつもりはないか?」
「……は?」
 完璧な自制心を持つ彼女にしては非常に珍しいことに、きょとんとして僅かに頭を引いた。亜紀が会話の途中で相手の意図を見失うのは何年ぶりだろうと康一郎は吹き出しかけたが我慢した。ここでへそを曲げられては敵わない。
「野木って、野木中尉のことですよね」
「ああ。ちなみに下の名前は蛍一だ」
「それは知ってますけど」
 困惑気味に首を傾げると、長い髪がさらりと揺れる。
「なんで野木中尉なんですか?」
 彼の下について約六年、康一郎が他の男を薦めたことはない。縁談が溢れて困っていたときも、なら自分の妻になればいいとのたまったくらいだ。亜紀にはわけがわからない。
「野木のことは嫌いか?」
「いえ、個人的な感情は特にありません。あなたの息がかかった忠実な部下の一人というだけです」
「士族で軍人だから求婚を断っているのか?」
 改めてそこを突かれると、溜息しかでなかった。
「……というか、あれって嫌がらせでしょう? あなたがやらせてるんじゃないんですか?」
「ひどい言い草だな。私はこんなに君のことが好きなのに」
「私はあなたのことが嫌いです」
「まあ、私は君の弱味を握って、色々脅しているから嫌われても仕方がない。だが、野木は本気だぞ」
「……えぇ?」
 心底嫌そうに亜紀は眉目秀麗な顔を歪めた。
「そういう趣味の人だったんですか? 割と真面目な軍人さんだと思ってたんですが、康一郎さんみたいに人の弱味を突くのが好きだなんて、趣味の悪い方ですね」
「君もなかなか言うようになったじゃないか」
 悪趣味だと指摘されてしまったが、気を悪くした様子もなく康一郎は話を強引に進める。
「それがなあ、野木の奴、本気で気付いてないみたいなんだよな」
「何をです?」
「君らと君らの母親の事件」
 彼女は困惑気味に、さっきとは反対方向に首を傾げる。右頬に手を当てて熟考してから、可愛らしい薄桃色の唇をへの字に曲げた。
「嘘でしょう? だって軍人ですよ? 中尉なんですよ? 昨日今日入隊した人じゃないんですよ? というか、初めてお逢いしたの六年前ですよね?」
「うん。君をこの屋敷に住まわせる少し前から、私の部下だ。だから私もまさか知らないとは思わなくてな。いや、事件そのものは知っていると思うんだが、あの事件と君が繋がっていないようなんだ」
「……とんだ間抜けな部下をお持ちですね?」
「いやいや、昨夜、真っ向から訊かれて私もびっくりしたんだぞ? あいつは優秀なのになんでこう、肝心なところが抜けているのかと。君に厭味をいうなんて大した度胸だと思っていただけに」
 昨夜、という単語に亜紀は溜息をつく。おおよその事情は飲み込めた。
「亜矢ですね? 昨日やけに清々しい顔で帰ってきたと思ったら」
「みたいだな。可哀想なくらい落ち込んでたから」
 双子の弟の軍人嫌いと軍人いじめと、姉に手を出した男への制裁は嫌が応にも有名で、しかし亜矢の立場が立場なだけに下手に逆らえず、軍人たちの間では彼は大変畏れられている。目をつけられたら最後、呼び出しを受けたら故郷へ帰るしかない、とまで言わしめるほど亜矢の仕打ちは徹底していた。
 度胸試しにちょうどいいだろうと上司が黙認しているのもなお悪い。確かにあれを乗り越えて平気な人がいたら、将来有望かもしれないが、人が悪すぎる。
「野木は、かなり見所がある。亜矢にいじめられても、気に入らないところがあるなら直すとまで言ったんだからな」
「……ちょっと、ちゃんと説明したんでしょうね? どんなに努力しても直せないものはあるって」
「面倒だからしなかった。なんだって、休みの前日にあんな惨い話をするために、野郎と居残らにゃならんのだ」
 堂々と胸を張って主張され、思わず頬を張り飛ばしたくなったが我慢する。
 いつものこと、いつものことなのだから、この男の調子に乗せられてたまるものかとぐっと堪える。
「君だって別にいいだろう? 野木は純粋に君に惚れ込んでるんだ。大切にしてくれること間違いなしで、将来有望。実家は田舎だが、一応名門の長男だし。ちょっと抜けてるかもしれんが、結婚相手としては申し分ない。まあ、私ほどではないが」
「冗談も休み休みにして下さいよ……」
「冗談なんかではない。それに君が結婚すれば、亜矢だって姉離れしないわけにはいかないだろう。今のように同じ家に住むわけにはいかなくなるんだ」
