魅惑の「東ヨーロッパ」
ソビエト連邦、略して「ソ連」が崩壊したのは、私が小学三年生の時だ。
当時は政治体制の事などまるで理解できなかったので、「寒そうな国で毛皮の帽子を被った白人のおじさんたちが騒いでいる」「『ソ連』という大きな国がなくなったらしい」といった印象を受けた。
その後、テレビにニュースに映る二つの大きな国の内、「アメリカ」は大統領が変わっても「アメリカ」のままだが、もう一つの大きな国「ソ連」は「ロシア」と名を変えた。
加えて、まるで大きな一枚の板チョコを割った後の欠片のように、「ウクライナ」「グルジア」「ベラルーシ」といった名前を新たに独立した「国」として見かけるようになった。
「寒そうな国で毛皮の帽子を被った白人のおじさんたちが難しげな顔をしている」という旧体制からの印象は変わらないまま。
客観的な政治上の評価はさておき、ソ連のゴルバチョフ大統領は日本でも「ゴルビー」の愛称で親しまれ、子供の目からしても、「人の良いおじいさん」といった風貌をしていた。
しかし、ロシア連邦の初代大統領となったエリツィン氏は、どう贔屓目に見ても、「獰猛な白熊」といったご面相であり、平たく言えば「おっかないおじいさん」であった。
旧ソ連の歴代指導者と比べても、この人くらい強面は珍しいのではないかと思う。
現在のプーチン大統領もソ連時代にKGBに所属していた経歴を含めて様々に取り沙汰されているが、容姿のインパクトとしてはエリツィンに及ばない(プーチン氏の場合は、あるいは一見すると没個性的で特徴に乏しい風貌の奥に冷徹なものを秘めているという意味でより怖いのかもしれないけれど)。
リアルタイムのカラー映像で目にした人であるにも関わらず、エリツィン氏の顔を思い出すと、なぜか、ヒトラーやムッソリーニといった白黒写真のモンスター的指導者と似通った感触を受ける。
ちなみに業績からすれば、こうしたモノクロ画像のモンスター指導者にはソ連のスターリンも当然入るのだろうが、風貌としてはむしろ静的で露骨な激烈さを感じさせないスターリンよりも、素の表情が既に怒気を孕んだ顔つきに見えるエリツィン氏の方がファナティックな狷介さを連想させる。
むろん、エリツィン氏はジェノサイド級の悪行は残さなかったが、多くの日本人にとって、彼のイメージは、ソ連時代の強硬的な指導者と大きくは変わらなかったように思う。
話をソ連崩壊時に戻すと、これと前後してベルリンの壁が壊されて東西に分かれていたドイツが統一され、また、チェコスロヴァキアは「チェコ」と「スロヴァキア」に分離独立するなど、ヨーロッパ全土で次々地図の塗り替えが起きていた時代だった。
テレビでもしょっちゅう、つるはしを持った人たちや緑色の戦車が映っていたことを覚えている。
私の定期購読していた「小学三年生」にはそうした記事はなかったが、兄の「小学六年生」には動乱を解説する特集が組まれていた。
記事の詳細は、むろん、当時は理解できなかったが、見開き特集の中に小さく載っていたカラーの写真は今も眼に焼きついている。
それは、目を見開いたまま倒れて死んでいる、コートにマフラーを着けた、初老の白人男性の姿だった。
グレーを貴重にした品の良い服装と同じくロマンスグレーの髪、そして虚ろに見開かれた目から、彼がそれまで高い地位にあったこと、そして、恐らくはそこから引き摺り下ろされ、本人としては予期せぬ形での死を迎えたことが察せられた。
記事の文言も解せなければ、そもそも写真に収まっている人物の名も知らなかったが、「ふかふかした帽子を被る寒そうな外国」のどこかで、陰惨な事態が起きていたことは把握できた。
その後、しばらくはロシアや東欧に関して目立って印象に残ることはなかった。
ヨーロッパと言えば、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、あるいはイギリスといった西ヨーロッパの国々であった。
「おしゃれで綺麗な人のたくさんいる」フランス、「おとぎ話みたいな森やお城のある」ドイツ、「スパゲティやピザのようなおいしいものがいっぱいある」イタリア、「フラメンコと闘牛の盛んな」スペイン、そして、「赤い制服に黒く長い帽子を被った兵隊さんたちが女王様の住むお城を守る」イギリス。
実際に行ったことはなくても、また、どれだけ実態を捉えているかは別としても、メディアを通して、これらの国々の個性はイメージとして形成されていた。
ロシアについても、「毛皮を被ったおじさんたちが難しい顔をして話している大きな寒い国」程度の認識はあった。
しかし、ロシア以外の東欧諸国については、せいぜい、キュリー夫人の母国がポーランドであること(今はどうか知らないが、私の子供時代、女性偉人の伝記というと、『ナイチンゲール』か『キュリー夫人』の二択だった)、「ブルガリアヨーグルト」のコマーシャルを見て商品名の元になったヨーグルト作りの盛んな国が存在していることを知っていたくらいだ。
