いつも読んでいただいて、ありがとうございます。
今回はいよいよあのシーンです。
楽しんでいただけると幸いです。
11〜迫りくる悪魔
翌日も朝から夏晴れで、蝉が大きな声で合唱していた。
蘭と和葉が作った朝食をみんなが食べ終える前に、目暮警部に呼ばれた小五郎は警視庁に向かって家にはいない。
食器を片付けている間、平次とコナンはじっとニュースを見ていた。今世間を騒がせているのは、やはり警察関係者連続殺傷事件だ。
「おまたせ、コナン君、服部君」
「ほな、支度したら行こか」
食器を洗い終えた二人がリビングに帰ってくる。
ご意見番の初老同士の論争がヒートアップしていたテレビ画面を消した服部の隣に座った蘭は、見上げてくるコナンに問いかけた。
「ねぇコナン君、お見舞いとお買い物、どっち先に行こうか?」
蘭の問いかけに対する答えは、コナンらしいものだった。
「僕…お見舞い行きたいな。早く、新一って人に会いたいから」
「そやな。俺らもまだ工藤に会うとらへんし」
「なぁ蘭ちゃん、集中治療室は入れへんかなぁ?」
「うーん…多分」
途端に返ってくる返事が嬉しいのか、コナンはニコニコ笑っている。
その姿を嬉しく思いながら、蘭はコナンにかぶせるキャップを取りに父の部屋へと足を向けた。
あのやり取りから30分後、四人は護衛の高木とともに毛利探偵事務所を後にした。
太陽は南にまっすぐ向かっている。
まぶしい光はアスファルトとガラス張りのビルで跳ね、人々はその熱をもろにくらう。
外、暑いね
アイス食べたいよね
じゃあコンビニでもいこか?
うち、キャラメルがええわ!
暑さに耐えながら行き交う人ごみ紛れ、いつもと変わらぬ日常を過ごせることの喜びを無意識に感じながら、一路米花駅へと向かった。
「…ねぇ、和葉ちゃん」
「なぁに、蘭ちゃん?」
涼しいコンビニを心残りに思いながら、冷たいキャラメル味のアイスを頬張っていた和葉に、ストロベリーのソフトクリームを手にした蘭が声をかける。
蘭は、溶けかけているそれを口元に、ポツリと話し始めた。
「…私、新一には会わない」
その言葉に、最後の一口のアイスを思わず地面に落とす。
もったいないな、と思った蘭に和葉はかまわず問いかけた。
「え、何でなん?何で会わへんの!?」
「…決めたんだ、自分自身に。“新一と目が覚めるまで会わない”って」
アイスで少しふやけたワッフルコーンが、湿った音を立てて割れる。
彼女の視線の先には、彼女達の数歩先でソーダバーとチョコレートアイスを互いにとりあうコナンと平次の後姿が映る。
「新一と私はね…昔からずっと一緒にいて、ずっと一緒に遊んでたわ。どこに行くのも、何をするのも一緒だった。…だからかな?新一がいないと…不安になるの」
じりじりと熱いアスファルトの上を、熱を帯びた車が通り過ぎていく。
都会特有の喧騒の中、蘭の言葉は酷く静かだった。
「新一は小さい頃から意地悪で、自信たっぷりで…でもかっこよくて、頼りになる人だったの」
「そやね、工藤君、かっこええもん」
「…だから、新一の傍にいると…依存しちゃうの」
傍にいられることに対する幸福と、苦悩。
そう呟いた蘭の笑顔は、それに挟まれる自分自身の心に対する自嘲のように見えた。
しかし蘭は、だからね、と続けた。
「今回は決めたの。新一がいなくても、コナン君を守るんだって。だから会わないの」
「蘭ちゃん…」
和葉は、アイスの棒に“あたり”の文字が刻まれていることも気づかないまま、蘭の儚い笑顔を見た。
蘭の心の強さと、脆さ、そして新一に対する想い─それら全てが、和葉から言葉を奪ったのだ。
