我々夫婦から会話がなくなってから --- 最近では子供も口を利かなくなったので「家族」というべきか --- すでに3ヶ月が経過していた。
「会話がない」というのは、いわゆる口から音声を発したやりとりがないという意味であって、意思の疎通やコミュニケーションそのものがない、というわけではない。一緒に食事もするし、テレビも見るし、休日には近くのショッピングセンターに買い出しに出かけたり、日帰り温泉にだって行く。
つまり、家族と何らかのコミュニケーションをとる必要がある時、我々は「しゃべる」のではなく、「メールを使う」ということである。
(ある日の食卓)
件名:無題
▽このシシトウ、ちょっと辛くないか?
(妻からの返信)
件名:無題
▽いつもの八百屋じゃないのよ。はずれだったわ
(俺)
件名:無題
▽お歳暮、そろそろ見にいくか?
(妻からの返信)
件名:無題
▽カタログでいいわよ。どこで選んでも一緒だわ
(テレビのニュースを見ながら、妻)
件名:無題
▽今は小学校で一輪車に乗るのね
(俺)
件名:無題
▽一輪車か。俺の時代はローラースケートとか、ローラースルーゴーゴー
(妻からの返信)
件名:無題
▽どうしたの?
(俺)
件名:無題
▽舌かんだ
(眉間に皺を寄せながら、俺)
件名:無題
▽あや、食事の時くらいヘッドホンはずしなさい
(と、俺のメール作成画面を彼女に見せる)
(あや)
ふん!
こんな具合だ。
「件名」を打ち込むことは、ほとんどない。件名を入れなければならないほど大量のメールが届くこともないし、話が錯綜しているわけでもないし、大きな問題を抱えているわけでもない。場合によっては、件名を入れると、本文に書くことがなくなったりもする。いや、大半のメールがそうかもしれない。
メールを通じてしか会話しなくなったのは、俺のちょっとした「癖」に対する妻との口論がきっかけだった。
会話をしている時、俺の口から「ぷす、ぷす」という音が聞こえる、というのだ。話のセッションごとにまるで句点を打つかのように、下品で、年寄りくさい空気が口の端っこから漏れている、と。
一体、どのタイミングでそんな音が漏れているのか、自分では全く自覚がない。「あ、また『ぷす』って言った」と妻に指摘されて振り返ってみても、どれがその音なのか分からない。
別に太っているわけではないのだが、もしかすると口の箍が緩み始めているのかもしれない。しかし三十代半ばにして口周りの筋肉が弱ってきたというのも情けないし、考えたくもない。
「気のせいだろ?」と言っても、妻は「嘘よ。絶対そう言ってるわ。あやに聞いてごらんなさいよ」と、半ば切れ始める始末。
そうこうしているうち、我々は口論となった。妻にとってその音は、お新香臭い年寄りを養っているかのような、不吉で不快な音らしい。そうは言っても、鼾みたいにそれをしている本人に何の自覚もないのだから対処の仕様がない。
「幻聴じゃないの?」と俺。
「幻聴なんかじゃないわよ。あれだけの息を漏らして、無自覚っていう方がおかしいわ。 そっちの方が問題じゃない?」と妻。
「なら、録音でもして聞かせてみろ」
俺もいい加減頭にきて捨て台詞を言ったものだから、妻の目の色がいよいよ変わった。
これ以上言い争っても売り言葉に買い言葉、結婚生活十五年の間に蓄積された日ごろの鬱憤を晴らすが如く、こちらの出方によっては血を見る喧嘩になることは見えていたので、最終的には俺が折れることにした。少なくとも俺にとって妻と口論することは、メリットなど一つもないからだ。
そう、俺は確かに「ぷす、ぷす」言っている。脂ぎった肥満中年のごとく妙な息を口から吐いている。
いや、そこまで妻が言うのだから、本当にそういう音を出しているのかもしれない。ただ単に、その事実を認めたくないだけなのかもしれない。
そんなけったいな息を漏らす自分の哀れな姿。冴えない今の自分を辛うじて支えていた「若さ」というなけなしの自信が音を立てて崩れ落ちたような気分だ。
もう若くなんてない。顔には小刻みな皺が増え、腹もぽっこり膨らみ、バリアフリーの廊下で躓き、そして何より、口から 「ぷす、ぷす」と息を漏らす。
そんなことがあって、俺は家にいる時にはもう口を開くまい、と決めた。言葉を発しなければ、その嫌な音は出てこないようなのだ。あの音さえなければ、俺も妻も、余計な喧嘩をせずに済む。
それから、もう一つ、メールで会話をしたい理由があった。 俺はしゃべりだすと、話が矛盾することが多い。それは自分でも納得している。 さっきまで「イエス」と言っていたものを、舌の根の乾かぬうちに「ノー」と言っている。逆もまたしかり。
言葉の字面に引きずられて、考えと違うことをいい出したり、整合性をつけるために引き合いに出した話が、実は言いたいことの反対の意味を持っていたり。
特に、妻と話す時は矛盾まみれになった。頭で整理がつく前に言葉だけが先行して口から出てしまう因子、例えば「緊張感」のようなものがあるのかもしれない。
無意識に、妻を恐れているのだろうか。何を言っても否定されてばかりいるので、極力妻との会話は避けようという心理が働いているのかもしれない。
いずれにしても、きちんと文字に落とし、じっくり校正を加えてからでないと、相手にうまく気持ちを伝えることができないらしい。
そんな2つの理由から、やや無謀かとも思えたが、会話はメールで、というルールを自棄っぱちに提案したところ、妻からは何の問いも反論もなく、あっさり承諾されてしまった。
自分で言い出したくせに、その妻の反応には少なからず、驚きと寂しさのようなものを覚えた。しかしそれだけ彼女が例の音を嫌がっているという証左なのかもしれない。
その日以降、我々は「意思の伝達には全て携帯メールを使う」という、同居している夫婦としては恐らく全国でも初の試みを開始した。
ちなみに、音声による最後の妻の言葉は、「寝る前に、戸締りだけはちゃんとしといてよ」であった。
それから3ヶ月という月日が経過しているが、予測に反し、特別の不便を感じることもなく、実に平穏に家庭生活は進捗している。
もともと大した会話がなかったということなのかもしれないが、それを期に、妻との諍いは見事なまでになくなった。
