小悪魔
「いたたたたっ…… 」
翌日の昼休み、中庭の芝生に弁当を持ち込んで今しがた食べ終わったのだが、昨日慣れない立ち仕事を五時間ほどやった影響が出て、足にはまだ疲れが残っていた。案の定家に帰るとバタンキューで、予習復習などもする事が出来ないまま意識が無かった。
足の疲れを解す為、ストレッチを始める。昨日の内に少しでもやっておけば、もうちょっと今日の痛みは緩和されたであろうというのに。そう考えると残念だ。
まぁ仕方ない。身体が休養を求めていたのだから、それに抗う事など出来なかっただけだ。酔い潰れて寝てしまうよりはよっぽどマシではある。
そういえば、昨日はメモをする余裕も無かったのを思い出す。鞄の中に入れてあったB6サイズの愛用の手帳を取り出し、早速メモをする。僕はメモを良く取るのがクセになっている。これは五十嵐の影響だ。
五十嵐曰く「メモは思考のアウトプット。書き表わす事で、自分の思考を再確認する事が出来るし、目で見る事で欠点などにも気付きやすい。思考する上で、物事を同時に二つ以上思い描く事は困難だし、自分の頭の中だけだとそれが余計顕著になる」という事らしい。
言われてメモを始めてみると、それが事実である事に気付く。メモした時点で自分の思考とは離れた存在となり、過去の自分を客観的に見て修正する事が出来るのだ。
その時からメモをなるべく日常で取るようになり、今に至る。
それ以外にも、メモは自分の記録ともなる為、後からその日の行動を振り返ったり、未来日の予定を忘れないようにする事が出来る。ここに書いてあるという安心感がある為、「覚えておく」という労力を使う事なく、その分の思考を別のとこに使えるというのもありがたい。
なので手帳にはこだわりがあり、無くすと大変な事になる。いつも肌身離さず持ち歩いているものだ。
手元の手帳には一週間単位のページと、日別ページがある。時系列での行動を週間ページにまず書き、日別ページにはもう少し詳細に記載する。指示された内容や見た情報だけでなく、店長が珈琲を挽いたり淹れたりした際の方法等を、覚えている内に少しでも書いておく。
ぜひとも店長の淹れた極上の味を、自分で再現出来るようになりたいところだ。
一心不乱にメモしていると、誰かが近付いて来る気配に目を向ける。
「こんにちは、もうお昼食べたの? 」
つい先日失恋した相手 ―― 溝口 理恵 ―― だった。
「ついさっきね。そっちはこれから? 」
「うん、そうなの。友だちとカフェテラスで待ち合わせ。講義のノートまとめてたら遅くなっちゃって」
ふふっ、と笑いかけて来る。本人は無意識だろうけど、この小悪魔笑顔に振り回されているのは僕だけではないはずだ。彼女がさっと髪を払うと、とてもいい香りがして来てやばい。
なんで女の子というものは、こんなにもいい香りがするのだろう。決して香水のように鼻に付く香りではなく、シャンプーの香りとかかも知れない。いかん、本能よ沈まれ。
僕が心頭滅却していると、すぐ隣に座って手元を覗き込んで来た。うおっっ、近い! まつ毛ながっ!
彼女のふわふわ揺れる柔らかそうな髪が、すぐ目の前だ。もうちょっとぐらい警戒して欲しい。
「手帳使ってるんだね。なんかデキるビジネスマンみたいでカッコいいね」
私のはプリクラ用だけど、と彼女が自分の手帳を見せてくれる。キラキラにデコってある手帳らしきモノのページには、たくさんのプリクラが貼られている。ところどころに可愛い丸っこい字で、メモが書いてある。なんか、女の子の部屋を覗いてしまったような背徳感がある。女友達などほとんど居ない為、こういう行動を取られるとどう接したら良いのかがわからない。
プリクラの一枚に、新歓コンパの時彼女の隣に座っていた彼と、一緒に仲良さげに写っているのを見つけ、少し気持ちが鎮まる。
「バイトの面接どうだった? 」
あれは社交辞令ではなく、ちゃんと僕との会話を覚えていてくれた事が嬉しい。
「今は見習いって感じ。採用になるかはまだわからないけど、頑張ってるとこ」
「そっか、期待して待ってるよ。また決まったら教えて欲しいから、良かったら連絡先教えて? 」
好きな子からメアド交換を持ちかけられるなんて! 心の中で雄叫びを上げる。僕はメアドを教えてもらうと、すぐにメールを打ち込んで送った。
彼女はその後、友達待たせてるから、と行ってしまう。僕は彼女の残り香と、手元の携帯に残るメアドに、夢のような心地を覚えていた。
きっといい香りはヘアコロンですね。
小悪魔は意識してやっている場合もありますよ。騙されないで!