第23話◆非レンアイ主義者と愛すべき馬鹿。
「この船、朝神戸に停まるんです」
「神戸に?」
「俺ちょっと行きたいところがあるから、夕方に落ち合いましょう。それまでは自由行動ってことで」
バスローブも羽織らず布団に包まったまま、福士はにっこり笑って、常識では考えられないことを言った。誕生日当日、見知らぬ土地で朝から夕方まで主役を放置とは。
唖然として言葉を失う。
福士は、自分の都合だけでそんなことをする男ではないはずだ。ならば、その理由はひとつしかない。
コイツは、すべてを知っていた。知っていて、とびきりの誕生日プレゼントを用意してくれたのだ。
私が言いたくなければ知らん顔できるように、私が言いたければそのきっかけを与えられるように……私の気持ちを、思いやって。
――それにひきかえ……。
私の意地やプライドは、なんて不恰好でくだらないのだろう。
ついさっきまで自分の体面を守ることばかり考えていた自分が恥ずかしくなって、私は思い切って口を開いていた。
「ちょっと、誕生日に放っておく気!? 行きたいところがあるのよ。付き合って!」
「清愛! あんた、仕事は? とうとうクビになったの?」
部屋に入った瞬間、能天気なキンキン声が耳を劈く。
「違うわよ! その前に何か言うことはないわけ?」
「あー、はいはい。誕生日おめでとう。26年前の今頃はまだのた打ち回ってたわねぇ。あんたってば生まれる前から方向音痴で、回旋異常になって……」
「いいわよ、そんな生々しい話は」
母は大口を開けて、病人とは思えない豪快さで笑った。目をギラギラさせながら彼を見やり――
「で、誰なの、その子。いい男ねぇ!」
「これ、ウチの母」
福士ははじめまして、と言ってフルネームを名乗り、丁寧にお辞儀をした。私は彼の隣に立って、彼を手で示す。
「は、春樹は会社の後輩。で……大事な人」
福士――訂正、春樹が驚いたようにこちらを見る。
一大決心をして呼んだ名前と、「大事な人」というフレーズは、効果てきめんみたいだ。
瞬く間に部屋の体感温度が上がって、毛穴全開。
福……春樹は口角を上げるか、ぽかんと開けるか迷っているような締まりのない口で、切れ長の目を真ん丸にさせて一時停止だ。
先に態勢を立て直したのは春樹で、彼はまたにっこり笑って、よろしくお願いしますと母に頭を下げた。
「あらぁ〜、ついに新しい恋に踏み出したわけね。よかったわね、行き遅れになる前に見つかって!」
母は手を叩いて喜んで、その後もマシンガンも逃げ出すような勢いでしゃべり続けた。
社会情勢からパスポートの写真写りまで、とにかく何でもアリだ。
彼女は本当に嬉しそうにはしゃいでいて――私と裕也のかつての恋に胸を痛めていたのは自分だけではなかったのだと、初めて知った。
親の思いが身に沁みて、改めて失いたくないと思う。恩返しのひとつもしないまま逝かせるわけにはいかない。必ず助けてみせる。
私は誰にともなくそう誓って、話し続ける母の手を握った。
「……裕也から聞いたの?」
「そうです、パーティーの一週間後くらいかな。いきなり呼び出されて、『母親が癌だって知らされて動揺してる所をなだめただけだから、噂を信じるなよ』って」
「やっぱり。……アイツ」
母が癌になったことも、神戸の病院に入院していることも、裕也と美香子にしか言っていないのだから、犯人はすぐわかるのだ。
「……ありがと」
病院を出て並んで歩きながら、心からお礼を言う。それはとびきりのサプライズを用意してくれたおせっかい男に向けたものでもあり、おしゃべりなおせっかい男に向けたものでもあった。
空を仰ぐと、綿菓子みたいな雲が、西日を受けてオレンジ色に輝いていた。夜を目指して流れる空のグラデーションを、ゆっくりと観賞する。
「清愛さん」
耳慣れた声が、聞き慣れない呼び方をして私を振り向かせる。
ぼんやりとしたまま、何、と返事を返すと、春樹は微笑んで首を振った。
「……呼んでみただけです」
「変なの。……ねぇ、疾風の彼女はどうしたの」
ずっと知りたかったこと。この間聞いた時は、ちゃんと答えてくれなかった。
「ナツキ? 別にどうもしませんよ」
「どうして」
「昔のことは悪かったと思うけど……彼女に抱いていた気持ちは思い出の中にしかないから」
あの日の切ない瞳の正体もまた、過ぎ去った記憶へのものだったのだろうか。彼は少し目を伏せて、心なしか淋しそうに微笑んだ。
そう、とだけ返して、また空を味わう。どんどん暗くなるグラデーションが、なんだかやけに温かく幸せな色に感じられた。
「清愛さん、さっきの、アンコール」
「何を?」
「さっきお母さんに言った台詞です。もう一回」
エレガントなのにどこか狡い笑みを浮かべて、こちらを覗き込む。私はわざとらしくそっぽを向いた。
「……いいけど、条件があるわ」
「条件? 何ですか」
「一度しか言わないからよく聞いてね」
春樹はちょっぴり苦笑いをして頷いた。私は彼から顔を背けたまま、息を吸い込んだ。
「条件は三つよ。ひとつ、会社以外で敬語は使わないで。さん付けもやめて。お前は他人だと言われてる気分になるわ」
努めて淡々と言うよう心がけてみるが、声が拗ねているような卑屈さを孕むのは隠せない。
「ふたつ、隠し事なら私に悟られないように巧くやって。勘付けば暴きたくなるから」
私は歩みを速めて、彼の一歩前を歩いた。どんな顔をしているのか知りたいけれど、こちらの顔を見られたくなくて。
「みっつ。何も言わずに、いなくならないで」
後ろから、穏やかな足音が聞こえてくる。遅れることもなく追い付くこともなく、春樹はせかせか進む私の一歩後ろを、ゆったりとした足取りで大股に歩いている。
「清愛」
振り向くと、彼は柔らかい笑顔だった。
「了解。その条件、飲んだ」
「そう。よかった。じゃ、行きましょ」
満面の笑みを浮かべて勢いよく言うと、先を急ぐ。別に時間がないわけではない。所謂照れ隠しだ。
春樹が手を離さないもんだから、私がコイツを連れ回しているように見えるのが甚だ気に食わないのだが。
「話が違うぞ、清愛! ほら、俺もう守ってる」
「あらぁ、偉いっ! その調子よ」
彼はやれやれとため息をついて、録音しとくんだったな、なんてぼやいている。
「馬鹿ね」
おどけている口調が、今日に限って何だか面白くて、私はクスクスと笑った。
これは、ソノディズムを大幅に改正しなければならない。
男は変態か馬鹿か、そうでなければ大抵既婚者だけれど……世の中には愛すべき馬鹿もいるのだと。
愛すべき馬鹿との恋愛は、果たして人生に何をもたらすのか。
それは今後の検証にかかっている、というわけだ。
「春樹」
彼は一瞬だけ目を見開いて、すぐに朗らかに微笑む。
「誕生日なのに、ケーキも食べさせてくれないの?」
できる限りあっさりと微笑みかけて踵を返し、青になった横断歩道をなおもせかせか渡る。
後ろから、何ホールでも食べさせてやるよと弾むような声が届いた。
正面のショーウィンドウに、心を隠しきれていない顔が映りこんでいる。その両脇で、アクアマリンのピアスが楽しげに揺れていた。
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