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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

その他

インストゥル精神

作者: てこ/ひかり

 「何とか言ったらどうなの!?」


 ヒステリックな金切り声を上げると、お母さんは僕の右頬を引っ叩いた。途端に空気を切り裂いたような鋭い痛みが皮膚に走り、じわじわと血が滲み出てくるのを感じた。


「黙ってたって、分かんないでしょ!?」

「…………」

「まぁまぁ、お母さん。落ち着いてください」


 その剣幕に驚いたのか、お店のおじさんは慌ててお母さんを窘め始めた。でも、僕の目はそこから先のおじさんをよく見てはいなかった。お母さんの右手が再び天井に掲げられるのを見て、次に来る痛みに備えてぎゅっと両目を閉じた。果たして予定通り右頬にやって来た第二撃に「こんにちは」しながら、僕は自然と溢れる涙を頬に感じた。


「お母さん! 子供のやったことですから!」

「今度やったら、ただじゃ済まないんだから!」

「…………」

「許してあげましょう? ね? ほんの出来心ですよ。僕も子供の頃は、何回か度胸試しに万引きしたことあったっけなあ……ハハ」


 お店のおじさんがしどろもどろになりながら、ぎこちない笑みを浮かべた。「今度」ではなくもう既に「今」ただじゃ済まなくなった右の頬を抑え、僕は結局何も言うことなくお店を後にした。家に帰るまで、お母さんは一言も喋らなかった。怒ったようにまっすぐ前を見つめているお母さんが、僕の右手を引っ張ってグイグイ人混みをかき分け進んでいく。マンションの扉を閉め、周りに誰もいなくなったところで、ようやくお母さんは僕の目を覗き込んで言った。


「……分かってるわね?」

「…………」

「今度は、上手くやりなさいよ」

「…………」


 お母さんがじっと僕の目を見つめた。僕は何も言えなかった。けれどその瞬間、僕とお母さんはお互い目と目で分かり合うことができた。


「フン。本当に使えない子」


 そう言ってお母さんは第三撃を僕の右頬に「こんにちは」した。

 滴る血もそのままに、僕はふらふらと部屋に戻った。と言ってもこの家には、僕の部屋はない。玄関を開けたらすぐにキッチンで、その右がトイレとお風呂、左が四畳半のリビングだった。そのうち三畳くらいはぐちゃぐちゃに丸められた洗濯物と食べ終わったプラスチックの容器で埋まっている。床に転がったペットボトルを踏んづけないようにしながら、僕は慎重にスペースを探して座り込んだ。


「じゃ、私行くから。帰って来るまでに少しは片付けときなさいよ」

「…………」

「何よその目は。失敗したんだから、当然ご飯は抜きよ」


 第四撃が飛んで来る前に、僕は慌てて目を逸らした。大体お母さんは気に食わないことがあると、僕がサンドバックかゴキブリのどちらかに見えてしまうようだった。お母さんはまだかろうじて人間に見えている僕を苦々しく睨むと、いつものようにお父さんじゃない男の人のところへ出かけて行った。


 ここで僕は、お母さんと二人で住んでいる。と言ってもこの家には、お母さんは滅多に帰って来ないから、実質僕一人で住んでるようなものだった。学校にも行かず、昼間になるとお母さんが鍵を開けにやって来て、僕にご飯を「取って来る」ように命じる。大体この部屋の生活は、「働かざるもの食うべからず」で、自分の食べ物は自分で「取って来る」のが当たり前だった。まだ働ける歳じゃない僕は、「それはそっちで何とかしなさいよ」というありがたい言葉だけもらって、毎日ナントカカントカやっている。

 僕は洗濯物の山に倒れこんだ。きっと今日は疲れていたのだろう。湿った下着の海に痛む右頬を預けていると、あっという間に微睡みの中へと落ちて行った……。







「…………」

「こんにちは。誰かいませんか?」


 ……ふと目を覚ますと、扉の向こうで知らない声が聞こえ、チャイムが鳴っていた。「誰が来ても出てはいけない」というお母さんの言葉を僕は忠実に守っ……た訳ではない。単純に、お腹が空いて立ち上がれなかった。しばらく寝起きの頭でぼんやりと壁を眺めていると、扉の向こうが騒がしくなって、やがて見知らぬ男の人が部屋に入って来た。僕はびっくりした。お母さん以外の人間が、この部屋にやってくることは今まで一度もなかったのだ。僕もびっくりしていたけれど、見知らぬ男の人も負けじとびっくりしながら僕を見て叫んだ。


「子供だ! おおぃ、子供がいるぞ!」

「…………」


 ……それから先は、もうドタバタだった。気がつくと僕は救急車に乗せられ、病院で何とも豪華な食事を振舞われていた。この数のおかずを揃えるのに、何回お店を往復しなければならないだろうと考えると、そりゃもうものすごい豪華な食事だった。吸い込むように目の前の食事を平らげていると、白い服を着たおじさんが優しく僕に話しかけて来た。


「大丈夫かい?」

「…………」

「君のお母さんが、事故に遭ったんだ」

「…………」

「誰か家族はいないかと家に行ってみたら、君がいたんだ。お母さんも同じ病院にいるから、元気が出たら後で会いに行ってみるといい」

「…………」


 僕は何も言えなかった。その日は病院のベッドで寝かせてもらった。湿っても破けてもいない布で寝るのが新鮮で、結局なんだかんだ朝方まで眠れなかった気がする。






 次の日、僕は白い服のおじさんに連れられてお母さんの待つ病室を訪れた。

「お話はできないかもしれないけれど」

 おじさんはそう言ってぎこちない笑みを浮かべた。部屋に入ってみて、僕はその意味を理解した。

 お母さんは、全身包帯ぐるぐる巻きで、体中に透明の管をぶら下げていた。僕が来てもピクリとも動かないお母さんは顔の右半分が包帯で見えなくなっていて……その右手と右足はなくなっていた。僕は目を見開いた。


「外で待ってるよ。お母さんにちゃんと「こんにちは」しておいで」


 そう言って、白いおじさんは僕を部屋に残し扉の向こうに消えた。僕はそっと意識のないお母さんに近づいた。右手は肘の先から、手品みたいにすっかりなくなっている。全体はまだかろうじて人間の姿をしているが、その右手でもう二度と「こんにちは」することはないんだと思うと、僕は少し寂しくなった。シューシューと荒く息を吐き出すその姿に、まるでゴキブリのようだと僕は思った。天井から伸びる透明のチューブに繋がれたその体は、どこかサンドバックに似ていた。僕は左半分だけになったお母さんの顔を覗き込んだ。


 その時だった。

 意識のないはずのお母さんと、僕は確かに目が合った。


「…………」

「…………」


 お母さんが怯えたような左目でじっと僕の目を見つめた。僕は何も言えなかった。けれどその瞬間、僕とお母さんはお互い目と目で分かり合うことができた。


 試しに僕は、右手を天井に掲げてみた。

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― 新着の感想 ―
[一言]  膨大な作品群から最初に読んだのがこれだったのですが、どうしてくれるんですか。他の作品を読んで度肝を抜かれたじゃないですか。テロリズムですよ。  で、作品の話ですが、凄い。まず単純に凄い。何…
[良い点] 子供は虐待されてても、必死で暮らしてるのか、あまり自覚がない場合が殆どのようです。そこの処が淡々とした子供の口調で、グっときました。
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