お兄ちゃん
昨日、お兄ちゃんが死んだ。
元々、病弱だったお兄ちゃんは常に入退院を繰り返してとうとう
16年の生涯を閉じたのだ。
両親は病弱なお兄ちゃんを何とか救いたかった。
その心の隙間に付け入られ、6年前から新興宗教に勧誘されて
しまったのだ。
宗教は人の心を惑わせる。
両親はお兄ちゃんが死んだというのに、涙一つ流さなかった。
私は、一晩中泣き明かしたというのに。
「かおり、そんなに悲しまなくていいのよ。
お兄ちゃんは必ず復活するのよ。
ジザス様がお救いくださるから、大丈夫なの。」
母はそう言い、微笑む。
私は母に猛然と食ってかかった。
「神様なんていないの!まだわからないの?
お兄ちゃんが死んだってのに、目を覚ましてよ!
お母さんたちは狂ってる!」
そう言うと、母は鬼のような形相で、私を殴りつけた。
「なんて罰当たりなこと言うの!
ジザス様は慈悲深いのよ!お兄ちゃんを見捨てるわけないじゃない!
狂っているのはあなたよ!なんでそんなこともわからないの!」
狂人に何を言っても無駄だ。
私は自分の部屋に走って閉じこもり、鍵をかけた。
どうしてこんなことになったんだろう。
あの宗教にハマるまでは、うちは普通の家庭だった。
お兄ちゃんは入退院を繰り返していたけど、家族旅行したこともあったし
体の弱いお兄ちゃんを支え、皆で協力して、愛情に溢れる家族だったのだ。
宗教が私の家庭を壊した。
両親が宗教にハマってからは、何をおいても、その宗教の行事が優先で
食事前には、今までしなかった、お祈りのようなものも強制され
何かと私も宗教のイベント会場に連れて行かれた。
はっきり言ってウンザリしていた。
お葬式だって、親戚縁者を誰一人呼ばず、宗教施設内で
誰ともわからない人々が葬儀に参列し、おかしな歌を歌い始めたのだ。
ただし、両親はそれをお葬式とは呼ばずに、復活祭と呼んでいた。
キリスト教のアレンジじゃないの。バカみたい。
あくる朝、私は2階の自分の部屋を出て、下に降りて驚いたのだ。
お兄ちゃんの死体が、まだお布団に寝かされているのだ。
「ちょっと、何でお兄ちゃんを火葬場に連れていかないの?
ずっとこのままにしておくつもり?」
私は両親にたずねた。
「何言ってるの。焼いたりしたら、お兄ちゃん、戻ってこれなくなっちゃう
じゃない。復活するまで、待つしかないのよ?お兄ちゃんは死んだわけじゃ
ないの。生まれ変わるのよ。」
両親の目は普通じゃない。
でも、この人たちはこれが正しいことだと信じてやまない。
私はもう疲れ果ててしまった。
両親と言い争う元気もない。
でも、本当に、お兄ちゃんはまるで寝ているだけのような
安らかな顔をしていた。
両親の気が済むまで、こうしてお兄ちゃんを側におくのもいいのかも。
そして、私自身も、お兄ちゃんの体がこの世から消えてしまうことが
悲しかったのだ。
しかし、1週間も経てば、ちょっと様子は変わってきた。
家中にお兄ちゃんの腐臭が漂っている。
お兄ちゃんの顔色も、土気色になってきて、多少崩れてきている。
これはさすがにまずいのでは、そう思い、再度両親にきちんと死体の処理を
するように言ってみた。
でも、やはり応えはわかりきっていた。
烈火のごとく怒り、もう少しで復活するのだ、と言い張るのだ。
2週間もすると、お兄ちゃんがだいぶ変形してきた。
人間の形をかろうじてとどめている。
臭いはもう強烈だ。
私はなるべく、自分の部屋にお兄ちゃんの臭気が入ってこないように
密閉した。そして、食事も自分で買ってきて、自分の部屋で食べた。
もうこれは限界だ。
友人の家にでも居候させてもらうか。
私がそんなことを考えていた矢先だった。
ある朝、学校へ行くため、下へ降りていくと、ダイニングの椅子に
お兄ちゃんが座っていたのだ。
信じられない。本当に蘇った。
肉が腐って垂れ下がり、ほぼ顔はお兄ちゃんだとはわからない。
私は吐き気を催した。
「かおり、心配掛けてごめんな。俺、帰ってこれたよ。」
懐かしいお兄ちゃんの声だ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
私は嗚咽した。
「ね、言った通りでしょ?
