鬼神参上
その三年後、養父の利久が没した。
前田慶次郎利益は妻を娶り子を為すも、天正十九年冬に前田家を出奔した。
その直前に何食わぬ顔で利家を家に招き、騙して水風呂を浴びせ、全てを捨てて逐電した。
妻子は舅である前田家の重臣の家に引き取られ、何不自由なく暮らした。
慶次郎の武勇は天下に比類無く、その後、上杉謙信の家を継いだ景勝に仕え、その侍大将の直江兼続を支えた。
慶長五年、関ヶ原の戦いに時を同じくして出羽(山形)に起こった上杉と最上義光の戦いにおいて、徳川方の勝利の報に、上杉軍は長谷堂城の攻撃を中止し撤退を余儀なくされた。
上杉軍の大将、直江兼続は殿を務め、鉄砲隊を駆使し奮戦するも、次第に最上の追撃に押され、疲れ切っていった。
今はここまで、と切腹をしようとする兼続に慶次郎は、
「心せわしき人よ。今しばし待たれよ」
とて、それぞれに朱槍を携えた七騎を集め、慶次郎の家来二人を合わせ、ただ十騎にて数千の押し寄せる敵のただ中に斬り込もうとしていた。
武人の誉れの死に場所とて、斬り込む前に雄叫びを上げる武将の中で、慶次郎とその郎等は静かに山中の陣から敵を見つめる。
眼下の朝もやの中に踊る亡者の中に、真摯の目で見やる前髪、長黒髪の美童あり。そして微笑んだ。
「お嵐!そこにいたか!見ておれ!」
「旦那様!」
郎党の一人が心配して声を掛けた。
これも緋の革鎧に身を包んだ、美嵐丸にひけを取らぬ若武者。隣の仁王のような武士が鎌槍をくるりと回して脇に挟んで言った。
「前田様。美嵐丸様がいらっしゃいましたか」
慶次郎の代わりに松風がいななく。
「まだ死なせてくれませぬな!」
真夏の熱気よりも熱い風が、慶次郎の体から舞い上がった。既に齢五十を越えているが、その筋骨と精神は全く衰えていない。
慶次郎は後ろを振り返らず叫んだ。
「小吉!りん!参る!」
恐れを知らぬ十騎は脱兎の如く敵陣に向かって丘を駆け下りた。
勝機に寄った最上勢は、鬼神達が駆け寄りて来るとはまだ知らない。
了
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