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黄金の帝国

作者: 蘿蔔 華宵

イブラヒム・パシャ     :ギリシャに生まれトルコオスマン帝国の奴隷となる。

                皇太子であったスレイマンと出会い信頼を得る。トルコ・ペルシャ・イタリア・ギリシャ語を

                自在に操る。30歳の若さで小姓頭こしょうがしらから大宰相だいさいしょうになった。 


スレイマン         :オスマン帝国第10代のスルターン。帝国の最盛期を築く。


ムスタファ         :第一夫人マヒデヴランとの間の皇子。容姿端麗、優秀であった。


ロクセラーナ        :ロシア人。壮年期のスレイマンの第二夫人。後にスレイマンとの間に多くの男子をもうける。

                昔ながらの慣習をことごとくスルターンに破らせる。ロシアの魔女と呼ばれる。

                別名ヒュッレム・ハセキ・スルタン


†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*†*




1420年。


マムルーク王朝を滅ぼし、シリア、エジプトを始めてオスマン帝国の領土としたセム1世の後を継ぎ、26歳の若さで広大な領土を持つ帝国の支配者となった男がいた。


其の男の名はスレイマン。


半世紀にも及ぶ長い治世。その間、13度も遠征を行い、ペルシアからヨーロッパ、アフリカ大陸に及ぶ広大な領土をもたらした。

英語圏では壮麗帝そうれいてい、そしてトルコの人々は立法帝りっぽうてい、カーヌーニと彼を呼んだ。


畏怖いふ畏敬いけいの念を込めて。



「草原に寝転べば、目に映る。

 何処までも青い空。

 神々の住まうオリンポスに吹く風は、どれほどにかぐわしいのだろう。

 空と海の青。が祖国。ギリシアよ」




16世紀。オスマントルコ王宮。


宮殿の中庭で、ざわめきと喧騒けんそうが響き渡る。


美しいタイルに赤黒い血が流れると、ガツガツと軍靴ぐんかを響かせ歩み寄る姿に辺りは静まり返る。


モスグリーンのソフに金の縁取りをほどこしたカフタンを優雅にひるがえ颯爽さっそうと歩く。

削られたかの如く、くっきりとした目鼻立ち。其の双眸そうぼうは、空に君臨くんりんする鷹の如く深く鋭い。

褐色の肌を持つ黒豹を思わせる、しなやかな肢体したい


誰しもを魅了みりょうする、壮麗帝そうれいてい、スレイマン1世である。

        



「何の騒ぎか」


「陛下」


「パシャか。

 騒がしい。何事だ」


「アフメットの手の物です。

 片付くところです」


「アフメット。まだアレの名を聞くとは」



大帝に寄り添い従う男、イブラヒム・パシャ。


豊かな黒髪くろかみを、ターバンに隠すことなく風になびかせる。

思慮深い彼の横顔に、常に寂しげなかげりを落とす長いまつげ


小姓こしょう時代から、スレイマンの信頼厚く、異例の抜擢ばってき大宰相だいさいしょうとなった元奴隷のギリシア人である。

エジプト開放の折、故郷ギリシアに戻ることなく、若いスレイマンの影となり日向となって使えてきた。


ただ只管ひたすらに、突き進む。


自らとそれほど変わらぬ年頃の、此の美しい大帝のために。






「やめて、放してっ、汚らわしい手で触らないでっ」


広間に響く若い娘の声。異国の言葉で叫ぶその娘は、哀れな姿で鎖に繋がれながらも、激しく抵抗している。


今まさに処刑された罪人の流れる血に怯えるでもなく、その珍しい金の髪に触れようとする者達を振り払っている。


「御守りください、主よ、わたくしを邪教の信徒よりお救いください」


その言葉の意味はわからずとも、振り乱す金の髪と真珠のように輝く肌。


まるで伝説の白い獅子。


スレイマンは、この若い雌ライオンに強く惹かれる。


「あれは」


「奴隷です」


「白いな」


「北の民です。貧しい司祭の娘だそうです」


「誰が買ったのか」


「わたくしが」

        

