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天国への涙

作者: 銭屋龍一

 彼は金を持ってなかった。


 さらに年をとり、心の柔軟さも失っていた。誰もが彼に近づきたくなかった。彼はぼろぼろになった衣服を詰めた袋を担ぎ、海に向かって歩いていた。

 何日も洗ってないことがすぐにわかる燕の巣のような頭をしていた。顔も、穴の開いたシャツからのぞく皮膚も、垢で変色していた。


 彼は本当に金を持ってなかった。


 数百円あれば、風呂に入って、せめて体にこびりついた垢くらいは流したかった。埃と汗で固まった髪の毛を洗いたかった。けれども彼は金を持ってなかった。だから、それは叶わぬ夢だった。

 幼いときに別れた娘が昨日結婚式をあげた。もちろん彼は招待されなかった。ばかりかそのニュースを伝えてくれる人もいなかった。けれども彼は娘が昨日結婚式を挙げることを知っていた。式場には行かなかった。大切に取りおいていた百六十円で花を買った。娘が結婚式を挙げる教会が見える丘の上に立ち、娘を思って花を投げた。それだけだった。誰一人として彼が行ったことを気にも止めなかった。せっかく取りおいていた最後の金は、丘の上から意味もなく投げ捨てられた。けれども彼はそれで満足だった。


 彼は金を持ってなかった。


 金さえあれば、彼の人生は少しは変わっていたのかもしれない。けれどもありえなかったことを思っても意味のないことだ。実際には彼は金を持ってなかったからだ。

 金があればと彼は思った。金がなかったからそう思っただけだ。それ以上の意味はなかった。ただ空腹でぺしゃんこになった腹に何か食い物を入れたいとは思った。道々食えそうなものを探したが、口にしたいと思うものは何一つなかった。

 とぼとぼと歩いていたようではあったが、彼は海に着いた。よく晴れた空を映し、真っ青な海が広がっていた。潮風が心地よかった。彼は胸いっぱいそれを吸い込んだ。


 もう、彼に望むものはなかった。

 ここから天国に行けるのだと聞いていた。

 混じりけのない、純粋な涙を流しさえすれば、苦痛を味わうことなく天国へいけると聞かされていた。

 彼は空を見上げた。


 涙はこぼれてこようとしなかった。

 たぶん明日までは自分の命が持たないと分っていた。それまでには天国への涙が流れて欲しいと思った。そう思った刹那、意識が遠のき、彼はそこに倒れた。


 彼は金を持ってなかった。


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