この窓から見える海
この窓からは、海が見える。
世間と言う名の広くて深い海。
窓口の形に四角く切り取られた小さな海域が見える。
窓辺を訪れる人々から海の広さと状態が垣間見える。
夫婦と呼ばれる人たちが、家庭と言う名のボートを漕いでいる。
一本ずつオールを持つ二人の調子が揃わなければ、進まないボート。
二人の目指す方向が違えば、たちまち波間に消えてしまう小さな舟。
色々な夫婦。
死亡保険金の支払いで訪れた妻は、四十九日が終わったから来たと言う。
「趣味の多い人だったから、道具やコレクションが山程あってね。趣味仲間で、大事にするって言ってくれた人に形見分けしたのよ」
保険証書、死亡診断書、住民票、身分証……
私は、書類を確認する手を止め、顔を上げた。
保険の契約年数は、二人の婚姻期間と同じだ。
「だって、わたし……男の世界っていうの? そう言うの、わからないでしょ」
支払い手続きとは、全く無関係な話だ。
私は、適当に相槌を打ちながら、入院・手術証明書を見て端末機を操作する。
老婦人は、係員の態度を特に気にする風もなく、独り言のように話を続けた。
「でも、趣味仲間には値打があるんでしょうね。誰が何を持って帰るか、仲間内で長いこと相談してたわ」
死亡保険金の他に、入院特約と、手術保険金の支払いもある。
入院の原因欄に記された病名は肝臓癌。入院日数は、支払いの上限を超えていた。
「定年から結構経ってるからかしらね、お悔みに来たの、趣味の人ばっかり」
老婦人の声が笑いを含んでいる。
私は、保険証書と死亡診断書の生年月日欄、それから画面に表示された被保険者の生年月日に目を走らせた。
早過ぎるとは言えないが、充分とも言い切れない、微妙な年齢だ。
「……昨日、便利屋さんを呼んだんだけど、思ってたより安くて、拍子抜けしたわ」
そんなことを言いながら、これもついでにと、クリアフォルダを渡された。
中身は、貯金の相続手続きの書類一式をまとめたものだ。
入力結果の照会を待つ間、戸籍謄本で相続人を確認する。
「それでね、残りを処分してもらって、やっと片付いたの」
他の金融機関で先に手続きしていたのか、書類は全て揃っていた。
息子は幼少時に亡くなり、法定相続人は妻ひとり。簡単な案件だ。
「入院中にも少しずつ片付けてたけどね、家が随分、広くなったわ~」
「ご主人の持ち物、たくさんあったんですね。……貯金の手続きは別になりますので、後程、あちらの窓口からお呼びします」
「あらそう。別だったの」
フォルダごと貯金の担当に回し、私は保険金の支払い作業に戻る。
「最期の最後になって『今迄ありがとう。苦労をかけてすまない』なんてねぇ」
老婦人は、どこか遠くを見ながら呟いた。
私は聞こえなかったフリで、今後も使用する老婦人自身の身分証を返した。
「もっと早くに言ってくれれば、私もちゃんと看病してあげたのに」
老婦人は、現金を計数する私の手元を見ながら、ぽつりと言った。
私は、現金と封筒に、支払い明細書を添えて、カルトンに乗せる。
「死亡保険金は、あの人から私への『妻職』の退職金としてパーッと使ってやるわ」
夫と共に歩み、刻まれた皺が動き、たるんだ頬肉を揺らして言葉を放つ。
若さの失われた顔には、寂し気だがさっぱりした笑みが湛えられていた。
「第二の人生は、思いっきり楽しんでやらなくちゃ」
一人になって、実は案外、一人で漕いだ方が楽だったのだと気付いた。
夫の死で打ち切られた婚姻は、彼女にとってどんな舟だったのだろう。
◆
老人が、死亡保険金の受取手続きに来た。
妻が亡くなってから半年以上経っていた。
おまけに、本人の入院と手術の分もある。
老人が持参したのは、保険証書と死亡診断書だけで、印鑑など足りないものが幾つもあった。
覇気のない顔は、髭こそ剃ってあるが、カウンター越しに見えるよれよれのトレーナーは襟が伸びて毛玉だらけ、肘の上には綿埃の塊もついている。
私は、老人が口頭での説明を覚えられるか不安になり、メモ用紙に必要な物を箇条書きにして手渡した。
老人は、メモを大仰に押し頂いて引き揚げた。
数日後、老人はメモの指示通りにきちんと必要書類を揃え、窓口を訪れた。
今日は、前回より酷い恰好だ。
