第33話◆非レンアイ主義者の悪あがき。1
「ミスター・スミス、ランチはどうなさいますか?」
ルラーシュを一通り見て回った後、私はスミス氏とお付きのロビンソン氏を振り返った。
「そうだな。せっかくの日本だからねぇ……」
「お寿司はいかがでしょうか? 社の近くに美味しいお店があります」
ブランシュの2軒隣は、高級寿司屋だと頭の中で計算しながら答える。
「寿司より天ぷらが食べたい気分だな」
「天ぷら……ですか」
あの界隈で、お連れしても失礼に当たらないような店はなかっただろうか。
12時まであと20分。
こんな状況になっても、私はお昼にブランシュに行くことを諦めきれずに、何とかならないものかと手立てを探している。愚かだと思いながら、それでも食い下がりたかった。
「天ぷらなら、銀座にいい店がありますよ」
何も知らない裕也が、無情な提案をする。銀座なんかに行ったら、到底間に合わない。
「チーフ、それだとホテルとは逆方向になりますよ」
何とか食い下がって、私は「華の衣はいかがでしょうか」と、隣駅の日本料亭の名前を出した。
そこからだと、インペリアルホテルへは15分ほどで行けるし、タクシーに乗れば5分でブランシュへ着くはずだ。もしかしたら、ほんの少しだけでも会えるかもしれない。
「ああ、それがいいな。――ミスター・スミス、会社の一駅手前に『華の衣』という日本料亭があります。そこでいかがでしょうか」
裕也は頷いて、スミス氏に許可を求めた。
「そうだな。是非ともご案内願おう」
「わかりました。お車を準備致しますので、少しお待ちを」
早足でタクシーの手配に向かう裕也の後姿を、安堵と共に見送る。
コツコツというその足音が、もどかしいほどにのんびりと、ホテルゾーンのロビーに響いていた。
位置も値段も大層お高い、イタリア製のシャンデリアを見上げた。それは、なだらかな曲線を描いて、光をより明るく、美しく輝かせている。春樹と一緒に粘りに粘った、思い入れのある一品だ。
仕事に私情を持ち込むなんて、プロにあるまじき行為だとは思うけれど。それでも、そんなことを考えている余裕などなかった。
携帯電話の充電は切れて、社外ではデスクの電話を取ることも叶わない。
『昼休み、ブランシュで』という口約束だけが、時の流れから取り残されて、ぽっかりと宙に浮いている。
辞表を出した彼の、『今日でなければならない話』。その正体が、仮に別れ話でなかったとしても。
もしこの約束が果たされなかったら……その先にはどんな結果が待ち受けているのか。すべてが闇に包まれて見えない。
いずれにせよ、脳裏に楽観的な結末を描くことはできなかった。
12時まであと15分。私は押し潰されそうな思いで、零れ落ちんばかりに煌めくシャンデリアの光の粒を見つめた。
「ミズ・ソノダ。今夜は空いてるかい?」
ロビンソン氏が電話を掛けに外した途端、スミス氏が、大きな体を揺らしておもむろにこちらを向く。
「え?」
「二人で酒でも飲まないか? なんなら部屋を取ってもいい」
その言葉を、私は瞬時に解読することができなかった。にじり寄ってくる巨体を前に、たっぷり3秒かけて意味を理解した時、私の頭に浮かんだのは――
「いやだわ、からかわないで下さい。私、お付き合いしている方がいるんです。ミスター・スミスほど素敵な方じゃないですけど」
ちょっといたずらっぽく笑っていなす。
『ミスター・スミスは大変おモテになるそうじゃないですか。本当のところ、今夜のお相手はもうお決まりなんでしょう』というゴマすりも添えて。
スミス氏は、一瞬言葉に迷った様子をみせたが、それでもはにかんで「まあな」と頭を掻いた。
正面玄関にタクシーが停まるのを認めて、スミス氏を車へと導く。足の下で、パンプスが磨きぬかれた大理石の床を小気味よく鳴らした。
「ミスター・スミスは女癖が良くないそうです」
そう教えてくれたのは、春樹だった。
今思えば、本当に私を案じてかけてくれた言葉だったのだろう。彼は本当に、くだらないおしゃべりの中に、それとなく助け舟を滑り込ませるのが上手で。こんなことでもない限り、彼のさりげない思いやりに気付けない自分がもどかしい。
熱いものが胸にせまって、思わず一瞬足を止める。
「其田? どうした、乗っていいぞ」
後部座席の窓から、裕也がひょいと顔を覗かせて、車に乗るよう促す。
――このままブランシュに向かってしまおうか。
できっこないくせに、考えずにはいられない。
どうしても、春樹を失いたくなくて――どうしようもなく、彼に会いたかった。
「忘れ物か?」
――できっこない。けれど。
怪訝そうな裕也の声が、胸を刺す感情をより猛らせる。
12時まであと10分。春樹はもう……ブランシュで、私を待っているかもしれない。
風が吹き抜けて、前髪がはらりと頬に落ちた。
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