9〜見上げた恐怖
「─蘭、行くぞ」
「…うん」
荷物を持った小五郎にせかされ、蘭はもう一度だけ、と視線を中に戻す。
冷房で冷えてひんやりとした窓ガラスの向こう─集中治療室の、新一に。
「…次に会うときは、新一が目を覚ましたときだから…ね」
機械に支えられながら眠り続ける新一を見て、蘭は己を戒めるように呟く。
決めたじゃない、蘭。
あなたの役目は新一の傍にいることじゃないでしょ。
蘭は一度目を閉じ、右手をかたく握り締めた後、再び目を開け、自分を待っている子供の元に行くため集中治療室の傍から踵を返した。
「風戸先生、どうもありがとうございました」
朝から雨が降る二日後、検査で脳に損傷が見られなかったコナンは退院することになった。
世話をしてくれた看護師の一人から、小さな花束を渡される。
丁寧に頭を下げるコナンの様子に、風戸の表情も和らぐ。
「いいかいコナン君、無理に記憶を取り戻そうとしないこと。いいですね?」
「はい」
数名の看護師と風戸に見送られ、花束を抱えたコナンは蘭たちと共に、高木の運転する車で毛利探偵事務所へと向かった。
空からこぼれる雨が、車の窓ガラスを叩く。
コナンはその様子を、そして外の町並みを見つめているようだった。
「コナン君、ここが君が住んでる米花町よ。憶えてないかしら?」
己の膝の上に座って窓の外を流れる景色を見つめるコナンに、蘭は話しかける。
コナンは同じ姿勢のまま、首をゆるく振っただけだ。
「そう…でも、無理に思い出さなくていいって、風戸先生も言ったもんね」
「うん…」
蘭の言葉も、耳を通り抜けているように感じる。
恐らく、僅かな記憶の中に、見覚えのない景色はないか、探しているのだ。
それは恐らく、自分のためではなく─周りの人のため。
特に、蘭。
傍にいてくれる蘭を元気付けるために、早く記憶を─平次には、そう思えた。
走らせること数十分、一軒のビルの前で車は静かに停車した。
「毛利…探偵事務所…」
ガラス越しに見上げる建物の窓に張られた文字を、コナンはそのまま読む。
「あそこの3階が、私たちの家よ」
コナンとは反対側の、道路側のドアから出た和葉が、ぱん、と軽い音を立ててクリーム色の傘を開く。
そのまま車の後ろを回り、蘭が歩道側の扉を開けた。
「ちょっとの距離やけど、濡れちゃうからね」
「ありがとう、和葉ちゃん」
さぁコナン君、と蘭に促されそれに小さく頷いたコナンは、礼を言うべく和葉を見上げる。
しかし、その瞬間
「……ぁっ!!」
急に目を見開いたかと思うと体を強張らせ、震える。
まるで和葉から逃げるように、膝の上から転がり落ちるようにシートに崩れる。
蘭の腕を震える手で強く掴んで、すがりついた。
手に篭った尋常ではない力の強さとその冷たさに、蘭は慌てた。
和葉も、コナンの脅えように首を傾げる。
「コナン君、どうしたの!?」
「何か怖いのん?」
背中を撫ぜ、そっと声をかけてみるものの、コナンは蘭の肩に顔を埋め、首を振るだけで出てこようとはしない。
見たくない、と硬く閉ざされた瞳。
近寄らないで、と全身で嫌悪を訴える。
でも、それが何に対しての拒絶なのか、見当がつかないのだ。
その様子を助手席から見た小五郎はドアを開け、和葉の足元を見て気づいたように呟いた。
「水溜りが怖いんだろう。あの時も床にたまっていたからな」
「あぁ、なるほど」
「それじゃあ私、コナン君抱っこして出るね」
さりげなく手をはずし、コナンを抱きあげた蘭が車から降りて階段へ駆けていく。
「コナン君、もう水溜りないよ?」
「大丈夫やで、コナン君?」
階段にそっと降ろしたコナンの冷たい両手を、蘭の手が撫でる。
傘を畳んだ和葉も、コナンの頭をそっと撫でた。
「…水溜り…?」
一部始終を黙ってみていた平次は、何か変だ、と首を傾げた。
「─ここは毛利探偵事務所。お父さんの仕事場よ。お父さんは大抵、昼間はここにいるわ」
あれから10分ほどで、ようやくコナンは落ち着いた。
それでも涙を見せないのは、彼の心の底の強さなのだろうか。
知っているはずの事務所を紹介されたコナンは、もの珍しそうにきょろきょろと見渡した。
本来ならば日当たりのよい窓際の、煙草の焼け跡が残る事務デスクを指差し、小五郎は得意げに言う。
「ここで俺がいつも難事件を解決しているんだ!」