口論(この場合はメールのやりとりだから「メル論」?)以前に、メールの本文を打っている間に、その怒りも風船が萎むようにみるみる収まってしまう。
「怒り」というのは口ではすぐに表現できても、メールとなるとこれがどうして、なかなかじれったい。感情の赴くままに怒りを言語化しスムーズにボタンを押し込んでいく、というのは指先の不器用な俺には不可能だ。
思うように文字が打てない自分に苛立つ有様で、仕舞いには面倒臭くなって妻への反論などどうでもよくなり、やがて怒りそのものへの関心も薄れた。
ということで、会話にメールを使い始めてからは、「また、ぷす、ぷす言ってる」と妻から言われることもなくなったし、 躊躇、逡巡、戸惑いなど面と向かった会話では随時楔のように打ち込まれるそうした「心」の機微を感じることもなくなった。
子供に落ちる妻のヒステリーも、間違いなく減っている。精神衛生上、家族皆すこぶる調子がいい。
▽残業なし。自宅へ直行
会社の正門を出ると、俺はいつものように定型文を呼び出して妻に送る。妻からの返信は大抵速やかだ。その辺はまめだなあ、と思う反面、単に暇なだけか、とも思う。
▽今月は残業少なくない? もう少し残業してくれないと、あやの塾のお金が
▽そうはいっても今月は仕事少なくて、残業する言い訳がつかないよ。こんな時に残業してると、逆にこいつ能力ないんじゃないかと思われる
▽実際そうでしょ。なら、毎日の晩酌、控えてもらうようだわね
▽世知辛い世の中だね
電車の吊革に凭れながら、俺は携帯をぱたんと閉じた。
確かに仕事は芳しくない。産業用の加工機械を売る会社だが、取引先の生産ラインの海外移転に伴って、国内の需要は冷え込んでいた。残業なんてほとんどつけられないのが現実だし、経費節減で、従業員は極力定時で帰れ、という無言の圧力を感じる。
ここ数年、定期昇給はストップ、ボーナスも社会保険料ばかりがざっくり引かれ、住宅ローンと教育費に追われる我が家の家計は、当然のことながら逼迫している。
お酒だって、ビールを発泡酒にし、発泡酒を「第三のビール」にと、できる限り安いものへシフトさせているのだが、それすら控えなければいけない、というは何ともはや。
毎日の楽しみといえば、熱いシャワーを浴び、きんきんに冷えた缶ビールを陶器のビアグラスでぐびっとやる、たったそれだけのことなのに。
そんなささやかな楽しみすら奪われるとなると、俺は一体何を楽しみに生きていけばいいのか。死ぬ勇気なんてありゃしない。そんな勇気があれば、俺の人生、とっくにどこかで変わっている。
妻と子供の顔色を窺い、「第三のビール」さえ口にできず、インスタントの吸い物をすすりながら、メールを打つ振りしてエッチなサイトを眺めては、全く今時の若い奴は簡単に脱ぎやがってと憂いつつ、「次ページへ」を最後までめくる。
吹けば跡形もなく消えてなくなる、俺の小さな人生。 車窓に流れる戸建住宅の明かりをぼんやり見つめながら、俺はこれからの自分の行く末について思いを巡らせていた。
今日はやけに感傷的だ。そんなことを考えてみたって何も解決しないどころかもっと自分が寂しくなると分かっているのに。
日経新聞を読むサラリーマン。背筋のピンと伸びたロマンスグレイ。お互いの携帯を見せ合う楽しげな女子高生。肩を抱き合いながら話す、若いカップル。
その顔のどれもが幸せそうで、「第三のビール」を取るのか捨てるのかで迷っているような者など、この車内にはどこにもいないようだった。
と、胸ポケットの携帯がぶるぶると振動。
珍しく時間差のある返信だ。どうせ「本だしかマヨネーズを買ってこい」に違いない。
件名:ご近所ネット♪〜新着メールのご案内(ユッチ様よりメッセージ)
本文:掲示板見ました。自分もこうじさんと同じ既婚で子持ちの主婦です。こうしたサイトは初めてなのですが、メールからでよろしければ。お返事お待ちしています。
最初はスパムメールかとも思ったが、「こうじ」という名前と「既婚で子持ち」という言葉にひっかかりを覚え、削除ボタンをキャンセルした。確かに俺の名は「浩司」であり、「既婚で子持ち」だ。
もう一度件名を見る。「ご近所ネット」。俺はしばらく頭を巡らせる。
そういえば半年ほど前、小学生が出会い系サイトで知り合った男に殺されたという事件があった時、「出会い系サイト」とは一体どんなものなのかと、社会勉強をするつもりで登録したことはあった。
その時はこともあろうに、自身の携帯電話のアドレスを直接掲示板で公開してしまったため、他の出会い系サイトやら露骨な売春斡旋業者やら消費者金融やらゲイやホモからの写真付きメールが怒涛の如く押し寄せ、アドレスを変えざるをえない状況となった。
その一件以来、サイトへの畏怖から登録はしていない。まさかその時のメッセージがいまだに残っていたというわけか。スパムメールが届き始めてから直ぐに削除したはずなのに。
「ユッチ」という見知らぬ女性からの僅かな言葉を眺めながら、俺は躊躇していた。
自分と同じ、子供を持つ人妻。初めての出会い系。
相手のメールアドレスを直接知ることはない。サイトがお互いの仲立ちをする。返信は一時的に「ご近所ネット」のサーバーに蓄積され、相手のアドレス宛てにサーバー側から送信される。こうしたシステムなら女性も安心して使えるし、迷惑メールに悩まされることもない。
ご近所ネットというくらいだから、東京に住んでいる人なのだろうか。この時間にメールなんて、きっと旦那の帰りが毎晩遅く、小さな子供抱えてストレスを溜め込んでいるのだろう。
もしかしたら、同じ市内に住んでいて、スーパーかどこかですれ違っているかもしれない。スーパーですれ違う子連れの人妻の瞳って、どうしてあんなに切なそうな目をしているのだろう。どこか疲れていながら、途轍もなく誘惑的に映る時がある。
泣き喚く子供を尻目に、ダイニングテーブルで足を組みながら、ささやかな一時の慰めを求めて、携帯のボタンをいつも以上に慎重に押す人妻のけなげな姿。
ここ数年経験したことのない種類の胸騒ぎを覚えながら、俺は知らず知らずのうちに返信のメッセージを打ち込み始めていた。
▽ユッチさん、メールありがとう。同じような境遇の方と知り合えて光栄です。こちらこそ、これからも末永くお付き合いいただけたらと思っています。ご主人の帰宅は遅いのですか? 携帯からメールしてて大丈夫なのですか?
