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異形の花嫁  作者: ルシア
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第6章

 ――その夜、わたしは<彼>と最後の話しあいをするために、夜中に家を抜けだして、近くの森へと出掛けた。空には満月が輝き、白樺林が雪のように白く美しく夜に映える中を、かつて母が死んだ場所へとわたしは歩いていった。

 あの妖精の世界の夢を見て以来、それまでは消えていた幾つかの記憶をわたしは思いだしていた。実の母が熊に襲われて亡くなった、あの瞬間のことも――あの熊は本当は、わたしのことを元いた世界へ連れ戻すために、使いとしてやってきただけだったのだ。それを母が邪魔したものだから、彼女は自分の娘を命がけで守ろうとするあまり、死ぬことになってしまった。それ以前に彼女の本当の娘は、彼らの手によってすり替えられていたとも知らずに。

(お母さん、あなたはわたしが四歳になるまで、本当の娘として可愛がって育ててくれた……今までそのことを忘れていて、ごめんなさい)

 その記憶が甦るのと同時に、わたしは自分が本当の意味で<人間>になるのを――自分が人間らしい心をとり戻しつつあるのを感じた。徹が浮気をするようになったのもおそらくは、わたしの性格にどこか欠点があったからとかそういうことではなく――うまく言語化して説明するのは難しいけれど、わたしの中にそうした自分と同じ<人間らしさ>を求めることができなかったせいではないかと、今はそう思う。そして直人さんや真治くんが死んだのも、元を辿ればそのことが原因だったのだ。わたしは人間の女としての容姿を秤にかけたとしたら、決して美人というわけではない。にも関わらず彼らがわたしに惹かれたとしたら、わたしに人間の女にはない別の要素が含まれているのを、魂の勘のよさというのか、鋭い嗅覚というのか、何かそうしたものによって嗅ぎとってしまったせいなのではないだろうか?

 自分がこちら側の世界にいると、そんなふうにして自分でも自覚しないうちに周囲の人間に迷惑をかけてしまうから――本当は元いるべき、あなたの世界へ連れていってと、そう<彼>に頼むのは簡単なことであったかもしれない。でも、わたしはすでにこちら側の世界で人間として二十九年も暮らしてきたのだ。その間、楽しいことや嬉しいこと、喜ばしいことよりも、苦しかったことやつらかったこと、悲しかったことのほうが多かったような気がする。これはこの先の人生でも、そう変わりはないのかもしれない。でもそれでいいのだ。いや、それであればこそいいのだ。わたしがこちら側の世界にいるせいで、どんなに少なくとも母を含めて四人、本当はそこで死ぬべきでない運命の人が命を落とした。だからわたしはどんなに苦しくてもつらくても、人間としてこちら側の世界に留まって――その血の罪と十字架を背負って生きていかなくてはならない……わたしはそう、心の中で覚悟を決めていた。

 ミズナラの樹は葉をすべて茶色くし、風の中にカサカサという陽気な笑い声をたてている。その背後には夏の間はあまり目立たなかった地味な杉が、すっかり葉を落とした樹々の群れの中で高くそびえ立ち、月光にその濃緑色の葉を照り輝かせていた。

 青白い満月の光がこれだけ明るいと、森の中は懐中電灯などなくても、歩くのになんの支障もなかった。人工的な明かりがなくて怖いというようにもまるで感じない。ただ人間の余計な思考能力といったものが――木々の間に幽霊の姿を垣間見させたり、ただの鳥の泣き声を人間の悲鳴のように勘違いしてしまうという、それだけのことなのだろう。一度<彼ら>の正体というのがどんなものかさえわかってしまえば、ちっとも怖いなんていうことはないのだ。むしろわたしは夜に森の中を歩きまわったりすることよりも、たくさんの人間が集まる葬式や法事のような場所のほうが、いくらおそろしいか知れないとさえ思った。

「ホウ、ホウ」

 どこからともなく灰色のフクロウがやってくると、まるで道案内でもするみたいに、わたしの五メートルくらい前方を飛んでいった。そして暫くの間森の小道をよちよち歩き、わたしが一メートルくらい背後に迫ると、また翼を広げて五メートルほど前に飛んでいく――というのを何度となく繰り返したあとで、わたしは木々が伐採されて開けた、小さな広場までやってきた。ここは国有林ではあったけれど、時々業者の人間がやってきて、森の手入れをしているのだ。

 道案内をしてくれたフクロウはこれで役目は終わりとばかり、バサバサという羽音とともに樹間の闇へ消えゆき、わたしは満月の光の下、二メートルはあろうかという熊と、正面から向かいあった。

(あなたがわたしのお母さんを殺したのね。そうなんでしょ?)

