第31話◆非レンアイ主義者、驚愕。
「お、お父さん!」
やっとこさ出た声は、途中で裏返ってしまった。
「久しぶりだなぁ、清愛! おー、相変わらすの美人だ」
「私に似たのよ。私に負けず劣らずのいい女でしょ」
「いや、絶対清美より美じ……イテッ!」
「天誅」
どうやら、母の「カレシ」は、長年不仲で、7年前ようやく24年の夫婦生活にピリオドを打った、正にその相手である父……らしい。
やはり記憶の中よりも随分と老け込んではいるが、父の面影はそのままだ。
唖然としている私を他所に、父と母は夫婦――いや、カップル漫才を繰り広げている。
私は、人生において初めて(そして多分最後)、夢か現かを確かめるために頬を抓った。
「再婚はしないし、一緒に暮らしたりもしないわよ。ねぇ、あなた」
「ああ。父さんたちは、生活を共にするには似過ぎてるんだよ。今の距離が丁度いいんだ」
「そうそう、その方が、新鮮さも思いやりも保てるしね。この人と一番上手くいく間合いが、今のこの関係なのよ」
なんだかよく分からないが、とにかくそういうこと、みたいだ。
またこのメンバーで食卓を囲んでいることが、未だに信じられない。
確かに、父には電話で一言母の病気を伝えはしたけれど。
まさか、実際に病院に足を運んで母を見舞い、その上ちゃっかり「彼氏」になっているなんて……1ミリだって想像もしなかった。
離婚と同時期に友人と共同で立ち上げた会社は、何とか軌道に乗ったそうで、父はサラリーマン時代から見れば随分とリッチになったそうだ。
そして、私から母の病気を知らせる電話を受け取って、医療費の面だけでも力になろうと母を訪ねた。
そして、焼けぼっくいに火が点いた、と。簡単に言えばそういうことらしい。
新婚当時を差し引いても、20年いがみ合っていた元夫婦が、7年の時を経てまたこんな形で結ばれるなんて。
人と人とは、本当に分からないものだ。
今、ここに春樹がいたらどんなによかっただろう。南の島で、私の手を力強く握った時の彼が、この輪の中にいてくれたら、と……。思わずにはいられなかった。
***
夜は、やがて朝になる。
それは至極当然の話で、朝になれば仕事に行かなくちゃならないということ。これだって、至って当たり前のことだ。
いくら私が神戸からの帰りにわざと不案内な駅で降りて、見知らぬ土地の見知らぬショットバーで3時まで一人酒していようが。
その帰り道に散々迷った挙句、5000円もかけてタクシーで家まで辿り着こうが。
その結果1時間半しか寝ていなかろうが。
そんなことは関係なく、夜は明けて、仕事という義務は容赦なく目の前に立ちはだかる。
そんなわけで、私は気分体調共にすこぶる悪いまま、社のエレベーターに乗った。
家に帰って、置き去りにした携帯電話を開くと、夥しい数の「不在着信」と「未読メール」が残されていた。
その数たるや、着信11件、メール5件。
今更何を聞かされても、すべてを悪い方向に受け止めてしまいそうだから、というのはたった今こじつけた理由で――
正直なところ、自分から別れを匂わせるようなメールを送ったくせに、そこに決定的な終わりの影を見るのが怖かった。
早い話が、私は敢えて何も開かず、そのまま電源を切ったのである。
一体、どんな顔をして彼に会えばいいのだろう。
エレベーターを降りれば出会うであろう春樹の姿を脳裏に浮かべて、身を硬くする。
けれど――ここからは仕事だ。どの道、会社ではいつも通りに接するよりほかない。
果たしてうまいこと自然に対応できるかどうか、自信はないけれど、仕事だけはしっかりやらなければ。私はそれで給料を貰っているのだから。
背筋を伸ばし、顎を引いて、唇を引き結ぶ。
それは自分を仕事モードに転換させるためでもあり、春樹に会っても取り乱したりしないための準備でもあった。
エレベーターの扉が、まるでもったいぶるかのように、ゆっくりと左右に開く。
「さやちゃん!」
こちらに気付いて、深刻な表情で駆け寄って来たのは、春樹ではなく同僚のケイちゃんだった。
始業40分前、いつもより20分ほど遅く来たのだから当然といえば当然なのだが。
とりあえず拍子抜けだ。
「どうしたの? 慌てちゃって」