送信ボタンを押した直後で、もう一度文章を読み直す。
何て畏まった文章だろう。境遇とか、光栄です、なんて言い方は笑わせる。それに「のですか?」が二度も続いて堅苦しい。同い年なのだから、もっとフランクでもよかったのではないか。
初めての「出会い系」としては、大失敗だ。きっとつまらなそうな男だな、と思われているに違いない。帰宅ラッシュの吊革に捕まりながらでは、大した返事なんてできるわけない、とメールを打つ環境のせいにしてみる。
自宅のある駅まで、あと二つ。乗客は一向に減らない。郊外に住む人間も数年前に比べてぐっと増えた。
ポルノ雑誌と何ら変わらない写真週刊誌の中吊り広告に目を向けていると、間もなくメールの着信を知らせる振動。返信を期待してなかった割に、素早く反応している俺。
▽こんなにすぐ返事があるとは思っていませんでした。ありがとうございます。お仕事中でしたら、ごめんなさい。無理なさらないでね。うちの人はじきに帰ってきますが、お互いあまり干渉しませんのでメールはできると思います。でもそれはそれで、寂しいものがありますが。三十を過ぎたら、月日の経つのが本当に早いですね。このまま年をとっていくことが、最近とても怖くなりました。私の人生、毎日家事と子育てに追われ、ただ主人の帰りを待つばかりの生活でいいのだろうか、と。ごめんなさい。早速、愚痴ってますね。不愉快でしたら遠慮なくおっしゃってください。
品を感じさせる丁寧な言葉遣い。実に好感の持てる文章だ。言葉の一つ一つに、彼女の優しさと気配りを感じ取ることができる。
焦りと、不安。
メールを打っている時の、彼女の深い深い溜め息が聞こえてくる気がする。
「仕事中ではありませんよ」と打ち込んだ後で、これはないよな、とクリアし、再度打ち直す。
▽仕事中じゃないから気にしないで。今は、電車の中なんだ。俺に話してすっきりするならどんどん愚痴っていいからね。焦りのようなものは、自分にだってあるよ。この景気で収入も増えないし、子供ばかり大きくなるし。それに、妻とはここしばらく、口も聞いていない。ユッチさんとは、同じような環境かもしれないね。
今度は気さくに行き過ぎたか。初めての人に送るメールというのは難しい。メールを打つのに夢中で、危うく降りる駅を通り過ぎてしまうところだった。
改札をくぐり家路を急ぐ。ロータリーを抜け、大通りから一歩路地を入ると、途端に外灯も減り人通りも少なくなる。整然と立ち並ぶ家の窓にはそれぞれに灯りがともってはいるものの、物音一つなく、まるで人が住んでいるという気配がない。いかにも新興住宅地という仕様だ。
防音やセキュリティーが行き届いているのは個々の家だけ。何年も住んでいて隣家の家族構成すら分からない。これでは、自宅前の路上で次々と人が殺されていても気づくことはないだろう。
自分の靴の音にさえ薄気味悪さを感じながら、汗まみれの手の中で振動する今世紀最大の技術革新を紐解く。
▽主人にはもう女性として見られていないのかもしれません。お恥ずかしい話ですが、夫婦生活も、もう一年以上ありません。子供も自分の部屋に閉じこもりっきりで。家庭の中で、一人孤立してる感じ。それでなんとなくあのサイトを眺めていると、こうじさんのメッセージが。「単調な日常の中で忘れかけているときめきを取り戻しませんか?」あ、この人なら私の気持ち分かってくれるかもしれない、と。同世代だし、結婚されてるようだし。決して、ストレスを解消するためにこうじさんにメールをしたのではありません。もう一度、初めて主人と出会った頃のようなときめきを味わいたい、と思ったのです。愚痴ばかりで申し訳ありません。
「単調な日常の中で忘れかけているときめきを取り戻しませんか?」なんてメッセージだったわけか。自分の記憶には全くなかった。忘れかけているときめき、なんてちょっとベタ過ぎるが、まあ、よしとしよう。何はともあれ、こうして俺と彼女が知り合えたのだから。
自宅は目前だった。俺は歩を止めて、お情け程度の遊具しかない小さな公園のベンチに腰掛けた。そのメールからは、彼女の切実な感じが伝わってきた。ユッチにこなれた感じはなかった。出会い系は、本当に初めてなのだろう。
きっと世の中には、こうした夫婦はごまんといる。妻を家政婦程度にしか思っていない夫。妻を抱かない、あるいは抱けない夫。妻のストレスがこうした出会い系に向いていくのは必然だ。そして、そうした人妻を狙う男がいるのも。
自分も他人事ではないが、俺の妻はそういうことにはひどく奥手だし、淡白な女なのだ。彼女の趣味はもっぱら子育てとビーズアクセサリー。携帯でメールを打っている姿など、ほとんど見たことない。
ユッチの旦那も、まさか彼女が知らない男とメール交換を始めつつあるなど、夢にも思わないだろう。
▽結婚して子供ができたりすると、毎日が単調で退屈で、気がついたらただ年だけを重ねている。ときめきをもう一度という気持ちは、自分にもあるよ。夫婦生活、こっちもご無沙汰です。子供が産まれてからはますます。女というより、母になってしまうんだよね。ストレス解消だって構わないよ。それでユッチさんが楽になるのなら。
文章のボリュームが増えるにつれ、ボタンを押すのに時間がかかり指が痛い。
上着を脱いでベンチにひっかけ、俺は雲梯にぶら下がるものの十秒ももたない。体重が増え過ぎたのか。腕の筋力が落ちたのか。
脇腹を両手で掴む。一度息を吸って腹を引っ込め、再度息を吐き出しながら、どこまで突き出るものかを確かめる。
これじゃあ、まるで子を孕んだ牛だ。最近は、首筋から肩と背中にかけて小さな発疹が頻発している。水虫もなかなか治らない。
こんな男に、誰が抱かれたいなんて思う?