 訴えるような眼差しで<彼>のことを見上げると、エルフの王はまるで実はこれは着ぐるみなんだよ、とでもいうかのように優雅な仕種で、わたしに樹の椅子に腰かけるよう手で示した。

 そこには苔むした大木が横たわっており、わたしがそこに腰かけると、<彼>もまたわたしの隣に座った。彼は決して着ぐるみを着ているわけではなく、その証拠にすぐ隣に腰かけていると、熊特有のなんともいえない体臭がつんと鼻腔を刺激した。

「君のお母さんを殺したのは僕じゃないよ。信じてほしい――イルザ=メイ。確かに僕は自分のしもべに、君のことを迎えにいくよう命じはしたけれど、君のお母さんを殺せとは命じなかった。でもあのあと、神さまが大変お怒りになって、僕に天使を使わしてこう仰せられたんだ。君が死ぬまでの間は決して、そのことで人間界に干渉してはならないと。だから僕はその決まりを守ろうと思った。人間の齢はどんなに長くともせいぜい百年――僕らにとってはね、そんな時間、そう大した年月ではないんだよ。だから僕は自分のしもべにそっと、君のことを見張らせることにしたんだ。唯一ひとつだけ、僕らが神の命令を破ってもいい時というのがあるからね――君はもう、そのことを思いだした?」

 熊が人間の言葉をしゃべっている!などということより、わたしはイルザ=メイという自分の本当の名前の響きに、魂の震えのようなものを感じておののいていた。イルザ=メイ、それがわたしの本当の名前……そして彼の、エルフの王の名は……。

「その名前を、ここで口にしてはいけない」彼は熊の手を口元まで持っていくと、しっ、と小さな声で囁いた。「まだそうしたことまでは思いだしてないんだね。無理もないよ。僕らにとっては人間の寿命っていうのは人間が犬や猫に感じるのと同じようなものではあるんだけど――二十九年という年月はそれだけ君にとっては長かったということだ。本当はもっと早く迎えにきたかったけど、ランシュドルフの手下どもの邪魔が入ってね、すっかり遅れてしまったんだ。さあ、もう少ししたら<エルフの門>が開くよ。もしこの機会を逃したら、次に門が開くのは人間の暦では来年の五月ということになる。僕はとてももう――一秒だって君のことを待ちきれないんだ」

「そんな……だってわたし……」

 彼にはどうやら人間の心を読む力があるようだったけれど、わたしの本心にはまだ気づいていないようだった。わたしの本心――そう。人間の側の世界に留まるという。

「どうしてそんなことを言うの?僕はまたてっきり君が――すっかり心の準備ができたので、今夜ここにきたものとばかり思っていたのに。人間なんて所詮、醜くて汚らわしい、寿命の短い生き物じゃないか。もちろん神の言うとおり、多少は見るべきところもあるかもしれないが……なんにしても、ここは君のいるべき世界じゃないんだ。もう何も言わなくていい、イルザ=メイ。僕にはすべてわかっている――君の夫となった男も、彼の兄も甥もみな、結局君のことを汚すことしかしなかった。彼らには君のほうに肉体的欲求があって彼らと寝たわけではないということが決してわからないだろう。君はただ求められたからそのとおりにしただけなのに……その価値がわからなかったから、彼らはみな死ぬことになったんだ」

「そんな……じゃあ、徹や直人さんや真治くんが死んだのは、やっぱりわたしのせいなのね?わたしと関係を持ったから、あの三人は……」

「答えはイエスでもあるし、ノーでもある」と、熊の姿をしたエルフの王は言った。「理路整然と説明するのは人間の言葉だと流石に難しいけど、とりあえずやってみよう。つまり我々が人間の世界に干渉していいのは――大きく分けてふたつの法則にのっとってのことだ。ひとつ目は神から直接命令があった場合。そしてふたつ目が人間が間違いを犯した場合だ。地球のいたるところで環境破壊が進んでいるのはそのせいだといってもいいくらいだが、今そのことは脇に置いておくことにしよう。この法則は大きなものから小さなものにまで適用することができるものでね、君の夫になった男の場合は、道徳的に過ちを犯したことが問題になった。こうした場合に初めて僕は神に対して約束の反古を求めることができるんだ。もちろん執行猶予期間があるので、その人間の心の状態を詳細に調べて嘆願書のようなものを作成しなければならないんだけどね……地球上に存在する人間全部というわけではないにせよ、こんなふうに調べられて何ひとつ埃のでない人間というのは存在しないものだ。もちろんこのことは不貞を犯した人間がその罪ゆえにみな死ぬといったようなことではない……そのことは君にもわかるね?そして君の義理の兄だが、彼はもともとあの飛行機に乗って死ぬことが定まっていたんだ。だから僕は自分のしもべに命じて、生命保険の名義をね、君の人間の名前にしておくように仕向けたんだ。人間はどうもこういう時、虫の知らせとかなんとか言うらしいが、まあそういうことにしておいてもいいだろう。あと雷に打たれて死んだ君の甥だが――彼はあのあと生きていたところで苦しみばかりの増す人生であることが目に見えていたのでね、彼のせめてもの心の美しさに免じて、もっとも苦しみの少ない形で打つことにしたんだよ……僕は今、なるべく人間の君にわかりやすい形で説明をしたつもりだけど、向こうの世界へいけばね、君には言葉で説明する必要もなくすべて理解できるはずなんだ」

