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雪女

作者: 砂握

 猛烈な雪嵐の夜だった。

 目に入るのは無数の白ばかりで一寸先も定かではない。

 当然右も左も解らぬ有様であったが、血の通った人間であればともかく、あやかしなるこの身には全く気にする必要のない事であった。

 どちらへ向かおうとも同じ事、風が金切り声を上げる白い世界の中を永遠に彷徨うだけだった。

 

 だが、その晩だけはいつもとは違った。

 何の当てもないまま熱くも冷たくもない雪の上を歩いていると、遠くに何か鈍いものが感じられた。さしたる興味も覚えなかったが、いつしか足は自然とそちらを目指していた。長いとも短いとも解らぬ時間歩いた末に見えてきたのは、勢いを増す雪に飲み干されつつある、見窄らしい一軒の小屋だった。どうやら鈍いものの正体はこの小屋の中にあるらしい。

 吸い寄せられるように小屋に近寄り、かたかたと喚く戸の隙間から内を覗き込む。

 すると二畳しかない小屋の中では蓑を着た二人の男が寝息を立てていた。片方は初老、もう片方は若者である。人にあらざるこの身には解らぬが、どうやら今宵は恐ろしく寒いらしく、どちらも丸まったまま時折小さく震えている。それについては不憫とも愉快とも思わなかったが、何故だろうか、冷気に侵され白くなりつつも、血の通った暖かなその肌を見た瞬間、烈しい感情が胸を満たした。そうしてようやくこれまで感じていた鈍いものの正体を理解する。これは痛み――憎悪だったのだ。

 木戸には心張り棒がかませてあったが、この身には何の妨げにもならなかった。

 念じれば戸は棒もろとも勢いよく開き、荒々しい風雪を中に招き入れた。先んじたそれらを追って小屋の内へと足を踏み入れる。そして戸口に近いところに寝ていた初老の男の枕元に膝をつくと、その顔にふうと息を吹きかけた。雪明かりの如くぼんやり輝くこの息は男の肌に触れると、たちまちそこから熱を奪い去った。

 一度では止めず何度も何度も吹きかける。

 その度に男の顔は色を失っていき、震えも弱くなっていった。強ばっていたその身体が伸びきったのを見て、男から完全に温もりが消えた事を悟る。この者もまた、この身と同じように永遠の仲間入りをしたのだ。薄く笑みを浮かべ、残りは一人と思いつつ振り返れば、驚いた事に若い方の男は目を見開いてこちらを見つめていた。

 叫ぼうとしたようだが、恐怖のあまり全く身動きが出来ないらしい。引きつった男の顔に笑みを深めながらゆるりゆるりとその枕元に近づき、同じように膝をつく。顔を近づけ、さあ息を吹きかけようとしたところで、しかし男の表情が変化している事に気づき、動きを止める。つい先ほどまで恐怖に満ちていたはずのその瞳は、今や雪のやんだ山の夜空のように澄み切っており、奥底で星のような小さな無数の光が音もなく瞬いていた。そこに雪よりも白いこの姿が映り込んでいる――。

 何故だか息が出来なくなった。

「……もし」

 無意識に口が開く。

「もしお前が今夜見た事を誰にも言わなければ、私はお前を傷つけない。しかしこの約束を破るような事があれば、お前の命を奪い去るぞ」

 冷気しか出てこないはずの唇の隙間から漏れ出でた言葉は、この凍えきった身体に痛みを与えるほどに熱かった。苦痛に思わず喘ぎそうになるのを必死で押し殺し、その赤く染まった耳元に囁きを吐く。

「良いか、忘れるでないぞ。良いか――」

 高まる熱に遂に居ても立ってもいられなくなり、踵を返すと雪を吐き出す戸口から外へと飛び出した。一度も振り返らず、小屋から遠く遠く離れていく。

 ――痛い、痛い、痛い……。

 慣れ親しんだ寒さが胸を内側から焼く熱を冷ますのを、まだかまだかと待ち侘びながら、一人白い永遠の中を走り続けた。

 


 やがて冬が終わった。

 雪と共にしか存在できぬこの身も、春の訪れと共に何処かへと消えた。

 草木の芽生えも鶯の囀りもこの身は知らない。蝉の鳴くのも蛍の光も、赤く色づく山の景色にも覚えがない。

 この身が知るは雪と風の悲鳴ばかり。

 一年が過ぎ再び冬が訪れた時、長く閉じていた瞼を開ければ、代わり映えしないそれらがいつものようにこの身を出迎えた。永遠に変わらない世界。ただの一度も疑問を感じた事がないものである。なぜならこの身も雪と同じ、冬の一部であるからだ。

