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偽善事業  作者: 灯月公夜
第一章:真っ暗/日常/私の世界
2/14

01 ※

 目覚ましの小うるさい音でありさは目を覚ました。

 季節は初夏。七月に入ったばかりだ。しかし、この夏は地球温暖化の影響か、例年よりも気温が遥かに高い。今日の目覚めもシーツに汗が染み込み、不愉快極まりない。

 ありさは、これまで何十回、何百回と繰り返してきた動作で目覚ましを止める。いつも通りの習慣で体が自然と動く。

 まずは顔を洗おう。熱帯雨林のような気温と湿度で不愉快なこの部屋であっても、床はひんやりとしていて足の裏が心地よかった。ありさは手をベットからすぐ傍の自身の机へと滑らせ、立ち上がる。

 いつも通りの動作。

 整理整頓された部屋を、それでも注意を足元に払いながら慎重に進む。つい最近、何かの拍子で落ちていたらしいぬいぐるみに不覚にも足を取られたばかりだ。

 壁を伝い、なんとか部屋のドアに辿り着く。ドアを開け、廊下へとゆっくりと出る。廊下の床もひんやりと火照った体に気持ち良く染みいった。

 そのすぐ右手に小さな洗面台がある。ありさは、右手で壁を確認しながら、その洗面台の前、鏡があるはずの場所に立つ。

 ここまでがいつもの日常。

 そして、ここからがまたいつもの日常の始まり。

 漆黒で塗り固められた視界の中、なんとか手探りで蛇口を見つけ出し、捻る。少し強くしすぎたせいで、水が跳ね、ありさのパジャマを軽く濡らした。

 ありさは舌打ちしたい気持ちをぐっと堪え、冷たさに眉をひそめつつ、蛇口を弱め、顔を洗う。それからタオルで顔を拭こうといつもの場所に手を伸ばすも、そこにはタオルがなかった。

 今度こそありさは思わず舌打ちをしてしまい、慌てて自分をいさめる。手を、いつもタオルが掛かっているはずの場所から下の方へゆっくりとずらして行く。タオルは床に落ちていたらしい。一度落ちたもので顔を拭くのは躊躇われたが、しかしこれしか今のありさには分からない。仕方なく顔を拭く。そして、鏡がある方へ顔を向ける。

挿絵(By みてみん)

 そこに映しだされたのは、漆黒の、すべてを呑みこむ闇。

 自分の部屋も、足元も、廊下も、タオルも、鏡も、そして自分の顔さえも、もはやありさの瞳に映る事はない。

 もう一生、ありさの瞳に光が戻ることはない。

 これがありさの日常。風景。世界。

 あの日以来、ありさの瞳から世界は消え去ってしまっていた。

 タオルを掛け、手探りで階段をゆっくりと降りて行く。今まで何も思わなかった階段が、今は果てしなく怖い。命を簡単に踏み外せる。ありさは、細心の注意を払いながら、ゆっくり、自分でもじれったく思いながら下へ降りて行く。降りて行く途中でいい匂いがした。母の真理恵まりえが朝食の準備をしているらしい。ありさは見つからないように、下にある洗面所へと入って行く。

 パジャマのボタンをゆっくりと外し、履いているズボンとパンツを脱ぎ、見つけ出した籠の中へ入れる。風呂場へのドアを開ける。床の冷たさがとても気持ちが良い。ありさはここでも細心の注意を払う。こけたらシャレでは済まない。

 シャワーのノブを開けると、いきなり頭上から緩い水が降って来て、思わず声を上げそうになった。が、すぐに慣れ、シャワーから溢れ出て来る水に身を任せる。体の横を流れて行く水の音が耳に心地よく響き、体をゆする。それがたまらなく気持ちよかった。寝起きの気持ち悪かった汗も、その水がすべてを洗い流してくれている。

 不意に脳裏を過るものがあった。それは、今日からおよそ二か月前のあの日、ありさが事故にあってから目覚めた病院での事だ。

 ありさは眉を顰める。こんな思い出、この水がすべて洗い流してくれたらいいのに。



「……り………りさ………ありさ……」

 真理恵の声が聞こえ、ありさははっと目を覚ました。久々に聞く、母の泣きそうな声だった。右手が温かく、少し痛かった。

「おかあ……さ……ん……?」

 声を出すと、ノドがカラカラに乾いていて、少し痛かった。

「ありさ!」

 勢いよく抱きつかれた。体がひどく傷んだ。眉をちょっとだけ、顰める。真理恵の背後からは、大輝とあかねの安堵するような声が聞こえて来た。二人も来ているらしい。

「ありさ、大丈夫!? どこも痛くない!?」

「う、うん。平気……」

 しかし、どうしてこんなにも暗いのか、ありさにはわからなかった。何も見えない。みんなはどうしてこんな真っ暗なところにいるのだろうか。

「ちょっと俺、先生呼んで来る」

 そう言って、大輝が外へ駆けだして行く音が聞こえて来た。しかし、この暗闇の中、どうしてそんなにいとも簡単に? この先は考えたくなかった。

 しばらくして、数人のかけ足が聞こえて来た。

「先生、ありさが……」

「良かった。ありささん、ご気分はいかがですか?」

「はい……」

 それから色々診断が始まった。薄ぼんやりとした意識で、ありさはここが病院なのだと知った。事故にあって、運ばれて来たんだ。

「お母さん、あの子ネコは?」

「あっ、ええ、あの子なら車の中にいるわよ」

「そう、良かった」

 それを聞いて、ほっと一息つく。あの車にひかれそうになっていた、片足を怪我したあの子は無事だと言う事実に、ありさはほっと安堵のと息を漏らす。そして、思わず気が緩み、口がすべてしまった。

「それにしても、ここの病院って真っ暗だね。暗くて見えないや」

 その時、部屋が凍ったのを感じ、ありさはしまったと思った。

「ありささん、ちょっと良いですか?」

 そう言って医者がありさの目を慎重に開くと、そこにライトの光を当てた。右目を確認した後、左目へ移る。

「お母さん、ちょっと良いですか……」

 医者はそして、真理恵と一緒に部屋を出て行った。ありさは自分が置かれている状況を、ようやく現実として感じる。

 その翌日、ありさはCTを始めとした検査を受けた。

 その結果、医師からは「一生目が見えない」とはっきりと告げられた。

 ありさはシャワーを止めた。それからドアを探し、外へ出る。今度は手の届くところにタオルがあり、それで体をくまなく拭く。真理恵が準備してくれた下着をつけると、洗面台にあるドライヤーを手探りで見つけ出し、髪を乾かし、櫛で髪をとき始める。

 失明する前は、ありさは髪をアレンジするのが大好きだった。特に、髪をアップにするのが好きで、ポニーテールはもちろん、はいからさんなど、雑誌を立ち読みして、少しでも良いと思ったらなんでも試した。

 髪を結うのが大好きだった。

 しかし、それも今では出来ない。ありさは髪をストレートに降ろすと、ドライヤーを止めた。そして、制服に着替え始める。最初はかなり戸惑い、失敗したが、今では大抵のものは着れるようになった。二か月と言う時間の経過を思い知らされる。

 洗面所から出て、両親に朝の挨拶をして、自分の椅子に座る。

 今日も真っ暗な一日が始まる。

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