「そんな……そんなことって……」

 ――わたしは言葉を失った。そんなのはあんまりだとも思った。確かに道徳的価値基準で裁くとすれば、徹は罪深い人間だということになるだろう。でもだからといって、それは死をもって贖わなければならないほどの重い罪だったのだろうか?直人さんにしても真治くんにしても……生きてさえいたら、無限の可能性があったはずだ。わたしとはうまくいかなかったとしても、他に愛しあうべき女性を見つけて自分の家庭を築き、その中で幸福を見出すことだって……。

「イルザ=メイ。君は本当に可愛い人だ。この期に及んでもまだ、あんな汚れきって堕落した人間のことを信じようというんだね?」

 そんなのはまるきりナンセンスだ、というように熊は首を振ると、グルルル、と獣の声で鳴いて、わたしの頬をべろりとなめた。なんともいえない生臭い息がかかったけれど、わたしは少しも気にしなかった。

「僕は君を愛している……そしてこの長く短い間、君と引き離されたことを今は心から神に感謝しているよ。君は人間として修業を積み、エルフの王の妃として相応しい女性に成長することができたのだから。さあ、そろそろ門が開く刻限だ。最後に僕は、君が向こうの世界へいく前に支払わなければならない代償について、説明しなくてはならない」

「……代償って?」

 わたしはごくり、と生唾を飲みこんだ。月の光に熊の赤い瞳があやしく輝き、初めてその中に本物の獣性のようなものを垣間見たような気がした。

「<死>だよ」

 そう言うなり彼はすっくと二本足で立ち上がり、まるでダンスでも踊ろうと誘うみたいに、わたしの両手をとった。

「心配しなくてもいい……すぐにすむからね。本当は君が地上のどんな男にも心を動かされず、貞潔を守って清い生活を送っていたとしたら――君は<死>を味わうことなく、向こうの世界にそのままの姿で移ることができたはずなんだ。でも僕は君がそうできなかったからといって、そのことを残念に思っているわけではないよ。君はあまりにも優しすぎたんだ……だから男たちの誘いを拒めなかったという、それだけのことだ。それに痛みや苦しみを感じるのは、ほんの一瞬のことだからね。その儀式さえすんだら、君は常若のティルナ・ノーグで、永遠に老いることもなく美しいままで、僕と一緒に暮らすことができるんだ」

「そんな……そんなことって……」

 わたしはうろたえるあまり、ぶるぶると体が小刻みに震えるのを感じた。新聞のどこかに小さく、<熊に襲われ女性死亡>という記事が載っているのが頭の隅を掠める。もしそんなことになったら父も母も嘆くだろう。ふたりとも悲しみのあまり、神さまのことなど信じられなくなって、信仰さえ捨てることになるかもわからない。

「怖いのかい?僕の可愛い人……でも君がこちらの世界にいるとね、微妙に周囲の人間に影響がでるんだよ。人間たちが最近言っている、バタフライ・エフェクトというのにちょうどよく似ているかもしれないな。結局のところこうすることが、君にとっても君のまわりにいる人間にとっても、一番いいことなんだ」

(ちょっと待って!お願いだからもう少し考えさせて!)

 わたしは咄嗟にそう叫ぼうとした。でもそれは声にならなかった。<彼>はわたしの返事を待つこともなく、それが最善なのだという手際のよさで――獣の爪によってわたしの心臓を抉りとおした。

 鋭い痛みと甘美な恍惚が胸を貫いたのは、彼の言ったとおりほんの一瞬――わたしは醜い人間の骸を捨てると、風のような時間と空間の渦巻くゲートの中へと、吸いこまれるようにして永遠の伴侶とともに旅立った。




 終わり






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