洗濯後、すぐに干さなかったらしく、饐えた臭いを放っている。
カッターシャツには、アイロンに失敗して、途中でやめたらしい不自然な皺が付いていた。
皺はともかく、全体に高温のアイロンを当てておけば、雑菌が死滅してここまで匂わない。
「いやー……家のことはなんもかんも嫁に任せっきりで、どこに何があるかわからんから、暇掛かったわー」
老人は頭を掻きながら言って苦笑し、こちらを覗う。
こちらは営業スマイルを崩さず、事務的に応対する。
「それは大変ですね。……はい。これで揃いましたので、お支払できます。そちらでお掛けになってお待ちください」
待合のソファを掌で示す。そこなら新聞や雑誌を読んで時間潰しできる。
老人はカウンターに縋り付くように身を乗り出し、上目遣いに私を見た。
「機械ですぐ出るんだろ? 膝がアレで……一旦座ると、立つのが億劫でな」
「十分から十五分程度、お時間頂戴しますが、大丈夫ですか?」
「あぁ、そんなすぐなら、ここで待たせてもらうわ」
押し問答をしても仕方がないので、私は書類を確認しながら、端末の操作を始めた。
老人は、書類を取り出す際にひっかき回した鞄の中身を整理しながら、話し掛ける。
「あのな、儂、入院して……」
「えぇ、この分もお支払いの対象に……」
「うん。まぁ、金はまぁ……うん……入院中にな……嫁がな……」
そこで言葉を詰まらせ、やっと探し当てたハンドタオルを目頭に押し当てた。
なんと言葉を掛けたものかと思い、黙って端末の保険金支払い操作を続ける。
「……見舞いに来てくれた日の晩、儂の嫁……風呂で卒中起こして、一人で……」
そこから、涙と言葉が堰を切ったように溢れ出した。
入院中、ワガママばかり言ってしまったこと。
医師の指示に従わず、妻の介護に甘えてしまったこと。
妻と連絡が取れないことで看護師や息子の嫁に当たり散らしたこと。
心配した息子夫婦が家に入ったら、妻は死後三日も経っていたこと。
「嫁は……寒い風呂場で……一人ぼっちで…………」
恥も外聞もなく窓口で泣く老人に、待合の客が貰い泣きしている。
私も少し涙が滲んでしまったが、平静を装って入力作業を続けた。
「今、儂……家に一人で……今まで嫁に甘えて……こんな……」
老人は現在、自分がいかに困窮しているか語った。
それは、見ての通り、経済的な問題ではなかった。
「アイロンが、こんな難しいとは……洗濯なんか、ボタンひとつでできるもんだとばっかり……」
家事の苦労を涙ながらに語るその口から、妻への労いは一言も出ない。
「女にでもできるような下らんことで、いちいちガミガミ小うるさい奴だと……嫁なんざ、俺の稼ぎで食わせてやってる枕付きの女中みたいなもんだ……こちとら、仕事で疲れてんのに、相手するこたねぇと思っ……」
挙句に飛び出した言葉こそが老人の本音で、結婚生活のすべてだったのだろう。
見たままの状態に、私は貰い泣きの涙が引っ込み、別な意味で言葉を失くした。
老人は、後ろのソファで貰い泣きを中断して顔を上げたご婦人方に気付かない。
「メシもな、コンビニのお惣菜と店屋物ばっかりで、味気のうて、味気のうて……嫁のメシは、他所のより美味かったんだ……」
この亭主は、今頃、妻の家事労働の苦労に気付いた風な口ぶりで涙を流す。
さめざめと泣く老人の背に、待合のご婦人方の冷ややかな視線が注がれる。
「こんなことなら……生きてる間にもっと……嫁を大事にしてやらればよかっ……」
この涙は、家事能力のない自分が、家事労働の従事者を失った自己憐憫だ。
この亭主は経済力を笠に着て、妻と、その働きを蔑ろにしていたのだろう。
息子の嫁が面倒を見てくれない理由も、十中八九その辺りにあるのだろう。
ひとりが倒れ、ボートから居なくなってしまって、初めてその存在の大きさに気付く夫婦。
妻の死で打ち切られた婚姻は、子供たちにとって沈みゆく舟に見えているのかもしれない。
◆
色々な夫婦。
二人の目指す方向が違えば、転覆してしまう小さな船。
離婚に際し、子供の保険の名義変更の手続きを渋り、保険料の振り込みも中断している夫。
「子供の為の保険を嫌がらせに使うなんて……」
親権者予定の母親が夫に憤り、蒼白な色の唇を戦慄かせる。
