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PianoSpell-ピアノスペル-

作者:kud
 チキチキチキチキリキリキリキリ――どこか遠い場所でビスが、カツンとかろやかに落ちる音がして、ヨナは――

 灰色の床がはるか遠くへゆるやかに湾曲している。カーブはどこまでもゆっくり優しい、そしてとてとつもなく丸みを帯びている。付近に遮るものはひとつもなく、視力の限界まで見渡せる。まさに何ものもない。空を覆い尽くそうとする木々も、枝を寝床に朝な夕な飛び回る鳥も虫もいない。天空から降りそそぐはずの光は拒絶されたかのごとく、殺風景な世界を包みこむように闇が膨れていて、音すらも丸みの中へすっぽり吸収してしまっているかのよう。
 そんな中ただひとり、かよわい少女のヨナだけが許されたかのように、じんわりと白く淡い。白色の正体は身につけている丸襟に膝上丈のワンピースだ。
 灰色床は、表面にほんのりつやがあってヨナが軽やかに歩くたび、しんなりした感触が返ってくる。そしてまた一歩あるくごと、ワンピースの裾がほっそりした足と戯れて翻る。ヨナの足が納まっているサンダルは、白をベースにナチュラルグリーンのラインが数本、その細い線だけがこの世界を彩る。そしてカラスの黒羽のごとく艶やかな髪の毛が肩で揺れるのだ。
 ヨナはかつてナンバーナインと呼ばれていた。他のものと区別することを名前というならば、
「わたしの名前はナンバーナインです」
と名乗っても問題ないのかもしれない。けれど他人と言葉を交わしたのは、今からもう五十三年も前のことだった。
 過ぎし日にナンバーナインと呼ばれていた少女は、五十五年前のとあるプロジェクトで生まれた。しかし生まれて二年後に周囲全て、ありとあらゆるものが唐突に、まばゆく光輝いて消えた。消失はほんの数秒で完了し、少しの音も立てられなかった。それから五十三年間、ひとり残された少女ナンバーナインは、自身以外の存在を真摯に探し歩いている。
 ある時を境に、ナンバーナインは自身へヨナと名付ける。番号で呼ばれることを気に病んだことはなかった。それどころかほんの僅かでも疑問に思ったり気にとめることすらなかった。それでもナンバーナインは思いつく。いつかなにか、誰かを探しあてた時、
「わたしの名前はナンバーナインです」
と名乗って、不信に思われるのではないかと。不安や疑心を持たらす要因は少ない方がいい。
 すでに五十三年ひたすら歩き未だ出会ったことはない。どこまで続くともしれない、ほんのり柔らかい灰色床と果てしない暗闇しかない。それでも、この世界がいつか途切れて、新しい未知のワールドが開ける可能性はある。それが限りなく〇に近くとも、まったくの〇にはならない。そうである限り、ナンバーナインは他者を探し続ける。