▽こうじさん、とても信頼できそうな方でメールして良かった。自宅はあとどのくらいですか?
▽実はもう家の前の公園にいるよ。外から見たら、きっと変な男に見られてるだろうね。スーツで雲梯にぶら下がってるんだもん(笑)。職務質問される前に、そろそろ帰らないとね。
▽あは。私のせいで疑われたりしたら申し訳ないから、帰っていいですよ
(笑)。また明日メールします。私の方はいつメールもらってもかまいません
から。
▽自分も、家でもほとんど携帯は離さないから。携帯のメールって、リアル
タイムで連絡取りあえるからいいよね。
▽主人は私になんて興味示しませんから、お気軽に(笑)。 いつの間にか、メールでチャット状態になっている。ボタンを打つのは大変だが、携帯はリアルで繋がっていられるからいい。パソコンだとこうはいかない。デスクトップを持ち運ぶことはできない。 携帯の電源は入れっぱなしだし、いつでも肌身離さず持っていられる。俺は常に、世界のあらゆる可能性に常時接続されているのだ。
▽ではお言葉に甘えて。これから帰って、シャワー浴びて、食事して、布団に横にさえなれば明日はあっという間にくる。またメールします。これからもよろしく。
▽奥様、大切にしてあげてくださいね。母、なんて言わずに。
▽今日はもやもやしてるから、うん年振りに抱いちゃうかも知れない(笑) 気力があればね。雲梯で体力使い果たしたかな。かなり強い酒を飲まないと駄目みたい。
▽ひどーい、そんな、勢いで、みたいなこと(笑)。とりあえず、おやすみなさい、でいいですか?
▽そうだね。また明日。旦那さんによろしく、って言えるわけないか(笑)
ドアノブを回す前に、ユッチからのメールフォルダがロックされているのを一応確認してから、頭を「自宅モード」に切り替える。ユッチ、という名前がふとした拍子に飛び出してこないよう、記憶の彼方に一時、退避。
▽ただいま
靴を脱ぎながら、お決まりのショートメール。
▽おかえりなさい。少し遅かったじゃない?
お出迎えもなく、返信メールだけが、ちり紙をゴミ箱に放り投げるように届く。
▽またJRが遅れちゃってさ。人身事故、最近多くて参っちゃうよ。夏場だと人間て飛び込みたくなるもんなのかね
▽季節は関係ないでしょ。それより洗濯したいから、早くシャワー浴びてきて
▽あい
味もそっけもない会話である。せっかく携帯使ってるんだから、絵文字の一つでも入れてくれたっていいのに。
娘の部屋からはいつものようにビジュアル系ロックバンドの曲ががんがんと漏れている。カラオケ嫌いの俺でさえ、曲をそらで歌えるようになるくらい、娘は何度も何度も同じアルバムばかりを聞いている。しかもそのアルバム、もう三年以上も前のものなのだ。
妻にしろ娘にしろ、俺の帰宅には関係なく、それぞれのやりたいこと、やるべきことに没頭している。
俺のやりたいこと。やるべきこと。
メールを終えたばかりのユッチのことが、とても気になった。彼女も今、自分の本来の持ち場へ戻り、主婦、そして母としての役目をこなしているのだろう。
右手にちくちくとした痛さを感じたので見てみると、中指と薬指の付け根の皮が少しずれていた。脆弱な腕で突然八十キロ近い体重を支えるのにはやはり無理があったようだ。
俺のやるべきこと、か。
よくよく考えた挙句に到達した答えは、実にシンプルで分かりやすい結論だった。
早くシャワーを浴びてくること。
*
ユッチとのメール交換は、それから毎日のように続いた。時間さえあれば俺は仕事中でもトイレの中でメールを打った。彼女からの反応は小気味いいくらい素早かった。片時も携帯を離さず、俺からのメールを常に待っているようだった。
▽ユッチの趣味って何?
▽雑貨屋さん巡りとか以前はよくしてましたけれど、最近は家にいることの方が多いから。しいて言えば、いい男を探すこと、かな(笑)
▽何だか悪女っぽくていいね。怖い怖い(笑)
▽こうじさんの趣味って何ですか?
▽無趣味といえば無趣味だよなあ。これといって特にないね。しいていえば、サーフィンするくらいかなあ。
▽サーフィン! こうじさん、サーファーなの? すごーい。かっこいいね。
▽ネット限定のね
▽あら、ネットサーフィンってことね(笑)
といった話や、
▽こうじさんの好きな食べ物、聞いてもいい?
▽なまこ、かな。あの歯応えと磯の香りがたまらない。青いのより赤っぽいやつがうまいんだよね。
▽好きな食べ物は何と聞いて、「なまこ」って答える人、日本に数人しかいないと思います(笑)
▽普通のスーパーじゃ、青いのしか売ってないよね。赤いのは、時々、伊勢丹の食品売り場に出てる。冬場の旬の時期しかみかけないけどね。
▽こうじさんて、なまこ博士?(笑)
▽うまいなまこ酢食べさせてくれる割烹あるんだけど、今度行く?
▽なまこが旬の冬までこうじさんがお付き合いしてくれるのなら、考えちゃおうかな。
▽そういうこと言うと、本気にしちゃうよ?