こんな優しい親友に想われる彼らは、どれほど幸福なのだろうか。
「…分かったよ、蘭ちゃん。うちと平次と刑事さんでコナン君連れてくさかい、蘭ちゃんはラウンジとかで待ってて?」
「うん、ありがとう。和葉ちゃん」
「気にせんといて!…それにしても、のろけられたみたいやわ〜」
「べ、別に…のろけなんかじゃ…!」
慌てて溶けているストロベリーを口に運ぶ蘭の頬は、赤い。
「らーんちゃん、顔赤いで?」
「ほ、ほら!外暑いから…!!」
「ホンマに〜?」
「か、和葉ちゃん!アイスついちゃうよぉ!!」
騒ぎ出す彼女達の前で、口の端にチョコレートをつけた平次がまだかと叫んだ。
米花駅はもう目の前。
<─…番線に、普通列車、上り、電車が到着致します。白線の内側にお下がりになってお待ちください。繰り返します─>
電子警告音とともに男性のアナウンスが響く。
暑さによって熱せられた赤銅色の線路の上を滑るように走る、青いラインの入った銀色の車体を見て、涼しい場所を求めていた平次は自然と笑みを浮かべて覗き込んだ。
「お、来よったな」
「ほらコナン君、電車来たよ」
蘭が下げていたバッグのショルダーを握っているコナンに、彼女は笑いかける。
その言葉に、コナンはショルダーから手を離してホームを電車を望んだ。
そのときだった。
「…えっ?」
トン。
それくらい軽い擬音で表現できる軽い力が働いて。それだけの力でも、コナンの小さな体は宙に浮く。
慣性によりコナンが被っていたキャップは置いてけぼりをくらい、音もなくコンクリートの地面に落ちる。
理不尽な力に背中を押されたまま先のない前へと流されたコナンは、当然線路へ落ちる。
抗う暇もないまま、コナンの体は線路へと叩きつけられた。
─突き落とされた。
そのことに気づいた時には、コナンはすでに線路上に落ちた後だった。
「コナン君!!」
蘭が叫ぶ。平次も、和葉も、高木も、その場にいた誰もが言葉を失う。
咄嗟に運転手がかけた急ブレーキのけたたましい音は、その場にいた者の脳裏によぎった悲惨な光景に上げた悲鳴のようにも聞こえる。
ブレーキは慰めにもならず、銀色の巨漢はコナンに迫り寄った。
平次はすぐに線路に飛び降りると、衝撃で動けないコナンの体を抱き上げる。
間髪いれずに線路の枕木を蹴って、すぐ横にあった非難口に飛び込んだ。
その僅か後、彼らがいた場所を、電車は通過していった。
「いやあぁぁぁ!!コナン君っ!!」
「あかんよって、蘭ちゃんっ!!」
蒼い顔をして、今にも線路に飛び降りそうな蘭を和葉が抑える。
彼女の手は、大切な子供を求めるように線路にむなしく伸ばされた。
中途半端な位置で停車した電車、誰かが押してけたたましく鳴り響く非常ベルに、走り出す駅員。
真夏の米花駅は騒然とし、ダイヤは大きく乱れることとなった。
突然の展開に、平次は急激に早まった鼓動を抑えるためにせわしなく酸素を求めた。
あの時、コナンが突き落とされたと分かったとき、自分の意思は働かなかったと思う。全て無意識の行動だった。
もし、落ちた真横に非難口がなかったら。
考えただけでも汗が吹き出てくる。
そんな平次の横顔を、コナンは彼の腕の中で、
ただただ見上げることしかできなかった。
病院から連絡を受けた小五郎は、目暮とともにパトカーで病院に駆け込んだ。
「蘭!コナンは!?」
血相を変えて駆け込んできた父に蘭は、人差し指を立てた手を口元に当てた。静かに、という合図だ。
コナンの脈拍を測った風戸は、その細腕を静かにシーツの中へと戻した。
