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胡蝶の天秤 作者:黒川うみ
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(二)

 件の彼女に関する諸見(二)――堕ちた男の見解

 胡蝶。かつてそう持て囃された母親の生き写しかと思うくらい、日に日に美しく育つ娘を見ては溜息が零れる。
 母と同じ道を歩んで自ら命を絶つのではないかと気に病むくらい、あまりにも似すぎているのだ。その姿も、心も。自分がこうと決めたことは一歩も、半歩でさえも、頑として譲らないところなど本当にそっくりだ。
 だからこそ、悲しくなる。
 あの子は守られて育つべきだったのだ。親の愛に育まれ、心配することなど何もない日々を重ねて大人になるべきだった。家族や家を守る側に立つのではなく。
 可哀想なことをしてしまった。
 私がもっとしっかりしていれば、あの子にこんなにも重い荷を背負わせることなどなかったのにと、後悔をしない日はない。
 私の大切な胡蝶、私の大切な娘。
 守ってやれなくてすまない。もし償うことを許してくれるのなら、この人生をかけて償ってみせるから。この命を賭してでも、守ってみせるから。
 だから、どうか、一人で先に逝かないで。


 さやさやと、雨粒と風と木々が混じり合って奏でる音が、耳に優しく響く。
 晴れが好きとか、雨が嫌いとかそんな我が儘を述べるつもりはないけれど、それでもこんな優しい音色に町が包まれる日は、精神を疲弊させるばかりの仕事なんて放り出して、一日中好きな本を読みふけりたいという衝動に駆られてしまう。
 もう何年も我慢してきたのだが、機密上の問題で仕事道具は家に持ってこられない上、今は何もすることがない。少なくとも弟が帰ってくるか、仕事の迎えが来るまでは、家を離れるわけにはいかないのだ。
 久しぶりの暇だった。
 だから、本当に久しぶりに、箪笥の奥にしまっておいた古びた本を取り出して手に取った。懐かしい白梅の香りが今もしっかりと染みついている。
 槻路家から唯一、亜紀が持ちだした母の遺品だった。
 今の亜紀からすれば、幼稚すぎる子供向けのお話が詰まった外国語の童話集だ。ところどころに挟まれた栞と紙片、折り目、開きすぎてついた跡など、父に興味を抱いた母が、父の専門分野を理解しようと一生懸命訳す姿が目に見えるようだった。
 頁をめくらずとも、膝の上に置いて表紙を撫でるだけで意識が澄み渡っていくのがわかる。初心忘るべからずとはよくいったものだ。自分で立てた誓いさえも仕事に忙殺されて見えなくなりかけていたことに気付かされる。
 視界を閉じれば、穏やかな雨音。
 疲弊した精神を休養させるには、亜紀にとってこれ以上の日和はない。
「……よし」
 まだ微かに熱っぽさはあるものの、ぐっすりと眠れたせいか体のだるさはすっかりと消えていた。目眩も頭痛もしない。これならいつ仕事に呼び出されても大丈夫そうだった。
 母の形見を大切にしまい直し、姿見の掛布をめくる。規則正しい生活はしていないが、規律正しさが染みついているせいで、身支度には一分の乱れもない。化粧は仕事によってやり方が変わるのであえて手を付けなかった。
 部屋を出て居間にいくと、大黒柱に背を預けて犬次郎があぐらをかいていた。俯いているので表情はわからないが、ほぼ徹夜だったのだから寝ているのかもしれないと足音を殺して歩く。居間の炭櫃に火が入っていなかったので、土間に下りて七輪に火をくべ、いくつかの木炭を投げ入れた。四半刻も待てば炭が真っ赤になって熱々になるはずだ。ついでに水で満たした薬缶も乗せておく。これで比較的短時間で湯を沸かせるはずだ。
 居間の縁に腰掛けてぼうっと器の口から燃え上がる炎を見つめていると、背後から声がかかった。
