死者からの伝言
「これは、ダイイングメッセージに間違いありませんね」
研究室の床に横たわる秋山博士の右手の先に、自らの血で不自然に描かれた「N」の文字を確認し、私は顔を上げた。
私が博士を尾行して、この研究室に入るのを確認してから殺人が起こるまで、僅か10分。
その間、部屋を出入りできたのは、今ここに並んでいる5人だけだった。
おっと、名乗るのが遅れたようだ。
私の名前は明智耕助。
東京で私立探偵を営んでいる。
今日は秋山博士の奥さんに依頼された浮気調査のためここに来ていたのだが、思いもよらず殺人事件の現場に立ち会うことになってしまった。
私以外にここに居るのは、助手の中川さん、留学生のザカリテさん、秋山博士の奥さん、何故か居合わせた西山警部、そして、私の恋人にして現役アイドル、万雪の5人だった。
「これは分かりやすい事件だったな! 明智くん!」
西山警部がドヤ顔で手錠を取り出す。
中川さんの腕に手錠をかけようとするのを、指先で軽く警部の肘を引っ掛けてずらしてやった。
誤って自分の腕に手錠をかけた西山警部が「何をする!」と叫ぶのを無視して、私は椅子に座った。
「西山警部、もしあなたが『N』をイニシャルだと考えて中川さんを逮捕しようとしたならば、それは間違いです。なぜなら、秋山博士の奥さんの名前は典子さん。そして、あなたの苗字も……Nです」
「まゆきはMでーす!」
元気よく手を上げたまゆきの頭をなでて、私はA4の紙に6人の名前を書き出した。
・明智耕助 KOUSUKE AKECHI
・砂糖万雪 MAYUKI SATOU
・中川乙女 OTOME NAKAGAWA
・ザカリテ T.O.ZAKARITE
・秋山典子 NORIKO AKIYAMA
・西山圭二 KEIJI NISHIYAMA
「まゆきくんの本名は、砂糖さんと言うのかね? 本当にその字で合っているのかね?」
メモを見た西山警部の質問に私は黙って頷く。自分だって刑事が圭二だなんてふざけた名前をしているのに何を言っているんだという気持ちを込めて。
「ここで、イニシャルがNの人に絞って動機を考えてみましょう。まず、典子さんです」
背中から抱きつき「うんうん! こうちゃんがんば!」とニコニコしているまゆきにも一つ頷くと、私は続きを話し始めた。
「典子さんは夫である秋山博士の浮気を疑っていた。私という探偵を雇って調査を依頼するほどにね。もしここで浮気の現場を見てしまったとしたら、カッとなって殺してしまうということもあり得ないことではありません」
「そうだったのか! では逮捕――」
「しかし、浮気現場を見たとしたなら、ここにもう一人、浮気相手が居ないと話は通じません。それに、私が博士を見張っているのを知っていて殺人を犯してしまうというのも、今の落ち着きぶりから考えて整合性が取れない」
西山警部は手錠を戻した。
「次に中川さん。私の調査によれば、博士の浮気相手はあなたですね? 奥さんが浮気を疑っていることに薄々感づいていた博士が、別れ話を切り出したのに逆上して殺してしまったと言う事も十分に有り得る」
「なるほど! 今度こそ逮捕――」
「まぁそれは、このダイイングメッセージが『N』だったら、の話ですが」
西山警部は首をひねり、手錠を振り上げたまま「どういう事だね?」とこっちを伺った。
この人は自分で捜査をしようと言う気はないのか?
まぁいい。
「犯人は、このダイイングメッセージに気付いていました。しかし、下手に証拠を隠滅しようとしたなら、警察の調査でバレてしまう可能性が高い。そこで犯人は、メッセージを隠さず、全く別のものに見えるように細工をしたのです」
「待て待て、悲鳴を聞いてから私達が入ってくるまで、10秒とかかっていないんだぞ? 細工をしている時間なんか無いじゃないか!」
私は、黙ったまま警部が指差す博士の遺体に近付くと、『N』の文字が書かれた四角い床板を一枚、90度回転させた。
「こう……です」
『N』は、簡単にくるりと回り
『Z』に姿を変えた。
「……そうか! Z! ザカリテ! 逮捕だ!」
「こうちゃんすごい! かっこいい!」
動揺するザカリテに西山警部が手錠をかける。
そこで初めて、私は自分のミスに気づいた。
「すみません、西山警部。ザカリテさんのスペルが間違っていました。正しくはこう……」
メモを取り出し、書き直す。
×ZAKARITE
○THEKARITE
「ですから、ザカリテさんは犯人ではありません」
ほっと胸を撫で下ろすザカリテさんから、しぶしぶ手錠を外す西山警部を見ていたまゆきが、納得したように手を叩く。
「こうちゃん! じゃあ犯人は西山警部でしょ?! まゆきわかちゃった! だってNだもんね!」
Nじゃないってさっき言ったばかりなのに、まゆきは可愛いなぁ。
私はまゆきの頭をなでてやった。
「じゃあ、いったい犯人は誰なんだ?! まさか、君が犯人だとでも言うわけじゃないだろうな?!」
詰め寄る西山警部を軽く躱し、私は中川さんの前に立った。
「あなたが犯人ですね? 乙女さん。あのダイイングメッセージは『N』でも無ければ『Z』でもない。『乙』です。博士はあなたの名前を書く途中で生命が尽きたのです」
中川乙女さんは崩れ落ちる。
自分の名前を隠そうとしたら、逆に自分のイニシャルになっちゃって、一番最初に容疑者として逮捕されかけ、その後他の容疑者に嫌疑が向いて一瞬助かったと思ったのに、結局最初から全部バレていたのだ。
ジェットコースターのような気持ちの乱高下で、疲労困憊している事だろう。
西山警部は逃げる気力も言い訳する気力もない中川さんに手錠をかけたが、やはり納得行かないように首を傾げた。
「最初から中川を逮捕しておけばよかったんじゃないのか?」
二流の刑事にしては珍しく、もっともな質問だ。
「それでは数百文字で終わってしまうし、何のオチも無いではないですか」
朗らかに告げた私の言葉に西山警部は更に首をひねると、到着したパトカーに犯人を連行して行った。
警部の背中を見送ると、「こうちゃんかっこいい!」と抱きついて来るまゆきを撫でながら、私は秋山博士の奥さんに浮気調査の請求書を手渡すのだった。