小学校高学年の「音楽」の資料集に世界各地の民族楽器としてルーマニアの「ナイ」が紹介されているのを見て、木の管を横に並べて繋ぎ合わせた形状から「おとぎ話で妖精が吹いている笛みたいだな」と思ったこともうっすら覚えている。
だが、それも「ポーランド」「ブルガリア」「ルーマニア」という国がどこかにあるらしいと漠然と知っただけで、「東ヨーロッパと呼ばれる地域にある国だ」という地理的な概念をまるで伴っていなかった。
東欧という地域を明確に意識したのは、「物語」がきっかけだった。
小学校高学年か中学生になったばかりかの頃、テレビでルーマニア出身の体操の金メダリスト、ナディア・コマネチの特集を偶然見かけた。
私はこの人が「白い妖精」と呼ばれ、日本でもビートたけしの「コマネチ」というギャグを含めて熱狂された時代には生まれておらず、その番組を見て初めて存在を知ったわけだが、その半生のドラマは衝撃的だった。
まず、チャウシェスクの独裁政権下のルーマニアに生まれ、スポーツ面でもソ連に対抗する国策の一環として、六歳で親元を引き離され、食事制限を受けながら、日々、体操の英特訓を受ける。
まだ、学齢に達するか達しないかの幼女を親元から引き離すという、その体制の過酷さに驚く。
お腹いっぱい食べることも許されず、両親とも引き離された辛さに堪えかねて、飛び出し、店でケーキを買って食べ、家に帰るものの、母親に突き放される。
「お前は国のために体操をしているのだから、養成所に戻りなさい」
さながら「孟母三遷」など古代中国の故事を思わせるエピソードである。
そして、十四歳の彼女が迎えた一九七六年のモントリオール五輪。
メダルを有力視されていたソ連の選手が先に演技し、九・六点の高得点をマークする。
次いで、コマネチが演技し、史上初の十点満点(先に演技をしたソ連の選手が唖然とした後、肩を落として俯く映像が印象的だった)。
こうして、大国ソ連の強豪たちを抑えて複数の金メダルに輝いた、十四歳の「白い妖精」は世界の注目するヒロインとなった。
当時の写真や映像を見ると、十四歳のコマネチの風貌には「美少女」というより「美少年」と形容するに相応しいような凛冽さや、ある種の硬さが感じられる。
むろん、当時まだ十代前半で女性としての膨らみの薄い体つき(体操は競技の性格上、凹凸の少ない体型の選手が多いけれど)をしていたせいもあるが、何となく表情そのものに、例えば同世代のアメリカ人少女のように「声を上げて笑う」「悲しみを訴えて号泣する」といった感情表現が許されていないかのような、抑制的な雰囲気が見える。
母国ルーマニアに凱旋した彼女は国賓待遇を受けるが、ここからが選手としても私人としても苦境の始まりとなる。
まず、信頼していたコーチから引き離され、くだんのコーチはアメリカに亡命。
恐らくは思春期特有の体型変化も手伝って、別人のように崩れた体型になるなど、不調に陥る。
それでも、一九八〇年、十八歳で出場したモスクワ五輪では金メダリストに返り咲き、アスリートとして傑出した面を見せた。
残った映像を見る限り、モスクワ五輪時の彼女は十代の後半に達した体型こそ女性らしくなっていたが、髪をショートカットにしており、ジャンヌ・ダルクのような中性的な「美青年」の趣がある。
実際、コマネチはチャウシェスク政権下のルーマニアにおいて、スポーツという代理戦争の場に現れた救国の少女であり、正にジャンヌ・ダルクにも等しい存在だったかもしれない。
しかし、このように名実共にルーマニアの顔となったことが、私生活の彼女を不幸に陥れた。
チャウシェスクの次男ニクから執拗に付けねらわれ、軟禁や盗聴などの被害に遭う。
テレビの特集ではこの辺りに曖昧に表現されていたが、独裁者の息子から男女関係を強要されたらしいことは思春期の私にも何となく察せられた。
こうして、一九八九年、二十八歳の彼女はアメリカに亡命する。
その一ヵ月後にルーマニア革命が起きて独裁政権は崩壊し、チャウシェスク夫妻はその年のクリスマスに銃殺刑に処せられた(なお、次男のニクは刑死こそ免れたものの、人民裁判にかけられ、その係争中に肝硬変で亡くなった。チャウシェスク夫妻には養子を含めて三人の子女がいたが、実の息子であるニクが最も才質が劣る上に、品行も極めて悪く、裁判中も周囲から痛罵を浴びせかけられる体たらくだった模様)。
ここで初めて、私は数年前に兄の「小学六年生」の特集記事で見た、コート姿で目を見開いたまま倒れて死んでいた男性がルーマニアの独裁者チャウシェスクであったことを知った。
話をコマネチに戻すと、亡命後も西側のメディアから私生活や言動を揶揄的に取り上げられる等、平穏とは言い難い日々が続いた。