 これまでと変わらない冬。しかしこの年ばかりはこれまでと趣が違った。

 気づけば視線が山の麓に向いている。そこには小さな人里しか存在しない事は解っていると言うのに、どうにも気になって仕方ない。そればかりか見るだけでは飽きたらず、やがて山から離れるという危険を冒してまで足を運ぶようにもなった。

 夕暮れ時、雪のまばらに降る道の中程に立ち、じっと何かを待っている。そうして雪が上がるか、夜明けが来るかすれば山に帰り、また夕暮れを待つ。何をしているのかこの身にも解らなかった。だが、いつかの晩、人の熱を奪わねばと感じた時のように、鈍いものが胸にあった。ただただこうせずにはいられなかったのだ。

 この奇妙な行動が半ば習慣化した頃の、ある日の夕暮れ。

 彼方の山々にかかる雪雲が薄くなり、赤い光が空に滲み始めたのを見て、そろそろ帰らねばならぬと思い始めた時の事である。歩き出そうとしたこの身を後ろから呼び止める声があった。もしやと思い振り返れば、果たして去年の冬に見た若い男がそこにいた。その顔を見た瞬間、胸の内の鈍いものが大きく蠢いた。

「急に呼び止めて申し訳ありません」

「……いえ。わたくしに一体何のご用でしょうか」

「わたしはそこの山で木こりをやっている者ですが、実は数日前からあなたがここで佇んでいるのを仕事帰りにずっと見ていたのです。事情は解りませんが、何かお力になれる事があればと思いまして」

「そうでしたか……」

「雪の中傘も差さずにいるのはお寒いでしょう。よろしければわたしの家で熱いお茶でも飲みませんか」

 考えるまでもない。男の申し出はこの身にとって毒でしかない。温かい家も熱い茶も、触れればただではすまないだろう。最悪、この身の全てが溶け消えてしまうかも知れないのだ。

 断る以外の道はなかった。だと言うのに、口から漏れ出たのは拒絶ではなく小さな疑問だった。

「……どうしてあなた様はそこまでわたくしに親切になさるのですか」

「え。ああ、いや」

 男はまるで予想していなかったのか、面食らった顔をすると視線を泳がせた。意味が解らず、人がやるように首を傾げて見ていると、しばしの沈黙の末に男は顔を上げた。

「あなたがあまりにも綺麗だったものですから」

「……綺麗。このわたくしが」

「はい、それはもう。語る言葉もないほどお美しい。こうしてあなたと話していると、わたしはもう自分が夢を見ているのかと思ってしまうほどでして――ああ、いえ」

 男は勢いよく話し始めたが、唐突に言葉を止めると再び顔を俯かせてしまった。

 やはり男の意図は良く解らなかった。綺麗とは果たしてどういう意味か。この身を見た者は恐ろしさに顔を引きつらせるか、目つきを鋭くして睨んできた。彼らの瞳に映ったこの身も、そういった反応に相応しい姿をしていた。美しいとはどういう事か……しかしそう言えばこの男、山小屋でこの身に殺されかけた時も不思議な顔をしていたが――。

 全く解らない。

 解らないが、寒さで赤い男の頬が殊更に赤く火照っていくのを見ているうちに何故だかどうでも良くなってしまい、気づけば小さく頷いていた。

 男の家はかつて見た山小屋とそう大差ない粗末なものだった。が、良く手入れをされているらしく、床も壁もほどよく丸みを帯びており、この男そのものを表しているようにも見えた。出された薄い茶は触れるのも恐ろしく、口をつける気も起きなかった。しかし男が傾ける湯飲みに白湯しか入っていない事に気づくと、自然と手を伸ばしていた。僅かに含んだ熱い茶は舌を強かに焼いた。だがそれでも男がほっと息を吐く様を見れば、痛みもいくらか和らいだ。

 数年前に母親がなくなってからは一人で住んでいると話す男の顔には、陰りがあった。

 一人が嫌なのかと問うてみると、楽ではあるが寂しいものだと男は答えた。すると今度は男の方が家族や将来の契りを交わした者はいないのかとこの身に尋ねてきた。どちらもないと言うと、男は不思議なほどに顔をほころばせた。それからはとりとめもない言葉をいくつか交わした。

