第38話◆非レンアイ主義者、グレゴリーのお宅訪問。1
門から玄関まで数百メートル。庭の真ん中には、あられもない姿の女性像が立つ噴水があって、その奥には左右対称・迷子必至のバロック様式建造物。
裏庭には当然のように屋外プールだ。
屋敷には住み込みのメイドさんが何人もいて、長い廊下のそこここに花が生けてある。
メイドだけではない。庭師やシェフや運転手だって、住み込みの専属だ。
……それが、私のイメージする「富豪の邸宅」だった。
可愛いメイドさんに、春樹が『坊ちゃん』だなんてうやうやしく呼ばれていたら、どうしよう。
そんなことを考えつつ。
連れてこられた家は、なんともシンプルな箱型だった。
お父さんが設計したのだというこの家は、外壁は打ちっぱなしのコンクリートで、建物も庭も相当大きいけれど……迷子にはならずに済みそうである。
「お、お邪魔します……」
抜き足差し足、といった調子で、床を踏みしめる。玄関ではなく、ガレージから直接家に上がるのは、何故か妙にやましい感じがした。
「誰もいないから緊張しなくていいよ」
「誰も? メイドは? それか、乳母とか」
「はぁ〜? そんなの居るわけないだろ。通いの家政婦なら頼んでるけど、2日に1回だよ。そんなしょっちゅう家に他人がいたら、落ち着かないだろ」
春樹は可笑しそうに笑って、私の手を引き歩き出す。
廊下は、広い割には殺風景で、白い壁に簡単なタペストリーが掛けられ、その向こうに観葉植物が一鉢置かれているだけだ。
高い天井の割には随分と小柄なこの植物は……確かモンステラだったか。
「……どうした?」
「ううん、なんかインペリアルホテルとは逆を行く感じね。シャンデリアも、ルイ16世様式っぽいものもない」
「そりゃそうだよ。家まであんなんだったらうんざりだって。さやは、俺を石油王か何かと勘違いしてるんじゃないのか?」
振り返った呆れ笑いに、あら残念、石油王ごっこ大好きなのに、と笑い返す。
春樹は訳が分からない、という風に肩をすくめて、私をリビングへと導いた。
「その辺に適当に座って。コーヒーでも淹れるよ」
私の横をすり抜けて、彼はそのままキッチンに立つ。普段とは逆のシチュエーションがなんだかこそばゆくて、だけど次の瞬間には、私はそんなこと忘れ去っていた。
「わぁ……」
目の前に広がる光景に、思わず目を細める。
私は、彼のお父さんを知らない。会ったことも、それどころか、写真で見たことすらない。けれど。
そこには桜の木が2本と松の木が1本、大小さまざまな岩で囲われた池の他は、すべて芝生が敷き詰められていた。
金魚でもいるのか、小さな池がわずかに波立って、陽光がキラキラと反射する。
丸裸で淋しげな桜の木も、今は節くれ立った雄々しい幹をくねらせる松を、絶妙なバランスで引き立てて。
それは、何処、と問われても答えることのできないくらい奥の方から訪れる、和みの波紋を私にもたらした。
無機質な打ちっぱなしのコンクリートの家の、広いけれど殺風景なリビングの向こう側には……全面パノラマの窓から見える、20畳ばかりの中庭と、それに降り注ぐ太陽の恵み。
この光景を創り上げた人は、きっと大きく深い、素晴らしい人だったんだろうと思えた。
「……お線香、あげさせてもらってもいい?」
彼のお父さんに思いを馳せて、春樹を見遣る。
彼は、ちょっと淋しげに微笑んで、こっちだよ、と私を促した。
初七日の法要は葬儀当日に済ませてしまったけれど、7日目にあたる今日、二人だけでお酒を飲もうということになった。初七日料理もない、春樹に言わせれば「アットホームな法要」だ。
リビングを出て、廊下を左に折れると、20畳そこそこの質素な和室に辿りつく。大きな障子、その向こうには、多分あの中庭があるのだろう。彼のお父さんは、それを臨むように居た。
白髪混じりの豊かな髪に、厳しさの中に深い優しさを湛えた、日本の頑固オヤジ、という感じの笑顔。
スポーツマンだったのだろう、肌は浅黒くて、口元と、眉毛のアーチは春樹そっくりだ。生命力溢れるその表情は、額にかかる黒いリボンを一層際立たせた。
この人はもうこの世にはいないのだと思うと、胸が締め付けられる。
「……どんなお父さんだった?」
遺影の前に膝を折って、浅黒い笑顔を見つめたまま彼に尋ねる。
「ただの頑固オヤジ」
「それはこの前聞いたわ」
春樹はそうだっけ、と軽く笑って、
「そうだな。カタブツで、方向音痴で、親バカだったかな」
「春樹の方向音痴はお父さん譲りだったのね」
「ハハ、そういうこと」
お金持ちといえば。
仕事にかまけて子供を顧みない親に、愛に飢えた子供、他人同士のような親子関係、というのが私の中で定番の設定だった。
だけどきっと、この家には血の通った親子の絆があったに違いない。
「……ごめんね」
焼香を終えて、膝に手を下ろすなり、私は改めて口を開いた。春樹は、何が?とさも不思議そうに首を捻って、私の隣に胡坐をかく。
「誕生日のこと。金持ちは自己中とか、価値が分かってないとか散々言って……」
「なんだ、そんなことか」
「私、上流階級の人は、自分とは違う生き物だと思ってたんだわ。馬鹿よね……同じ人間だって、多分忘れてた」
彼は隣で笑っているけれど。
世の中には、こんな僻みの延長線上にある偏見を持つ人間が、当たり前のような顔をして横行している。つい何日か前までの、私のような……人間が。
「社長だって議員だって、酷いことを言われれば傷つくし、悲しいことがあれば泣きたいのにね」
「さや……」
「そんな当たり前のことも分からなかったなんて。恥ずかしいわ」
どこからか中庭に小鳥が迷い込んで、桜の木の枝に止まった。緑の少ないこの都会にあって、ここはひょっとしたら小さなオアシスなのかもしれない。
この家が、おそらくは彼とお父さんの安息の場所であったように。私もいつか――
「おー、随分としおらしいな。熱でも……」
「ないわよ」
隣の無礼者の肩にパンチを食らわせて、すっくと立ち上がる。
「早くコーヒー飲ませてよ。セレブな豆でしょうね」
春樹の前をずんずんと歩き出したのは、無礼者に対する怒りを表明するためで――多分上気しているであろう頬を隠すためでもあった。
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