「大変なの! もう課内みんな大騒ぎよ」
ケイちゃんは、信じられない、といった調子でちょっとオーバーに首を横に振った。
一体、何があったというのか。心臓が不穏な感覚を体中に送り出す。
ルラーシュでトラブルでもあったのだろうか。
「何があったの?」
あの11件の不在着信の中に、もしかしたら会社からの呼び出しがあったかもしれないのに。
自分の浅はかさに唇を噛む。
と、ケイちゃんはひとつ息をつくと、顔をしかめたまま、信じ難い言葉を口にした。
その言葉の意味を理解するまでに、たっぷり数秒はかかった気がするけれど……正直よくわからない。
何かを言おうと口を開くが、それは喉に詰まったまま、音にならずに消えていく。
そんなはずはない。そんな話、聞いていない。
冷たいものが全身を駆け巡る。
とにかく私は、時間という概念も、息をすることさえも忘れ、呆然と立ち尽くしていた。
「……冗談でしょ」
やがてようやく出た声は、自分のものじゃないみたいに遠くに聞こえた。
「それが本当なのよ! 課長には昨日の日中に電話があったんだって。今朝早く正式に提出して、今週一週間の休暇申請して行ったらしいわ」
ケイちゃんが組んでいた腕をほどき、頬に右手添えてため息をつく。
淋しくなるわね、と眉を寄せて……だけど、非日常的な事件を喜ぶように口角を少し上げて。
それでも、今の私にそれを不快に思う余裕などなかった。
――「福士君、辞表出したんだって!」
その声が、頭の中一杯に繰り返し響き渡って。
それを噛み締めるようにゆっくりと瞼を下ろして、また開く。
けれどそこに見えるのは、今までと何ら変わりのない景色で。
これが現実なのだと認めないわけにはいかなかった。
「正式な退社は1ヵ月後らしいけど……随分急よね」
春樹が水瀬を辞めるなんて……一体何故。どうして。
「大事な話」の一端が垣間見えて、ますます混乱する。
単なる別れ話ではなかったのか? 一体全体何が起こっているのか? 全体像の大きさに、ぐらりと視界が歪む気がした。
眉をしかめるケイちゃんに、そう、とか、残念だわとか何とか……無意識に適当な言葉を返して、私は逃げるようにその場を離れた。
震える手でバッグから携帯電話を取り出して、電源を入れる。
不在着信を見ると、春樹が7件、美香子が1件、裕也が3件。
未読メールを見ようとメール画面を開いて――途端に携帯電話が震えて着信を伝える。
ディスプレイを見ると、案の定、春樹だ。
私は障害者用のトイレに駆け込み、電話を取った。
「……もしもし」
「――よかった、繋がって。昨日は悪かった」
少し焦ったような早口が電話口から聞こえてくる。
さすがに、立て続けに約束をすっぽかしたことは悪いと思っているらしい。
けれど、それでも、普段の彼からは想像も付かないほど、温かさのない張り詰めた声だ。
「昼休み、ブランシュまで出て来られるか?」
――水瀬をやめるの? やめたかったなら、どうして……何も言ってくれなかったの?
言いたいのに言葉が出ないのは、その答えをもう察しているから。
春樹が私をパートナーと思っていたとしたら、こんな土壇場になってから言い出すような内容の話じゃないはずだ。
とどのつまりが……彼にとって、私にはもう相談するほどの価値も、あらかじめ話すだけの信頼もなかった。
彼の人生を決める時、気に留める必要がないくらい、私はどうでもいい存在であるに違いなかった。
「話が、あるから」
どこをどう考えても……どんなに好意的に捉えようとしても。
その背景に見えるのは、「別れ」の二文字だけで。
悲しさと淋しさがどうしようもなく込み上げて、胸が詰まる。
「今日こそ必ず行く。――さや、何とか言ってくれ!」
苛立ちを隠しきれないように、わずかに尖った春樹の声が電話の向こうから流れてきて。
やっとのことで「わかった」とだけ答えて電話を切る。
これまで、ほんの少しでも語気を荒げたりすることのなかった彼のその声は、体の隅々に、ゾッとするような震えをもたらした。
換気扇の音だけが妙に耳につくその空間で、私は為す術もなく、固く自分を抱いていた。
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