▽うふふ。
のような話など、砕けすぎたお見合いのようだったが、それでも彼女に関する情報ならどんな小さなことでも新鮮だった。我々は喫茶店でコーヒーをすすりながら会話するかのように、さくさくメールを送り、受け取った。
彼女が、どんなスタイルで、どんな服を着て、どんな髪型をして、どんな顔をしてるのかは分からなかったが、俺の頭には、聡明で品のよい、しかし少女のような愛くるしい微笑を湛えた「ユッチ像」が次第に創られていった。
清楚で純で控えめで、しかし筋の真っ直ぐ通った強い意志のある女性。それは正に初恋の人と大部分において重なり合うものだった。
レスの速い彼女だからこそ、少しでも反応がないと、何か嫌われるような発言をしてしまったのではないかと心配になったりもした。彼女からの返事が待ち遠しくて仕方なかった。どんなに短い言葉でも、彼女から発信された言葉なら何でも好意的に受け止めた。
こんなに切ない気持ちになったのは、本当に久しぶりのことだった。
やがて、我々は家族の中にいる時でさえもメールを交わすようになっていった。それは至極必然的な流れだった。お互いが四六時中、相手を欲し、求めるようになっていた。むしろ、こそこそメールを打つことに、快楽さえ覚えていたのかもしれない。
俺は例の実証実験により家においても携帯を手放すことはないので、食事中に彼女からのメールを読んだり、返事を打つことは何ら困難なことはないわけだが、こちらから彼女にメールを入れるのは、かなりの神経を使った。万が一、旦那にばれたりしたら、今までのようなメール交換ができなくなってしまうわけだから。
ところが、彼女からの返信はすぐに届くし、文面からはそれほどの切迫感や苦労している感じはなかった。
▽ねえ、メール打ってて大丈夫なの? 旦那さんいるんだよね?
▽大丈夫です。お互い干渉しあわない夫婦ですから。いいのか悪いのか分からないけれど。でも、おかげでこうして、こうじさんとメール交換できているのだからよしとしておきましょうね(笑)
▽無理しないでね?
▽こうじさんこそ、大丈夫なんですか?
▽うちもばらばらだから。妻も娘も側にはいないし。こっちも食事が終わっちゃうと、もうそれぞれの世界だから。
▽何だか似てますね、私たち。
▽そうだね。出会うべくして出会ったって感じ?
▽こうじさんと結婚するべきだったかしら(笑)
▽ユッチと一緒になれば、人生変わってたかもなあ。
▽またまたぁ。でも奥様も寂しいんじゃないかしら?
▽そうかな。そんな風にはみえないけど。
▽女性は表情とか態度に出ているうちはまだいいけど、それもなくなったら重症。いくら結婚生活が長くても母になっても、家政婦じゃなく、一人の女性として見てほしいものですよ。目の前に旦那さんがいるのに、メールに没頭する奥様の気持ち、何となく分かります。
▽理屈では分かってるよ。でも妻を女性として見るためにはある種の緊張感もないといけないかもね。旦那が疲れて帰ってきてるのに、それを当然、というような顔して、その上家事も子守もさせられるんじゃ、たまんないよ。別に誉めて欲しいわけじゃないけれど、感謝の気持ちの一つくらいはほしいところだね。
▽最初は奥様もそうだったと思います。それがいつの日からか・・当たり前のようになってしまうんですよね。夫は仕事でお金を稼ぐ、妻は家事と子育て、役割分担を決めたらそれだけを毎日淡々とこなしていくような。男と女の関係なんてどんどん隅っこにおいやられていって。元々は男と女という精神的な高みがあって結婚したはずなのにね。
▽昔を思い返すと、今のこの状態って何なんだろうと思う。自分も妻も、付き合っていたころには経験したこともない、恐ろしく平板で退屈な生活を前に、ちょっと参ってしまっているのかもしれないな。どこに出口を求めていいのか分からない感じ。いつかは自分たちで解決しなければならないことなんだけどね。あれ、何だか随分と真面目な話してるね。
▽そうですね。たまにはいいんじゃないですか?(笑)。でも答えは簡単な気がします。相手に対する、ちょっとした思いやり。それができるかできないか。心にダムがあるかどうか、ですね。
▽あはは、心にダムね(笑)。何のドラマの台詞だっけ。ま、それはいいとして、余裕のある人なんていないのに、自分が一番余裕がない、と思っちゃうんだよね。
▽こうじさんとこうしてメールしてるのも、もう一度きちんと今の生活を仕切り直したいのかもしれません。家族以外の方とコミュニケーションをとることによって、思い出させていただいたり、新たに教えていただいたり。だから、こうじさんとのメール、すごく新鮮で楽しいんですよ。本音で話せるから。
▽俺もそう。ユッチには思ったことを素直に言える。きっとうちのじゃ、聞く耳も持たない。一喝されて一蹴されて終わり。そんなに男って見た目ほど強くない。
▽きっと奥様だって、同じように思ってますよ。一見、強く見える女性ほど根っこはもろくて弱いもの。本当は、こうじさんといっぱい話したいことがあると思います。仕事で疲れてるのはわかりますけど、時々でいいですから、ちょっとだけ、耳を傾けてあげてください。
▽ユッチも、旦那さん大事にしてね。給料日くらい、発泡酒ではなくてエビスビールを飲ませてあげて(笑)。
▽うふふ。何だか随分見透かされてますね(笑)こうじさんとは気が合います。もっと早くこうじさんと出会っていればよかったな。
▽嬉しいこと言ってくれるね。俺も、ユッチみたいに理解ある優しい人を妻にしたかった。
▽こらこら、駄目ですよ、そんなこと簡単に言っちゃあ(笑)
*
彼女との出会いから、一ヶ月近くが経過していた。俺はいつでも彼女と繋がっていた。我々の間に、いつしかメール禁止の時間帯というものはなくなっていた。
俺の生活の中で、彼女の存在はなくてはならないものとなっていた。会社にいる時でも、自宅にいる時でも、トイレだろうが風呂場だろうが、俺は彼女からのメールが気がかりで仕方がなかった。
風呂場にいても携帯が打てるよう、防水機能のついた機種に変更したほどだ。これほどまでに熱を上げてしまうなんて、思ってもみなかった。掲示板で誘いをかけたのは自分のくせに、自身がまるごとそのメッセージに取り込まれていた。
やがて、我々はただのメール友達から、次第に男と女の結びつきを求めるようになっていった。
▽そりゃ、ユッチを見てみたい気もしないではないけど。
▽人に見せられるほど、自信なんてないです。綺麗じゃないし、スタイルも悪いし、バストも小さいし。とてもこうじさんを満足させられるような体じゃない。
▽メールは相手を想像する余地が大きくて好きなんだけど、何ていうのか、もっと近づきたいというかさ。ユッチの雰囲気を少しだけでも感じたいっていうか。俺の想像が正しいのかどうかを確かめてみたい気持ちもあるんだよね。
▽どんな想像してるんだろ(笑)。でもそれって、私を女として見てくれてるってこと?
