第34話◆非レンアイ主義者の悪あがき。2
「実際、ルラーシュの業績はどうなんだ?」
「今のところは右肩上がりです。物珍しさもあるでしょうから。これからが勝負ですね」
「そうか。接客と苦情処理は徹底して教育をした方がいい。今日のホテルマンは滑舌が悪かった」
「そうですか。研修には力を入れたらしいんですが……。担当の者に申し伝えましょう」
あの時。あと5・6歳若ければ……何も考えずに駆け出すことができたかもしれない。
理性と責任感が優って思い止まったこと。それは誇らしいような、その割に恥じ入りたいような気分だった。
裕也とスミス氏の会話をぼんやりと聞きながら、機械的に懐石料理を口に運ぶ。味なんか、ちっとも分からない。まるでゴムを食べているみたいだ。
時刻は12時40分を回っていた。今出れば、きっとまだ間に合う。
けれどこの会食はまだ終わりそうもなくて……導火線がジリジリと焼かれるように、私の胸も鋭く熱い痛みに侵されていく。
蟹や春菊、人参が鮮やかに彩る若草色の紙鍋から、まだうっすらと湯気が立っている。鰤の傍らに添えられていた紅いもみじが、何かの拍子にかさりと乾いた音を立てた。
そうか、もうすぐ秋なのかと、時計に支配されつつある思考の片隅で考える。
不意に、いつか春樹が連れて行ってくれた渓谷の風景が頭に浮かんで、私は左手でもみじをつまみ上げた。指先で、くるりくるりと弄ぶ。
紅葉の時期はどれほど綺麗だろうかと、憧れるように見入った景色。春樹は落ち込んだ時なんかはよくふらりと来る、とかなんとか言っていたっけ。
「其田? どうした?」
裕也の声にハッと我に返り、もみじに夢中になっていましたという顔をして、私はそっと葉を置いた。
「いえ、ちょっと、美味しいのにお腹がいっぱいで……。いかがでしたか? ミスター・スミス」
「大変美味しかったよ。日本料理はヘルシーで、目でも楽しめるのが嬉しい」
「そうですか。次にいらっしゃる時までに、もっとヘルシーでお気に召すようなお店を見つけておきますね」
そう笑いかけると、スミス氏は楽しげに大きく頷き、メタボリックが心配だからね、と冗談めかしてお腹を叩いた。
5分、10分と時は無情に過ぎ去り、とうとうお座敷の金貼りの時計がチリンと細やかな音色を鳴らした。1時を報せるその音に、誰からともなく身支度を始める。
会食は、ようやく終わったようだ。
そして……春樹との約束も、ついに果たされないまま終わってしまった。
立ち上がった拍子に、もみじがはらりと落ちて、畳の上を滑る。
叶うなら、見るものを癒すあの自然の中に、また二人で行きたかった。だけど……春樹がそう願わなければ、そこには何の意味もない。
二人でお酒を飲んだって、話をしたって、セックスしたって。
春樹がそう願わないなら。そんなの、私だって望まない。
別れたとしても……別にどうということはない。生きる死ぬの問題ではないのだから。ただもとの生活に戻るだけだ。
タクシーの助手席から流れ行く景色を眺めながら、完全に決まったわけでもないのに、私の心はすでに失恋のための準備を始めていた。
***
風が吹いたのだろう。街路樹が枝を優しくそよがせている。
その拍子に、小さな鳥が2・3羽飛び立った。果ての見えない無限の空に、小さな羽根を広げて……小鳥たちは澄んだ水色を弾んでいく。
その下で、街路樹が作り出す柔らかな日陰を選んで歩く人達は、誰もひどく神経質な足取りで先を急いている。それは、じゃれあうように飛んで行く小鳥の前には、ひどくアンバランスに目に映った。
信号が青になったのか、その光景を残して車は走り出す。飛び退って曖昧になる景色は、滑稽さをうまい具合にごまかしてくれて。私はそれと分からないように自嘲気味に笑うと、小さくため息をついた。
――どうってことない。
たとえば胸が張り裂けそうに痛んだって、なにも本当に胸が張り裂けるわけではない。春樹と恋人同士でなくなったって、人生が変わるわけでもない。
「ハハッ」というあの軽やかな笑い声が聞けなくても。
あの大きないたずらっ子みたいな……誘惑するような笑顔が見られなくても。