「お前が」


後宮こうきゅうに変わった毛色けいろも良いかと思いまして」


「余に買ったと」


「もとより、パシャの物は、全て陛下の物」


「ふむ、連れてゆけ。あの様なみすぼらしい物ではなく、良いものを着せ、美しく飾り立てよ」


「仰せのままに」


「玉は磨くものじゃ」


「興味がございません」


「そうか……。

 なぁ、パシャ。

 そちも小姓こしょうに売られてきた。

 身分はとうに開放しておる。

 不思議な奴じゃ……いまだこうして、余の元にとどまりおって。

 今一度問おう。

余は、間違っているか」


「陛下。

 覇者はしゃとは、後ろを振り返らぬもの。

 選んでしまった道は、歩みと共に消えてゆきます。

 我らはただ御身おんみの背を見詰め、共に進むのみ」


「余の指し示す道に、栄光がある。

 我が帝国を付き従えているのだ。

 省みるのはそれほどに愚かだと、まだ即位間もない頃にそなた、申したな」


思慮しりょとは、為すべき時に存分になさるもの」


「そうであったな。

 そちほどに、優れた者が、余に厚遇こうぐうされる。

 当然の事となぜ解らぬのか」


民草たみくさと、大帝。

 羊飼いと、オリンポスの神々と、等しくあるはずがございません」


「パシャ。

 帝国は、たみの平安を約束せねばならぬ。

 みな余の子。

 目指すは正しく美しい、黄金の帝国。

 だが、目指す帝国はまだまだ遥かに遠い。

 父の奪ったもの全て、もとの主へと返した。

 エジプトの奴隷はもう、全て祖国へと帰ったであろう。

 だがまだだ。

 余の計画は始まったに過ぎぬ」


「偉大なるカヌーン。

 異国の王であってもマグニフィセントと讃えて止みません」


「マグニフィセント」


壮麗帝そうれいていと」


「愚かなことだ」


『いいや、なんと相応ふさわしい呼び名であろうか。

 大帝の背を通り、髪を揺らす風の匂い。

 嗚呼ああ此れが、此の風こそが、わたしを此の地に、此の帝国につなぐ鎖。

 そして、夢の帝国へといざなうう調べなのだ』

 