 蝋燭の灯りが必要なほど暗くなった頃、帰る場所はあるのかと男が訊いてきた。ないと答えると、ならば泊まっていかないかと言われた。その必死な様子には疑問を抱いたが、断る理由もなかったので頷いた。この身はどこにいても同じである。なすべき事もなさねばならぬ事も何一つありはしないのだから。

 人ならざるこの身に眠る必要などないため、布団に横になった後も天井をずっと見つめていた。隣の布団で寝る男は何か目的があるのか、息を潜めたまましばらくの間起きていたようだった。が、やがて睡魔に負けたのか、明け方頃に穏やかな寝息が聞こえてきた。警戒によるものだったのかとその寝顔を見たが、心地よさそうに笑っていたので違うらしかった。やはり意味の解らぬ男である。

 翌朝、瞼を開くと同時にはっと飛び起きた男は、私の顔を見るなり大きく胸を撫で下ろした。どうかしたのかと尋ねると、またもや意味不明の言葉が返ってきた。

 ――あなたが夜の内に消えてしまいそうで怖かった……。

 それからというもの、男は来る日も来る日も夜になる度に泊まっていけと言ってきた。温かい家の中での暮らしは日毎この身を弱らせていったが、その申し出を断るという意志は生まれなかった。

 その冬の終わり、男はこの身に結婚を申し込んだ。

 頷いて返した。



 男と共に暮らすという事はすなわち、四季の全ての中で在り続けるという事だった。

 春は無情で夏は残酷だった。日向を行くなど以ての外、家の中でじっとしていても身体はじわじわと溶けていく。満足に歩く事も出来ず、ほとんどの時間は床の上に横になって過ごさなければならない。秋を過ぎ冬が訪れてようやく、身体が言う事をきくようになる。が、やはり雪が降らねば調子は出ず。家の外を歩き回れるのは一年を通じて二十日に満たなかった。

 男はそんな様をなにがしかの病によるものだと思ったらしく、暮らしに余裕がないにも関わらず、身体に良い薬や食い物があると聞けば金をかき集めてすっ飛んでいき、この身に買い与えた。無論、病ではない故それらが効くはずもない。相も変わらぬこの様を見て男は悄然と肩を落としたが、側にいてくれれば良いと言うといつでも嬉しそうに笑った。恐怖などこれまでただの一度も感じた事がなく、この身が消えるのも全く怖くなかったが、この男の側にいられなくなる事を初めて恐ろしいと思った。

 いつしか熱を感じていた。

 この冷え切った胸の奥の奥、かつて鈍いものを感じていたその場所に小さな灯が点っていた。それは明滅を繰り返しながら強く熱くなっていき、やがて胸には収まりきれぬほど大きくなった。しかしそれは夏の陽射しや囲炉裏の中で燃えさかる炎とは違い、この身を焦がしても壊しはしなかった。まるで身の内に春が訪れたようだった。凍えていた様々なものが緩やかに溶け出し、光に触れて音もなく芽吹いていった。肌は相変わらず冷たかったが、その下では男と同じように熱い血潮が脈打っているような気さえした。愛しく狂おしく、息も出来ぬほどに切なかった。

 初めて子をなした時、この灯は色を変えた。それまでの烈しく赤いばかりだったものから、穏やかで柔らかな滲み出るようなものへと移り変わった。男の無骨で大きな掌からは女としての己を、赤子の儚く小さな掌からは母としての己を学んだ。この身は誰かに必要とされる存在になったのだ。

 帰る場所が、居場所が出来たのだ。この身はもう彷徨う事はない。この身は今ここにあり、これからもここに在り続けるのだ――そう思った。



 ある冬、ある晩の事だった。

 その日は桶に張った水が凍るほど寒く、戸の外ではびょうびょうと雪嵐が吹いていた。つい先ほどまで騒いでいた子らも今は布団の中で丸まっており、囲炉裏が零す温かい明かりの中に安らかな寝顔を見せている。時折それらを見て頬を緩ませつつ着物の繕いをしていると、ちびちびと杯を傾けていた夫が何の気なしに小さく笑った。