 うぐ、と言葉に詰まってしまう。弟のことを持ち出されると弱いのだ。
 確かに、いつまでもこのままではいられないのだが……。
「ですが、父や弟もそうですが、士族で軍人の方との結婚なんて叔父も黙ってはいませんよ」
「そこは、ほら、野木を鍛えるための試練だと思って」
「鬼ですかあなたは」
 我が子を千尋の谷に突き落とす獅子が可愛く思えてしまう。『試練』なんて言葉で片づくほど容易い話ではないのに。
「とにかく、一度、ちゃんと話をしてみてくれ。君も、彼個人を嫌っているわけじゃないんだろう? 結婚を強制するつもりはないし、嫌なら君の口から説明してやるといい。野木もそこまで馬鹿じゃないから、事情を知れば案外大人しく引き下がるかもしれないぞ」
「………………」
 躊躇いを見せる部下に、彼は追い打ちをかけた。
「亜紀、君ももう十四だ。年頃の女なんだ。縁談よけの言い訳がいつまでも通用するとは思わない方がいい。皆疑って、君の隙を狙っているよ。本当に結婚するつもりのない縁談なんて、もう役に立たないんだ。今のところ私が誤魔化しているが、どうせだったら私の目が届く範囲で相手を選んで欲しいね。そうすれば、多少なりとも君を守ることができる」
 いつまでも子供でいられないのはわかっていたが『わかるね?』と優しく諭されれば頷く他ない。
 しょんぼりと俯いた亜紀の頭を優しく撫でて、康一郎は愛しそうに華奢な体を抱きしめた。
 喩え本人が望んだことでも、僅か八歳の幼児を国の暗部に招き入れることを決めた彼は、少なからず後悔して罪悪感を感じていたのだろう。将来を嘱望されている彼が、ありあまる縁談を断って現在も独身を貫いているのは、万一の時自分を妻に迎えて責任を取るつもりだと理解していたから、亜紀はなにも言い返せなかった。
 瞳を閉じて、ぽつりと呟く。
「野木中尉の件は了解しました。でも、母のことをすべて話した上で、彼の反応を見てから決めます」
「そうしなさい。何度でもいうが、野木との結婚を強制するつもりはないから」
「はい……」
 正直、こんなことを言ったら彼女は泣くかもしれないと康一郎は思っていた。そのくらい厳しいことを言ったつもりだった。弟のことも、母のことも、何もすべて亜紀が背負う必要はないのではないかと常々感じている彼だから言えたのだ。家を追い出されたといっても父親は健在で、槻路の跡継ぎだって双子の弟ではなく叔父やその息子など、候補は他にいくらでもいるのだから気に病む必要なんてないはずなのだ。
 ここまで一人で頑張ってきたのだから、そろそろ休んだっていいと思う。
 今の仕事を続けないのであれば、結婚を急ぐ必要だってない。十分に相手を吟味してからでいい。彼女にいなくなられると確かに損害は大きいが、亜紀が望むのであれば、いつでも自由にしてやる覚悟はあった。それをはっきりと告げられないのは、自分の心にも彼女を愛する気持ちがあるからだと自覚している。
 自由にしてやるのにも、他の男に渡すのにも、本当はかなり抵抗があるのだ。
 俯きがちに目を細めて思い悩んでいる少女の顎に手を掛け、強引に口づけを交わす。悩む必要なんてない、自分を選べばいいと思わせるような、濃密な口づけを。
 きっと彼女ももうさほど抵抗はないのだろう。近頃は眉をひそめることさえなくなった。
 仕事を与え、得るために結んだ密約――彼女の体に何をしても許される権限。
 気が向かないときは引っぱたいても良いと言ってあるが、この部屋に呼んだ時は殆ど抵抗されない。
 最初は彼女がどこまで耐えられるかを試すつもりで提案したのだが、亜紀は一度も仕事に対する弱音を吐かなかった。家老の厳しい教育にも耐え、今のように国の誇りと言わしめるまで成長してみせた。満足のいく成果だった。
「亜紀、弱音を吐きたくなったり、泣きたくなったら、いつでも私のところへ来なさい。優しく慰めてあげるから」
「それだけは謹んで辞退させて頂きます」
 彼女に好かれていないのは百も承知だ。泣いてすがって助けを求めてくれるなんて、自惚れてはいない。しかし、亜紀の強気な眸に見つめられることも好きなので、別にいいかと思ってしまう辺り本気で惚れているのだろう。
 彼女を、本当の意味で雁字搦めに束縛することはいつでもできる。それは、自分だけに許された特権だ。だからもう少しだけ考える時間を与えてやる余裕がある。彼女がどんな選択をしても、自分は笑顔で、時には厭味も交えてそれを受け入れてやろう。自分だけは。