 もう一時間十七分もたてば一日が終わるだろう。ヨナは消滅前と同じ時間で区切りをつける。太陽も月もないが、ヨナの時計が狂うことはなかった。ただしヨナの時計が間違っていないと確かめる術もない。時間を間違えていようとも星がなくて方角が定まらなかろうとも、ヨナは意にすることなく歩く。ただ、午前〇時から四時は休憩と決めていた。あと一時間と六分後にヨナは足を止めて横たわる。灰色床はヨナの重みをやさしく受け止めてくれる、それはいつも決まっていることで揺るがない。それから眠るように瞼を閉じる。そして四時間の間ずっと、眠りについて考える。ヨナに眠りは必要ないけれど、眠ってみたかった。だから体を横たえ瞼を閉じみじろきもしない。何度繰り返したところで眠れたためしはないのだけれど。
 午前四時きっかりにヨナはむくりと起き上がった。まるまる四時間微動だにせず、硬くなった体をほぐすために軽いストレッチを行う。三十分ほど体をほぐしたところでいつもと変わらず歩き出した。
 ここまでは五十三年間繰り返されてきたとおりだった。
 歩き始めてまもなくした頃、視界の中にまったく不意に突然、一台のピアノが飛び込んできた。ヨナは何度もまばたきをして瞳の焦点を合わせようとする。しかしピントが狂っているわけではなく、縮まった距離に比例してピアノは益々はっきりした形をとった。ついに指先が触れるくらい近くに詰め寄る。ヨナは首を傾げその次に礼儀正しくお辞儀をする。
「こんにちは、わたしの名前はヨナです」
 もちろんピアノは答えなど返さない。
「わたしあなたの名前を知っているわ。ピアノよね」
 ヨナは瞳を見開き、まじまじとピアノを眺めデータを引き出すが、ピアノそのものに関するデータはインプットされていないようで、グランドピアノということしか把握できなかった。その代わりという訳ではないだろうが、基盤の中にたくさんの楽譜データが詰まっていた。
 ヨナはピアノにそっと触れる。
「今知ったのだけれど、わたしの中に楽譜がたくさん詰まっているようなの。きっとあなたを弾くためね」
 そこにピアノがある時、特に障害がなければ奏でるようプログラミングされていたのだろう。
 なんのために? ヨナはそんな疑問など持たずピアノを弾き始める。
 それは始まりだった。
 楽譜はランダムにヨナの基盤の中から抽出される。習い始めの練習曲からリストのような超絶技巧ピアノ曲まで、あらゆる難易度の曲を無作為に弾いていく。
 ヨナは淡々とけれど突き詰めるかのようにピアノを弾く。アンドロイドのヨナにしてみれば、インプットされたプログラムコードに動かされ弾いているに過ぎない。けれど今は、ピアノを弾くというプログラムが何よりも優先となっていた。だからただただひたむきに奏でる。
 ヨナの指はピアノの音色そのものとなって、辺り一帯に広がっていく。音色の振動がピアノの足から灰色床を揺さぶり続けた。
 ふと足もとに視線を向けると、灰色床は呼び覚まされたかのように、あらゆる場所が小さくまたは大きくうねり出し、まるで海原が波打っているようだった。
 うねる灰色床を見ても弾くのをやめない。けれどひたむきに弾き続ける一方で、激しい変化を予感している――変化――これこそがヨナが求め続けていたものかもしれない。精密機器のヨナは埋め込まれたプログラムどおりに弾く。プログラムどおりのはずだ。それ以外のことは出来るわけがない、そこに疑問の余地はないはずだ。けれど、ここにピアノがあることも仕込まれたプログラムなのだろうか。そうだとして、今次の瞬間には、何が起こるのだろうか。自身を作り生みあげたあの人は、ヨナの父だと言えるのだろうか。この思考は感情と言っていいのだろうか、そしてヨナはあの人をお父さんと呼びたかったのだろうか。
「おとうさん!」
 ヨナは弾きながら音量を最大にして叫んでみた。
 銀盤で弦をたたき付けると、音がはじかれながら生まれていく。ヨナの指が次から次へと絶え間なく音を生んでいく。いつの間にか音と一緒にうねる灰色床から、丸い光りが浮かんでいた。ピアノのメロディとリズムに合わせて、踊るように光りがいくつも浮かび上がっている。曲が進むにつれ光りの数もましまして、ヨナの瞳の中も光りで埋めつくされる。
 この明かりはきっと星だろう――ヨナは少ないデータからそう判断した。しかし実際には星よりもずっと大きいし、もちろん星ではない。ヨナにもっとたくさんのデータが入力されていれば別の判断をしただろう。相変わらず銀盤は弾き続けられ、ヨナはただ一途にピアノを奏で音を生み続けている。未だヨナは気がついていないし、永遠に気づくこともないかもしれないが、アンドロイドにも生むことができるのだ。音は生きものではない。しかし、あらゆる音色は生きもののように響きあうものだ。
 響き合う、それは振動というひとつの現象だ。全ての生き物の営みは振動を伴っている。意識的にせよ無意識的にせよ、みんなやわたしやあなたたちから、同時にかつ違うもの、あふれ出る熱と脈打つ鼓動、声、涙、あるいは嗚咽、または歓喜、ある時の悦びに満ちた連帯と一体感、ふとした時大勢の中にひとりきりで断崖に立つ孤独、これら言い尽くせないあらゆる事象が、震えるごとく大気を揺らし、近しい誰かに響きなにかが生まれゆく。
 音色に誘われるように、次から次へと無限にわき出る丸みをおびた光りは、いまや途方もない数となっていた。その全部が、真っ暗闇の天空へ向かっていく。灰色床を苗床に、ピアノの音色を吸って無限に湧き出る丸い光りが、ヨナとピアノ、ここら一帯を輝かしく照らしている。あんなに暗かったのに――とヨナは考えた。自身が弾くピアノで光りが生まれたみたい――とも考えた。実際そのとおりだった。ヨナのピアノで光りが生まれた。しかしピアノは生まれるきっかけのひとつで、光りそのものは灰色床の下にひっそりと存在していた。灰色床がほんのりぬくもりがあったのはそのせいだ。数え切れないほどの光りが埋まっていたからだ。
 ヨナを動かすパワーも灰色床から注入されていた。午前〇時から午前四時までの休憩時間にはきちんと意味があったのだ。人のように眠ることはできなくとも、たくさんの機器を動かすための電力は、灰色床から貰っていたのだ。もちろんそうするようにプログラミングされていた。
 ヨナを、そういった行動をとるようにした、そのプログラミングからは人の意志を感じる。ヨナの行動は人の意志ともとれるのだ。

