第七楽章『Aufgeben【ミキリ】』‐7‐
私は暗闇に身を委ねていた。
身体が暖かく、どれ程の時間そうしているのか考えようとしても、この心地良さに負けてしまい、それが良いのか悪いのか分からないでいた。
ただ、私はここでこんな事をする前に、何か大事なことをしていたのではないか。そんな思いが頭の中にあった。
きっとこれは夢…。そんなのは分かってる。
なら一体どんな事をしてこうなったんだろう?
私は働かない頭でなんとかそれを考えることにした。
確か…、私は成瀬君の家に来てたんだ。それでそこで美緒さんと戦ってたんだよね。
最後の最後に一回でも攻撃を当てないとって、思いっ切り振ったんだけど避けられちゃったんだっけ…。
私自身あれは自信があったんだけどな…。
(それでも、やれるだけの事はやったんだし、よかったよね…)
「よかった」っていうのはどんな意味だろう。
だって私がここで負けたということは、もし相手が美緒さんじゃなく危険な相手だったら、一緒にいるはずのルリちゃんに迷惑をかけてるんだし、私が邪魔になってルリちゃんがもっと危険な目にあってるかもしれない。
そしたら私がしていたことは、意味がなかったと言われても言い訳のしようがない…。
(ダメだなぁ…、私…)
結局ルリちゃんに迷惑かける事になるなんて…。
※ ※ ※
徐々に目が醒めていき、暗闇が見慣れない景色に変わっていった。
「ん…、ぅん……」
見慣れない天井が目の前に広がっていて、布団の重みを感じながら、現状を把握しようと必死に頭を働かせようとした。そのうちに少しずつ自分の体が痛みを訴えだした。体の節々が今まで感じたことがないほどの痛みだ。
やっぱり負けてしまったんだ…。そう考えると自然と涙が出てくる。
「…起きましたか?、凛さん」
ふと声が聞こえてきて、その声のするほうにゆっくりと顔を向ける。少し離れた所に正座をしている美緒さんの姿が。ずっと付いていてくれたのだろうか。
外の景色を見てみると、日が少し傾き始めていた。
「…もう夕方です。…よろしければ夕食の前に一緒にお風呂はどうですか?」
「あ、はい…。行きます…」
そう言って立ち上がろうとすると、体が悲鳴をあげ、なかなか起き上がれない。するとその様子を見て美緒さんが近づいてきて手を差し出してくれた。私は美緒さんの手を取って引っ張ってもらう。
「っ!?」
途端、美緒さんは痛がるような素振りを見せた。
「あ、すみません。大丈夫、ですか?」
「…はい」
そう言ってその後は何事もなく私を引き起こしてくれた。
立ち上がった私を見て、付いてきてください、と言ってくるりと回り歩いていく。私は後ろに続いていった。
…さっきのは、なんだったんだろう?
◆ ◆ ◆
慣れないながらアンナが淹れた紅茶を一口飲む。少し味に渋みがあり、飲みづらい感もあったけど、心配そうに隣で僕を見つめるアンナの頭を撫でながら、美味しいよ、と言う。その言葉を聞いて嬉しそうな顔をするアンナ。
目の前で同じく紅茶を飲んでいる美奈は、ヒクヒクと眉を動かしている。
「それにしてもモイ…、美奈さん。今日ここに来たご予定はなんですか?」
そうやね、と言って撫でていた猫を膝から下ろし、僕に前の席に座るようにと促す。
「聞いておこう思ってな。うちの娘について。…て言うても、そない心配はしてへんけど」
「それはどういう事ですか?」
僕の言葉に、ん~、と唸って言葉を濁す。
「あの子はちょいけったいな子でな、ちゃんと見てへんとあかんのや。『危険』って言うた方が正しいかもしれへんな。小さい頃はほんまに大変やったわ」
「危険?」
「眼なのか脳なのかはさておき、見た事をすぐにおぼえてしまうんや。どんな事かて際限無しに、な。でもそら普通じゃあれえへんやろ。普通一つなにかを憶える為に同じ事の繰り返しでようやっと憶えるもので、他の子たちと一緒に暮らしていく上で、そらあまりにも異質に見えてまう。そやし誰かが見てへんと危ないんよ」
「『模写』…、ですか」
それは本当に大変な事だっただろう。見ようによってはすぐに何でも出来るようになるのは『天才』とも思われるだろう。でも僕の言うあの子自身が気付いていない能力であろう『模写』は、人が成長する過程において、重大な問題を与えてしまうかもしれない。
例えばこの国の面白い特徴である、文字が『ひらがな』、『カタカナ』、『漢字』という3種類がある。これを最低限憶えるのに普通どれだけかかるだろうか。『読み方』、『意味』、『書き方』それらを全て理解したうえで憶えた事となる。それなりに時間がかかる事は確かだ。
だけどあの凛という子は何も理解出来ていなくても、その中の『書き方』だけを見ただけで覚えて書けてしまうのだろう。その文字の『読み方』、『意味』を分からないでだ。
これは人に見られて大変と言うより、凛という少女個人にとっても致命的なことだ。
どんな時にどんな使い方をすればいいか分からないからだ。美奈が言っているより余程大変な事だったろう。
「小学校も中学校も終わって、今じゃわりかしいろんな事を憶えて、今更新しい事を憶える事もよう無くなって良かったんよ。なのにそしたら…」
「ははは、災難ですね」
人事やと思うて、と不機嫌になる美奈。本当に大変だったのだろう。
