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異形の花嫁  作者: ルシア
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第5章

 ――とても不思議な夢を見た。

 雪のように白く美しい桜吹雪が舞い、あたりにはえもいわれぬような良い芳香が満ち、上を見上げれば鏡を鋳たような美しい水色の空があった。そして下のほうには銀色の箱舟のような雲が幾つも浮かんでいる……今は姿が見えないけれど、その箱舟のひとつひとつにはどうやら、確かに誰かが住んでいるようなのだ。

(……ここはもしかして、天国なのかしら?)

 わたしはそう思い、もしもそうなら、死ぬというのはそんなに悪いことではないとさえ感じた。そしてもしこの場所のどこかに、徹や直人さんや真治くんがいるのなら――自分はもはや罪悪感を感じる必要はないのではないかとさえ思った。

 後ろを振り返って見ると、象牙でできたような大きな城があり、あんなに重量感のあるものがどうして雲の上に聳えることができるのだろうと、とても不思議な気がした。でもどうやらあそこが自分の住まいらしいと感じて、クレープデシンのドレスの長い裾を引きながら、わたしは雲の上を歩いていった。

「やあ、おかえり」

 城の跳ね橋のところまで迎えにきてくれていた<彼>はそう言った。堀のところには水晶のように透きとおった水がたたえられ、その上を時々、飛び魚のように翼の生えた魚がきらきらと宙に舞っている。

(……これはきっと夢なんだわ)

 あまりにも現実離れした美しい光景に、わたしは心の中でそう呟いた。

 背の高い、銀色の髪をした青年は女のわたしが恥かしくなるほど綺麗な、理想的に整った顔立ちをしており、どうしてこんな人が自分のことを待っていたのかと、わたしは不思議でたまらなくなった。

 彼は城の中庭までくると、赤い石榴の実のなる樹の根元にわたしを座らせ、手にリュートのような楽器を持ち、『取り替え子の歌』という歌を歌って聞かせた。



♪昔、ランシュドルフという悪戯好きな妖精がいた

 彼はエルフの王のお妃になる娘をさらうと

 地上の人間の子供とすり替えたのだ


 あわれ、その人間の子供は殺されて

 代わりに人間界では妖精の魂を持つ人間が

 そうとは知らずに長く暮らしたよ


 その娘は成長し、年ごろになると

 ひとりの人間の男と結ばれた

 エルフの王はそのことを悲しんだが

 娘の幸福を思って彼女のことを諦めた


 しかし、人間の男は彼女のことを欺いた

 彼は他の美しい人間の女に心変わりしたのだ

 エルフの王はそのことに激怒して

 大地の精霊に彼の命を奪うようにと命じた


 それなのに娘は今も気づかない

 エルフの王が彼女のことをずっと待ち続けているということに……



(――徹が、わたしに隠れて浮気を?)

 夢の中でわたしの意識がそう現実に立ち返った時、ベッドの上で目が覚めた。

 わたしは目に見える、手でじかに触れることのできる<現実世界>を確かめるように、自分の顔や髪、それから木綿のパジャマやその下の肉体を何度も撫でた。

(……あれは、決して夢じゃないんだわ。だって、ひとりの人間の頭が想像できる以上に素晴らしい、美しく恍惚とした世界だったもの。もし<あちら側>へいけるというのなら――飛び降り自殺をして死ぬということだって、そう大したことではないのかもしれない。でもだからといって……)

 その日、わたしは夕方までかかって家中の荷物を片付けると、夜は自分の、阿川の実家のほうへ久しぶりに帰ることにした。徹が亡くなった時から、父も母も、実家へ戻ってくるように何度も言っていたけれど――家へ戻るためではなく、この半年ほどの間に鮎川家のほうで三件も葬式が続いたため、すぐ隣に住む叔父一家に挨拶がてら、菓子折りのひとつも持っていかねばならないと考えていたからだ。

 それともうひとつ。母とじっくり、色々なことを話しあいたかったからでもある。もちろん、妖精云々といったような、夫の死のショックのあまり、頭がおかしくなったかというような話をするつもりはまったくなかったけれど――母は神に対する強い信仰心を持っているせいか、昔から目に見えない<霊的守護>のようなものを身に帯びている人だったから、暫くの間彼女のそばに避難していれば安全なのではないかと、そんなふうに直感したのだ。


 わたしの父も母もいまだに、わたしのことを「ちーちゃん」と呼ぶ。この年になってもそう呼ばれるのは、人前ではちょっと恥かしかったけれど、家に親子三人だけでいる分にはそんなふうにはまったく思わない。

 父の弟が結婚し、二百メートルほど離れた敷地内に新婚の家を建てるまでは――わたしにとって実家は本当にくつろげるところであり、どうしても人間として好きになることのできない叔父夫婦とは結婚を機に関わりあうことを避けることができて、本当によかったとそう思う。

(考えてみたら、徹と結婚したことにはそういう打算もあったのかもしれないなあ)