逞しいくせにしなやかな、あの頼もしい手が私に触れなくても。
春樹が……私の隣にいなくても。別に……
裕也とスミス氏の仕事談義の隙をつくように、ラジオが奏でるリクエスト曲が聞こえる。時折ノイズを挟みながら、そのくせ鮮明に、それは歌った。
世界は終わった、と。
「あなた」の愛を失った時に、世界は終わったはずなのに、どうしてまだ太陽は輝き、波は打ち寄せるのかと。
60年代のその歌は、だれか知らない女性がカバーして、よりしっとりと歌い上げられている。
その切ないメロディと悲しい歌詞が、今の私が聴くにはあまりにも淋しすぎて。
このままこうして人生が続いていくなんて信じられないと、彼女は歌う。
所々混じるラジオのばらつきが、この歌を一層深く胸に食い込ませた。
下唇を噛み締めて、意識を移す先を探す。心の柔らかい部分をダイレクトに揺さぶるその歌から逃れるように。
「其田? どうしたんだよ」
裕也の日本語が聞こえて、振り返らずにハイと言う。
しぼんでしまいそうな意地をありったけ突っ込んで笑顔になると、私は何でもありませんと彼を振り返った。
「……大丈夫か?」
歌は未だに、世界が終わっても、何故心臓は動いて、瞳は涙を流すのか……理解できないと訴えている。
けれど……違う。世界は消えてなくなったりしない。空は変わらず青く、時間は万物に対して平等に流れていく。
「大丈夫ですよ。たいしたことじゃないんです」
「……大丈夫か?」
「ただちょっと……考え事をしていて」
春樹が私の人生から去ったって。命は私から去らない。
裕也を失っても、ここまで生きて来られたように。
込み上げる熱いものを喉の奥に封じ込めて、仕事に意識を集中させる。
裕也はそうかと言ったきり、またスミス氏とロビンソン氏と話し始めた。
彼は多分、私の嘘に気付いていると思う。それでも敢えて触れないでいてくれる思いやりが、今は何より温かかった。
***
「清愛」
「何?」
「もう無理するな」
スミス氏とロビンソン氏をインペリアルホテルに送り届けた帰りのタクシーの中で、裕也は穏やかに低い声で囁いた。
「大丈夫。本当よ」
「相変わらずの強がりだな。いいから。あんまり意地張るなよ」
「大丈夫だったら! やめて。優しくしないでよ」
優しくされた方が、よっぽど大丈夫じゃない。由美ちゃんと約束したのだ。もう、裕也に頼ることはできない。
「放っておいて。平気だから……じきに、そうなるから」
ラジオから聞こえるのは、今はもう、男性アナウンサーと女性ゲストの掛け合いだった。楽しげな笑い声。声に色があるならば、二人のそれはオレンジ色だと思う。
「……そうか」
裕也はまた、そう言ったきり何も言ってこない。ホッとする気持ちと淋しさが心臓を掠めるように流れて行く。私は小さく微笑んで窓に額を寄せた。
エアコンの涼風が顔に当たって、頬に落ちた髪を揺らす。
元気なオレンジの声が、時刻は1時半を回ったところですと告げた。
「――午後、時間休取ってもいい?」
待ち合わせは12時だ。今更行っても、春樹はもう居ないだろう。もう1時半なのだ、居るわけがない。
「1時間でいいの」
それでも、春樹がもう居ないことをこの目で確かめるまでは、どうしても諦めがつかなかった。
「すぐに戻るから……」
窓に額を預けたまま、独り言みたいに呟く。
「休みなら有り余ってるんだから遠慮なく使えばいい。福士のとこだろ? とっとと行って来い」
どこまでも優しい口調で、裕也はやんわりと私の背中を押す。昔はぶっきらぼうに表に出すのが関の山だった彼の思いやり。いつの間にこんなに大人になったのかと、なんだか一瞬口元が緩んだ。
「すいません、二つ目の角で降ろしてください」
ドライバーに声をかけると、私は自然と微笑んで、後部座席を振り返った。
「ありがと」
「お互い様だろ」
目が合って……私達は、戦友とか、共犯者とか。そんな絆で結ばれたことを感じた。
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