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脱・非レンアイ主義のススメ
作:南田朱夏



第3話◆非レンアイ主義者、なんだか揺れる。


 
 
 ――前に進むという事は、なんて難しいのか。
 
 裕也にどんなことを言われても平然としていられる自分でありたいと、常日頃思ってはいる。過去は思い出でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
 
 彼に大嫌いだと告げた日、私はようやく前を向けた。けれど、そこからきちんと前進しているかといえば……その距離は、ほんのわずかでしかないように思う。
 
 次の日も、その次の日も、私の目は彼を追い、心のど真ん中にも彼がでかい顔をして居座っていた。1ヶ月2ヶ月と時間が流れるうち、いつの間にか『苦しさ』は遠のいて行き、今では何の突っかかりもなく共に仕事ができるけれど――それは、単なる慣れだったのかもしれない。

「――だけど、由美はお前じゃない」
 
 どうしたいのか、私にもよくわからない。だけど、そのたった一言で心揺れている自分が、確かにいた。いくら時間が経っても、取巻く状況が変わっても、過去は消せないのだ。そこに存在した想いも、二人で過ごした時間も。
 
 ――私は未だに裕也を男として愛しているんだろうか? それとも、思い出に躍らされているだけ……?
 
 失われたものの思い出は、やけに美しく、眩しく見える。禁断の果実みたいに、人の心を捕えて離さない。その思いがひとかけらでも胸にあるうちは、なおさら。
 
 自分の心を図りかねて、落ち着かない感じを和らげようと腕を組む。
 
 
「先輩? どうかしたんですか?」
 
 突然ぼやけた視界に後輩の顔がドアップで現れて、私はヒッと小さな悲鳴を上げて飛び上がった。
 
「――別に?」
 
 福士がくつくつと静かに笑う。いくら飄々としてみたところで、ビクッと飛び上がってしまった後では、効果は望めないらしい。
 
「さぁ、寒いから早く行きましょう」
 
 たった今までボーッとしてたくせに! との、もっともな突っ込みに知らん顔を決め込んで先を急ぐ。
 
 中川興業での打ち合わせの帰り道、1月の冷気に首をすぼめながら並んで歩く。冷たい空気が、何故だかうんと澄んでいるように感じられた。今日の打ち合わせは思いのほかスムーズに進んだので、社に向かう足取りは軽い。……さっきまではボーッとしていたけれど。
 
 
 
「……ハルキ?」
 
 背後から、少し掠れた風鈴の音のような声がした。
 聞きなれない響きに思わず振り返ると、淡い黄色の服を着た女性がこちらを向いて立ち尽くしている。彼女は優しそうな目を一杯に開いて、私の隣の男を一心に見つめていた。
 見知らぬ女性の視線を辿るように福士を見上げると、
 
「――ナツキ……!」
 
 彼は純粋な驚きだけではない、私には見せたことのない表情を彼女に注いでいた。
 
 厚ぼったく横たわる冬の雲が、透明な水色をゆったりと滑っていく。
 
 辺りの雑踏から急に放り出されたような顔をした二人の間を、焦がすように行き来するのは、真冬の太陽か、それとも胸に秘めた思いなのか――私にはわからない。
 けれどそこには、一昨年裕也と再会した時の私も、今の彼みたいな表情をしていたのだろうかと思わされるような……そんな何かが宿っていた。
 
「久しぶりね、ハルキ。元気だった?」
 
 風鈴の音色が張り詰めた空気を震わせる。その声はひどく切なくて、本当に問いたいことを丸ごと置き去りにしているような話し方だったが、今度は掠れてはいなかった。
 
 ――ハルキ、っていうんだ……。
 
 今の今まで福士の名前を知らなかった事に少々驚く。そういえば、彼の名前を知る機会なんて山ほどあったにも関わらず、私はろくに注意を払ってこなかったのだ。
 
「……ナツキは?」
「相変わらずよ」
「そうか」
 
 ブランクを窺わせる、ちょっとギクシャクした短いやり取りが交わされる。ナツキと呼ばれた女性は、ふっと淋しげに笑った。恐らく、かつて二人は深い仲だったのだろう。
 
 ――この人が『疾風の彼女』なのかな。
 
 疾風のように去って行ったという福士の元彼女を、私は勝手にそう呼んでいる。福士は『俺は彼女の八重歯が好きだったけど、彼女は俺ではないモノが好きだった』と、なぞなぞみたいな事を言っていた。つまり、彼女の存在は知っていても、私は二人の事など何もわからないのだ。
 
 彼女は、私の知らない福士を知っている。
 行き交う人々の脳天気な話し声がひどく耳につく。何だか心がざわざわと粟立った。
 
「福士、私はその辺の喫茶店にでも入ってるわね。ゆっくりしていらっしゃいよ。久しぶりなんでしょう?」
 
 私はにっこりと微笑んで、彼女に帰社は急がないのでお気になさらず、と伝えると踵を返した。
 
「先ぱ――」
「後でね〜」
 
 後ろ手に手を振り、歩き出す。背中に二人分の視線を感じながら……だから、肩で風を切って、パンプスを打ち鳴らして、私は歩いた。
 
 
 
****
 
 
 
 
『福士春樹』
 
 これが福士のフルネームだった。こうして文字で見てみると、覚えがある気がした。そりゃそうだろう。毎日のように目にしている復命書にも、起案にも書いてあったのだから。
 
 はっきり言って普通の名前だ。珍しくも何ともない、よくある苗字に、よくある名前。なのに、その名前で目が止まってしまう。夜のオフィスを蛍光灯が、そこだけをやけに明るく照らすのだ。
 
 小さい頃は、先生は生まれたときから先生で、朝から晩まで先生。むしろ『先生』という名の生き物みたいに感じていた。もちろん先生のプライベートなんて想像もつかない。それとよく似た感覚だろうか。
 
 私にとって福士は福士で、それ以外の何者でもなかったのだ。グレゴリーと呼ぶ事もあるけど、これは単なるあだ名で。
 福士本人だけを示す名前を改めて知って、私は目が覚める思いだった。
 
 ――私は、福士の事を何も知らない。
 
 友達としてすら危ういほど、私は福士を知らないのだ。知っているのは、この間聞いた誕生日と、ひとりっ子だという事くらいか。
 
 
 目を零れんばかりに見開いて、福士を春樹と呼んだ小柄な彼女を思い出す。確か福士は彼女を『ナツキ』と呼んでいた。ハルキにナツキ。駄洒落みたいな組み合わせだ。
 クスッと小さく笑ってみても、胸にはモヤモヤと燻るものがあって、ちっとも面白くない。
 私は福士の名前が刻まれた復命書に判子を押し付けると、無造作に裕也のデスクに放り投げた。
 
 
「おいおい、そりゃないだろう」
 
 背後から非難の声が上がり、振り向くと裕也が突っ立っていた。
 
 
 
 
 
 
 
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◆入道雲◆





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