第二節 売り言葉を買ってやる
「康太、康太……」
ゆさゆさ、体が揺すられている。
「ん? あ……」
俺が顔を上げると、困った表情の美琴と目が合う。
「もう、図書室、閉まる時間だから……」
ああ、俺はいつの間にか寝てたのか。
やばかったな、美琴に起こしてもらってなきゃ、確実に図書委員に怒られてたな。
こいつもクールでドライな感じに見えて、結構律儀な奴なんだよな。
「悪かったな、起こしてくれてありがとうな」
俺は美琴の頭を撫でるように叩いて、持っていた本を棚に返しに行く。
さて、これからどうするかな──。
ん?
あれ? 今、何時だ?
図書室の時計を見ると、五時直前だった。
あれ? 部活って何時までだっけ?
俺はまだ覚め切ってない頭で考える。
やばい! 寝過ごした!
「悪い! 俺先行くな」
美琴に挨拶だけを残し、急いで図書館を出る。
確か、部活が終わるのは四時半だったはず。
やばいな、完全に遅れた。
あいつの事だから、さっさと帰ったかもな。
しかも俺の家に乗り込んだかも?
俺が帰ったら既に話し込んでたりしてるかも?
やばいやばい!
俺は走りながら階段を下り、靴を履き替えてクラブ棟の前まで走る。
「遅い!」
そこには既に制服に着替えた祐奈が、両手を腰に当てて俺を待っていて、走ってきた俺に怒鳴る。
「悪い。ちょっと図書室で寝ててな」
「人が一生懸命部活で頑張ってる時に寝るなっ!」
祐奈が怒鳴る。
知るかよ、お前が待たせといただけだろ。
そう思うが、言ってもこいつを怒らせるだけで、得るものも特にないので黙っていた。
「帰るわよ!」
祐奈が歩き出すので俺が後に続く。
本当に勝手な奴だな。
こっちはお前のためにずっと待ってたんだぞ?
お前が頑張ってたとか知らねえよ!
ちょっと遅かった程度で怒るくらいなら待たせんなよ。
そう、心の中でだけ思い、俺は祐奈の横に並ぶ。
不機嫌な祐奈の横顔。
さっきまで激しい運動をしてたとは思えないくらい綺麗に整っている髪が、さらさらと靡く。
全く、なんで俺はこんな奴の言う事にいちいち従ってんだろうな。
それがバカバカしく思えることもある。
それでも俺が従っている理由は、従わない理由がないってだけだ。
抵抗には体力がいる。
それがプラスになればいいが、結局従わされる羽目になる。
つまり、抵抗した分余計に体力が必要なだけだ。
それだけの話だと思う。
結局抵抗しても負けるんだ、だったら最初から従っておけばいい。
「そういえばもうすぐ中間試験だけど、勉強してるの?」
不意に祐奈がそう言って、俺を振り向く。
「え? いや、してないけどさ。試験勉強なんて試験期間入ってからでいいだろ?」
こいつだって部活やってるから同じようなもんだろう。
「はあ? あんた普段何やってんの? 部活もしないで勉強もしない。そんなに無駄に時間過ごしてて大丈夫なの?」
心配しているようで勝者の上から目線。
同じ立場のはずの俺を上から叱ってる祐奈にイラっとくる。
「どうでもいいだろ。俺は頭も良くないし、運動だって出来ないんだからな。そりゃ仕方がないだろう」
お前と違ってな、という言葉は飲み込んだ。
「あたしだって最初から出来たわけじゃないわよ。知ってんでしょ? ずっと一緒にいたんだから」
まあ、たしかに子供の頃のこいつはノロマで鈍くて、頭も良くはなかった、ていうか馬鹿だった。
だけどいつの間にか俺を追い抜いて行って、気がついたらずいぶん前を走っていた。
こいつの成長期が俺より遅かったってだけだ。
「人には才能ってもんだあるんだよ。俺は俺の才能の範囲で生きていくだけだ」
「だから! あんたは時間を無駄にしすぎだって言ってんのよ! いい? 今日あたしは、部活で練習して、帰ったら勉強するのよ? その間、あんたは何してんの? それだけで少し差がつくわよね? それが毎日毎日だったらどれだけ差がつくと思ってんのよ!」
少し興奮してるのか、祐奈の声は大きかったし、かなり近い距離まで俺に顔を近づけてきた。
「だから、なんだよ」
俺は自分から顔を遠ざけながら言う。
「あんたとあたしではあんたの方が才能はあった。だけどあんたはそれを積み重ねなかったからあたしに抜かれて、ここまで差をつけられた。それでも頑張らないなら、あんた一生あたしの下にいるわけ?」
「なんでそうなるんだよ!」
祐奈が根本的な部分で俺を否定するので、俺は柄にもなく言い返してしまった。
なんでこいつにここまで言われなきゃならないんだよ!