「じゃあ、外で野木が待ってるから、行きなさい」
「はあ!?」
「善は急げというだろう。あんまり野木を思い悩ませるのもどうかと思ってね。今日の警護は彼に任せた。ま、『茅吹の君』のところへ行くから軍服はやめさせたが。君も、今日は階級付けで呼ぶのはやめなさい」
 亜紀はにっこりと微笑んで、思い切り右腕を振り上げた。ぱあんと小気味良い音が部屋に響く。
「それでは、失礼します」
 優雅に、笑顔のままで部屋を去った彼女を名残惜しむかのように、康一郎は打たれた左頬をさする。今のは、なかなか、本当に、痛かった。

 亜紀は上司の部屋を出ると、すぐに窓を鏡代わりに身形を確認した。
 髪や衣服が少しでも乱れていたら望まぬ勘ぐりをされかねない。まったく、どうしようもない男を上司に選んでしまったと思うが、当時の自分にしてはまっとうな人選だった。上に行ってくれる人でなければならなかったのだ。自分の能力を誰もに認めさせるためには、上司も有能でなければならなかったのだから、仕方ないのだ。
 そう自分に言い聞かせて、亜紀はまっすぐに屋敷の裏口へ向かう。扉の前には顔に見覚えのある男が立っていた。今し方見合いを申し渡されたばかりだが、軍服姿でないから少し拍子抜けしてしまった。野木という男は、意外にも幼い顔立ちをしていた。
「あ、亜紀さ……亜紀様。本日警護を担当する野木中尉であります!」
 敬礼されると、ああ本人だなと思う。髷を結わない和服の日本男子は、どうして誰も彼も童顔に見えるのだろうか。犬次郎みたいな例外もいるけれど、彼の場合はそもそも体格が良いからかもしれない。今度じっくり見てみよう。
「あ、あの……?」
「いえ、何でもありません」
 ついしげしげと観察してしまった亜紀に、男は挙動不審におろおろし始める。軍人としては優秀なのかもしれないが、やはりどこか抜けている。
「今日は少々特殊な場所へ行きますので、階級は気にしないで、普通に会話しましょう」
「え、ですが」
「そういうお達しです。軍人だとわかると厄介なので、気をつけてくださいね」
「は、はい!」
 本当に大丈夫だろうか。一抹の不安を覚えたが、今更文句を言いにいくわけにもいかない。
 私服の軍人はいつもそうするように、馬車から降りる彼女にするように、裏口を開いて手を差し出した。
「どうぞ、足下にお気を付けて」
 不安が一抹どころではなくなるが、まあ、仕方ない。軍人とはそういう生き物なのである。
 素直に手を引かれて外に出る。
「ありがとう、蛍一さん」
 違和感に耐えつつ名前で呼んだ瞬間、ぼっと男の顔が真っ赤に燃え上がった。なんとなく犬次郎の反応に似ている。初心だなあと内心溜息をつきつつ、裏門を抜けた。
「あ、あの、あ、亜紀、さん」
「なんでしょう?」
「本日、あ、いえ、今日、どこへ向かうのか自分、じゃない、私は、聞いていないの、ですが」
 そりゃあそうだろう。今日の用事は、双子の弟や父も、もちろん犬次郎だって知らない彼女の最高機密で、知っているのは藤野康一郎とそのお目付役兼家老の田中だけなのだ。いつもは田中がつき合ってくれるのだが、今日は特別だった。彼はよほどか上司に信頼されているのだろう。
 亜紀は声をひそめて告げる。
「すぐ近くです。私の知人のお宅ですから」
「は、はあ」
 彼女は人目に付かないような細い路地を迷いなく進み、彼はただ黙ってその後を歩いた。
 確かに、すぐ近くだった。藤野の屋敷の屋根が見えるくらいだ。だがこれだけ近くなのに、蛍一はひどく遠回りをしたような気がしてならなかった。
「ここです」
 と亜紀が告げたのは、小さな平屋だった。大きな屋敷と屋敷の間に挟まれて存在感が薄く、小綺麗なはずなのに朽ちて見えた。彼女が訪れるには不釣り合いな気がして、蛍一は首を傾げる。
「え……?」
 さっきから違和感ばかりで、彼女が何を考えているのかさっぱりわからない。
「私が良いというまで、何も喋らないで下さい」
「わ、わかりました」
 疑問をぐっと呑み込んで、蛍一は亜紀の後ろをついて行った。
 小さな生け垣の向こうに、明らかに浮浪者とおぼしき年寄りが座っていたが、亜紀は親しげに微笑みかけた。
「こんにちは」
 浮浪者は短く、おうと答える。それから怪訝そうに亜紀の後ろに立つ男を見た。