 かつての自分の二階の部屋から庭の桜の樹や、収穫の終わった畑、丘陵地帯に沈みゆく夕陽などを眺め、わたしはそんなふうにして二週間ほどの間、物思いに沈んだ。

 徹が間違いなく確かに浮気していたという証拠はどこにもなかったけれど、今にして思えばそういえば……という心当たりは幾つかあった。それに、自分には彼を責める権利などないと思ったし、仮にそうであったとしても、何故か少しも腹は立たなかった。

(もし、わたしが彼を本当に愛していたなら、許せないと思ったかもしれない。でも本当には愛していなかったから――こんなにも虚しくあっさりと、彼の浮気をなかったことのように許してしまえるのだろうか?それともわたしが本当には人間ではないから――結局のところ誰のことをも愛する、ということができないままなのだろうか?これから先も一生……)

 でも少なくとも自分は、父と母のことは人間として尊敬しているし、愛してもいると、自分ではそう感じていた。無償で人に与える心、相手の立場を思いやる優しさ、動物や植物に対する暖かい眼差し……そういった人間が生きる上でもっとも大切なことをわたしは両親から学んだし、ほとんど遺伝的といってもいいくらい自分の血の中に両親の愛情が混ざりあっている、というようにさえ感じる。


『刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。

 それなのに、わたしたちは救われない。

      (エレミヤ書、第八章二十節)』


 わたしがパラパラと聖書を読んでいると、不意にその箇所が目に留まって、わたしは苦笑した。先週の日曜日、わたしは父や母と一緒に、教会へいったのだけれど――幼い頃に感じたようなあの神聖な空気を感じることはもはやできなかった。長年の母の献身的な神への態度を見てきたためか、今では父もまた敬虔なクリスチャンとして毎日曜、教会へ通うようにさえなっていたのだけれど、心の内に潜む罪悪感が厚い盾のようになっているためか、わたしは自分が神の祝福とは遠いところに存在していると、そんなふうにしか感じることができなかった。


『倒れたら、起き上がらないのだろうか。

 背信者となったら、悔い改めないのだろうか。

 わたしは注意して聞いたが、

 彼らは正しくないことを語り、

「わたしはなんということをしたのか」と言って、

 自分の悪業を悔いる者は、ひとりもいない。

        (エレミヤ書、第八章四、六節)』


『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。

 その耳が遠くて、聞こえないのではない。

 あなたの咎が、

 あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、

 あなたがたの罪が御顔を隠させ、

 聞いてくださらないようにしたのだ。

       (イザヤ書、第五十九章一、二節)』


 わたしには「そのとおりです、主よ。アーメン」と罪の告白をすることはできても、それ以上の強い信仰を持つことはできなかった。いくら『あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたのことを心配してくださる』(詩篇、第五十五章三十二節)とか『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書の言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』(ヨハネの福音書、第七章三十七、八節)というような、神の前向きな人間に対する明るいメッセージを何度となく繰り返し読んでも――それらの素晴らしく正しい言葉は、そのあまりにも正しい素晴らしさのゆえに、かえってわたしの心を苦しめるのみであった。

 そしてそんな中で唯一、わたしの心を救ったのが、聖書の神の言葉ではない、人間の苦悩の言葉だった。わたしが今手にしている新改訳聖書は母のものではなく、幼い頃教会の牧師さんが使い古しになったのをくれたものだった。さらに、この聖書はすでに故人となった方が教会へ寄付したものらしく――あちらこちらに傍線や書きこみがたくさんしてあって、それらの人間の心の苦悩のあとこそがむしろ、わたしの今のあまりにも惨めな心を癒したといってもよかった。


『地上の人には苦役があるではないか。

 その日々は日雇人の日々のようではないか。

 日陰をあえぎ求める奴隷のように、

 わたしにはむなしい月々が割り当てられ、

 苦しみの夜が定められている。

       (ヨブ記、第七章一~三節)』


 そこには赤いボールペンで波線が引かれた上、その上の余白部分に、こう書きこみがしてあった。「悪魔はその上、わたしの肉体の自由をも奪う。わたしは会社人間として長く、真面目に生きてきたのに――ガンが今、わたしのこの惨めな肉体を蝕んだ」……わたしはその箇所を読んで、魂に深い動揺と震えを感じ、目尻には涙が浮かんだ。そして完全に太陽が没した遠い地平に向かい、風に乗せるようにそっと、窓辺でこう呟いた。果たして<彼>および<彼ら>が、わたしの言葉を今、すぐそばで聞いているかどうかはわからなかったけれど。

「あなたたちがどう思っているにせよ、やっぱり人間は素晴らしい生き物なんだわ。あなたの統べ治める世界は確かに、天国のように素晴らしい夢のような場所ではあったけれど――それでもこの地上だって同じくらい……いいえ、もしかしたらそれ以上に美しい世界なんだわ」

 わたしは日暮れ時の、夜の匂いがすぐそばまで忍びよった、静かな海辺のような天空を眺め、そこに一番星が輝いているのを見つけると、神聖な祈りにも似た誓いを胸に、静かにそっと窓を閉じた。




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