パシャによって送られた奴隷は、一人の北の民。


黄金の髪を誇る白い美女ロクセラーナである。


白磁はくじの肌に燃え上がるほどに激しい気性。


夢を追い求め戦い続けた大帝は、自らの肉体と、えゆくこころざしに、目をそらすがごとく彼女におぼれた。

望むがままに後宮こうきゅうを移し、数多あまた后妾こうしょうを差し置き、奴隷の身分を解放し、正式な皇后とした。



そして、帝国に混乱の影が、静かに侵食しんしょくしてゆく。





王宮、大宰相執務室。


ただならぬ様子で駆け込む若者が一人。


「パシャ!」


「ムスタファ皇太子。

 ご機嫌きげんうるわしゅう」


ムスタファと呼ばれたその若者は、第一寵姫、愛妾メヒデヴランとスレイマンとの間に生まれた第一皇太子である。


穏やかに声をかけられようとも、彼の剣幕は変わらない。


大宰相だいさいしょうであれば、もう聞きおよんでいるはず。

 真相は、究明きゅうめいされたのか」


「はて、真相とは」


「第一皇太子と分かって、其の言い草か。

 夕べの首謀者のことだっ」


「しっ……! 大きな声を出されるな」


声を潜めるパシャに憮然とする。若さが、彼の感情をそのまま表情に映し出す。


「むう……。

 第一寵姫だいいいち ちょうきであるが母上に、あのような事が起きたのは由々(ゆゆ)しき事態であろう。

 寝所しんじょに、へびなどと。

 お命に別状が無かったからいいものを」


「ご無事であった。それが何より」


「何を申すか、此度こたびだけの無事であってどうする。

 首謀者しゅぼうしゃを、元を正さねば、幾度いくどとなく母の命が危険にさらされるのだ」


「そのようなこと、決してございません」



はやる若者が間違った選択をせぬように、力強く抑えるパシャ。


皇太子は、パシャの気持ちを知ってか知らずか、しばらく押し黙った後、パシャに近寄り耳打ちをする。


「あの、あの恐ろしい北の魔女を、殺せ」


だがしかし、常に避けるべき道を若者は選ぶ。戸惑い、間違い、人は失敗を繰り返して成長せよと神々は目論んだ。


それでもパシャは、父によく似たこの若者を何とか護ってやりたかった。


皇太子おうじ、滅多なことは」


「そう、あの女こそ蛇。

 父上を誘惑ゆうわくし、あろうことか第一夫人のが母を差し置き、正式に婚姻こんいんなどと」


「広い宮廷。何処どこに蛇の子がひそんでおるやも知れません。

 お心を、お静めくだされ」


「もうよい。

 そなたがやらぬのなら、自らこの手であの細首ほそくびを、白いのどをかき切ってやろう」


いきり立つムスタファ皇太子が背を向け出てゆくのを、パシャは肩を引き寄せ立ち止まらせる。


そうして我が子のように抱きしめながら、今一度静かに諭す。


「皇太子、そのようなこと、あの者の思うつぼてき老獪ろうかい大蛇だいじゃ

 此のパシャを信じ、おおさめください」


熱く逞しいパシャの腕に包まれ、皇太子は想う。


父、大帝スレイマンを。


どれ程に……


父にこうしていだかれたいことか。敬愛して止むことのない父への渇望。


母も己も、なんと惨めなことか。ただ、愛されたいだけなのだ。



「パシャ」とつぶやいた皇太子の声の寂しさに、パシャは穏やかにそして力強く応える。


「どうか……」


どうか、自らを危険に晒す事のないようにと。


この広い宮廷で、これほどまでに孤独な若者がいるであろうか。


「余は、玉座など……!」


「何を申されます。次期スルターンは、貴方様のほかございません」


「母上が、お気の毒だ」


「おお、そうですとも。母君のところへ。

 ささ、おいきくだされ。ささ」


『お優しいお心が、弱さになっておられる。

 なんということだ、外敵がいてき蹴散けちらし、法をととのえていらした陛下が、女性にょしょうごときに。

 陛下、我が君よ。

 あの雄雄おおしく、神々(こうごう)しい陛下は一体何処どこにお隠れになったのですか。

 共に目指した黄金の帝国は、未だ築かれてはおりませぬぞ。

 それどころか、内よりうみ腐臭ふしゅうただよいい始めているではございませぬか。

 あの日、奴隷の身を開放された。

 だが私は、貴方を選んだ。

 貴方と共に、黄金おうごんの帝国をきずくという夢への道を歩む為に。

 貴方こそ、私のアポロであったのに』




パシャの胸に、故郷の青い空が、浮かんで消える。






混乱こんらん後宮こうきゅうよりにじみ出る。


じわじわと触手しょくしゅばし、いつしか人はうわさする。


偉大なるスルターン、カーヌーニは死んだ。


巨大な白いへびに生きたまま飲み込まれたのだと。


ぬらぬらとあやしくうごめくく、妖艶ようえんな蛇、ロクセラーナ。