▽もちろん。俺にとってユッチは最初から魅力的な女性だよ。
▽また、褒め上手なんだから(笑)。さすが、営業マンね。でも、お世辞と分かっていても、そう言ってもらえるとちょっぴり嬉しい。ちょっとだけなら、こうじさんの希望、かなえてあげてもいいかな、なんて。
▽え、本当?
▽うん。顔はとても恥ずかしいけれど、それ以外なら。どんな写真がいいですか?
つけっぱなしのテレビ。ボロ負けしている巨人の試合を眺めながら、鼓動は途轍もなく速まった。
ユッチの写真。
これまで、想像でしかなかった彼女が見られるのだ。しかもリクエストに応えると。
俺はソファにひっくり返ってのほほんと携帯をにらんでいる妻がとても目障りで情けなく、いてもたってもいられなくなっていた。
▽ 唇の写真なんて撮れる?
▽ そんなのでいいんですか? 私はてっきり、裸っていわれるかと思った(笑)。でも、なぜ唇なの?
▽ 唇って、一番女性らしさを感じるんだよね。裸は後でのお楽しみ。
裸って言えばよかった、と少しだけ後悔した。
▽ 駄目駄目。裸は無理です(笑)。それは、リアルで会った時のお楽しみ。
▽ え?
▽ うふふ。ちょっと待ってて。
妻を横目に、俺はダイニングの椅子を引き、自室にこもった。自分の部屋は静かだし、誰にも干渉されず、とても落ち着く場所だ。
間もなく、ユッチから添付ファイル付きのメールが届いた。「唇って以外に撮るの難しいですね」というメッセージの下に、大写しにされた彼女の口元の写真が展開されていた。
きりりと横に引き伸ばされた肉厚な唇。フラッシュが焚かれていないせいか薄暗くピントも甘いが、それが逆に生々しさを引き立てていた。
グロスの光沢。顎の小さな黒子。彼女を自分にとっての「女神」とするには、それだけで十分だった。長い間触れていない、女の香り。性の匂い。この唇にリアルで触れてみたい、俺は本気でそう思った。彼女からはいつだって、若かりし頃の闇雲な異性への貪欲さを思い出させられた。
*
それからほどなく、俺は彼女と会う約束をした。彼女は俺からの申し出を快く引き受けてくれた。別に下心が先行していたわけではない。ただ、彼女の唇をリアルで見たいということと、食事でもしながら、これまでメール交換で交わしたような会話がしたいだけだった。彼女もまるで学生時代に初デートを約束するような気分、と言った。お互い、全く純粋な気持ちだった。
それでも自分の家の近くで会うのは気が引けたので、俺は大学生の頃よく遊んだ渋谷で落ち合うことにした。約束は午後七時。妻には適当に言っておこう。この頃はずっと寄り道もせずに自宅へ直帰していたのだ。文句は言われまい。
ユッチも、どうせほったらかしの生活、問題ないとのことだった。旦那の帰宅が遅くても、子供はもう中学生、なんでも一人でできる、と。
▽今週の金曜は接待が入ったから
自室から、いまだにソファに体を放り投げているであろう妻にメール。
▽金曜日? あら、そう。接待なんて珍しいわね。最近全然なかったじゃない。
▽新しい取引先なんだ。断るわけにもいかなくてさ。たぶん、遅くなると思う。
▽どうぞ、ごゆっくり。私もその日は実家に寄るつもりだったから
浴室のドアがばたんと締まり、シャワーを流す音が聞こえた。あやだ。先を越されたな。あいつの風呂は携帯持参でやたらと長い。
▽お父さん、体の方はもういいみたいなんだけど、精神的にね。右手が不自由になっちゃったから。
▽くれぐれもよろしく言っといて。
▽はあい
俺は部屋を出て、コップに野菜ジュースを一杯いれた。妻は予想通り、さっきの姿勢を保ったまま携帯を手にテレビを見ていた。巨人とヤクルトの点差はさらに広がっていて、解説者も二軍の話やメジャーで活躍している選手の話で異常に盛り上がっていた。
結婚してから、妻の体型がどのように変化していったかを俺は考えていた。最近髪の毛を梳かした姿を見ていない。束ねてゴムで留めてるだけだ。束ねきれない短い毛が、ぴょんぴょんとあちこちから飛び出している。きっとユッチは家の中にいてもきちんとしているのだろう。言葉の使い方を見ればおおよそその人のライフスタイルは分かる。これは、人に接する機会の多い俺の経験則だ。
▽なによ。
俺の気配に気がつき、妻は咄嗟に何か言おうとしたが、噛み締めるように言葉を飲み込んでかちかちと指を動かした。一言でも口を聞いたら、罰金だ。
▽お互い年をとったなと思ってさ。
字づら以上の皮肉を込めて、俺は答える。
▽お互い、じゃなくてあなただけでしょ。胸板、どこにいっちゃったの?