「火炙りにされる」といった中世的な身体への迫害こそないものの、世間からの毀誉褒貶にまみれて翻弄される人生からは、救国の少女から一転して魔女扱いされ迫害されていったジャンヌ・ダルクが連想される。
私の見た特集は、後進の選手たちの指導に当たる彼女の穏やかな笑顔を映して終わっていた。
しかし、テレビ番組自体の演出のせいもあるが、「白い妖精」の半生は、いかにも現代的な有名人のゴシップというより、運命の残酷さも含めて古いおとぎ話に出てくる美女の逸話めいた印象で刻み付けられた。
むろん、今も存命であるコマネチ氏本人がそんな捉えられ方を望んでいるとは思わない。
だが、彼女の半生やルーマニアの現代史そのものが、日本で生まれ育った私には、同時代の出来事とは思えないようなロマン的、あるいは封建時代的な、鮮やかでありながらどこか暗さを秘めた色彩に染め上げられているのだ。
これが、ルーマニア及び東欧に興味を持ったきっかけだった。
ロシア及び第二次世界大戦前後から共産主義体制を取った東欧諸国は、概してスラヴ系が多い。
その中でもルーマニアは「ローマ人の国」といった意味合いの国名であり、ラテン系の民族による国家という点で異色の存在だ。
実際、アルファベットに発音記号を付して表記されるルーマニア語には、同じラテン系言語のフランス語に似た響きがある。
私は言語としてはどちらの言葉も解さないが、音声の印象には酷く似通った感触を受けた。
地名を見ても、首都の「ブカレスト」は隣国のハンガリーの「ブダベスト」と紛らわしく、また語感としても硬い印象だが、他は「ティミショアラ」「シギショアラ」等、「ティアラ」「ショコラ」「ティラミス」といった日本語にも浸透したフランス語やイタリア語の単語を連想させるような柔らかな響きのものが多い。
話は変わって、コマネチやチャウシェスク以前のルーマニア史において世界的に有名な人物と言えば、「ドラキュラ」のモデルとなった「串刺し公」ことブラド・ツェペシュが挙げられるだろう。
しかし、怪物としての吸血鬼「ドラキュラ」は、飽くまでイギリス人作家のブラム・ストーカーが創作したキャラクターである。
更に言えば、同じルーマニア人ではなく、外国人の目を通して創造されている点にも、蔑視や偏見のフィルターを考慮する必要があるだろう。
史実のブラド・ツェペシュは日本で言えば室町時代、ヨーロッパ全体で見れば十字軍の時代に生きた王侯である。
同時代の近隣国にはハンガリーで今も名君として知られるマーチャーシュ王がおり、しかも、マーチャーシュの妹は後にブラドに嫁いで義兄弟になった繋がりもあった。
そもそも、戦争で倒した敵を槍に刺して見せしめにする「串刺し公」という残虐なブラドのイメージは、政治的に長らく対立していたマーチャーシュらによるプロパガンダの影響が濃厚だという。
ブラドは一四七六年に四十代半ばでオスマン帝国との戦いで死ぬが、これもオスマン帝国との直接の衝突を回避しようとするマーチャーシュの策謀による側面が大きいそうだ。
マーチャーシュは今で祖国ハンガリーの英雄であり、紙幣にもその肖像画が刷られ、「水戸黄門」さながら国内各地をお忍びで放浪した逸話が伝わっているそうだ。
ブラドの血塗られたイメージとは対照的だが、史実を念頭に置いて、両者の落差を眺めると、一抹苦々しい感慨に囚われる。
十字軍に纏わる悲劇や各地に残った兵士たちの蛮行の逸話からすれば、ブラドがこの時代の王侯として格別残虐だったとは考えにくい。
生前の彼は政敵たちによって血みどろの「串刺し公」の汚名を着せられ、死後数百年を経てからは外国人作家により「吸血鬼」の扮装を施されたとも言える。
一九九二年にアメリカで制作されたコッポラ監督による「ドラキュラ」は、史実のブラド・ツェペシュとその愛妃、またその生まれ変わりの美女との悲恋に重点を置いた物語だ。
映画全体としては官能性を全面に出した描写が多く、観た当時、中学生だった私には、正直、苦手な感触を受けなくもなかった。
ただ、ゲーリー・オールドマン演じるブラドが生前の場面で、彼が戦死したと誤解して塔から身を投じた愛妃について、司祭たちから「自殺者に葬儀は執り行えません」と冷然と告げられ、茫然とした後に怒号を発する場面は覚えている。
「神のために戦った結果がこれなのか」
「そんな神なら信じない」
「今日限り信仰を捨てる」
劇中のブラドから一貫して浮かび上がるのは「妄執」である。
吸血鬼として化け物じみた姿になった彼は、「執念や欲望から生き続けている」というより、「妄執から死ぬことができない」ように見える。
ちなみに、愛妃とその生まれ変わりの美女にはウィノナ・ライダーが扮していた。
私生活の奇行やトラブルからその後叩かれるようにはなったが、出演当時二十一歳の彼女は気品ある美貌であり、古城から身を投じる傾国の佳人に相応しい雰囲気を持っていた。
付記すると、黒目勝ちの大きな瞳に濃い眉が特徴的な彼女はルーマニア系ではないが、東欧系にルーツを持っている。
