第28話◆非レンアイ主義者の不安。1
春樹は、私に何か隠している。
そう思うようになったのは、何も最近のことではない。
「福士」
呼ぶと、彼はハイとPCの上から顔を覗かせた。
眼鏡の奥で、人懐っこそうな瞳がそれと分からない程さりげなく微笑む。
「出張命令そっち行ってる? ちょっと確認したいことがあるの」
「ああ、来てますよ。どうぞ」
春樹はいかにも能天気そうな声と共に、こちらに決裁板を差し出した。私も瞳だけにほんの少しの笑みを浮かべて、身を乗り出してそれを受け取る。ありがと、と言うと、彼はグレゴリーの笑みを浮かべてチョイと肩をすくめた。
9月も半ばに差し掛かっても、クーラーの効いたオフィスの外は、セミだって目を回すようなカンカン照りだ。
目下順調に交際中の私たちは、会社では相変わらず先輩後輩を通していて、付き合っている事実を知るのは裕也と栞だけである。
「先輩、明日の納涼会、二次会に行きますか?」
思い出したように、春樹は仕事をする手を止めて顔を上げた。
「いかないわよ。福士は行くの?」
「俺も行きませんよ。行きつけのバーに行こうと思って。先輩は?」
「私はパフェが食べられるお店に行くつもりよ」
「そうですか。せっかくの金曜日ですもんね」
ええ、と言って仕事に再び取り掛かる。
今の会話で、納涼会の後、リッシュで落ち合う約束が成立したことになる。
オツキアイ歴半年程度でこんな暗号めいた会話ができるようになったのも、ひとえに双方の回りくどい気質のおかげだろう。人生、何が幸いするかわからない。
向かいのデスクで黙々と仕事をこなす春樹を、コッソリと覗き見る。真面目だけどヤンチャな穢れなき少年、といった感じだ。誰もこれが演技だとは思わないだろう。
『完璧を装わなきゃならないような環境で育っただけですよ』
半年前の彼の言葉が、ここ数ヶ月頻繁に頭に浮かぶ。
――春樹は、私の前でも完璧を演じているのではないか。『私が望む春樹』を……私が知っている彼は、『本当の福士春樹』ではないんじゃないか。
そんな不安が胸の中で黒く広がり、時々その闇に飲み込まれそうになる。
誕生日、一瞬だけ見せた表情。即座に笑顔に切り替えられた彼のそれには、直前の痛むような表情の欠片さえ見られず、いつものように隙のないものだった。
私の言葉の何が彼を刺したのか、未だに分からないけれど。
日差しが強ければ強いほど、影の闇が深いように。春樹のあまりに自然な笑顔は、私の心に色濃い不安を落とした。
その不安は、ことあるごとに膨れ上がって。自分でも制御できないその感情は澱のように溜まって、私のささやかな器は徐々に許容量をに迫りつつあった。
「先輩? どうかしました? そんな死んだ魚みたいな目ぇして睨まれると怖いです」
「後輩がサボらないように、抜き打ちで見張ってただけよ」
ごまかすと、春樹はグレゴリーの笑顔で、それじゃキビキビやろうと真面目くさって呟いて、また仕事に向かった。
彼の長い睫毛から目を逸らして、元ホットコーヒーを一気飲みする。
そして私は、どこまでもついて回る影を振り切るように、英文書の山の中に頭を突っ込んだのだった。
***
「マスター、ゴッドマザー一丁」
「飲むねぇ」
「これが飲まずにいられるかってーのよ、ねぇ!」
ゴトンとグラスをテーブルに叩き置いて、べらんめえ口調でマスターに絡む。
「まあまあ。福士君にも色々あるのさ」
「そうよねー、忙しいんだわ、きっと。遊びで。イロイロってよりエロエロだったりして!」
「清愛ちゃんのオヤジギャグ、初めて聞いたなぁ」
「コラ! ちょっとくらい笑ってよ!」
ほがらかに微笑むマスターにふざけてキレてみても、沈む心は抑えられない。
マスターは、サービスだよ、と言って、パフェを振舞ってくれた。春樹も私も気に入っている、リッシュのパフェ。だけど……好物のパフェも、一人で食べると驚くほど味気ない。
淵に刺さるバナナに、どれだけふんだんに生クリームとチョコシロップを盛り込んでも。
サービスで、何より美味しいはずのリッシュのパフェは、何故だか塩辛いような気がする。
確かに、納涼会の後は、このリッシュで落ち合う約束をしていた。
それなのに……待てど暮らせど春樹は現れなくて。2時間後にようやく来たのは、春樹本人ではなくて『今日行けない ごめん』という無機質な短いメールだけ。
二次会に引っ張られてしまったのか、なにかアクシデントがあったのか。それとも気が変わったのか。
こんな素っ気無いメールからは、ここに来たかったのかそうでなかったのか、それすらも読み取ることはできない。
携帯を開き、春樹のメールを指でなぞる。ひどく無機質な冷たさが指を伝った。
春樹が、分からない。
あの不安の影がまた頭を擡げる。
――どうして……。どうして。
そんな思いばかりが胸に押し寄せ、その中心で渦巻いていた。
***
暗闇の中に音楽が鳴り響いて、私は目を開けた。もう午前3時だ。
春樹からの着信を報せる音楽に、腹が立つながらも嬉しさを感じる。
そんな自分がちょっと悔しくて、勿体ぶるようにゆっくりと、私は通話ボタンを押した。
「もしもし」
「さや? 今日はごめんな」
「……別に気にしてないわ。だけどね、隠し事なら悟られないようにやってって言ったはずよ」
余裕をかまして、しょうもない強がり。こういう時、私の方が年下だったら、ちょっとは素直に気持ちを言えるんじゃないかと思う。
「――今日の夜、空いてるか?」
「空いてるけど……」
「家に行くよ。多分9時頃になると思う。酒も料理もいらないから、体だけ空けておいてくれ」
なんだか深刻そうな口ぶりで、春樹は言った。嫌な予感がモヤモヤと胸に広がり、言葉に詰まる。
「……大事な話があるんだ」
キンと鳴るような張り詰めた雰囲気に、私はいつの間にか手を握り締めていた。
静けさが、部屋の闇を深くする。それは鋭利な刃物のような静寂で……身じろぎひとつできない。もはや救いようもないかと思える沈黙が、刺すように全身を取り囲んだ。
突然鳴り始めたボイラーの唸り声に、思わずビクッと縮み上がる。心臓が、喉元で暴れ出した。
酒も料理もいらない、ただ「大事な話」とやらをするためだけに、彼は家に来るという。
「――わかった」
やっとの思いで、搾り出すようにたったの一言を返すと、春樹はわずかに安堵した様子で、小さく息をついた。
「行くとき電話するよ」
「ええ」
それじゃ明日な。ひどく無表情な声でそう言って、春樹は電話を切った。
私は呆然として、ツーツーという虚しい音を垂れ流す携帯電話から耳を離せずにいた。けれどその電子音は、脳まで届くことなく遠く紛れて消えていく。
私の頭の中では、通話が切れる直前に響いた声がリフレインされていた。
何かの間違いだと自分を納得させる術を懸命に探して――けれど、無意識のうちに、そんなものがどこにもないことは分かっている。
打ち消そうとしても、繰り返し頭の中で反響する声。
それは、「ハル、早くして」という若い女性の声と……「今行く」と答える途中で途切れたらしい、春樹の声だった。
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