薬による強制的な安寧の中にあるコナンは、少しの衝撃や声では目を覚まさない。
「今鎮静剤打って、眠ったところよ。怪我はないわ」
そのまま、蘭は視線をベッドへと戻す。
ベッドでは、僅かに蒼い顔をしたコナンが静かに寝息を立てていた。幸い、かすり傷程度で済んだのだ。
その様子に安堵の息を吐き出した小五郎は、そのまま後ろに小さくなって控えていた高木を鋭い瞳で睨み付けた。
「どこを見ていた…高木!!」
「すみません…!」
顔面蒼白、指先を白く変えるほどの強い力で拳を握っていた高木は、深々と頭を下げた。
「だが、これではっきりしたで」
その冷え冷えとした空気を破ったのは、コナンが病院に運ばれてからずっと沈黙を守っていた平次だった。
彼の言葉に、その場の全員の視線が向けられる。
「この坊主は、あの時犯人の顔を見とるっちゅうことがな」
平次の科白に和葉が息を呑む。
「いいか高木君、何が何でもコナン君を守り抜くんだ!」
「はいっ!」
目暮の言葉は厳しい。
その戒めを自分自身にぶつけた高木は、姿勢を正して受け止めた。
…いいや、駄目だ。
守るだけでは。
「…和葉」
「何、平次?」
席を立った風戸に代わり、蘭が椅子に腰掛ける様子を見ていた和葉に、平次は言った。
「守れよ、この坊主?奴は何が何でも坊主を消そうとしとる」
「う、うん…でも、平次は?」
「俺は…」
優しい手つきでコナンの手を取った蘭を見て、平次は被っていたお気に入りのキャップのつばを回した。
その見慣れた姿に、和葉は目を見開く。
帽子を被りなおした─平次、本気だ。
平次の鋭い慧眼は、力強い光をたたえていた。
「奴を…犯人を捜し出してくる」
時計の針は、5時半の少し後を指していた。
30分ほど前に鎮静剤の強制的な眠りから覚めたコナンを連れて、蘭と和葉はラウンジへと向かった。
夕日が差し込むそこには、コナンと同じように入院着姿のものが知人と談話している光景が見受けられる。
その一角、真っ赤な太陽がビルの谷間から沈んでいく景色が見える窓側の席に、彼らは腰を下ろした。
目を覚ました後少しだけぼんやりしていたコナンを、蘭と和葉が覗いたとき。
コナンの表情が、戸惑ったように歪んだ。
賢いこの子供は、自分がどういうことをされたのか、その正確な意味をきちんと理解していた。
突き落とされた原因、犯人が自分に向ける、ギラギラした刃物みたいな殺意。
『ですが、このことが原因で、今後記憶を取り戻すことを怖がるかも知れませんね…』
コナンが眠っている病室で、診察していた風戸の言葉だ。
まだ小さい子供が、憶えていない誰かに命を狙われる。
そのことに、コナンが怯えてしまわないか。思い出すことを嫌がるかもしれない。
談話していた彼女たちは、笑顔を向ける反面、そのことを心配していた。
しかし、その思いは、コナンの言葉で払拭される。
「コナン君、ハンバーグが好きなの。“何が食べたい?”ってきいたら、すぐハンバーグって答えるんだよ」
「そうなん?ほんなら、明日の晩ご飯はハンバーグにしよか!」
「蘭お姉さんのご飯、おいしかったよ。和葉お姉さんのお味噌汁も」
「そう?ありがとな、コナン君」
にっこり笑ったコナンの視線が、不意に蘭たちからそれる。
その先を見つめていたコナンは、突然目を見開いた。
「どうしたの、コナン君?」
不思議に思いつつ、コナンの視線を追って後ろを振り返った二人の目に、男性が座るソファの前に据えられたブラウン管型テレビが飛び込んでくる。
レンズの向こう、大きな碧眼を揺らして、コナンは呟いた。
「ここ…知ってる…!」
<今年のトロピカルランドは、新たに野生と太古の島が加わり…>