この人も現役時代のコマネチと同様、中性的な美形に思える。
それはそれとして、映画「ドラキュラ」は決してルーマニアの国や歴史を正確に描くことを目的にした作品ではないが、制作されたのはチャウシェスク大統領夫妻の凄惨な死が記憶に新しい時期であった。
若く美しい頃の風貌のまま純粋な愛に死んでいくブラド公夫妻は、老醜としか言いようのない結末を迎えた独裁者夫婦へのアンチテーゼにも見えてくる。
一九八九年から始まった、いわゆる「東側陣営」を構成していた東欧諸国の共産主義体制が次々倒れた「東欧革命」。
これにより、それまで共産主義体制の指導者たちは地位から引き摺り下ろされたわけだが、チャウシェスクはその中でも最も陰惨な最期を迎えた。
冒頭に名を挙げたソ連のゴルバチョフや、あるいは東ドイツのホーネッカーといった他の主だった指導者たちを見ても、政治的に失脚はしても、生命を奪われるには至っていない。
むろん、妻共々銃殺されたチャウシェスクがそれだけ民衆の怨嗟の的となる内政を長年敷いていたことは疑いようがない。
しかし、それは裏を返せば、ルーマニアの体制というか総体としての民度が、そうした個人への絶対的、圧倒的な権力集中を許してしまうほど未熟だった証左でもある。
さて、先ほどチャウシェスク夫妻について「老醜」と形容したが、純粋に姿形だけ見た場合、この夫婦は必ずしもむくつけき風貌だったわけではない。
残された写真を見ると、権力を得てから処刑されるまでの、いわば老年のチャウシェスクは、「ライムライト」に出た頃の老チャップリンに似ている。
実態はむしろ「独裁者」でチャップリンが演じた「ヒンケル」にこそ近かったのかもしれないが、銃殺される時のコートにマフラーを着けた姿を見ても、「穏やかで品の良いご老人」といった風貌であり、決して、冒頭に名前を出したエリツィンのような、見るからに「おっかないおじいさん」ではない。
実際、ソ連に追従せず、西側諸国とも積極的に交流し、独自の路線を歩もうとしたチャウシェスクは、日本でも好意的に捉えられていた。
私の手元には一九六七年に恒文社から刊行された「はだしのダリエ」がある。
ルーマニアの作家ザハリア・スタンクが一九四八年に発表した長編の邦訳だ。
「現代東欧文学全集」の第九巻として出版されたこの訳書には月報が付いており、当時「日本ルーマニア友好協会」の理事長だった鈴木四郎が寄稿している。
「現在のルーマニアの若い指導者、ニコラエ・チャウシェスク共産党書記長は最近、精力的にルーマニア国内各地を視察して回り、農民、労働者を激励し、懇談している」等、チャウシェスク(一九六七年当時は四十九歳)が好意的に見られていたことを匂わせる記述が見える。
むろん、これは友好協会のトップを務める人物による文章なので、そもそも現地について否定的な趣旨を書くわけがないという見方も出来る。
だが、戦後二十年を経た高度成長期の日本で、しかも文学全集のような学術的な性格の強い出版物においてチャウシェスクが肯定的に記述されていた事実は重要だろう。
ルーマニア国内においても彼が指導者となった当初は支持されていたのは事実のようで、現地では「妻のエレナが悪かった」という見方をする人も多いという。
共に銃殺されたチャウシェスクの妻で、公職としても副首相を務めたエレナは、日本でも「女独裁者」「稀代の悪女」といった扱いでしばしば取り上げられる。
彼女については、「勉強嫌いのため小学四年で学校を中退した」といった記述が諸所で見受けられる。
しかし、この経歴には、単なる本人の怠慢以上に、生まれ育った環境の貧しさや女性蔑視から来る教育機会の剥奪といった要素が強く影響しているように思える。
前掲したスタンクの「はだしのダリエ」は二十世紀初頭のルーマニアの農村を舞台にした小説だが、人前で夫が妻を殴打しても誰も咎めない、貧家の父親や兄が口減らしのために娘や妹に望まない結婚を強いるといった、女性の地位そのものの低さを窺わせる描写が散見する。
一九一六年にワラキアの農家の娘として生まれたエレナことレヌーツァ・ペトレスクの置かれた現実も、大きくは変わらなかったと推察される。
ちなみに、ウィキペディアによれば、「エレナ」は結婚後に改めて名乗った名とのことだが、これは上海の二流女優「藍蘋」が毛沢東と結婚して「江青」と改名したエピソードを彷彿させる。
それはさておき、若い頃のエレナの写真を見ると、コマネチやウィノナ・ライダーのような衆目の一致する美人とまではいかないにせよ、至って清楚な容貌である。
陶器じみた素朴さや初々しさを感じさせこそすれ、「悪女」「毒婦」といった自我の強さやぎらついた欲望を印象付ける気配はない。
同時に、明らかに何らかの記念として特別に撮った写真であるにも関わらず、化粧気もなく質素な服装で映っていることから、年若い彼女が着飾ることを望めない境遇にいたことも漠然と察せられる。