こいつのこの「あたしのところまで上がってこい」って上からの説教は初めてじゃない。
だけど、ここまで言われたのは初めてかもしれない。
祐奈は俺が怒った事に少し驚いた顔をしたがすぐに言い返してきた。
「だってそうでしょうが! あんたはあたしに勝てない! 才能はあったのに怠けたから勝てない。あんた自分が「うさぎと亀」の亀だと思ってるかもしれないけど、あんたはうさぎなのよ! 地道に頑張ってるあたしには絶対勝てないのよ!」
「ふざけんな!」
さすがに俺も、俺の全否定にはキレた。
俺に才能があるって?
俺が頑張ってないって?
俺だって最初は頑張ったんだよ!
頑張って追い抜かれたお前に追いつこうと頑張ったんだよ!
だけど駄目だった。
悔しいけど、俺には才能なんてなかった。
今でこそ平気な顔をしてるけどな、俺がどんな思いで諦めて行ったか分かってんのかよ。
その諦めを、軽々しく馬鹿にするんじゃねえ!
「だったら勝ってみなさいよ! この中間テストで! 勝ったらご褒美あげるわよ!」
祐奈も興奮気味に、だが馬鹿にした口調でそう言い返してきた。
ご褒美なんていう上からの言い方に、俺はまた腹が立った。
普段ならイライラする程度だが、今の俺は止められない。
「なんだよご褒美って。分かった、じゃあ俺も負けたら一番大事にしてる物をお前にやる! これでタイの勝負だ」
俺が勝った時だけにプレゼントがあるなら、その勝負はフェアじゃない。
俺が負けたときにもそれがあって初めて五分五分の勝負だ。
「え~? でもあたし、あんたの大事な物なんて別にいらないし~?」
祐奈は普段使わないようなギャルっぽい言い方で俺を馬鹿にする。
自分が勝って当たり前って態度に腹が立つ。
「じゃあ逆だ。勝負に勝ったら相手の持ち物何でも一つ要求することができる。何でもだ!」
ここまで言えば乗って来るだろう。
祐奈の大きめの目がぴこん、と動く。
「何でも? 何でもいいのね? 間違いないわよね!? 後でやめたって言わないわよね?」
「ああ、その代わりお前もだぞ?」
「いいわよ?」
不敵に笑う祐奈。
よし、勝負が成立した。
あとはこいつに勝てば、こいつの持ち物は何でも一つ奪えるわけだ。
こいつも女だし、「今お前の穿いてるパンツをよこせ」とか言えば、涙目になるだろう。
悔しがってるこいつが涙目でパンツを脱いで俺に手渡す。
そして、ノーパンのこいつがスカートの裾を気にしながら歩く横を俺が急かしたりして、こいつが悔しそうにそれに耐えてる姿を見る。
最高じゃないか!
「でも、あんたもよくこんな勝ち目のない勝負したわよね?」
まだ言うかこいつは。
まあいい、こいつが半泣きでパンツを俺に手渡すことを考えたら、この程度のこと、許してやろう。
たとえ勝ち目がない勝負でも。
勝ち目が──。
勝ち目?
…………。
あれ?
まずい! この勝負、俺に勝ち目がない!
祐奈は成績が学年で常に上位クラスだった!