「でもそれだったら今目が離れている時はどうするんですか? 使い魔であるその猫さんもここにいるんじゃ、何も出来ないでしょうし」
それだけ心配だと言うのになんともなくここにいる美奈に違和感を覚える。ああ、と僕のその言葉にも別に驚くような素振りも無い。何かもう手は打ってあるのだろうか。
◆ ◆ ◆
「じゃああなたは凛さんがあんな風になると予想していたの?」
「いえ、私は思っていませんでした。ただ何かあるかもしれないと言われていただけです」
「あの子の母親に?」
「…はい」
私はその言葉に頷いた。ここまできたらこの人に嘘を言っても通じない。
何か起こすかもしれないっていうのは、あの人に話をしたときに考えていたことだった。
それはここに来る前日の事だった。
◇ ◇ ◇
明日は早いというのと泊まりの用意をする事もあり、今日は家に早々と帰ってきていた。と言っても1泊しかしないので、荷物は軽く持つぐらいだ。私の荷物はほとんど無いに等しい。着替えを持つにしても大きさが大きさなのでそれ程邪魔にはならないでしょうし。
凛の簡単な荷造りを手伝っていると、荷造りをする凛の手が目に入った。最初の頃ほどじゃないにしろ、肉刺が出来て潰れるというのを何度も繰り返したその手は、もう弱弱しい最初の頃に出会った凛とは違うように思えた。ただあの頃のすらっと綺麗な手じゃなくなったのが残念にい思えるけど、それは本人には言わないでおこう。
「いよいよ明日ですね、凛」
「そうだね、ルリちゃん。どれだけ出来るか分からないけど、成瀬君とやった特訓の成果が出せるように頑張るよ」
そう言ってはにかむように笑う凛。あまり硬さは感じられない。
今日と言う日までほとんど毎日行ってきた湧樹との修行が、凛の不安を少しだけでもなくしてくれているのだろう、…とは言っても実際戦ってみて簡単にいくと思うかと言われれば、今日までの湧樹を見る限り、それは無理だろうと簡単に分かる。
修行を切り上げるときの微妙な表情…、アレはどう見ても不安の表れだ。
「…あっ、もうこんな時間。もうそろそろ寝ないと、成瀬君に「早く寝て明日に備えとけ」って言われてたもんね」
「そうですね。体調は万全でないと意味が無いですから」
気付けばいつの間に時計の短針が11を越えていて、むしろ真上に向き始めていた。しっかりと準備はしたのに、体調が悪いとなっちゃ意味が無い。
凛は、よいしょっ、と言いながら机の上に準備を終えた荷物を置き、背伸びをしながらベットへと向かう。暑さが日毎に増して寝苦しくなってきても、眠気と言うのは人間でも妖精でも襲われれば従ってしまうもの。私も時間を意識したら眠くなってきた。
凛がベットに入ったのを見て私は電気の紐を引き、蛍光灯から小さい光に変える。すると部屋全体が暗いオレンジ色に染まった。
「おやすみなさい、ルリちゃん」
「はい。私もおやすみなさい」
私はそう挨拶すると、机の上に置いてある小さな置物のようなベットに寝転がった。
こちらに来てからはこのベットを使わせてもらっている。凛が小さい時に遊びで使っていたと言うこのベットを見つけてきて、私にこれはどうと言ってくれてちょっとした手直しをしてくれた。今じゃフカフカしてシーツはツルツルで気持ちが良い。本当に凛には感謝してる。
※ ※ ※
心地良さに体を委ね、まぶたを閉じ、どれぐらいの時間が経っただろう。
どんどんと眠気が確実な眠りへと変わっていくのが分かる。力も抜けていき、体がふわりと浮き上がっていきそうだ。
『チリン』
聞こえるはずの無い鈴の音がどこかから聞こえる。私はもう夢の世界へと旅立とうとしているのだろう。
鈴の音は確かな音を響かせ、どんどん音が大きくなっていく。一体今日はどんな夢を私に見せるのだろう。意識があるような無いような状態で、変なことを考えている自分が少しおかしかった。
『チリン』
そんな事を考えている間に、ついにその音は自分のすぐ側までやってきたようだった。
すると突然自分の体が浮き上がっていく。同時にお腹の辺りに何かに挟まれているような感覚が襲う。そしてまるで波に揺られるように自分の体が揺さぶられているのが感じられた。
(…おかしい)
「浮き上がるような感覚」というのは、いつもこんな感じだったろうか。これではまるで本当に何かに掴まれて揺さぶられているようだ。
というよりなんだかキツイ体勢をしている気がする。頭に血が上っていくようで、さっきまでの心地良さが失くなっていく。
(…いや、これは絶対おかしい)
なんか私、馬鹿な気がする。これ絶対私どっかに運ばれてるよね。
少しずつ眼を開いて、私を運ぶモノの姿を確認した。
「…え?」
それはこの家にはいないはずの猫。真っ黒い毛でスマートな猫だ。器用に私を口でくわえて何処かに向かっていく。
「あの…、猫さん?」
あまりの意外さに、自分でも呆れるくらいに落ち着いて声をかけてしまった。
「んにゃ?、起きたのかい。私のご主人の娘をお守りするやつがこんな腑抜けじゃあ、ご主人も心配するね」
ビックリした。猫が普通に話してる。
これはもしかしたら危険かもしれない。私はそう感じて抑えられている両の手と足を必死に動かして、猫から逃れようと頑張る。
「やめなさい。別にアンタを食おうとしてるわけじゃないんだよ?