写真の正確な撮影時期は不明だが、当時の彼女は、自分の凄惨な最期はもちろん、最高権力者として豪奢な生活を送る将来すら予想していなかったのではないかという気がする。
経歴に話を戻すと、小学校中退後にブカレストの工場に勤務した彼女は、一九三〇年代半ば、つまり二十歳前後でルーマニア共産党に入党する。
そして、一九三九年、二十三歳の年に獄中で二つ年下のニコラエ・チャウシェスクと出会い、第二次世界大戦が終結した翌一九四六年、三十歳で彼と結婚した。
この点では、エレナはチャウシェスクの糟糠の妻であり、長年苦楽を共にした同士であった。チャウシェスクもそうした女性を捨て去る人間ではなかったと言える(前述した江青は毛沢東にとって四番目の妻であり、しかも、藍蘋と名乗っていた二十五歳の彼女が初めて毛沢東と出会った時、彼は五十歳にもなっていた)。
エレナが政治の表舞台に出てくるようになったのは一九六〇年代に入ってからで、それまでの十年余りは家庭に収まっていたのが実情のようだ。
一九六五年に夫が党の第一書記となり、一九六七年に正式にルーマニアの元首となるのに伴って、妻である彼女も個人崇拝の対象となり、公職のポストにも就くようになった。
そこから副首相にまで上り詰めていくわけだが、これにはエレナ自身の功名心や出世欲もあろうが、一面ではそうしたあからさまな縁故政治を黙認する後進性、封建性がルーマニアの風土に根強く残っていたためとも言える。
こうして国家を私物化した夫妻は困窮する国民をよそに豪奢な生活を送り、破綻を迎えるわけだが、コマネチとチャウシェスク一家との関係性を含めて、この夫妻の生涯に関する記事を読むたびに、ほんの二十年余りまで生きていた人たちではなく、「ベルサイユのばら」に描かれた時代の人々の物語のような感触をいつも受ける。
処刑直前の夫妻を収めた動画を見る限り、二人は自分たちが何故殺されるのか理解していない。
彼らの意識の上では、不当な殺戮であり、理不尽な死である。
「パンがなければお菓子を食べればいい」とは、真偽はさておき、国民の窮状を理解できなかったマリー・アントワネットを象徴する台詞だが、私にはこの夫妻が自国民の苦境はもちろん、共産主義そのものを理解できていなかったか、どこかで見失ってしまったように思える。
共産主義は万人平等の社会が大前提だが、この夫妻の施政の実態は中近世的な王権政治そのものだからだ。
チャウシェスクにせよエレナにせよ貧しい生まれであり、幼い頃から労働に従事し、まだ少年少女といってよい時期に当時は非合法組織だった共産組織に身を投じ、迫害を受ける青年期を送った。
そこを鑑みると、権力を掌握した後の腐敗ぶりと惨死に痛ましさも浮かび上がる。
改めてネットを検索して分かったことには、二〇一〇年にそれまで別々の墓に葬られていた夫妻の遺体が掘り起こされ、新たに一箇所に埋葬され、支持者たちにより豪華な石碑も建てられたという。
処刑から二十年余りを経て、曲がりなりにも全世界に向けてルーマニアという国の存在感を知らしめたこの指導者に対し、現地の人々の心情に変化が兆したのだろうか。
ドラキュラことブラド・ツェペシュについても、現地では「母国を守った英雄」との再評価の動きがあるとも言う。
チャウシェスクが造営した「人民宮殿」及びブラドの居城だったブラン城は、現在のルーマニアにとって主要な観光スポットである。
共産主義体制崩壊後のルーマニアというか東欧諸国について、対外的に芳しいニュースは少ない。
ロシアや東欧の美女といったキーワードで検索すると、ポルノグラフィ的な商品に数多くヒットするが、これは、社会主義体制が消滅した後のこれらの国々が日本や西欧に対して経済的に下位に立たされているため、一部の女性が出稼ぎとしてこうした作品に出演している薄暗い現実を裏書きしている。
ルーマニアという国に限定すれば、チャウシェスク政権崩壊後は、現地を訪れた日本人女子大生が殺害された事件や、また吉祥寺で若い女性がルーマニア国籍の少年から強盗目的に刺殺された事件など、いずれもこの国へのネガティヴな印象を増幅させるニュースばかりが日本では話題になった。
先述のザハリア・スタンクの「はだしのダリエ」は、本の函には「ノーベル賞候補になった」と紹介されているが、日本で一般に広く知られている作品及び作家かというと、そうとは言い難い。
そういう私にしても、一昨年に日本人女子学生がルーマニアで殺害された事件を知って、改めてルーマニアへの関心が再燃してネットで検索する内に、まず、都内に「ダリエ」というルーマニア料理店と「ノンカ」という東欧雑貨店があることを知り、前者がルーマニアの小説「はだしのダリエ」、後者がブルガリアの小説「ノンカの愛」にそれぞれ因んで名付けられたことを知った。