俺はと言えば毎度中の中。
昔必死に頑張って、それでも追いつけなくなって何年経っただろう?
例えば、例えばだ、ありえないけど、俺が祐奈の言うとおり、「兎と亀」の兎だったとしてもだ、これほどまでにかけ離れた距離をこんな短期間で埋められるわけがない。
勝ち目が、ない。
俺は背筋に冷たいものが走る。
「何もらおっかなー。何でもいいんでしょ?」
余裕の笑顔を見せる祐奈。
「あ、ああ」
当たり前のように自分が勝って、既にもらえるものを考えている祐奈。
さっきまで祐奈のそんな態度に腹を立てていた俺は、もはやそれどころじゃなかった。
このままじゃ駄目だ。
せめて必死に頑張ろう。
こうして俺は、自分の行動の所以で、久しぶりに必死にならざるを得なくなった。
▼
さて、と家に帰り、勉強机に向かってみる。
とりあえず教科書を開いてみるが、この先どうしよう。
祐奈との取り決めで、勝負する教科は主要七教科となった。
いや、主要は五教科なんだけど、例えば、国語は現代文と古典は別教科になるし、社会も今は地理・歴史分野では日本史、公民分野で政治経済を習っている。
で、理科は生物、英語はライティングのみ。これで七教科だ。
勉強なんて試験範囲を聞く前にやったことないから何をしていいかさっぱり分からない。
「あれ、どうしたの、お兄ちゃん? テスト期間は来週からじゃないの?」
少し驚いた声。
集中してなかった俺は振り返り珠優を確認する。
部屋の入口に立っているのは、ボブカットに大きなリボンを付け、中学のセーラー服を着た、俺の妹だった。
珠優は世間一般には可愛いらしい。
俺は子供の頃からずっと一緒なのでその感覚は分からないが、告白されたこともあるらしい。
ま、断ったらしいが。
「いや、今回は真面目に勉強しようと思ってさ」
「ふうん」
珠優は部屋に入ってきてドアを閉めると、カバンを置いて着替えを始めた。
うちが狭いせいもあって、俺と珠優は同じ部屋に住んでいる。
ベッドも二段ベッドで、上が珠優、下が俺だ。
友達や、祐奈なんかもそうだが、中学生の妹と同じ部屋だと言うと驚くんだが、子供の頃からずっとそうだと、何も思わない。
むしろ、今更一人部屋与えられても寂しくて困るんじゃないか?
「お前も勉強だろ?」
「うん、お兄ちゃんと一緒だね」
何が嬉しいのか分からないが、珠優が嬉しそうに微笑む。
「そうだなあ、今日はともかく、いつもは俺が邪魔してるからなあ」
珠優は来年に高校受験を控えている。
最近は帰ってきたら、寝るまでの間、飯風呂以外はほとんど勉強していたりする。
俺はその横でのんびりとくつろいだり漫画読んだりしてるわけだ。
集中もなかなか難しいだろう。
「そんなことないよ? お兄ちゃん静かだし」
「まあ、一人で騒ぐのもおかしいからな」
俺は照れ半分で言う。
まあ、全く気を使ってないわけじゃないからな。
部屋にいる時間減らしてリビングにいる時間を増やしたりしている。
「それに、お兄ちゃんの受験の時に、私、うるさかったと思うから」
俺の受験か、そんな頃もあったな。
勉強はしてたけど、今となっては合格したのが奇跡なくらいだ。
俺が合格した聞いたとき、祐奈が驚いたくらいだからな。
「まさかあんたと同じ高校に入るなんて思わなかった」とかな。
思えばあれが最後なのかな、俺が祐奈に一矢報いたのは。
まあ、中学時代には既に勝てるものもなく、反抗期を経て祐奈もあんな感じに変わってしまってたから、卒業する頃は今と対して変わらなかったんだけどな。
「どうしたの、お兄ちゃん……?」
珠優が不思議そうに俺を見つめていた。
「あ、いや、何でもない。別に迷惑じゃなかったぞ、俺も」
俺は慌てて珠優に返事をする。
「そうなの? じゃ、よかった」
昔の話なのに、珠優は嬉しそうに両手のひらを胸の前で合わせる。
「さあ、勉強するか」
「うん!」
妙に楽しそうな珠優と勉強を続けることにした。
まずは英語でも行くか。
…………。
うーん……。
教科書はさっぱりわからない、ってわけじゃないけど、問題を解けと言われると難しいかも知れない。
つまり覚えてるけど理解はしてないって感じか。
教科を変えるか。
数学をやろう。
…………。
うーん?
