第32話◆非レンアイ主義者とグレゴリーの約束。
春樹と初めて顔を合わせた時、何て純粋そうな少年だろうと思った。
曇りのない笑顔に、スタイリッシュな眼鏡は、彼を「イケメン生徒会長」みたいなイメージに見せていたし――彼はずば抜けて仕事ができるというわけではないけれど、何でもソツなく、スマートにこなしていたから。
「先輩。先輩はどうしてこの会社を志望したんですか?」
いつだったか、春樹にそう聞かれたことがある。確か、彼が入社して1年くらい経った頃だったか……とにかく、彼がよく絡んでくるようになってからだ。
私は、面接官みたいなこと聞くのね、と笑いながら、
「特にないわ。就職難だったからね。定年まで勤められる会社ならどこだってよかった。これが正直なところ。福士君は?」
「へえ。なんか意外ですね。先輩は確固たる信念を持ってる感じがしたんだけど。俺は……俺もまあ似たようなもんです」
私の本音に、春樹はハハッと軽く笑って、また仕事に取り掛かった。
だから、春樹も「定年まで働ける会社ならどこでもいい」と入社して――当然定年までこの会社に骨を埋めるつもりでいるものだと信じていた。
信じていた、というよりも、疑うまでもないくらいの確かさだったのだ。
それなのに……春樹は、この会社からいなくなる。
それは、ひどく非現実的な、絵空事みたいな感じがして。まったく実感が湧かないのに、そのくせ胸は軋むように痛む。
――どうして。
「其田!」
背後から裕也の声がして、私はハッと我に返った。
「ハイ。おはようございます、チーフ」
無理矢理に笑顔を形作って振り返ると、裕也は言いかけていた言葉を一旦引っ込めて、ひとつため息をついた。
「――其田も聞いてなかったのか。……大丈夫か?」
「何のことでしょう? 何も問題はありません」
彼が何のことを指してそう言ったのか、すぐに分かったけれど、わざととぼけて見せる。始業15分前のフロアはもうだいぶ賑やかで、気を抜くことはできないのだ。
いつもは鬱陶しいくらいうるさいコピー機の起動音も、あちらこちらで上がる春樹の辞表提出を驚く声を隠すことはできないようで。私は懸命に意識を裕也の次の言葉に集中させる。
目の前の裕也は額に手を当てて、もう一度ため息をついた。
「無理するな、って言いたいところだけど。今日は無理してもらわなきゃな」
「……どういうことでしょうか」
「昨日電話したんだぞ。留守電聞かなかったのか?」
「――すいません」
そういえば、裕也からの着信が3件あったことを思い出す。留守電なんて聞いていない。メールすら開けてないくらいだ。
「いや。実はな、もうすぐミスター・スミスが社に来るんだ」
「えっ!? 急ですね」
あらかじめ連絡がなかったということは、プライベートで来日して、そのついでの寄り道なのかもしれない。
苦笑を彼に返して、お一人ですか、と尋ねる。
奥様も一緒だったりするのだろうか。だとしたら、案内コースの組み立て方が変わってくるわけで。
「秘書もいるだろうな。ほら、インペリアルホテルの社長が亡くなったろ。ヨークの社長が懇意にしてたみたいで、代理でわざわざ葬式のために来日したらしい」
「え! 知りませんでした。確かまだ60そこそこでしたよね?」
「55だよ。お前なぁ……ニュースくらい見とけよ。金曜に脳卒中で倒れて、土曜の夜遅くに亡くなったそうだ。一時は持ち直したらしいけど……寿命だったんだろう」
インペリアルホテルの社長といえば、叩き上げの婿養子ということもあって、相当なヤリ手だと聞いたことがある。
偉大な人にも、ホームレスにも、分け隔てなく降り注ぐよう太陽のように……時間と死は万人に対して平等なのだ。たとえどんなに仕事ができても、地位や権力を持っていても。
多少なりとしんみりしながら、そうですか、と呟く。
裕也は空気を変えようとでもするように、ふうっと息を吐き出し、不謹慎でない程度の笑顔を見せた。
「ま、葬式は2時からだから、それまでの時間潰しみたいなもんだ。硬くならなくて良い」
「2時……」
途端に、周囲の音が遠のいた。
社員の話し声が、意味を成さない雑音として耳を掠めていって――自分の呼吸音だけが、やけに大きく頭に響く。
私の異変に気付いたのか、裕也は眉を顰めて、どうした? と窺うような声を出した。
もどかしさと脱力感が、胸に暗く渦を巻いて私を攻め立てて、何も言葉にならない。
大体、葬儀なんて午前中か、遅くても昼過ぎには始まるものではないのか。心の中で毒づかずにはいられない。
2時からの葬儀まで、スミス氏をもてなす。
それは……昼休み、私はブランシュには行けないことを示していた。
***
裕也を適当にかわして、本日二度目の障害者用トイレに飛び込む。
けれど、携帯電話から流れてくるのは、春樹の声ではなくて、ただ春樹の携帯電話に繋がっていることを示すだけの電子音。
――どうして出ないの?
約束はすっぽかす。女と一緒にいる時に電話をよこす。散々不在着信を残しておいて、こちらからの電話には出ない。
一体、どうしてこんなことになってしまったのか。またもや不穏な翳が心に忍び込んでくる。
理由は分からないけれど、『今日こそ』と、彼は言っていた。
最早決定的に思える別れも、会って話をすれば回避できるのではないかと、ほとんど祈るような思いで望みを繋いでいたけれど。
そのただ一度のチャンスが、失われようとしているのだ。
昨夜放置していたせいで、充電はもう残りわずかになっていた。それでも縋りつくかのように、コールを鳴らし続ける。
何コールも、何コールも鳴らして待っても、彼は出ない。
神経質な清潔さを保つ障害者用トイレに、換気扇の低音と、無情な電子音だけが虚しく響いていた。
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