そして、「はだしのダリエ」と「ノンカの愛」がいずれも恒文社の「現代東欧文学全集」のシリーズとして邦訳が出ていることを知って、アマゾンで両作品を古書で購入するに至った。
「はだしのダリエ」という作品とその邦訳自体は、私が生まれる前から出ていたわけだが、インターネットという東西体制崩壊後に普及したメディアを介して初めて存在を知り、また入手することが出来た著作である(前述した女子学生の殺害事件についても、亡くなった彼女が死の直前までネット上に残して行った無邪気な呟きが、事件の凄惨さや痛ましさをより引き立てる形で話題になったと記憶している)。
付記すると、ルーマニア政府観光局とブルガリア政府観光局のホームページはそっくりな作りでしかもリンクしており、この隣り合った両国が極めて友好的な関係にあることもネットを通してよく分かった。
実際、両国は二〇〇七年に同時にヨーロッパ連合に加盟しており、ヨーロッパ全体の枠組みの中でも連動している。
ちなみに「はだしのダリエ」はルーマニアの貧農少年ダリエを中心とする大河小説だが、「ノンカの愛」は貧しい時代を背景にしてはいるものの美少女ノンカがヒロインのロマンス小説であり、この巻には他にも「愛の終わり」「桃泥棒」等、タイトルからして艶めいた印象のブルガリアの小説が収められている。
偶然そうなっただけかもしれないが、ルーマニアの「はだしのダリエ」に出てくる女性たちが美しくてもそれ故に男性から弄ばれたり虐げられたりして総じて不幸に蒼ざめた印象なのに対して、ブルガリアの小説に登場する女性たちはもう少し積極的に愛情や自分の幸福を求めて行動する傾向が目立つ。
一般的な国民性のイメージとしては、ラテン系のルーマニア人は開放的で人懐こく、ブルガリア人は勤勉で質素な「ヨーロッパの日本人」とのことだが、それは飽くまで外国人から見た一面であって、同胞同士の関係性においてはまた別な一面があるのかもしれないと思う(もっとも、日本の小説の主人公たちも勤勉で質素なキャラクターばかりではないけれど)。
ヨーグルト以外の特産物に着目すると、ブルガリアと言えば、薔薇である。現地の薔薇祭りや薔薇の模様を織り込んだ民族衣装(これは周辺の国々にも共通しているけれど)はもちろん、海外への輸出品にもローズジャムや薔薇のハンドクリームなど、この花を使った製品が目に付く。
一重の花びらに淡い色彩の桜に対し、香り立つ真紅の薔薇は濃艶な女性の代名詞に用いられる花であり、あるいはそうした花を日常に溶け込ませた国民性が、貧しく制約の多い時代にあってもロマンスに生きる艶麗な女性像をブルガリア文学の中に生み出したのかもしれない。
恒文社の「現代東欧文学全集」全体を見ると、一九六〇年代から七〇年代にかけて刊行されたこのシリーズは、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコとスロヴァキア(当時はチェコスロヴァキアで単一国家)、ユーゴスラヴィア(当時)の他に、アンソニー・クィン主演のハリウッド映画で有名な、ギリシャのカザンザキスによる「その男ゾルバ」の邦訳も含まれている。
地理的な面でも、政治体制上の面でも、ギリシャが「東欧」に属すかは日本人の感覚としては微妙なところだが、邦訳の刊行に当たって便宜的にシリーズに組み込まれたのだろうか。
さて、「現代東欧文学全集」シリーズには恐らく敢えて組み込まれていないが、東欧の文学に関しては国土の大きさに比例するように、ロシア文学が認知度でも評価の上でも圧倒的だ。
トルストイ、ドストエフスキーらソ連以前の文豪の作品は、小説の体裁を取った哲学書や教典といった趣があるし、体制成立後にもノーベル文学賞を取ったソルジェニーツィンのような国際的に知られた大作家を輩出した。
しかし、ソ連崩壊後のロシアで新たに書かれた作品というと、日本ではそもそも邦訳すらほとんどメジャーな形では出ていない感触を受ける。
映画もソ連時代は恐らくは体制の威信を知らしめる意図もあって大作が定期的に作られ、「イワン雷帝」や「戦艦ポチョムキン」等、日本でも高く評価された作品が少なからずあった。
アンドレイ・タルコフスキー、セルゲイ・パラジャーノフ、ニキータ・ミハルコフ等、国際的に著名な映像作家もソ連時代には輩出した。上記三人の作品は、日本でも現在、DVD化されている。
三人の内、ミハルコフの作品は未見だが、ソ連から亡命したタルコフスキーが一九八六年に遺作としてスウェーデンで製作した「サクリファイス」は、日本語訳して「犠牲」という意味のタイトルが示すように、終末的な虚無感に貫かれた作品だ。
自宅に放火して精神病院送りになる主人公は、故国に帰れないままこの作品を撮った直後にパリで客死したタルコフスキー自身の投影であろうか。
最後に初めて言葉を発した幼い少年の問いかけに対して、誰も答える人がいない描写にも、希望より痛ましさが滲む。