公式を全部覚えるのは結構大変だし、公式見ながらやっても、使いどころが分からない。
教科書と同じ問題が出たら行けるけど、ちょっとでも違ったらわからない。
つまるところ、理解はしてない。
教科を変えるか?
こうして俺は、教科を変えつつ頑張ってみた。
夕食を挟んで、ほぼ全教科勉強してみたが、自分の得意教科を除いて、どれもさっぱりだった。
なんだろう、全く分からないわけじゃないけど、ちょっと応用が入るともう駄目になる。
それじゃ、おそらく、平均前後の点数しか取れないと思う。
これはまずい。
俺、なんであんな賭けをしてしまったんだろう。
まずい、これはまずいぞ?
あいつは、応用問題も軽く解いているはずだ。
俺とあいつの得点差って、そこなんだよな。
今気づいたわけじゃないけど、こうして勉強してみると、それをまざまざと見せつけられた気分だ。
「お兄ちゃん、まだ頑張る? 私はもうお風呂入って寝るけど」
隣で勉強してた珠優が言う。
あ、もうこんな時間か。
「ああ、じゃ、俺も寝るかな。先に風呂入ってこいよ」
「うん!」
珠優が部屋から出ていくと、俺は頭を抱えた。
負けた方は勝った方が望む持ち物を何でも差し出さなければならない。
ちょっとあいつのパンツを脱がせて泣かせてやろうとか、あとパンツが見たいとか、そんなささやかな夢を叶えたかっただけのはずなのに。
あいつ、俺の何を望むんだ?
俺の穿いてるパンツをよこせとか言わないだろうな!
女子と違って男はズボンだから、パンツ脱ぐためには下半身裸にならなきゃならない。
つまり、あいつに下半身全部見られる事になる。
脱ぐときは絶対トイレに行かせてもらおう!
物を差し出すだけだからどこで脱ごうが関係ないだろう。
うん、そうしよう。
って、俺、何負けた時のこと考えてるんだ?
そもそも、あいつが俺のパンツを欲しがるわけがない。
もっと冷静になれ、俺。
だが、このままだとパンツはともかく、何かを奪われるのは確実だな。
奪われるのが惜しいって言うよりは、奪われる屈辱が悔しい。
俺が挑戦しないことで守ってきた大切なものを奪われるような気分だ。
結局勝負したことで、必死になったことで馬鹿を見た。
「お兄ちゃん、上がったよ?」
珠優がフローラルの香りを漂わせながら部屋に戻ってくる。
「ああ、じゃ入ってくる」
俺は着替えを持って部屋を出た。
このままじゃ負ける。
これはもう、どうしようもないことか?
必死になって頑張っても、やっぱり負けてしまうのか?
そんな事を考え、落ち込みながら風呂に入る。
二段ベッドの布団に潜り込みながら、何か出来ることを考えていた。
祐奈は平均的に成績いいから、欠点がないんだよな。
例えば慎治は理数系では祐奈より点数高いけど、全体の平均では祐奈に大きく離されている。
美琴は歴史や国語系では祐奈より上だって祐奈が言ってた。
だけど、総合で美琴があいつより上に立ったとは聞いてない。
あの二人が合わされば祐奈に勝てるんだけどなあ。
ん?
待てよ?
あの二人が合わさればってのはもちろん不可能だ。
だけど、あの二人に勉強を教わることは出来るよな、祐奈より点数の高い二人に。
それで勝てるとは思わないけど、一人でやるよりはましだ。
よし、明日頼みに行くか。
そう決めて、俺は眠りについた。