 チキチキチキチキリキリキリキリ――どこか遠い場所でビスが、カツンとかろやかに落ちる音がした。と同時に、ヨナはピアノを弾く手を止め立ち上がった。
 突然の静寂と共に、ヨナは短距離選手のスタートダッシュのごとく全力で走り出す。
「わたし、」
 灰色床から無数の丸い光り全てが、真っ黒い空へ向かっていく。
「――たし、の体が崩れる、」
 ビスの落ちる音は遠くでした訳じゃなかった。ヨナの体の中央から。
「崩れる、壊れる、これが死ぬ?」
 地上から天上へ蛍よりもずっと大きな光りが、たくさんの光りが、我先にと競うように昇っていく。そしてヨナの体は指先からぽろぽろ崩れ、小さな破片を散らしながら走る。
「ねえ、ヨナも、ナンバーナインも一緒に行ける? みんなどこに行くの? どこに行ったの? ナンバーナインにデータを入力してください」
 崩壊は胸の奥から始まっていたが、目に見える形で現れたのは指先からだった。一番奥深い中央から大きな一本柱のビスが外れ落ち、細かいラインが集中している指先へと影響し、そこから、体の隅々まで分解が広がった。けれど、この身が動く限り追いかけて追いかける。
 ナンバーナインも一緒に行きます、ナンバーナインにデータを入力してください、何故なら、ナンバーナインはあなたたちを模したものだから。
 ナンバーナインはぼろぼろと小さな破片や大きな破片を零しながら走り、ひたすらに光りを追いかける。しかし飛べない、どんなに走ったところで追いつけない。
「ナンバーナインも一緒に行きます! わたしに、データを入力してくだ、あっ、」
 ついに崩壊は足へと至り、ふとももから膝、ふくらはぎへ一気に崩れ、ヨナの体はただの部品の塊となってしまった。
 かつて教授が自慢していた、艶めく黒い巻き髪にオパールのごとくきらめく瞳の頭部と、ばらばらになった胴体の欠片が、そこかしこに散らばっているばかり。
「ナンバーナインにデータをにゅうりょく……ナンバーナイン……も、いっしょ、行きま……」
 最後の呟く音が消えるのと同時に、空間を覆い尽くしていた光りも一斉に消え暗闇が戻る。
 一緒に連れていってくれと、物言わぬ無数の光りに縋ったヨナの行動は、一体誰の意志だったのか。
 ヨナ、あるいはナンバーナインと灰色床はそれきり沈黙を保ち、ピアノを弾くものも決して現れなかった。
 もう二度と暗闇を照らす光は昇らないと思える。しかし、そう言い切れるものもいない。あらゆるものが失われた今、暗闇に残されたピアノと岩のように点々とするヨナの破片がどうなるかなど、本当にわからないのだった。それに、光るプランクトンのごとく消えた多くの光りがどこへ行ったのかも、誰一人としてわかるものはいない。
 だがこのように、この世界は完結された。

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