痛いところをついてくる。胸板どころか、顔、背中、肩、腹回り、大腿部、どこをとっても脂肪の付着と筋肉の衰退が著しい。
確かにそれは今の仕事に就き、結婚してからのことだ。酒量と食事量が圧倒的に増えたにもかかわらず、一日の消費カロリーは恐らく犬より少ない。
「ぷす、ぷす」もそうだが、身体のことを指摘されるのは精神的ダメージが大きい。茶畑のような腹筋も、カモシカのような足も「ジャニーズ系に一人はいそうな顔立ちだよね」などとおだてられた全盛期の面影などもう微塵もない。
年を重ねるたびに、俺の体液も脳味噌も、まるでストローで吸い上げられるように失われ、死ぬ頃までにはオフィスの倉庫の机の奥に忘れ去られた海綿と化すのだろう。
「それが年をとるということ」と分かっていても、自分にとってそれは恐怖だった。平均寿命から見れば、ぼちぼち人生の折り返し地点を迎える。あとはひたすら死へ向かって突き進むのみ。
せめてもう一度、男でいたい。男として、人を愛したい。恋をして綺麗になるのは女だけじゃない。男だって一緒だ。恋をすると、体の中にはいつもと違った物質が生産され、体内の老廃物を除去し、細胞を若返らせ、免疫力さえ向上させるといった話を聞いたことがある。だから、いつも恋をしている人間は年をとらない。
お前も少しは恋をしたらどうだ。
人間、いくつになっても恋は必要。そんなところで負け戦を見ながら旦那の悪口言ってる暇があったら、ちょっとくらいめかしこんで、綺麗な服を着て街に飛び出していったらどう?
渋谷駅を出て道玄坂へ向かう頃には、少しずつ雨が降り出していた。
こんなこともあろうかと用意していた折り畳み傘を開いてみたものの、骨が二、三箇所逝ってしまっていた。
念願のメル友に会うというのに、いい年をした大人が骨の折れた傘を差して歩くというのは何ともみっともない。そんな傘を「濡れなきゃいい」みたいに平気で使うようになることが年をとる、ということだ。女の視線をいつも感じていること。緊張感のある生活。俺は今日から生まれ変わるのだ。
雨もまだ小降りである。小走りに待ち合わせ場所のプライムへと向かう。
ユッチの特徴。白のワンピース。コーチのショルダー。そして赤い傘。
今日のこの時間、プライム前で待ち合わせをしている女性で、それら三つの特徴を全て満たす女性が二人以上現れる確率は、俺が渋谷区長になる確率よりさらに低いだろう。仮に落ち合えないことがあったとしても、我々はメールで連絡を取り合うことができる。全く、便利な世の中だ。
にわか雨の避難所となっている「109」を横目に、緩やかな坂道を登り始めた辺りで、少しずつ脈拍が上がってきた。同窓会で、数十年ぶりに初恋の女性と会う時のようだ。
そう、俺が求めていたのは、この感覚。
自分の欲望を地底の奥深くに封じ込め、仕事と子育てと妻のケアに全力を注いできたこの十五年間。一度くらい、こんな経験をしてもバチを当てないよね、神様?
もうすぐ、彼女に会える。
ユッチにだって旦那も子供もいる。いくら男女の関係はなくなったといっても、こうして「出会い系」で知り合った男と今正に会おうとしている、と思うとやや尻込みをするところもある。
しかし、理性では抑えきれない欲望に、俺は支配されていた。
忘れていた、遠い昔の記憶。体が、妻以外の女の匂いを求めている。
ちょっとだけ、奥様をお借りします。あなたの愛情が欠落している部分を、私が代わりに埋めてあげるだけです。彼女もそれを求めています。元はといえば、あなたがいけないのです。彼女が母である前に、一人の「女」であることをあなたが忘れてしまったことへの、天罰。 手櫛で髪を調え、スーツのボタンを全部閉めた。グレーのジャケットが雨粒に濡れ、ぼつぼつと大きな黒い染みが出来ていた。
かまうものか。骨の折れた傘よりはましだ。雨の中、傘も差さず、初めて会う女のために濡れそぼる大人の男。絵になるじゃないか。水も滴る何とかとも言うし。
それより、一つだけ注意しなければならないこと。
例の空気を口から漏らさないこと。
それには、一度言葉を飲み込んで、一呼吸置けばよい。そう、軽い深呼吸。焦らず、ゆっくり。
赤い傘の女性はすぐに見つかった。背を向けて、エントランスに張られたポスターを眺めている。コーチのショルダーに、白いワンピース。指示された特徴そのままだ。想像通りの背格好。後ろ姿。ウェーブのかかった茶色のセミロング。彼女がこちらを振り向く。
「お待たせ!」
目を合わせると同時に、激しく脈打っていた俺の心臓は凍りつき、周囲の時間がぴたりと止まった。俺も彼女も、自分たちの身に今一体何が起こっているのが分からなかった。お互い真っ白な頭の中で、時間を進めるためのきっかけを探していた。
お、お、お。
何かをしゃべろうにも、言葉にならない。言葉にしようとすればするほど、得たいの知れない圧力が口の筋肉をこわばらせ、声帯が雑巾のように絞り込まれた。彼女も口と瞳孔を半分開いたまま、体を硬直させている。
時間だけが、棒のように過ぎていく。もし、どちらかが切り出さなければ、そのまま日が変わってしまいそうな気さえしたので、俺は何とか携帯を取り出し、これ以上ないという慎重さで震える指を動かした。
▽どういうこと?
送信ボタンを押すや、彼女のバッグの中で、聞き飽きるほど聞いた「冬ソナ」の着信音が遠慮がちに鳴り響く。
▽あなたこそ
星の数ほど出会い系サイトがあるというのに、よりによって結婚して初めての「女」との出会いが、自分の妻だったなんて。
▽念のために聞くけど、ユッチ?
上半身が震えている。今にも膝がくじけそうだ。
▽大学時代の呼び名、忘れた? 付き合い始めた頃は、あなたもそう呼んでたのよ?