「どうされました?」

「はは、いやな。ちょっとお前と出会う前の事を思い出してな。いつの冬だったか、本当に不思議な経験をしたんだ。今まで誰にも話した事はないんだが」

 針を動かしていた手が無意識に止まる。久しく忘れていたあの凍えた感覚が、胸の真ん中でぼんやりと広がり始めていた。

 身体の芯を冷やすものの正体には心当たりがあった。それは開けてはならぬ箱、開ければ今ある全てを失う事になる禁断の箱だった。

 夫はそれっきり話す気配を見せなかった。このまま放っておけばこの話は終わるのだろうと思った。そしておそらくそれは間違っていないはずだった。愚直なこの夫は過去の話になると自然に口を閉ざし、途端に相づちを打つ側に回る。このような話をするのは全く以て初めての事、きっと酒の勢いによるものだ。今年は仕事で吉事があり、これからは楽に年を越せるようになったというのも、その一つの原因であるだろう。夫はここ数年、こちらが心配になるほどに懸命に働いていた。その結果が出た事も相まって、思わず気が緩んだに過ぎないのだ。

 外から力が加わらぬ限り、おそらく蓋は開かない。それは解った。だがどういうわけか、ほっと一安心して良いこの状況で、何故だか妙な胸騒ぎを覚えていた。針をつまむ指が恐怖とは異なるもので小さく震えている。

 不意に何かがどこかで囁いた。

 

 ……もし。もしこの身が話せと言えば、この男は禁じられたその話を口にするのだろうか――と。

 

 興奮にも似た感覚だった。

 一番大切なものを秤にかける賭けのようなものだったのかも知れない。負ければ全てを失うが、勝てば揺るぎない確信を得る事が出来る。それはつまり、この愛おしい人が雪の化生と交わした命のかかった約束と、妻である女の頼みのどちらを取るかというもの。恐ろしい存在としてのこの身か、愛すべき存在としてのこの身か……この男にとって一体どちらがより重要なのだろうかと、そう思ってしまったのだ。この関心が紛れもない破滅を含んでいる事を知りつつも、適当に頷いて繕いに戻るという選択を取る事は出来なかった。震える唇を静かに開く。

「――それは一体どのように不思議な経験だったのですか」

「ん。ああ、そうだな……」

 夫は杯をぐいと傾けると再びそこに酒をつぎ、揺れる小さな水面をじっと見つめた。そのまま何も話さぬかと思いきや、熱いため息を一つついた後、おもむろに話し始めた。

「あれはちょうど今みたく雪嵐の烈しい夜だった。仕事仲間と共に山に入っていた俺は、目の前を覆う雪に帰り道が解らなくなり、途中で見つけた山小屋に避難したんだ」

 息が止まる。

 握っていた着物に深い皺が寄った。

「俺たちは寒さに震えながら眠りについた。が、夜更け過ぎ、俺は顔に降りかかる冷たい雪に目を覚まし、閉じていたはずの木戸が開いている事に気づいた。こんなに寒いのにどうして戸を閉めないんだと、隣に寝ていた仲間の方に顔を向けて、そして――一人の娘がそこにいるのに気づいた」

 針が指から床へと滑り落ち、小さな音を立てた。手足の感覚がなかった。昼も夜も変わる事なく胸の奥で燃えていたあの温かい灯が、消えそうなほどに弱々しくなっていた。身体の震えばかりが留まるところを知らず、段々と大きくなっていく。

「娘は人間ではなかった。きらきら光る冷たい息を吹きかけ、仲間の命を奪っていたんだ。そうして仲間が死んだ後、今度は俺の方を見た。俺は子どものように怯えたよ。前にも後にも、あれほどの恐怖は味わった事がない。娘が俺の枕元に膝をついた時、俺は自分はもう間もなく死ぬのだと思った」

 冷たかった。

 吐き出す息も胸の奥も、この身の全てが冷たくて仕方なかった。両腕で己を抱きしめても収まらない。ひたすらにがたがたと震えながら、はっと気づいた。

 これが寒さなのだ、と。

 これが寒いという事だったのだ――と。

「だが、娘の顔を間近で見た瞬間、俺は恐怖を忘れたよ。恐怖だけじゃない、寒さや後悔、仲間を殺された怒りなんかも全て忘れてしまったんだ。俺はその時、それほどまでに娘に見とれてしまったんだ。娘はそれほどまでに美しかったんだ。だから俺は思わず考えてしまったんだ。この女になら殺されても良いかもしれない、と。だがどういうわけか、娘はある約束を守るのを条件に、俺を見逃す事にした」

 ――寒い。寒い、寒い、寒い。

 あまりに寒すぎて後悔も出来ない。これまでに得た尊いものたちが、飲み込まれるように端から凍えていく。人と偽っていたこの身が妻でも母でもない、白い永遠を彷徨う化生へと立ち帰っていく。掌から砂が零れ落ちていくような感覚に、声にならない悲鳴を上げた。