連れて来いと言われたから連れてくだけさ。まああまり抵抗するようだと気絶するまできつく噛むだけだけどね」
そう言って、ぐっと猫の顎に力が入ったようで私の体に食い込んでくるのが分かる。
身動きがとれないのであれば今の私には術が無い。ここはひとまずこの猫に従うしかない。
「ん、懸命な判断だよ。チャンスがくるまで機会をうかがいな」
ニャハハ、と後に続いて笑い、この猫のご主人がいるであろう何処かに歩みを進める。
一体何処に向かうのかと心配しながら身を委ねていると、一つの部屋の前までやってくる。
「おい、ご主人。言われたとおり連れて来たよ。…たく、こんな使いを私なんかにやらすんじゃないよ。やっと暇を貰って気持ち良く寝てたって言うのに」
「そないに口が悪いと、また箱に閉じ込めるけどええの?」
猫の声に反応した聞きなれた声が聞こえ、扉がゆっくりと開かれる。そこには見慣れた女性の姿が。その女性は、眼を丸くして口を開けて何も言葉が出てこずに驚いている私を見て、私を銜える猫と共に笑っていた。
それは凛の母である美奈さんであった。いつも隠れてみていた雰囲気そのままの彼女。なにがなんだか分からない。
「こっちはずっと気付いとったのに、あんた、ほんまにうちの正体に気付いてなかったんやな。気付かれるつもりはなかったけど、案外おっちょこちょいなん?、妖精はんは」
そう言って猫から私を受け取ってベットの上に座った美奈さん。私はその膝の上に座らされる。
「じゃ、私は眠らしてもらうよ。あ~眠い眠い」
私をここに連れてきた猫さんは机に飛び上がった。その瞬間体がどんどん小さくなり、キーホルダーになってしまった。驚きの連続でもう頭が付いていかない。
そんな私を見ていた美奈さんは、目を瞑り一度頭を下げた。
「今回はうちの娘の為におおきに。この歳になってこんな可愛い妖精はんに会えるなんて思ってなかったわ。それもうちの娘を守る為なんてなぁ。あんたのご主人様にも挨拶がしたいわ。知り合いやと思うし、そういうのは別にええでしょ?」
「え、それは、別に構いませんが…。あの、ウィン様の事をご存知なんですか?」
「やっぱしな。この石見てそう思ったんや」
美奈さんの手にはいつだったか凛が持っていた、私の呼び名のきっかけとも言える守り石『ラピスラズリ』があった。
そういえばこの石がいつの間にか無くなっていたのだ。でもそれ自体に誰かが拾って問題になる事はないので探すのを諦めて忘れていたほどだ。
不自然だと思っていた。私が来てからはどこかに持っていくという事はなかったので、家のどこかにあるはずだった。でもいくら探しても見つけられずにいたのだ。
あの時に石は美奈さんの手に渡っていたのだと思われる。いつの間にそんな事をしたのだろう。
「この石、洗濯したときに洗濯機に落ちてたんや。守り石の意味が無いやろ。あんたもしっかりしいよ」
ああ…、そうだったんだ。凛のドジには慣れているつもりだったけど、慣れすぎてそういう事に気付けないなんて……。
凛を守ると言いながら、問題ないとは言え恥ずかしい。顔を赤くし俯いてしまう。
「まあええよ。そんな事より話しておきたい事があったんよ。凛について」
見上げて美奈さんの顔を見る。その顔は母としての顔で、その目は有無を言わせず私に何でも答えてもらうといった意思に溢れていた。
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