携帯画面からちらと目を上げると、妻はいつになく厳しい目で俺を見ていた。照明のせいか、ちょっとだけうるんでいるようにも見えた。
ユッチ。
言われてみれば、確かにそう呼んでいた時期があった。俺は自分の妻のあだ名さえ忘れていたのだ。
「最低だね」 携帯を打つ気力もないほど、俺は萎えていた。
「あ、罰金500円」と、妻が言った。妻の肉声なんて二度と聞きたいない、と思った時期もあったが、この時ばかりはとても懐かしく、安らぎすら覚えた。
「いくらでも、あげるよ」
罰金なんて、別にどうでもいい。
「まさか、こうじさんが、あなただったなんて」
妻は今にも泣き出しそうだった。俺は妻を見て、これまでのメールのやりとりを思い出していた。この携帯の中には、楽しかったメール交換の記録が最初から最後まで全て保存されている。
愚痴も不満も誘惑も唇の写真でさえも、自分の妻のものだったわけだ。十年以上連れ添った、俺の知らない妻の姿。そして、妻の知らない、俺の姿。
「言い訳の仕様もないな」
妻はしばらく沈黙していたが、彼女も諦めたように言った。
「本当ね」
*
雨はいつの間にかあがっていた。白いネオンの粒子が雨上がりの路上に溶けてきらきらと輝いていた。金曜日の道玄坂は、大人の男女で賑わっていた。ほとんどのカップルは、片手で閉じた傘を持ち、もう片手で愛する相手の手をしっかりと握っていた。世間はこんなにもロマンティックで楽しげなのに、一体我々夫婦は何をしているんだろう。
「それより、どうする?」と俺は言った。どのような行動を選択したとしても、なるようにしかならない気がした。
「どこにいくつもりだったのか知らないけれど」と妻が聞いた。「せっかくだからそこに連れてってよ。渋谷なんて何年ぶりにきたかしら」
それは、怒りも諦めも愛情さえも通り越した、実に穏やかな言い方だった。大学時代に妻とデートを重ねていた頃を、俺は何となく思い出した。
「営業で一度だけ使ったことのある割烹があるんだ。ここからすぐだよ」
我々は他のカップルと同じように、二人並んで道玄坂を歩いた。こうして歩くのは実に久しぶりのことだった。妻はずっとうつむいたままだった。一体何を考えているのだろう。もう、お互い言うべきことは言ってしまった。これまで溜まりに溜まっていた膿は全て出し尽くした。妻の唇に、俺は欲情さえしたのだ。
しかしそれは、完璧な絶望ではなかった。今ではどこか、清清しい気持ちにさえなっていた。妻と、遠慮なく言葉で会話ができる解放感。しばらくは、腱鞘炎の痛みに耐えることもなくなるだろう。彼女とは、これからまだうまくやっていかなければいけないのだ。この先、何十年も。
「遊び半分で登録したことがあったんだ。最近出会い系の事件て多いだろう? どんなものなのかと、社会勉強のつもりでさ。でも、もう随分前の話だよ? そのメッセージがいまだに残っていたいうのは、何か不自然な気がするんだよな」と俺は言った。
「メールが毎日のように送られてくるのよ。何度削除しても、アドレス変えて送られてくるの。『あなたと相性の合う方が見つかりました』って。たまたまむしゃくしゃしてた時があって自棄で繋いだら、あなたのコメントがあって。でもなぜかコメントみてたら、返事を書いてみたくなった。全く、おかしいわね。私、本当にああいうサイトに繋いだのも初めてだし、返事を出したのも初めてのことなの」
「それは分かってるよ」と俺は言った。これまでの妻を見ていれば、分かる。
「サイトに登録したことは間違いないけど、あのサイトだったかどうかは記憶にないし、間違いなく削除したはずなんだ」
「疑っても仕方ないわ。もうお互い隠れようもないわけだし。それにしてもこんなことって」
そう言って、妻は小さく笑った。うつむいていても、笑っているというのは分かった。たまらなく、妻が愛おしかった。
「こうしてちゃんと化粧してみると、結構綺麗になるんだね」と俺。
「綺麗になるんだねって、何その誉め方。失礼ね」と妻。これだからいけない。妻だと、つい油断して不用意な発言をしてしまう。
気を入れなおして、俺は妻と手を繋ぐべきかどうかを考えていると、一通のメールが妻のもとに届いた。
▽おめでとう。
「誰?」
「えっと、知らない。このアドレス」と妻は言って、俺に画面を見せた。
「迷惑メールだらけだね」
「もしかして、これ・・・ちょっと待って」
妻は立ち止まってメールを打った。「もう、そのあたりにいるのよ」
「え、誰が?」
しばらく歩道で佇んでいると、間もなく坂を小走りで駆け上がってくる女の子が見えた。あやだ。
「どうして?」と俺は言った。
「きっとあやの仕業よ」
「あやの仕業って・・・この出会い系のこと?」
「そう」
「 演出が過ぎやしないか?」
「あなたの子じゃない」と言って、妻は笑った。俺はあまり笑えなかった。
嬉しそうに我々の間に立つあやを見て、俺は無意識にポケットをまさぐり携帯を探していた。
「ねえ、もう口を聞いているのに、まだメールを打つわけ?」とあやは言った。
「それもそうだな」と俺は言った。「しばらく、家の中で携帯持つの禁止しようか」
「かかってきたら、しょうがないでしょ?」
「そりゃそうだ」
「メールもだめなの? 友達からの」
「それも仕方ないか」
「じゃ、ほとんど触ってるじゃん」
「そうだな」
俺がそういうと、皆は大笑いした。家族全員が一緒に笑うなんて光景は、いつ以来だろう。
「こうして話せるようになったのも、携帯のおかげといえばおかげなのね」
妻は自分の携帯をいとおしそうに眺めながら言った。俺も、自分の携帯をかちん、かちんと何度も空けたり閉じたりした。 これほどまでに憎くていとおしい文明も、テレビについで二番目だ。携帯なくして、もう我々は生きていけないのか。
「メールで会話令」を廃止する前に、俺はあやに一つ気になっていることを聞いた。
お父さんはしゃべる時、本当に「ぷすぷす」なんて言ってる?
<了> |