「もう、起きて大丈夫なのか?」
 亜紀は振り向かずに答える。
「お陰様で」
「そりゃ何よりだ」
 ふああ、とわざとらしい欠伸をして犬次郎は首を鳴らす。殆ど寝ていないのに余裕を見せる男に亜紀は溜息をつく。
「寝なくても動けるなんて羨ましい体力ね」
「ああ、まあ、徹夜は珍しくないしな。それに体力がなきゃ、あんな山の上住めねえって」
「それも、そうね」
 何度か上る羽目になったあの石階段は、普段運動らしい運動をしない亜紀には辛い行程だ。弟など、いつも護衛役の軍人に負ぶわれて楽をしているが、背負う方はたまったものではないだろう。それでもきちんと運んでくれるのだから大したものだ。
 ちなみに亜紀も何度か運びましょうかと尋ねられたことはあるが、すべて断っている。川を渡るわけでもあるまいし、歩ける道があるんだからというのが彼女の持論だ。
「……雨だわねえ」
 時刻は陽が昇り始める頃だが、外は暗く人の気配すら感じられない。雨の日は通いの女中が少し遅れてくるのが通例になっているので、もうしばらく空腹を我慢することになるかもしれなかった。
 この家の台所を使う人はいない。
 そもそも使うつもりがないから、米を炊く釜や鍋も置いてないのだ。当然食料品を用意してあるわけもなく、あるのは茶葉や飴といった嗜好品の類のみである。特に茶葉だけは無駄に種類豊富に取りそろえてある。九割方贈答品だが。
 火を熾すことと、湯を沸かすこと。
 それしか使われない土間の台所の隅には、個人宅としては珍しいことに井戸が備え付けてある。この家を選んだ理由は、外まで水を汲みに行かないでいいという一言に尽きる。
 この家は寝に帰ることと、弟と共に暮らすために用意したものなのだ。いちいち外の共有井戸まで行くという非効率かつ、危険極まりない行為をわざわざやろうとは思わない。仕事上命を狙われることや誘拐に遭うことも多々ある。外出の際は必ず上官の寄越した護衛を共にすることが決められていた。
 雁字搦めの、自由などなにひとつない暮らしだが亜紀はそこそこ満足していた。満足しているつもりだった。
「とりあえず、お茶にしましょうか」
 真っ赤に熱した炭を火箸で炭櫃に移し、五徳を置く。その上に、一度どかした薬缶を乗せて、また、待つ。
 居間に上がった亜紀は二種類の茶器を取り出して円卓に置いた。次に茶葉の並んだ棚としばしにらみ合い、二種類の瓶を選び出す。ひとつは鮮やかな緑色、もうひとつは赤く染まった茶葉だった。分かり易く分類すると、緑茶と紅茶である。
 楚々として亜紀が茶の準備をする間、犬次郎は一言も発しなかった。というより彼女の所作のひとつひとつを眩しそうに見つめている。否、見惚れていた。しかし、亜紀が完全にそれを無視することで穏やかな雰囲気が保たれていた。
 亜紀が紅茶を、犬次郎が緑茶を無言で口にする。
 やがて遠くから馬蹄と車輪の音が聞こえてくるまで、二人は無言のままだった。
 叩かれた戸の鍵を外して亜紀が出迎えると、そこには黒服の軍人が立っていた。
「おはようございます」
「……野木中尉?」
 少女の声が僅かに陰った。
 しかも彼が馬車の戸を開けて、傘をさしかけたのは弟ではなく通いの女中だった。
「途中でお見かけしたので、お連れしました」
「それはどうも。……亜矢は?」
 帰ってきたと思った弟の姿がない。野木と呼ばれた男は申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「亜矢くんは、藤野中佐のお屋敷にいらっしゃいます。お帰りは本日の夜になるとのことです」
「そう……」
「それと、中佐からお見舞いの品を預かって参りましたが、お運びしてもよろしいですか?」
「勝手にして」
 実に素っ気なく少女は家の中に身を引いた。