全編を通して繰り返し流される「マタイ受難曲」のヴァイオリンの音色が見終わった後も悲痛に響く。
パラジャーノフが一九六九年に製作した「ざくろの色」は、十八世紀のアルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯を幻想的な映像で表現した作品だ。
「ざくろの色」という邦題が示すようにアルメニアの伝統衣装の鮮やかな「赤紫」、そして伝統的な家屋や登場人物たちの白塗りを施された顔の「白」の対比が、不気味でありながら神秘的な映像世界を構築している。
ソ連当局の厳しい検閲の結果、現存する形になったというが、今の感覚で見ても前衛的な作品である。
青年時代の詩人やその恋人など一人で数役に扮した女優ソフィコ・チアウレリは、ギリシャ正教のイコンを思わせる両性具有的な美貌で、当時のソ連の女優は決して西側に劣らなかったと分かる。
ソ連時代の俳優に関しては「戦争と平和」でヒロインのナスターシャを演じ、イタリア映画「ひまわり」にも客演したリュドミラ・サベリエワや、「アンナ・カレーニナ」で主演したタチアナ・サモイロワのような、素朴だが芯の強いロシア女性を演じた女優たちの美しさも忘れがたい。
だが、ロシア連邦に移行してからは、二〇〇三年の「父、帰る」がヴェネツィア映画祭でグランプリを取って日本でもその限りで話題にはなったものの、ロシア映画そのものが定着するには至らなかったように思う。
なお、この映画は本編のストーリーもそうだが、主演していた子役の少年が撮影直後に舞台となった湖で亡くなったという悲しい後日譚も相まって、体制崩壊後のロシアの「暗さ」を印象付ける作品になっている。
ロシアの芸能というと、二〇〇〇年代に入ってから「t.A.T.u.(タトゥー)」という女子高生デュオが一時期、日本でも注目され、彼女らの挑発的な言動や扇情的なパフォーマンスがネットでも反響を呼んだ。
しかし、これは抑圧的な印象の強いロシアからそうしたパフォーマンスをする芸能人が出てきたことへの驚き、物珍しさから話題になった感触が強く、率直に言って、日本での彼女らの扱いは、イロモノ、キワモノといった印象が拭えなかった。
ほぼ同時期に話題になった中国の若い女性たちによる伝統楽器の演奏グループ「女子十二楽坊」と同様、このデュオは日本人のエキゾチズムから短期的に注目された例であり、韓流のようにロシアの流行芸能そのものが日本に進出するには至らなかった。
これは、他の東欧諸国についても言えることである。
ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督による一九五八年の白黒映画「灰とダイヤモンド」はテロリスト青年がゴミ捨て場で死んでいくラストシーンの衝撃を含めて、日本でも古典的名作として知られている(GLAYのアルバムやももいろクローバーZの曲にも同名タイトルの作品があるようだが、恐らくはこの映画から拝借したと思われる。なお、映画はポーランドの作家アンジェイエフスキの同名小説を原作にしており、岩波文庫から邦訳も出ている。映画はテロリスト青年マーチェクに焦点を絞っているが、小説は群像劇であり、マーチェクは複数いる主人公の内の一人といった位置づけである。また、映画のマーチェクが殺人を犯すことに葛藤していくのに対し、小説のマーチェクは殺人稼業に関してはもっとドライである)。
ワイダ監督に関しても、「ポーランド映画の巨匠」という認識は映画ファンの間ではある程度浸透している。
だが、ワイダと同世代で、「ポーランド広報文化センター」のホームページでも「ポーランドを代表する映画監督・小説家」とされているタデウシュ・コンヴィツキについては、中央公論社から一九八五年に小説「ポーランド・コンプレックス」の邦訳は刊行されているものの、映画はそのほとんどが日本で未公開だ。
中央公論社のような一応はメジャーな出版社から小説の邦訳が出て、しかも、手元の「ポーランド・コンプレックス」を確認すると、巻末の著者インタビューでは自作の映画についても語っているのに、これは釈然としない。
「ローズマリーの赤ちゃん」「テス」「戦場のピアニスト」で有名なロマン・ポランスキー監督もポーランド出身ではあるが、冷戦下の母国では表現の自由に制約が多かったため、彼は早くから海外を拠点に活動している(なお、『ポーランド・コンプレックス』の巻末インタビューでコンヴィッキはポランスキーについて『やたらと顔を出して目立ちたがるギラギラした人間』と名指しで揶揄している。むろん、これは注目を浴びている同業者に対する嫉妬心もあるかもしれないが、祖国を捨て去ったとも取れるポランスキーや亡命芸術家たちへの失望や反発が根底にあると思われる)。
映画「存在の耐えられない軽さ」の原作者である作家のミラン・クンデラも出身はチェコだが、一九七五年にパリに亡命し市民権を得て活動の拠点としており、前掲の小説も亡命後に発表されて国際的に注目された作品だ。