ジザス様は、お兄ちゃんをお見捨てにはならなかったのよ。」
両親は満面の笑みで私を見た。
お兄ちゃんは蘇ったのだけど、相変わらず肉体は腐ったままで
歩くたびに臭気を撒き散らし、やはり吐き気を抑えられない。
お兄ちゃんが蘇って3日目の夜、私はうっかり自分の部屋の鍵を掛け忘れ
勉強していたら、いきなり腐臭が漂ってきて、振り返ったら
お兄ちゃんが立っていた。私はまだその容姿に慣れておらず
心臓が止まりそうなほど驚いた。
お兄ちゃんとは言え、見た目はゾンビ、リアルゾンビなのだから。
「そんなに驚くなよ。俺だってこんな姿になんてなりたくなかったのだから。」
そう言われ、私は、お兄ちゃんに悪いと思った。
「ごめんね。どうしたの、お兄ちゃん?」
「久しぶりに勉強でも教えてやろうか?」
そう言いながら私に近づいてきた。
やはり臭いは強烈で、吐き気がした。
なんとか耐えて、勉強を教えてもらうことにした。
私がノートに向かうと、机の上に腐食したお兄ちゃんの手が乗って
お兄ちゃんは、私の耳元でこう囁いたのだ。
「お前、うまそうだな。」
私は驚いてお兄ちゃんの顔を見た。
黄ばんだ歯が、腐った唇の隙間から覗いた。
笑ったのか?
これは、お兄ちゃんではない!
私はお兄ちゃんを力いっぱい突き飛ばした。
「何するんだよ、かおりー。酷いじゃないかぁ。」
お兄ちゃんの腐った唇がひきつった。
笑っている。
お兄ちゃんの手が私の腕を掴んだ。
「いやっ!離して!」
ぶよぶよした感触が肌に伝わる。すごい力だ。
私は渾身の力をこめて、お兄ちゃんの手から自分の腕を
引き抜いた。すると、お兄ちゃんの手のひらがズルリと剥け
私の腕に絡みついたのだ。
「いやぁぁあぁぁぁぁぁあああ!」
私は狂ったように叫んだ。
お兄ちゃんに体当たりをして、部屋の外に突き飛ばし、
自分の部屋にすばやく鍵をかけて、閉じこもった。
何が蘇ったのか。
おぞましい何か。
お兄ちゃんの皮を被った何かが、ドアを叩く。
ほぼ肉体が腐っている手で、ドアを叩くから
叩く度に、湿ったものがぶつかるような嫌な音がする。
私はおぞましさに耳を塞いだ。
「急にどうしたんだよぉ。開けろよぉ。」
声が半分笑っている。
「何を騒いでるの?この子たちは。ご近所迷惑でしょ?」
お母さんの声がした。
「お母さん、来ちゃダメ!」
私は叫んだ。
逃げて!お母さん!
階段を上がってくるお母さんの足音。
そして、すぐにお母さんが、悲鳴と共に階段を転がり落ちた音がした。
お兄ちゃんにやられたんだ。私は足がガクガク震えた。
逃げなくてはいけない。
私は、二階の窓から飛び降りた。
それと同時に、二階の私の部屋から大きな物音がした。
きっとドアが壊された音だ。
私が恐る恐る、二階の窓を見上げると、お兄ちゃんが下を見下ろし
恐らく笑った。遠くて表情はわからなかったが、声が笑ったのだ。
お兄ちゃんが階段を駆け下りる。
足をくじいた。痛みを我慢して、夜のアスファルトを
裸足でひた走った。
私は、その夜、友人の部屋に泊めてもらった。
友人に何があったのかと問われたがお兄ちゃんがゾンビだなんて、
言えるわけがない。
私はあくる日、警察に行って、この異常な事態を説明した。
ただし、ゾンビになったと言っても信用されないだろうから
お兄ちゃんの死体を、両親がずっと家に放置していることを告げた。
警察官は事情を聞いて、まずは私の家へ電話した。
だが誰も出ないと言う。
私は絶望的な気持ちになった。
私は、警察官に付き添われ、家に帰ってきた。
時はすでに遅く、居間で両親が血まみれで倒れていた。
そこにお兄ちゃんの姿はなかった。
両親の遺体の状態は酷かった。
まるで動物に噛み殺されたような死に様だった。
喉元は裂け、何かわからない組織がまるで配線コードのように
飛び出し、腹からは驚くほど大量の、血にまみれた内臓が
飛び出している。
私は、お兄ちゃんの腐った唇から覗いた、黄ばんだ鋭い歯を
思い出し、映像を追い出そうと、固くぎゅっと目をつぶった。
私は警察に疑われ、取調べを受けたが、両親の死亡推定時刻に
私が友人の家に居たことが証明され、私は解放された。
今もお兄ちゃんは行方不明だ。
お兄ちゃんの皮を被った何かが
きっと今も、彷徨っているのだ。