 まず通いの女中の砂子が風呂敷に包んだ重箱を抱えて居間に上がり、次に野木が大きな木箱を家に運び入れてくる。その数、実に三箱。大して広くもない土間の半分を占領されてしまい、家主である少女は内心舌打ちをする。その表情は、苦り切ったものだった。
 軍服の男は少女の表情を伺うように少し首を傾げた。
「ところで、亜紀さん。体調の方は大丈夫なんですか?」
「すぐにでも仕事に戻れます。大したことありませんから」
「そうですか、それはよかった」
 男は安堵の表情を浮かべた後、来客に興味なく茶をすする犬次郎をちらりと見た。
「彼は?」
「ご近所の方です」
 少女はしれっと言った。
 しかし、通いの女中が居合わせたのがいけなかった。彼と知り合いの砂子は不審そうに首を傾げる。
「え、犬次郎くんでしょう? 何を言ってるんですか、亜紀さん」
「他人の空似よ」
 亜紀は平然とのたまったのだが、軍人は顔色を変えて犬次郎を睨み付けた。
「君が? 君が亜紀さんの許嫁なのか?」
「……一応、そういうことになってるけど」
「ほおう」
 あちゃあ、と亜紀は口中で呟いた。
 逢わせたくなかった最悪の組み合わせなのにと。
 理由は実に単純明快で、説明する必要もない。
「確か、神岡犬次郎、だったな。丁度良い。一度貴様の面を拝んでみたかったところだ」
 野木から放たれるのはむき出しの敵意。否、嫉妬を含んだ悪意。
「何なんだ、あんた」
 さすがに犬次郎も怪訝そうに言葉を返す。初対面の相手に喧嘩を売られる覚えなど彼にはなかった。少なくとも、この家にいる時には。
「ふん、噂通りのようだな。……亜紀さん、こんな男との婚約など今すぐに破棄すべきです。こんな男を理由に断られても納得できません!」
 彼は、野木蛍一は、亜紀の信奉者の中でも特に熱心に慕情を伝えてくる男だった。そして、親の決めた許嫁がいるからと亜紀に何度も求婚を断られても引き下がらないことで、一部では有名人になっていた。
 きょとんとして話を飲み込めない犬次郎の様子が災いして、蛍一の嫉妬の炎にさらに油を注いだ。
「貴様のようなごろつきなど、自分は絶対に認めない!」
「……野木中尉。私の個人的な事情に口を挟むのはやめてもらえませんか」
「亜紀さん! 自分のどこがあの男に劣っているというんですか!?」
「だから」
「亜紀さん!」
 がし、と。
 彼は少女の両手を握りしめて、叫ぶように告白した。
「何度でもいいます。自分と結婚して下さい! 絶対に幸せにしますから!」
 犬次郎と砂子はぽかんとしてしまう。
 なんとも思い切りのいい告白だった。
 対して亜紀は、心底うんざりしたように野木の手を振り払った。
「何度仰っても答えは同じです。あなたとは一緒になれません。任務が終わったのならさっさと帰って下さい。迷惑です」
 野木は唇を噛んで悔しそうな表情を浮かべたが、キっと犬次郎を睨んだ後、少女に敬礼して家を出て行った。
「……亜紀さん、いいんですか?」
 詳しく事情を知らないだろう砂子はおろおろと少女と玄関の戸を見比べる。まあ普通に考えれば『なぜ』と思われても仕方のないことだった。将来有望な軍人と、悪い噂の絶えない拝み屋の男。どちらが良い縁談かは子供でもわかるだろう。
 それでも、亜紀は興味なさそうに繰り返した。
「野木中尉と結婚するなんてあり得ないわ」
 一瞬怒りにも似た表情を浮かべた砂子は、
「では、亜紀さんは今日は大丈夫そうなので、私も失礼します。お二人で、どうぞ、ごゆっくり!」
 と語気を荒げて雇い主の返事も待たずに出て行ってしまった。そんな女中を見送って、亜紀は長い長い溜息をついた。
「もう、勘弁してほしいわ。なんで野木中尉なんか寄越すのよ……」
 丹念に手入れをしている黒髪をがしがしと掻きむしる辺り、少女がどうしようもなく苛ついているのは犬次郎にもわかる。そしてその厄介な理由も、よほどの唐変木でもない限りわかることだ。
