第39話◆非レンアイ主義者、グレゴリーのお宅訪問。2
「――そういえば」
突如として思い出して、私はそれまでの話題をちょん切った。
見せ付けるように残りのスコッチを飲み干して、物凄い勢いで――そろりとグラスをテーブルに置く。矛盾しているが、グラスがバカラなのだからしょうがない。
「電話で若い女の声が聞こえたわ。ハル、早くしてって。おかげで1万円もかけてお風呂に入ったのよ」
春樹はわずかに片眉を上げて、熱燗の入ったお猪口を置いた。立ち昇る湯気が間を漂う。
「若い女?」
彼は記憶を辿るように数度またたいて――直後、弾けるように笑った。
「――ああ、直美のことか。一万円のお風呂って、温泉の取り寄せでもしたのか?」
「温泉の取り寄せ? なにそれ」
「温泉のお湯を家のバスタブまで配達して貰うんだよ。知らないのか?」
「知らないわよ。世のセレブはそんなことしてるわけ?」
呆れた、と笑ってソファの背もたれにひっくり返る。良い感じにスコッチが回ってきて、私はフワフワとムカムカの中間を漂っていた。
「オヤジは時々やってたけど……セレブは関係ないだろ。別にそこまで高くな……」
「そうだった。――そうよ、関係ないのよ、温泉は!」
酔っ払えば話がしょっちゅうあちこちに寄り道するからいけない。私はテーブルに片肘を着いて、バカラに手酌で酒を注ぐ、という柄の悪い体勢で春樹を睨んだ。
「直美さんて誰?」
春樹はニヤリとエロ狡猾な笑い方をして、お猪口を口に運ぶ。
「誰だと思う?」
「萌え系メイド」
「本気?」
「嘘」
意味のないやり取りは前菜みたいなものだ。
私はふうっとため息をつき、俯く口実を探すように、手の中で揺れるスコッチに目を落とした。それはどこか挑戦的で、尖った光を湛えている。
「……すごくショックだった、って言ったらどうする?」
攻撃的に煌く酒とは対照的に、私の声は思いの外弱々しく掠れてしまった。まずったな、と思えどもう遅い。
言葉にしてみると、抑えていた心の震えがいちどきに湧き上がって、ああ、本当に私はすごくショックだったんだなと、少し不思議な気分になる。
俯いているから、春樹の表情はさっぱり見えない。だけど、とてもじゃないが顔を上げる気にはなれなかった。今の自分がどんな表情をしているのか、このジンに映してみなくても、容易に想像がつく。
不意に空気が動いて、ソファがお尻の下で右側に少し傾いだ。そして、隣に春樹が座ったのだと頭が理解するより早く、大きな手が素早く、だけど優しくグラスを取り去っていく。
抗議しようと顔を上げた時、私を待ち受けていたのは、そのまま衝突するようなキスだった。
「直美」さんのことも。多分春樹の思惑通りに自分が動いてしまったことも。
凄まじく不公平な気分である。だから、キスが終わっても、胸はムカムカと燻ったままで。
「ごめん……」
それでも今大人しくしているのは、血が出るくらい頬っぺたを抓ってやろうか、とか、髪を鷲掴みにして引っこ抜いてやろうか、とか。怒りを表明する手段を決めあぐねているせいなのだ。
「そんな顔するなよ……」
そっちの方こそ、と言いたくなるような情けない顔をしたって、免除してやるつもりなどない。
「私は怒ってるのよ」
「……うん」
そんな多少切ない声を出したって、腹立たしさは治まらないわけで。
「ムカついてるの」
「……うん」
春樹は私の言葉を噛み締めて、そのくせさっぱり聞いていないかのように、ゆっくりと胸に引き寄せた。
「直美は俺の従姉妹だよ。あの時は一緒に買い出しに行って、病院に戻るとこだったんだ。不安にさせてごめん」
大きな手が、髪の上を滑る。何度も、何度も、それは傷つきやすい花を愛でるみたいに優しくて。
「若い女の人っていうから、一体誰のことかと思った。直美は39で子供だって中学せ――」
「もういなくならないで」
口をついて出た言葉に、自分でも驚いて口をつぐむ。
春樹はいなくなったわけではなかった。
けれど、自分が本当の彼を知らないのだと知った時、待ちぼうけをした時、待ちぼうけを食らわせた時。私にのしかかったのは、ゾッとするような――あれは孤独だった。
春樹は静かに頷いて、再びちょっと切ない穏やかな声でごめんと詫びた。
昔から、二人でいるのは楽しかった。春樹とのやりとりは、酒の肴であり、暇つぶしの言葉遊びであり、いっとき厄介ごとから逃れるためのゲームだった。
それが、いつの間に、「いると楽しい」から「いないと淋しい」に変わったのだろう。
わからないけれど、春樹が私にとって、なくてはならない人になりつつある。それだけは確かだった。
「さやこそ。離れるなよ」
「……さあ。それは分からないわね。世にも素敵なジョージが現れるかもしれないし?」
気を取り直して、彼の胸をパンチで押しやって、ニヤリと笑う。このくらいの逆襲、許されて然るべきである。
「全く……猫みたいな奴だな」
春樹は笑って、さっき奪ったスコッチを私に握らせた。
私は、それでよろしい、と尊大に頷いて、波立つ酒を口に運んだ。
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