「今日は若えのを連れてるんだな」
「ええ、どうしても都合がつかなくて」
 亜紀は鞄から小さな包みを取り出すと、自分の足下に置く。その包み方と大きさ、厚さからして小判一枚と蛍一は判断する。もし本当に小判なら、気安く地面に置いていいものではない。大金だ。
「では、お願いしますね」
 浮浪者はまた短くおうと答えた。
 亜紀は丁寧におじぎをして、小さな平屋へ足を踏み入れる。
 平屋の入り口には衝立が立ててあって、中の様子が窺えない。それなのに亜紀は平然と声をかけた。
「こんにちは」
「お嬢さんかぇ、お入りなせぇ」
 蛍一が入ったのを確認すると、亜紀は慎重に戸を閉める。どうやら誰かに見られることを避けたいらしい。
「お邪魔します」
 少女は履き物を脱がずに土足で畳に上がる。そうしてしまうのも無理がないほど、家の中は荒れていた。壁はぼろぼろで、畳のあちこちは雨漏りを受けて腐ってしまっている。
 衝立の裏に回って、蛍一は息を呑んだ。
 狭い平屋の中に男女六人もの老人たちが寄り添うように座っていて、その向こうに一人、布団に寝かされている男が見えた。奥の男はわからないが、手前の六人は明らかに物乞いの類にしか見えないみすぼらしさだった。
 蛍一は声を上げるのを必死に堪えながら、平然としている少女の様子を伺うことしかできない。彼女は先程と同じように、鞄の中から包みを取りだして床に置き、次にまったく違う形の包みを袖からそっと取り出して、それもまた床に置いた。
「いつもより少し多めに置いていきます」
「お嬢さんぇ、そんな気遣いはいらんよぅ」
「いえ、来月は少し遅れるかもしれませんから」
「そぉんなこと言ったって、あんた一度も遅れたことないじゃないかぃ」
「もしものことを考えると、いてもたってもいられないんですよ」
 ふふ、と少女は笑う。
 それから少しだけ後ろを振り返って、護衛に目だけでそこで待てと伝え、奥で寝ている男の元へと歩み寄った。
「宗助さん、お加減はいかがですか?」
「………………」
 男の声は小さく、離れている蛍一には何を言っているのかわからない。だが、布団の中から出てきた手は枯れ木のように痩せ細っていて、何かの病を患っていることを連想させる。亜紀はその手を両手で包み込み、何事か男に告げる。そんな小声のやりとりが続いた後、
「みなさん、くれぐれもお体にはお気を付けて。これから暑くなりますから」
 亜紀は立ち上がって平屋を辞した。
「お嬢さんも、無理をするんじゃないよぅ」
「はい、ありがとうございます」
 老人たちを安心させるかのように微笑んで、少女は外へ出る。そこには先程の浮浪者はおらず、また小判が入っていたであろう包みもなかった。
「亜紀、さん……」
「まだ良いとは言ってませんよ」
 亜紀はまっすぐに、来た道を戻る。
 ぐるぐると遠回りをして藤野の屋敷の裏口に辿り着き、そのまま道に沿って通り抜けた。
 やがて人通りのある道に出る。
 こんな抜け道があったのかと男は驚いてしまう。そこは何度も馬車で通り抜けたことのある海に面した広い道だった。様々な見世が並んでいて活気で溢ているところまできて、少女は告げた。
「もう、喋っても良いですよ」
「……はい」
 疑問でいっぱいだとわかる重い声に苦笑しつつ、亜紀は黙って相手が尋ねてくるのを待った。あそこへ連れていけば、気になるところを数えるより、気にならないところを捜す方が、より大変なはずだったから。
 幾ばくかの重い沈黙の後、意を決したように蛍一は口を開いた。
「亜紀さん、あの方々は一体……誰なんですか? 随分と、その……」
「薄汚れた? それとも、みすぼらしい?」
「え、と、は、はい……」
 亜紀はふいっと海の方角を向いて、潮風に誘われるようにゆっくりとそちらに歩を向けた。あまりにも転落者が続出するので設置された手すりに掴まって、背を向けたまま彼の問いに答える。
「あの人たちは……、私の母のせいで人生を奪われた方々です」
「え……?」
 ゆっくりと振り向いた亜紀の黒髪はゆるやかに潮風に舞い、それを抑えるように添えられた白魚の手は細く、長い袖の鮮やかな朱が実に対照的で男の目を奪う。
 けれど何よりも蛍一の目を奪ったのは、少女の憂いに満ちた微笑みだった。
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