「お前、本当に引く手あまたなんだな……」
「……ええ、ええ、大変不本意なことに! あー、もう、砂子まで居合わせるとか最悪!」
 ぶつくさ言いながら亜紀はお茶をおかわりし、熱
い紅茶を一気に飲み干した。
「どいつも! こいつも! 面倒事ばっかり押しつけて!」
 滅多に見られない取り乱した姿に、犬次郎は苦笑するしかなかった。彼女の仕事の子細を知らない彼には、これは普段からよほど苦労させられているのだろうと推測するしかないが、亜紀の苦悩の一端をかいま見られた気がした。
「ちょっと、犬。何笑ってるのよ」
「いや、お偉い仕事は大変だと思ってな」
「冗談じゃないわよ。アンタ、余所で野木中尉と逢うようなことがあっても、絶対に手を出すんじゃないわよ。後々余計面倒なことになるんだからっ」
「はいはい。ご苦労さん」
 言って、犬次郎が亜紀のカップに茶を注ぐ準備をしようとすると薬缶ごとばっと奪われた。
「紅茶は温度が命なの! 日本茶とは淹れ方が違うんだから!」
 ぷんぷんと怒るその姿も新鮮で、犬次郎は苦笑しながらそれを微笑ましそうに、愛しそうに見つめていた。

 ざあざあと忌まわしい雨の降る中、砂子はとぼとぼと歩いていた。
 わかっている。わかっているけれど、世の中不公平が過ぎると思う。なにゆえ彼女だけが恵まれる造りになっているのか、怒りにも似た感情が湧いてくる。
 今は没落した武家の娘など、誰も必要としてくれない。来年には二十歳になるというのに、縁談のひとつもない。見た目だってそんなに悪くないし、気立てだっていい方だと思う。料理の腕には自信だってある。
 砂子にとって、亜紀は常に惨めな自分を比較する材料だった。僅か十四歳で社交界の華と讃えられ、渡来人を始め、軍の高官や政界の要人にまで膝をつかれ、愛を囁かれる亜紀の、なんと自分と違うことか。
 許嫁の話にしたって、亜紀自身が神岡犬次郎という男に惚れ込んで他の求婚を断っているならまだしも、そんな気配は微塵もない。親切な男をただ利用しているだけなのだ。
 妬ましかった。
 悔しかった。
 何より許せないのは、あの人の好意を踏みにじっていることだ。あんなにも一途に想われているのに一体何が気に入らないのか。
 切ない溜息をついた時、前方に現れた影に驚いて傘を持ち上げる。
 そこに、あの人がいた。
「砂子さん、お送りしますよ」
「野木さん……」
「この雨では難儀でしょうから」
 控えめに微笑む、彼のことが好きだった。
 喩え、彼が彼女を想っていても、彼女の下で働いているから、優しくしてくれるだけとわかっていても、それでも好きだった。

 日も暮れ、すっかり雨も上がった頃、ようやく亜矢は帰ってきた。
「ただいまー。……あれ、姉さんは?」
 開口一番、双子の姉を捜す少年に苦笑しながら、犬次郎は奥の部屋を親指で指した。
「朝方は元気だったんだが、ぶり返して寝てる」
「えー。せっかく中佐に上菓子買わせてきたのに」
 一瞬拗ねた顔をした亜矢は、すぐにぱっと笑顔になった。
「まあいいや。様子見てくるね」
「おう。茶飲むか?」
「日本茶でよろしく」
 さして広くもない家の中をぱたぱたと小走りで駆けていく。何よりも姉大事な様子を見ていると、微笑ましくなる。姉がいない時の亜矢を知っているから、尚更に。
 奥の部屋で、うつったらどうするのとか、あっちにいきなさいとか少女の気丈な声がする。彼女は他人に大して見事なくらい公平だが、やはり弟には甘いらしい。幾分か柔らかい口調がその証拠だ。
「まったくもう、なんで僕が怒られなきゃいけないわけー?」
 不満げに居間に戻ってきた亜矢は、犬次郎の淹れた茶を一口飲むと、またころりと表情を変えて笑った。感情の起伏が激しいというより、どこか意図的に自分の表情を操る亜矢の本心は読みづらい。