傾国けいこくの美女。ヒュッレム。




「そう、そう云ったの。

 大蛇だいじゃと」


後宮。注進に来た子飼いの兵士に耳打ちされたロクセラーナは、美しい眉をひそめて隣に寝そべるスレイマンをちらりと見やる。


関心かんしんが、ございませぬようで」


「よせ」とそっけない呟きに、ロクセラーナの片眉が上がった。


「そうですか。

 よもや、陛下まで、わたくしがへびを放ったと」


「よさぬか、もう、聞きとうない」


「なんと云う事でしょう。

 このような遠く離れた異国に一人、幼子を抱え、わたくしには、陛下以外にすがる方など居ないと云うのに。

 このような、つれない方であろうとは。

 まわりは針のむしろ。

 それなのに、いつまでも、あの年老いた小姓こしょう上がりの事ばかり」


「いい加減かげんにいたせ」


苛立ちを見せた大帝の声に怯むことなく、美しき蛇は籠に鳴く小鳥のように、切なげな声を出す。


「いいえ、いいえやめませぬっ。わたくしには子供が、貴方との間にもうけた可愛い子がいるのです。

 父に愛されぬ我が子が不憫ふびんです。

 そして愛されぬ女である、わたくしが、悲しい」


「何を申す、そのような事」


「いずれ、大宰相だいさいしょうがわたくしと子らに濡れぬれぎぬを着せ、此の首を皇太子こうたいし様が切り捨てましょう。

 どうか立ち会ってくださいませね。

 例え白首しらくびとなろうとも、貴方の緒足みあしの先にころがり、口付けを差し上げますから」


せつないことを申すな。

 そのような事があるものか」


「いいえ、いいえ」


仕方しかたの無い奴じゃ。

 ほれこのように抱いておろう。

 そなたこそ、わがまことの妻ではないか。

 そなたと、われらが子。

 何人なんぴとも傷つける事などあるものか。

 そのような事、思いわずらうでない。

 そなたは、美しく着飾り、夢を見、花に囲まれておれば良いのだ」


「陛下。

 ただ一人の方。

 わたくしをまもってくださいますか」


「何も申すな、可愛い女よ。

 余の胸を信じ、すがっておればよい」



広大こうだい領地りょうちべる、偉大いだい大帝たいていのその胸に白磁はくじほほを預けながら、女の心は氷のごとく冷たい炎に満ちている。

そうしてり返しとなえる呪いの言葉。

忘れぬように、たった二文字、復讐ふくしゅうと。



『信じろ、と。

 老いぼれが。

 此の国の、此の宮殿。

 心の休まる場所など有るものか。

 それに此の臭い。

 捕らわれ、蹂躙じゅうりんされ、子まではらまされたこの恨み、忘れるものか。

 オスマントルコの隅々までに、が復讐の根を広げ、壮麗王そうれいおうの名を、地の底までおとしめてくれる。

 まだじゃ、まだこれから。

 女を、人を、まるで犬猫のように譲り渡す。

 悔やむがいい、パシャ。このわたくしを、スレイマンに捧げたことを。

 此の国を滅亡に追いやり、大切なスルターンの名を汚すのは、お前だ』



異教の男にけがされ流した、神に仕える処女の血潮ちしおは、ロクセラーナによって幾千いくせんものトルコ人の血であがなわれる。




それから日を数日と置くこともなく。

王宮の広間に大宰相、パシャが呼ばれる。


玉座に掛けるスレイマン大帝のその隣には、皇妃ぜんとロクセラーナが鎮座している。


パシャは、今しがた告げられた新しい赴任地に、耳を疑った。


「イラン……?」


「そう、イラン。御武運ごぶうんお祈りしておりますわ」


したり顔でまつりごとに口を出す。


パシャは、入室してから一度もロクセラーナに会釈どころか、目を向けることもしない。


「陛下」


「なんじゃ」


何時いつからが帝国は、いくさを女がくわだてるようになったのでしょうか」


「なんですって」


ロクセラーナの眼尻まなじりがキリキリと釣り上がる。


パシャは、其処に彼女の存在すら無いとでも云うように無視を続ける。


彼の双眸は真っ直ぐに、たった一人の主、スレイマン大帝に向けられているのだ。


「やめよ。

 奥よ。さがっておれ」


大帝の言葉に、うってかわって艶然と微笑むとロクセラーナは席を立つ。


「もちろんですわ。では、陛下」


「うむ」


パシャの名も呼び、礼を尽くせと圧力を掛ける。


「パシャ」


変わらずスレイマンを見つめる彼に、とうとうスレイマンがため息をつく。


口端がひくひくと震えていたが、ロクセラーナはもう一度愛想よくスレイマンに声をかけ微笑んだ。


そして、形の良い鼻を高く上げ毅然とパシャの横を通り過ぎようとしたその瞬間、すれ違いざまに大宰相が呟く。


「……へびめ」


ロクセラーナが怒りも顕にパシャに振り返ったのと、スレイマンの王者の一声はほとんど同時。