しかし後に、
「ホンマは昼真っからビール飲んでテレビ見て競馬聞いてるんやで」
と平次にこっそり言われて、コナンは笑ったのだ。
「ここが三階の家よ。ここがリビングで、あっちが台所、トイレ、お風呂」
そのまま三階の住居スペースに上がり、通されたのはリビング。
「お茶入れてくるから、座って待ってて?」
「あ、うちも手伝うで!」
荷物を置いてキッチンに向かう蘭と和葉。
仕方なく、平次とコナン、小五郎はリビングに腰掛けた。
リビングの片隅には、コナンの茶色いランドセルとサッカーボールが転がっている。
蘭がお茶を用意してくる間、それを見つけたコナンは膝たちでにじり寄り、そのサッカーボールを手に取った。
「あ、コナン君、サッカー上手なんよ!」
麦茶を運んできた和葉が、それを見て言った。
和葉の言葉を聞いたコナンは、ボールをしげしげと見つめる。
「僕が…?」
「せやで。工藤のやつもえろぅうまくてなぁ。よく二人で遊んでたんやで?」
「事務所の中でもしょっちゅうボール蹴ってたしなぁ」
「雨降ってなかったら外に行けたんだけどね」
ボールを蹴ったら、何か思い出すかもしれないのに。
残念そうに外に向けた蘭の視線に、でも、とコナンはあわてて声を上げる。
「大丈夫だよ、蘭お姉さん。僕、すぐに思い出すよ!だから心配ないよ」
ね、と笑うコナン。
その瞳の優しさに、逆にこっちが心配されたのだと蘭は気づく。
記憶を失っても、そんな些細な優しさは変わらない。
だから余計に、守りたくなる。
「…うん、そうね。…そうだ!」
蘭は、いいことを思いついたとばかりに声を上げた。
「ねぇ、今日の夕飯はコナン君の退院パーティにしない?」
「お、そらええな。面白そうやん」
「んじゃ、何かパーっと上手い飯でも食うか!!」
「そやね!なら、阿笠んとこのおっちゃんや子供たちも呼んだろうよ!」
「ねぇコナン君、何か食べたいものある?」
突然の展開と蘭の言葉に、コナンは目を見開く。
平次と和葉はすでに食べ物の話で持ちきりだ。
「すしや、すし!祝い事といったらすしやって!」
「大勢来るなら空揚げとかでもええんとちゃう?」
「そうだね。じゃあ、おやつ食べたらお買い物に行こうか!!」
買ってきたすしと、蘭と和葉の手作りの夕食がぎっしりと並べられたテーブルを囲み、
退院パーティは盛大に行われた。
空揚げやポテトを取り合う元太と光彦に混じる平次に、
祝いの席だ、とビールを次々消費していく小五郎。
さりげなくコナンの横をゲットした歩美。
哀に油ものを敬遠される阿笠。
毛利家の狭いリビングは、笑顔で溢れていた。
騒がしい、ともあらわせる夕食にも、コナンは終始楽しそうな笑顔で笑っていて。
その笑顔を見れただけで、蘭は思うのだ。
自分の選択は、間違っていなかった、と。
夜中に、平次はふと目を覚ました。
蘭の部屋で休む和葉と異なり、平次は小五郎の部屋にいる。
その部屋には、平次のほかにコナンと小五郎もいるのだ。
寝れるはずがなかったのだ。
子供たちの前で酒を盛大に煽り、真っ赤な顔をしてデロンデロンになった小五郎をベッドに運んだところまでは良かった。
しかし、小五郎のけたたましいいびきは盲点だった。
うるさくて寝れないっちゅーねん!!
寝苦しさと騒音で目が覚め、もぞもぞと寝返りをうった平次は、隣の布団で寝ていたはずのコナンがいないことに気づいた。
時刻は夜中の3時前。
トイレにでも行ったのだろうか。
しかし、布団のぬくもりは冷めかけていた。
不思議に思った平次は身を起こした。
テーブルの上にパーティの余韻を残したリビングは、しんと静まり返っていた。
その窓辺、月明かりに照らされて、座り込むコナンを見つけた。
サッカーボールを手に、月光に照らされる青白い表情は苦しげに歪む。
思い出そうとしているのだ─平次には、そう思えた。
自分が好きだと聞いた、サッカーボールを手にして。
昔の自分を。
「…分からない」
やがて、切なそうにそっと呟いて目を閉じたコナンを、これ以上見つめることを止めた。
自分にしてやれることは何もない。
声をかけることもなく、平次は扉をそっと閉じた。
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