「やっぱりお茶は日本茶に限るよね。なんで姉さん紅茶が好きなんだろ」
「さあなあ。俺も、あんまり美味いとは思わないんだが」
「君の場合は慣れてないだけでしょ。前に珈琲飲んで吹いたじゃん」
 六つも年下の少年に君呼ばわりされても、犬次郎は平然としていた。
「なんだ、随分ご機嫌じゃないか」
「え、わかるー? 実はそうなんだ」
 コロコロと少女のように笑う少年は、実に楽しげにのたまった。
「お休み、もらってきちゃった。僕と姉さん、二人分。いやあ、中佐が中々頷いてくれないから時間かかっちゃってさあ」
 六つどころか二十近く年上の相手によくやるなあと犬次郎は感心しつつも呆れていた。
 亜矢は、姉のいないところでは天才的な天の邪鬼なのである。可愛らしい笑顔と舌先三寸で人を言いくるめ、何でも自分の好きなように振る舞う末恐ろしい十四歳だ。虚弱で気弱そうだからと、亜紀より与しやすいと殆どの相手が舐めてかかかるが、人の話をきちんと聞く亜紀の方がよっぽど相手にしやすいといえる。
 そして、彼は姉に手を出そうとする相手には容赦しない。
 いっそ恐ろしいほどに、情け容赦なく貶めにかかる。影で泣きを見てきた男たちのことを、亜矢本人の口から聞かされて犬次郎はよく知っていた。
「だって姉さんの一大事なんだよ? 仕事なんかしてる場合じゃないよね」
 亜矢の世界は、亜紀を中心にして回っている。
「もう心配で心配で、早く帰りたかったのにさ」
 過剰なくらい姉に依存している少年。それが亜矢だ。双子の事情は有名なので、耳にしたことのある犬次郎は、そうなってしまうのも無理はないかなと思っている。不幸な事件のせいで早くに母親を亡くしたものの、直系の血を引く二人は名家ならではの醜い跡目争いに幼くして晒された。父親は入婿で立場はなく、信じ頼れるのは己の半身だけだったのだろう。
 亜紀は長子としてあらゆる期待を押しつけられ、亜矢は長男として当然のように家を継ぐことを課せられ、共に幼い子供のままではいられなくなった。
 二人ともが神童と呼ばれるくらい才能に恵まれていたことも悲劇のひとつだ。彼らの母には腹違いの弟がいるにも関わらず、誰もがそちらには見向きもしなかったのだから。
 現在、槻路本家を取り仕切っているのはその叔父だという。双子は家出をしている状態だが、渡来人の混じる社交界で華々しい成果を挙げているから家の人間は黙認せざるをえないのだろう。だからこそ亜紀は必死になって仕事をこなすのだろうし、亜矢もそんな姉を支えることに全力を尽くせるのだ。
「まあ、何かあったら、犬次郎が報せてくれると思ったから、一日くらい我慢して仕事してあげたけどさ。姉さんの仕事に穴開けるわけにはいかないし」
 その姉大事な人間に妙に懐かれているというのは男として複雑な心境になるのだが、
「大丈夫だろ。飯も食えてたし、昨日ほど熱もないし、お前を叱る余裕はあるみたいだし」
「うん、今は大事を取って寝てるだけみたいで安心したー。徹夜で看病ありがとー」
 他人と良好な関係を築くのが苦手な少年なので頼られて悪い気はしない。下の弟と同じ歳なので余計にそう感じてしまうのかもしれなかった。
「まっ 犬次郎のことだから馬鹿正直に看病だけしてたんだろうけどねー」
「……昨日いきなり呼びつけて念入りに脅していったのはどこの誰だ」
「僕」
 信用されている理由の大部分が、惚れている相手に手を出せないということを、見透かされていることなのが若干屈辱的ではあるのだが、出逢った頃は本気で警戒されていたのでいっそ切ないくらいの心変わりようだ。
「犬次郎は本当に変わってるよね」
 姉との婚約を契約と割り切ってしまえているのが亜矢は今でも不思議らしい。つまりはそれだけ亜紀の周りを男が囲んでいるということなのだろう。
「否定はしないが、お前に指摘されるとなんか癪だな」