同じチェコのヤン・シュヴァンクマイエル監督は、本人の日本語ウィキペディアが存在しており、日本では「知る人ぞ知る」といった位置づけの映像作家になるだろうか。
私は十年ほど前に渋谷のシアターイメージフォーラムで「シュヴァンクマイエル映画祭二〇〇四」が開催された時に長編の「アリス」を観ただけだが、これはルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を実写と人形劇を組み合わせて映像化した作品だ。
ディズニーのアニメのようにキャラクターたちを飽くまで愛らしく愉快に描くのではなく、可憐な幼女が次々と不気味な人形たちに遭遇し、時には彼女自身も人形に姿を変えるというシュールさに衝撃を受けた。
実際の人形を動かすことによる現実感と非日常感の入り混じった雰囲気が、あどけない幼女の迷い込む夢の世界と良く合っている。
作品自体は一九八八年のチェコスロヴァキア時代に製作されているが、作品全体に漂っている静謐さの中に狂気を孕んだ不穏な空気は、来るべき動乱への予兆を示唆しているようにも見える。
東欧革命の中で、チェコスロヴァキアの分離独立自体は「ビロード離婚」と形容されるように穏便な形で成立し、ルーマニアのような流血を伴う変化ではなかったようだが、地続きの周辺の国々では正に動乱と形容すべき事態が同時多発的に発生した。
チェコやスロヴァキアの人々にとっても近隣国の混乱は、「明日はわが身」であったはずである。
さて、「東欧革命」から二十年余りを経た現在では、「暗く抑圧的な東側陣営」というネガティヴなイメージを喚起させる「東欧」という呼称は忌まれるようになり、新たに「中欧」と呼び習わす風潮が出てきたようだ。
私の手元には二〇〇八~二〇〇九年度版の「地球の歩き方 中欧」があるが、具体的には以下の国々を指している。
「チェコ、ポーランド、スロヴァキア、ハンガリー、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、アルバニア、ルーマニア、ブルガリア」
いずれも、かつては共産主義体制を取っていた国々であり、「東欧」にカテゴライズされていた地域だ。
古い教会や城の跡、銅像など掲載されている写真こそ、古風でゆかしい「ヨーロッパ」の風情だが、地域によっては「テロの恐れあり」「地方では地雷に注意」等、わずか数年前の時点でも「一般人が気楽に観光で行くところではないな」と思わせる記述が目に付く。
何となく興味を引かれてガイドブックを買いはしたものの、今日に至るまで「中欧」のどの地域にも具体的に行く計画は立っていないのも、そんなところから来ている。
むろん、地理的には同じ「東アジア」に属していても、日本と北朝鮮は言うまでもなく、本来は同じ民族で言語も共通する韓国と北朝鮮を比較しても、平均的な生活水準や一般的な価値観には明らかな開きがあるように、十数カ国もある「東欧」または「中欧」諸国の間にも生活水準や価値観において大きな差があるはずだ。
むしろ、「中欧」と一括りにして扱うことこそが、アメリカや「西欧」と比して、この地域の国々に対する日本人の関心の低さや蔑視感情を裏書きしているのかもしれないとも思う(念のため書いておくと、『地球の歩き方』には二〇〇八~二〇〇九年度版の時点で、『中欧』だけではなく、『チェコ/ポーランド/スロヴァキア』『ハンガリー』『ブルガリア/ルーマニア』等、個別の地域に絞ったバージョンも出てはいます。恐らく、『中欧』は、旧ユーゴスラヴィア諸国やアルバニアのような、観光地としての情報が少ない地域を包括したダイジェスト版として出されたと思われます)。
今年、二〇一四年の二月にロシアで開催されたソチ五輪で、女子フィギアは浅田真央やキム・ヨナを抑えて、地元の新星ソトニコワが女王に輝いた。
しかし、男子フィギアは地元の「皇帝」プルシェンコが故障で引退を余儀なくされ、日本の羽生結弦が金メダルを得て、表彰台もアジア系が独占するという、新しい時代を感じさせる結果となった。
その一方で、ロシアがウクライナ領内にあるクリミア自治共和国に軍事介入するという、あたかもソ連時代に回帰していくかのような不穏な動きも起きている。
「クリミア」と言うと、私には「ナイチンゲール」の伝記に出てきた、イギリス生まれの令嬢が決死の覚悟で赴いた戦地というイメージしかなかったが、リアルタイムで新たに国際的な注目を集める戦場となった現実に皮肉めいたものを感じた。
二〇二〇年の東京でオリンピックが開催される頃には、日本とロシア、そして東ヨーロッパとの関わりはどう変わっているだろうか。
日本人が東ヨーロッパをどう捉えているかばかりではなく、東ヨーロッパの人たちが日本をどう眺めているかも気になるところだ。