「その約束はこの出来事を――今俺がしているこの話を誰にも話すなというものだった。だからそう、俺は今、その約束を破ってしまった……破ったんだよ」

 ここに居てはならなかった。

 この身はもう居場所も帰る場所も失ったのだ。約束を破った時の代償など、もはや言ってはいられない。一刻も早くこの場を離れ、あの雪が降り注ぐ山の奥深くへと戻らなければならない。さもなくば本当に全てを失う事になる。今目の前にあるような温かいものたちを見ていれば、きっと凍えたこの身は氷のように砕け散ってしまうだろうから。何食わぬ顔でこれまでのように妻や母を演じる事は出来ない。この身は――この心は、春に舞う雪よりもなお儚いのだから。

 何も言わず立ち上がり、戸を目指して走り出そうとした。

 が、しかし。

「待ってくれ。俺の話はまだ終わっていない。どうか最後まで聞いてくれ」

 男が伸ばした手がこの手を掴んで放さなかった。そこから伝わる温かい熱が、冷たいこの身に染み込んでくる感覚に、思わず涙が零れる。

「わたくしは」

「俺は、約束を破ったんだ。俺の意志でだ。その必要があると思ったからだ」

「……どういう意味ですか」

「薬も何もお前を助ける事は出来ない。お前はどうやったって、一年のほとんどを苦しんで過ごす事になる。当然の話だ、なぜならお前は冬に降る雪の一つだから」

「あなたは、まさか――」

「それでもお前は無理を押して頑張ってくれた。俺や、俺たちの子どもたちのために。だが、お前は年々弱っていく。儚くなっていく。きっとこのまま里で暮らし続ければいつか消えてしまうんだろう。俺はそう思った」

「……」

「子らも自分の足で立ち上がれるほどには大きくなった。稼ぎも何かあってもやっていけるほどには増やした。だから、大丈夫だ。お前は安心して山に行って良いんだ」

「……そうですか。わたくしはもう、必要とされなくなったのですね」

「違う」

 腕を引っ張られ、痛いほどに力強く抱きしめられる。見まい見まいとしていた男の顔がすぐそこにあった。

 いつかの冬の、いつかの夜のように。

 見上げたその瞳にはこの冬の姿がしっかりと映り込んでいた。

「俺がさっき、山小屋で見たお前の姿が恐ろしかったと言ったのを覚えているかい。これまでで一番恐ろしいものだったと、そう言ったのを覚えているかい」

「はい」

「確かに恐ろしかった。恐ろしかったよ。だがね、俺が今一番恐れているのはあの時のお前の姿じゃない。俺が今一番恐れているのは、この先お前が俺の側から消えてしまう事だ。お前なしではもう、俺は俺でいられないんだ。解るかい」

「はい……わたくしも、そうです。あなたなしではもう、わたくしはわたくしでいられないのです」

「俺はお前を愛している。お前に愛されたい。お前と愛し合いたいのだ」

「はい……はい……」

「春と夏と秋は我慢する。でも、冬になったら必ず、初めて雪が降った日には必ず、この家の戸を叩いてくれ。そして春になるまではずっと、ずっとここに居てくれ」

「はい、きっと、必ず――」

「お前の居場所はここなんだ。ここがお前の帰る場所なんだ。それだけは絶対に忘れないでくれ。良いね、絶対だぞ」

 はいと言ったが、嗚咽に紛れて聞こえたかどうか。

 だが、伝わったのだ。確かに伝わったのだ。

 声にならないこの想いは、胸から溢れるこの熱は、例え声を聞かずとも顔を見ずとも、肌に触れておらずとも伝わったのだ。

 伝わっているのだ。

 これからもずっと伝わるのだ。

 恐れる必要はない。どれだけ離れていてもこの身は一人にはならない。この灯火は消えたりはしない。この胸の中で永遠に熱を放ち続けるのだ。 

 だから恐れずに束の間の別れを告げよう。

 次の冬まで。

 

 初めての雪が降る、その日まで。

 

今年は後、何度雪が降るのでしょうか……。

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[一言]  子供の頃、母親から寝る前に聞かされたお話でした。  いつも疑問に思ってたのが、なぜ雪女は男の妻になり子を成したのか……きっと生活をしていくうちに男と子供が愛しくなってしまったのでしょうね。…
[良い点] 結末がとても、とても良いと思います。 [気になる点] 失礼ながら誤字報告を……。 男の申し出はこの身のとって毒でしかない。 男の申し出はこの身にとって毒でしかない。 ではないでし…
2013/07/07 22:26 退会済み
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