「まあまあ、お菓子でも食べて機嫌直してよ。皇室御用達なんだからこれ」
 亜矢の差し出した包みを開くとそこには高貴さが溢れる季節の花をかたどった上菓子が並んでいた。見事な職人技だ。金額に換算するのが嫌な類の菓子である。
「お前どんだけ上司脅してきたんだよ」
「普段の恨みをぶつけてきただけ。あいつが僕より姉さんといる時間が長いなんて、苛々してたところだったから」
「真顔でいうな」
 遠慮無く手づかみでかぶりつくと、今まで食べたことのないような上質な餡が口の中でとろけるようだった。見た目だけでなく味も一流だ。皇室御用達というのも頷ける。
 だが、
「旨いな」
 犬次郎の感想はそれだけだった。
 亜矢は声を立てて笑う。
「君くらいだよ、それを素手で食べるの」
「別にいいだろ。菓子は菓子だ」
 たった二口で食べきるのを見て、亜矢はさらに愉快そうに笑った。
「いいね、その意見。職人泣かせで素敵すぎ」
 何がそんなに可笑しいのか、くつくつと声を押し殺しながら亜矢は笑い続ける。どうやら妙なツボにはまったらしい。
 内心首を傾げつつ、二個目に手を伸ばしながら犬次郎はいう。
「ああ、暇だったからお前の仕事道具借りたぞ」
「別にいいけど、何書いたの?」
 体の弱い亜矢の仕事の大半は家でできる洋書等の翻訳だ。墨、筆、和紙、ペン、インク、羊皮紙等、あらゆる筆記用具が予備も含めてかなりの量が仕事部屋に蓄えられている。
「なんか、振った女に呪ってやるっていわれて、気に病んだ男が呪いよけの札を書いてくれって突発的駆け込みの依頼」
「自業自得だねー」
「俺もそう思ったけど、前払いで結構な額だったからな」
 学がないように見えて、実に達筆な字を書く犬次郎は何度も亜矢の仕事を手伝っている。今更道具を勝手に使われても別に不快感はない。
「相変わらずそっちの仕事は盛況だね。君の書くお札、よっぽど効果があるんだねえ」
「さあな」
 そして拝み屋でもある彼の仕事がついでのようにここで行われるのもいつものことだ。
 犬次郎が亜矢に呼び出されて仕事を手伝わされることが決して珍しくないことを、もしかしたら殆ど家にいない亜紀は知らないかもしれない。もちろん給金も出るし、その辺をふらついているよりよっぽど有意義だから彼も来るわけだが、小さな友人はこの手伝いをかなり有効に活用しているようだった。
「まあ、姉さんの具合が良くなったら葉桜でも観に行こうよ。気分転換にさ」
「お前ら二人で行けよ」
「だって君がいるといつどこで倒れても心配いらないんだもん」
 目下、亜矢の悩みは自分の虚弱体質である。一人で外出して倒れて大騒ぎになったことも一度や二度ではない。ゆえに亜紀はあまり弟を連れて外出しようとしない。それが亜矢には不満なのだ。
「僕にもう少し背があったらいいんだけどねえ。姉さんより低いんじゃ男よけにならないし」
「これから伸びるんじゃねえの? 普通女の方が先に大きくなるもんだろ」
「そうかなあ、そうだよね。そうであってほしいなあ」
 いつの時代も、男心が気にする微妙な悩み事は大して変わらないものである。

 居間から聞こえてくる談笑に耳を傾けながら、亜紀は水差しに手を伸ばす。冷たい水で喉を潤して、ふっと一人笑いをしてしまう。
 双子の弟があんなに楽しそうに話ができる相手なんて今まで二人くらいしか知らなかったのだ。しかも既婚者と年下の女の子である。同年代とは言えないかもしれないが、比較的歳の近い男の友人がいるというのは姉として嬉しいものだった。
 仕事上、どうしても家を空けがちになってしまうので気にしていたのだが、どうやら杞憂だったらしい。
「感謝してもしきれないわね……」
 犬次郎との婚約のおかげで言い寄ってくる男が激減したこともそうだし、万一の時にこうして看病をしてくれる相手というのはそういない。実家や仕事での知人を頼ればいくらでもしてくれるが、善意でしてくれる人には滅多にお目にかかれないだろう。