「静まれっ」


久々に耳にする王者の威厳に、流石のロクセラーナも上げかけた叫びを飲み込んだ。


「……では、ごきげんよう」


何事もなかったかのように部屋を出てゆくその後姿。だが正面のその顔は、悪鬼のごとく歯をぎりぎりと噛み締めていた。



パシャはまだ、大帝を見つめる。真っ直ぐに。


先にため息混じりに目を伏せたのは、誰あろう、壮麗帝スレイマン。


「余のきさきであるぞ」


「そのようですな」


「パシャ。

 余を怒らすな。

 女のことじゃ、大目おおめに見てやれ」


きさきと呼ばれる。

 の時点で、(ただ)唯の女で無くなるのでは」


「唯の女よ。

 おろかで、小賢こざかしい」


「ご明察めいさつ、恐れ入ります」


「だがそれが可愛いのじゃ」


「……」


「そのような冷ややかな目で視るでない。

 そちは、そのまま、女を受け入れずに人生を送るのか」


「イランの話を、いたしませんか、陛下」


「そう、だな」


こうして、二人で語り合うことが懐かしく思える。


それ程に今、パシャとスレイマンの間で、ロクセラーナの存在が隔たりとして大きくなっていた。


そんなことをパシャが思い考えていると、皇太子ムスタファが、護衛の手を振りほどき慌ただしく駆け込んでくる。


「父上っ」


「なんと騒がしい一日じゃ」


「パシャをイランへなど、まことでございますかっ」


まことじゃ」


「父上、何故なぜです、何故なのです。

 稀代きだい名君めいくんうたわれ、此処ここまで帝国を栄えさせた偉大なる父上が、何故なぜ


父王に駆け寄ろうとする皇太子の身体をパシャが止める。


「皇太子、おひかえくださいませ」


スレイマンは我が息子の言葉を繰り返す。


何故なぜ……?」


何故なぜ、あのロシアの魔女にまどわされておられるのですっ」


「なりませんっ」


パシャは、何時にない声を上げ皇太子を制する。


「余が、惑わされていると」


「父上、たみが泣いております。母上が泣いております。

 もう其のお耳には、魔女のささやきしか、聞こえませぬかっ」


「ムスタファ。我が皇太子こうたいしよ。

 そちには、解らぬ」


「解りませんっ」


「お許しください、陛下。

 皇太子の言動げんどう全て、養育係たる、わたしの至らぬところ。

 全てはわたしの不徳ふとくのいたすところでございます」


「よい」


「誰か、皇太子をお部屋に、誰かっ」


呼ばれて屈強な護衛の兵士が、両脇から皇太子を抱えるように部屋からつれだしてゆく。


「はなせ、無礼者、父上、父上っ」


まだ幼さの残る其のほほに、恥じることなく泪を流し、懸命に父を呼ぶ、哀れな皇太子ムスタファ。


養育係として、いつくしみはぐくんできた。


パシャもまた、胸のうちで泪を流す。


心根こころねの優しい、真っ直ぐな方です」


「わかっておる。余の息子であるぞ」


「さようでしたな」


「パシャ……。余は、間違っておるか」


『嘗て……この問い掛けをされたことを、我が主は覚えているだろうか

 嘗て……共に戦い、夢を目指したそのことを、生命いのちを掛けてお仕えしようと誓った事を、わたしは覚えている』


「どうした」


長い沈黙に語りかける大帝に応えているのか、それとも己への呟きなのか、パシャは静かにゆっくりと声を出した。


「間違ってしまったのは……。わたくしのたったひとつの」


「パシャ」


「夢で、ございましょう」


「夢」


夢の繰り言のように語っていたパシャの声が、力強く深く変わる。


「陛下の目指す黄金おうごんの帝国、オリンポスのごとく輝いてございました」


「オリンポス」


「わたくしの神の住まう山のいただきです」


そう言って晴れやかに微笑む。歴戦の勇者、大宰相パシャ。


彼がその時見ていたのは、これから未来の己の行く末か。


それとも、それは、遠い昔のあの澄み渡る空のもと、共に駆け、戦った懐かしい戦場であったのか。




「神の住まう頂か、良いな」


「まことに」


「そちは、進め」


おおせのままに」





イランへの遠征は帝国に多大なる被害を及ぼした。



其の後、大宰相イブラヒム・パシャは何者かに暗殺される。


後ろ楯を失ったムスタファも、処刑されるのである。


憂国ゆうこくの大宰相暗殺。


そして第一皇太子の処刑の裏に、たった一人の異国の女性が関わっていたという確かな証は、何処にも残ってはいない。


声劇台本を小説に加筆修正いたしました。台本としての仕様であれば台本がございますので、こちらは朗読などにお使いください。

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