そこには、夕方の情報番組の中継画面が映し出されていた。
夕日に照らされた白亜の城を背に、若い女性キャスターが楽しげに話している。
そこは、確かにトロピカルランドだった。
「トロピカルランドやね」
「うん。…っ!!」
和葉の何気ない言葉に答えた蘭の脳裏に、一つの記憶が蘇ってきた。
『空と、噴水。そこに、蘭お姉さんとこの人がいて、僕に笑いかけたんだ』
昨日の会話、コナン夢の場所。
そうだ、今年の春。
すっかり忘れていた…どうして忘れていたのだろう。あんなに大切な思い出なのに。
蘭は立ち上がり、興奮したように言った。
「そうよ、コナン君と新一と私で、3人でトロピカルランドに行ったのよ!!」
「…なるほど。コナン君の記憶はかなり戻りかけていますね」
あの後すぐに駆け込んできた蘭たちの話を全て聞いた風戸は少しの後、そう答えた。
その言葉に小五郎は問いかける。
「先生、もしコナンを実際にトロピカルランドへ連れて行ったら、記憶が戻るんじゃ…?」
「うーん…その可能性はありますね」
小五郎の言葉は賭けに近かった。
早く犯人を捕まえなければ、という焦りと、記憶を取り戻してほしい、という願い。
けれど、そのためにはコナンが苦しむ。その痛み。
両方の欲望にはさまれた蘭は、でも、と遮る。
「コナン君、記憶取り戻すのは怖くない?目の前で新一が撃たれたこと…思い出さなくちゃならないのよ?」
蘭の意見は最もだ。コナンの記憶喪失が、新一が目の前で撃たれたことによる心の傷から自分を守るための絆創膏なら、その絆創膏をはがさなければならない。
剥がしたら、その傷はじくじくと痛み出してしまうだろう。
そのことに、コナンは耐えられるのか。
少しの間考えたコナンは、しかしすぐに顔を上げる。
その瞳を見た蘭は、息を呑んだ。
「…怖いよ。事件のことを思い出すの。でもね、僕思ったんだ。昨日見た夢のような、楽しいことや嬉しいことも全部忘れてることが、すごく悔しいって」
「コナン君…」
強い瞳。純粋な欲求。蒼くキラキラしたその瞳に呑まれる蘭に、だからね、とコナンは続ける。
「だから、思い出したいんだ。皆のことも、自分のことも。そのためなら、怖くなんかないよ。
それに、犯人を捕まえなきゃならないんでしょ?記憶を失う前の僕は、犯人見てるんだよね」
「なら、逃げないよ」
その瞳に、迷いはなかった。
「いやぁ、コナン君は強いね。その勇気があれば、トロピカルランドへ行っても大丈夫でしょう」
感嘆したように風戸が息を吐く。
その言葉に、蘭たちは安堵した。医者の太鼓判なら、安心だ。
「僕、明日行ってもいいかな…?」
「そうね、行ってみよっか」
「うん!…あのね、蘭お姉さん」
回転椅子を少し回したコナンは、神妙そうな声で言った。
「平次お兄さんには…黙っててくれる?」
「え、どうして?」
今は姿のない、平次の名前が飛び出す。
突き落とされたとき、身を挺して守ってくれたのに。
和葉や小五郎、風戸もその言動に集中する。
「だって…平次お兄さん、事件の捜査もするのに僕まで守ってくれたら大変でしょ?僕には刑事さんや小五郎のおじさん、蘭お姉さんに和葉お姉さんもいるんだ。平次お兄さんには、捜査にに集中してもらいたいなって…」
「コナン君…」
駄目かな?そう見上げる子供に、蘭は笑って答えた。
「わかったわ。服部君には言わない」
「ありがとう」
少しの罪悪感を抱えたコナンは、微笑みの中に影を落とした。
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