 そう、善意なのだ。
 弟のいないところで、改めて父に真意を問い質したところ、犬次郎との縁談話は神岡家の一方的な善意によって成立したものらしい。神岡家としても自由奔放な放蕩息子を矯正したいという意図はあったのだろうが、圧倒的に得をしているのは亜紀の方だった。
 これでまだ恩着せがましくしてきたり、縁談を現実にしようと動いたりしてくれれば気が楽なのだが彼は決してその一線を越えてこない。好意を寄せられていることがわかっているから余計に申し訳ない気がした。
 ここまで気を遣ってもらっても、どんなに優しくされても、彼に特別な感情を抱けない自分に腹が立つくらい申し訳なかった。
 布団を頭までかぶって呟く。
「……きっと、頭がおかしいんだわ」
 自分に惚れて見苦しい程取り乱す男たちをたくさん見てきた。恋情とはあんなにも人を変えるものな
のだと思い知らされてきた。
 亜紀には誰かに恋をした記憶がない。そもそも恋をしたことがないのだ。憧れられても、憧れたことはない。
 家族に向ける愛情さえもどこか義務的で、淡泊なものだと思っている。父も弟も、叔父や他の人々も自分のことを大切にしてくれるのに、自分に向けられる感情には敏感なのに、自分自身の感情がわからない。まるで錘のない天秤のように、動くことを知らない。
 怒りを演じてみても、本当の意味で怒ったことさえないのかもしれなかった。
 体調が悪いからこんなことを考えるのだろうか。否、仕事が忙しいのを理由に自分と見つめ合ってこなかっただけだ。ここまでの道のりは、本当に険しかった。六つで母を亡くし、八つの時に家を出て本格的に働き始めた。幼い子供が信用を得るのは容易なことではなかった。
 けれど。
 実は、彼女は長い目で自分の将来を考えたことがない。働くことを選んだ時、とにかく通訳官だった父の開けた穴を、地に落ちかけた家名を何とかすることしか頭になかったのだ。そして今、それはなんとかなりかけている。少なくとも、今亜紀が社交界から姿を消したとしても、上司は困るだろうが、槻路の家が貶められることはないだろう。
 岐路にきているのかもしれない。
 そんなふうに考える。
 取り立てて自らやりたいことは思い浮かばない。今の仕事に、やりがいを感じられればいいのだろうが、それも殆ど感じられない。女なのだから結婚すればいいのだろうか。しかしこれまで仕事一筋で、普通の女性がするような料理や裁縫、掃除や洗濯などの家事は苦手どころかまったくできない。お茶を淹れることだけは得意だが、他はしたことがない。こんな女では嫁ぐ相手が可哀想だ。まして愛情を持てないような女では家庭に入るだけで不幸を招くだろう。ならばいっそのこと尼寺にでも入ってしまおうか。そうすれば砂子は許してくれるだろうか。これはかなり心惹かれるアイディアだったが、自分に依存しきっている弟を置いていくことなど、できない。弟の将来を奪ってまで楽な道を選ぶことなど彼女にはできなかった。
 せっかく朝、気持ちを切り替えられたのに、これでは元の黙阿弥だ。
 体調が優れないと気持ちまで弱気になってしまうのだろうか。泣いてしまいたい気分だったが涙は一滴も流れなかった。眸は潤みさえしなかった。
 ああやはり、自分の頭はおかしいのだ。
 亜紀は布団の中で膝をかかえるようにして、丸くなった。母親の胎の中を思い描いて、両腕で肩を抱く。赤子は産まれると声を上げて泣くのだから、そうすれば泣ける気がしたけれど、亜紀はやはり泣けなかった。
 彼女の苦悩を抱みこんで離さないまま、夜は更けていく。だが夜が明けたとしても、彼女の心は、決して晴れない。
+注意+
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