第7話◆非レンアイ主義者、衝動キス。
『家族風呂』
そう書かれた扉を見た瞬間、私は思わず吹き出してしまった。
「……おい」
続いて裕也の不機嫌そうな声。
「だ、だって……っ、アハハ!」
懐かしさと可笑しさが一緒に込み上げて、私は腹を抱えて――できるだけ小声で――笑った。
この家族風呂は、幼い頃を除けば初めて二人で入ったお風呂だ。ここで、裕也は調子に乗って湯船に浸かりながら日本酒を飲み、ぶっ倒れた。私は裕也の上半身を湯殿から引きずり出し、急いで浴衣を着て(この辺りが冷静で冷酷だと、その後拗ねた裕也の非難を浴びた)旅館の人に助けを求めたのだった。
浴室に飛び込んだ旅館の女将さんの目にはじめに映ったのは、多分彼のお尻だったと思う。お風呂の底に立て膝をつき、上半身だけが床にみっともなく伸びている状態の裕也のお尻は、モロに入り口を向いていたのだから。
必死に笑いをかみ殺し、涙を拭いながら大きく息をつく。
「あー笑った。――懐かしいわね。いい思い出だわ」
「消したい過去だよ!」
「消したいの?」
裕也はちょっと考えながら私に背を向けて、いいや、と静かに言った。ぶっきらぼうなのに優しい言い方は、昔と全然変わらない。
二人きりでいるところを見られるのは旨くないということで、私達は口数少なにそそくさと別れた。まるでやましいことでもしているかのような行動だが、致し方ない。旅館の中には酔いどれ社員がわんさかいるのだから。
「二人でどこ行ってたんですかー」
地を這うような、そのくせあっけらかんとした呑気な声が聞こえて、キングオブ神出鬼没、福士がどこからともなく現れる。
「一体どこから出てきたの?」
「宴会場からですよ。風呂上りを課長に捕まったんです。そしたら先輩がチーフと二人で外から戻ってくるのが見えたから」
「一人で散歩に行ったのよ。そしたら偶然チーフも来てたの。うわ、こう言うとすごく嘘臭いわね」
「嘘臭い!」
でもホントなの、と肩をすくめる。福士はその言葉には何も返さず、酔い醒ましにちょっと歩きましょうと言ってスタスタ廊下を歩き始めた。
「何よ、ザルのくせに!」
成り行き上私が彼を追いかける形になり、それがちょっと癇に障って思わず悪態をつく。底なしの福士が醒まさなきゃいけないほど酔っているはずがない。結局コイツはそれを口実に課長から逃げたいだけなのだ。
「……ったく、しょーのない奴。ラグーンのミルフィーユで付き合ってやるわよ!」
なんだかんだ言いつつ、私もこのまますぐに部屋に引っ込むのもなんだから結構乗り気なのだが。素直にそう言えない自分に内心苦笑する。
なんとなく訪れた沈黙を、どちらからともなくそのままにして並んで歩く。庭に出ると、無数の錦鯉が泳ぐ大きな池があり、それを見守るように真っ赤な椿と柳の大木が佇んでいる。柔らかいオレンジ色をした外灯の光に照らされて、その光景は美しい絵画のように浮かび上がっていた。
「綺麗ですね」
ぽつりとそう呟いた福士を見上げると、物憂げな瞳を彷徨わせながら池の方を見ている。
何を考えてるのと尋ねると、彼は池に目を向けたままクスリと笑って、さぁ何でしょう? ととぼけた。
優しく微笑む口元を打ち消すかのような、切ない視線。それを向ける先にいるのはきっと……
「ねぇ、この間の子、疾風の彼女?」
「……まぁ……そうです」
なんだかモヤモヤし始めた胸を晴らそうと話題を振ってみるが、チョイスに失敗したらしく、ざわめきは消えない。
「そう……すごく可愛い人ね」
福士は嘘臭い微笑みのまま一瞬こちらに目を向けただけで、私の言葉には答えなかった。
「どうして別れたの?」
「うーん……真剣だったのは俺だけだったから……かなぁ」
――そんなことは前にも聞いたのに。
福士にしては珍しく、歯切れの悪い返答。すべてが疾風の彼女への想いを裏打ちしているような気がして、短くふぅん、とだけ答える。なぜだか少し寒々しい気持ちがした。