その唇はすぐ自嘲の笑みに歪み、夫への侮蔑を吐き捨てた。
「まぁ、そんなだから、離婚するんだけどねー……ふっふふふっ」
俯いて肩を震わせると同時に、硬直化した制度を嘆いた。
泣いても喚いても、窓口係員の一存で、手続きを社会の実情に合わせて変えることはできない。
私は、やるせない思いで、委任状について説明する。
「ごめんねー。あなたに言ってもしょうがないのにねー。ダメ元で委任状くらいは書いてくれないか、今度の調停で言ってみるわー」
母親は、痛々しい程に明るい笑顔で言って、説明書を持って帰った。
数か月後、再び訪れた母親は、他の空いている窓口に行かず、私の窓口で自分の保険の手続きをした。
手続きは、彼女自身が契約者となっている生命保険の氏名変更と住所変更だ。
「あいつ、やっぱりダメだったわー。保険料引き落とす通帳もあいつが持ってたから、入金もできなくて、子供の保険、失効させちゃったー」
あの時より晴れ晴れした笑顔を向けられ、私は困惑を握り潰して説明する。
手続きをすれば、これまでの掛け金の何割かは、返戻金として戻ってくる。
そんな事務的な説明を、母親は笑って流した。
「でも、契約者はあの人のままだからねー。調停じゃ、そのお金で養育費を払うことになったけど、何もしないと思うわー」
私は、離婚原因が何で、この母親の元夫がどんな人物なのか、知らない。
手続きに不要な情報で、知る必要もないが、母親は人物像の断片を語る。
「でもねー、清々しいくらいのダメさ加減を見せられて、吹っ切れたわー」
子供の為の保険で、契約者は子の実父だった。
夫婦が離婚しても、親子関係は解消されない。
失効した保険は、条件が揃えば復活することができることを説明する。
「保険の復活とか言うけど、私は復縁なんかしないしー。子供の為だけだったら、いくらでも頑張れるからー」
母親は「だけ」に力を入れて笑った。
嵐に遭い、板切れ一枚にしがみついていた母親は、手を離して自分で泳いだ方が楽だと気付いた。
バラバラになった船に命を託していた子は、この母親とどこまで泳げるのか。陸に上がれるのか。
判断を誤った船長は、責任を果たすことなく、最後まで舵にしがみつくだけの男に過ぎなかった。
様々な舟。
客船、漁船、帆船、タンカー、カヌー……
様々な役割、様々な人。
船長、船頭、航海士、操舵士、無線士、食事係、医務係、乗客……
この窓からは、海が見える。
世間と言う名の広くて深い海。
今日も、この窓辺から、沖行く船が見える。
エピソードを羅列しただけのヤマもオチもないフラットな話にも関わらず、たくさんのご感想をいただき、ありがとうございました。
お客さんに注目する方と係員に注目する方、どちらの視点も「なるほど、そう言う読み方もあるのか」と、新鮮でした。
【主題その1】
それまで「家族」として同じ船に乗っていた人々が、それぞれの事情で離れ離れになるお話。
まだ同じ船の一員である内に、家族を大切にしてくれたらなぁと思って書きました。
色々な別れがあって、その受け止め方も千差万別。
死別を悲しみ得る仲良し家族ばかりではない世知辛さ。
「誰かの我慢の上に成り立つ『快適な家庭』は、実は幸せではなくて、別れの時にそれがわかるもんなんだなぁ」と思ったのが、書いたきっかけです。
【主題その2】
実際、窓口係員は「心無い窓口の備品」っぽく扱われがちだったので、そう見えるように描いたら、どういう反応が返ってくるか……と言う試み。
そこに心はあっても、何の権限も与えられていないので、ただ、見ているだけしかできません。
何の介入もできない者が、手の届かない位置から「当たり障りのないありきたりな慰めの言葉」を掛ける方が、より一層「所詮は他人事」感が増して辛いのではないか、と言う配慮に基づく「敢えて何も言わない」お役所対応。
沖合で船が沈没して本気で遭難している人に向かって、海の家の前で溺れるフリしながら「うんうん、わかるわかるー、溺れるのツラいよねー。じゃ、浮き輪ここに置いとくから、頑張ってねー」とか言われたら、大抵の人はムカつくんじゃないかと。
▼元のあとがき
このお話はフィクションであり……以下略。辞めたし。保険のことは現役の人に聞いてください。