第29話◆非レンアイ主義者の不安。2
「清愛! アンタ何やってんの!」
チャイムも鳴らさずに上がり込み、勝手知ったる他人の家とばかりに、勝手にゴリゴリとコーヒー豆を挽いている奴が言った。
「見てわかんない?」
「ついに頭が狂って花をむしってるように見えるけど?」
「半分正解よ。前半は撤回して」
ニッコリ笑ってそう言うと、私はまた、赤い薔薇の花びらをむしってレジャーシートに落っことした。
「で? 何するのよ?」
「アラブの石油王ごっこ」
アロマキャンドルを見せびらかすみたいに揺らす。美香子はハァーと気の抜けた声を出して、ソファにひっくり返った。
***
私達が、都心から離れた郊外のアパートを選んだのには理由がある。それは譲れない二つの条件に、このアパートだけがピタリと嵌まったからだ。
ひとつは、眺めがいいこと。ちょっとした高台になっていて、公園の緑や花が見えるのだ。
そしてふたつ目は、バスタブが広いことだった。
「ねえ。これ、薔薇何本分?」
「わかんない。とりあえず1万円分」
アパートにしては大きなバスタブも、二人で浸かるとかなり手狭である。
呆れていることを隠す様子もなく、美香子は濡れた花びらを一枚つまんで、ぺらぺらと揺らした。
私はこちらを見つめる親友と目を合わすことなく、湯船を覆い尽くす薄っぺらな赤を、お湯と一緒に掬い上げては散らす。
薔薇の芳醇な香りが温かい湿気と一緒に鼻腔を優しくくすぐった。
「馬鹿ねー。……で? 何があったのよ」
ちらりと目だけで美香子を見ると、彼女は花びらには目もくれずに、探るような視線を私に向けていた。
私がこういうことをするのは、決まって何かしらあった時。美香子はそれを知っている。
「……何もないわよ」
こうして一度は出し渋るのも。もうお決まりである。
「グレゴリーのこと?」
ズバリ直球の質問が飛んでくる。私は薔薇を指先で弄びながら、小さく笑った。
「昨日、約束をすっぽかされたの。そしたら、酒も食事も抜きで大事な話がしたいから今夜来るんだって」
「はぁ?」
「で、電話口で女の声がした」
チャンチャン、と言って乾いた笑いを漏らす。
美香子は信じられない、とでも言うように二度首を横に振った後――フンと鼻を鳴らして、
「グレゴリーもただのオスか」
「ソノディズム、大復活劇」
「うわ、それサイアク」
「ちょっと、なにそれ」
顔にお湯を掛けてやる。潤んだ花びらが美香子の仏頂面を飾った。
***
ソファに腰かけて、抱き枕のジョージを締め上げる。
幸福の木と呼ばれるドラセナが、開いた窓から忍び込んだ夜風にさわさわとそよいだ。
――いつか美香子が言っていたけど、ホント、こんなの置くものじゃないな。幸福の木なんて見たくない気分の時もあるのに。
春樹が何かを隠していることには気付いていた。
けれど、彼に女がいる、その可能性を、私は真剣に危惧してはいなかった。
でも、考えてみれば、それに疑念を抱かなかった私が馬鹿だったのだろう。きっと、平和ボケしていたのだ。
だって、デートの最中でも、彼はある特定の着信音の時だけ、決まって電話に出た。それも、私から離れて、ドアの外に出て。
彼が「用事」という曖昧な理由でそそくさと帰るにつけ、家に行ってみたいという私をサラリとかわすにつけ膨れ上がった不安。
それを女と結びつけなかったのは、なぜだか、そんな火遊び程度の軽い隠し事ではないように感じていたから。
私の方こそが、彼の「火遊び」の相手であるかもしれないのに……そんなことは少しも疑いもせずに。
私は愚かにも……彼の気持ちが嘘ではないと信じていたのだ。
「ハル、早くして」
若い女性の声が、私をもせかすように頭に響く。
時計を見ると、9時5分前。もうすぐ、彼が「大事な話」をしに来る。
酒も食事もいらないと春樹は言った。いくらなんでも、こんな事態で、今日告げられる話を楽観視できるほど、私は能天気ではない。
――別れ話だろうか。
春樹と別れる。それは、今の自分には到底想像もつかない毎日だった。
交際を始める前の、元来の私の生活。当時は充分満足していたはずのそれに立ち戻るには、彼との時間はあまりに温かすぎて。
別れてしまえば、もう軽口を叩き合うこともない。「友達」というポジションにすらいられなくなってしまう。
よしんば表面上、元の友達関係に戻れたとしても。
私はもう、彼を友達として見ることなどできないだろう。
振り返ってみれば、出会ってから、春樹はいつだって私を助けてくれた。
裕也と揉めた時も、あの事故の時も、パーティーの時も。私が辛い時は何故だか決まって傍にいて……
付き合うよりずっと前から、当たり前のような顔して、さりげなく守ってくれていた気がする。
死ぬわけでもないのに、これまでのことが走馬灯のように思い出されて。
失うかもしれないという段になって初めて、こういうことを改めて考えてしまうなんて、私は本当に掛け値なしのバカ。大馬鹿だ。
喉が詰まるような感覚と共に、悲しみとか、淋しさとか。とにかく負の感情が溢れ出てせき止められない。
別れたくないと……心の底から思った。
幸福の木の向こうに見える住宅街の明かりが、ほんの少しぼやける。
私は死刑執行を待つ囚人のような気持ちで、ジョージをぎゅうぎゅう締め付けていた。
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