「先輩こそ、チーフとここで何があったんですか?」
廊下での会話が聞こえていたらしい。
微妙に気まずい方向に話を振ってくる福士が、ちょっと小憎たらしかった。
「昔ね……ちょっと」
私も負けじと秘密をつくる。
柳の枝がさわさわとそよいで、福士の洗いざらしの髪がその冷たい風に乗って躍った。ふんわりとお風呂上りの匂いが流れてくる。
「不思議な関係だと思わない? 私達って」
「そうですね」
単なる友達とも、恋人とも、飲み仲間とも違う。浅からず、深からず。お互いに距離を測りながら過ごす時間は嫌いじゃないけれど。時々無性に息苦しくなることがある。
この距離は、きっとそう長くは続かないだろう。
「……彼女、あなたのことが好きよ。あなた以外のものが好きなんて、とんだ誤解だわ。あなたのすべてが好きっていう目だった。福士もそうでしょう」
「……え?」
この関係が壊れてしまう前に、潔く身を引くべきなのかもしれないと、彼女の潤んだ瞳と愛らしい八重歯を思い浮かべながら考える。しくしくと胸が痛んで、自分の言葉がどこか遠くに聞こえた。
私は自分で思うよりずっとこの関係を大切に思っていたんだと、今頃になって気付く。
「よかったじゃない。だけどよりが戻ったらこんなに馴れ馴れしくしていられないなぁ」
「――先輩」
「まぁ仕方がないわね。不思議な関係も結構気に入ってたんだけど」
咎めるような福士の声に、聞こえなかったふりをして言葉を繋ぐ。一息に言ってしまわないと、二度と口にできないような気がした。
「式には呼んでよね! ふふ、豆まきみたいに米投げつけてやるから」
「先輩!」
突然、福士の手が私の手首を掴んだ。そして、驚く程力強く強引に、だけどひどく優しく――私は太い大きな柳の幹に押し付けられていた。
「……本気で、言ってるんですか」
福士の顔を、吐息がかかるほど近くに感じて、思わず体が震えた。眼鏡を掛けているグレゴリースタイルなのに、まるで別人みたいに大きく、大人びて見える。
まるで手負いの獣の瞳だ。それは、深い闇を落として、それなのに息を飲むほど美しかった。
ばくん、ばくん心臓が暴れて――
両手を束縛されたみっともないポーズで木の幹に磔になったまま、私は信じられない思いで彼を見上げる。柳のゴツゴツとした幹が火照った背中を冷やした。
「俺は……」
言いかけて、口をつぐむ。福士は怒っているような、悲しんでいるような、へんてこな表情をしていた。
眉間に険しい縦皴を刻み込んで、傷を負った獣の瞳をして。眼鏡を介しているのに、その視線がやけに真摯に私を射抜き、彼から目を逸らすことを許さない。
「――ふ、福……」
次の瞬間、私は息をすることを忘れた。
彼の名を紡ごうとした唇は、突如として温かいものに遮られていた。かつてない驚きに思わず目を見開くと、輪郭がぼやけるほど近くに、福士の長い睫毛があった。
心臓が誤作動を起こしたみたいにせわしなく胸を叩く。
獲物を貪るように、それとも苦しみを吐き出すように、福士は私の声も、吐息も、正常な思考回路も……何もかも飲み込んでしまった。
頭の芯がジンと痺れて、抗うことさえままならない。
ただ本能に突き動かされているかのごとく、動物的で強引なキス。それは、どこか優しいけれど、甘い口付けと呼ぶにはあまりにも投げやりで……。
「……、福士っ!」
やめてというメッセージを込めて、唇と唇の隙間から喘ぎ喘ぎ呼びかける。
福士はハッとした様子で、瞬時にすべての束縛を解いた。
「――すいません」
福士は斜め下に視線を落とし、まだちょっと湿った髪で表情を隠した。暖かな外灯の明かりが、俯く彼の顔に影を差す。
その影は、彼が顔を上げても付いてくるのではないかと思われるほど、沈むように深く福士に宿っていた。
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