第20話◆非レンアイ主義者、うっかり告白ちゃっかりキス。
「マスター、XYZ一丁」
「おいおい、飲みすぎじゃないかい?」
「いいの! 明日は風邪引いて休むから」
マスターは苦笑いして、だけど、たまにはそんな日があってもいいよなと目を細めた。
この店のカウンター席は、ちょっと華奢なハイチェアだ。流れるようなデザインと鮮やかな紅色がお気に入りで、福士と来る時も私は決まってこのカウンター席に座った。
右隣の空席を見るともなしに見ながら、ホワイトレディーの残りを煽る。オレンジがかった柔らかい照明の下で、カクテルグラスが薄暗がりに映えた。
気合を入れまくって遊びに出たはいいが、女がひとりで楽しめる店なんて限られていて。私は結局、いつものバー・リッシュのカウンターで酒を飲んでいる。おあつらえ向きに客は私一人きりだ。
「しかし見違えたなぁ。最初どこの女優さんが入ってきたかと思った」
「まあー、お上手!」
「あ、本気にしてないな?」
「もちろん本気にしてますよ。マスターがお釣りを万単位に言う時だって」
アハハと声を立てて笑うと、マスターはこりゃ一本取られたな、なんて年寄り臭いことを言って頭を掻いた。
白髪交じりの豊かな髪を、後ろで一本に束ねているこのオジサンの笑顔は、何ともいえない安らかさを湛えている。それがこの店の一番の売り物なのだと、心から思う。
カランコロンという音と、せわしない足音が背後から聞こえて、マスターはいらっしゃいと微笑んだ。
貸し切りもこれでおしまいか。しけたため息をついて、XYZをちびりと口に含む。
「マスター、マティーニ一丁」
その声に、マスターははいよと頷いて酒棚に向かい、私は思わず振り返った。
「ああ、やっと息ができるよ」
彼はジャケットを脱ぎながら、眉間に皺を刻み、俯き加減でふぅっと大きく疲労を吐き出した。
まるで、働く男の、大人のため息。それが普段の彼とは対照的で。見慣れた人はまるで、見知らぬ生き物のようだった。
「長かったなぁ。親父さんか?」
「いや、専務理事さ。何だってあんなにしつこいんだ? 参っ……」
うざったそうにネクタイを緩める彼と目が合った途端――彼はみるみるうちに目を真ん丸に見開き、驚きを露わにした。
「あんぐり」と形容するしかないような表情でしばし固まる。多分私も似たような顔をしているだろう。
「まさかとは思うけど……先輩?」
「……何よ、まさかって。あなたこそ何なの、その格好は?」
ジェレゴリーなコイツは、普段のリクルートとはうってかわって、なんだか妙にスタイリッシュなスーツ姿だ。そういえば去年も、高級ホストみたいな出で立ちで私の部屋に現れたことがあった。
知れば知るほど謎だらけの福士を、訝しむように斜めに見上げると、彼は鼻と口を丸ごと手で覆ってそっぽを向いた。
「……それはこっちの台詞だと思いますけど」
若干くぐもった彼の主張に、改めて自分の格好を思い出す。
コイツのお気に入りのネタだった『ワカメちゃんのスカート』に、そこここがちょっとチラリズムなゴージャス系のニット。チョココロネばりに巻いた髪に、バッチリメイクで眼鏡もなし。香水だって女らしい。
『ある日突然自分が女だったことに気付いて、ついでに色気づいちゃった』といった風に見えるに違いない。
直視に堪えないとばかりに明後日のほうを向く彼に、いたたまれないような気持ちになって、味わいもせずにXYZを流し込む。
福士は私の右隣に浅く腰掛けると、綺麗ですねとぼそり、呟いた。
綺麗ですね。その言葉に弾かれて、心臓は暴走を始め、頬が熱をもつ。覚られまいと顔を背けると、福士は私が機嫌を悪くしたと思ったようだ。
「だからもう良からぬことはしませんってば! 今のは単なる感想。他意はないです」
「分かってる。福士には疾風の彼女がいるもんね」
小柄で、八重歯があって、どこまでもまっすぐな瞳をした女性。焼け付くような痛みが胸に走る。
なんだかひどく自虐的な気分になって、私は酔いに任せて言葉を繋いだ。
「私とは違って、すごく素直そう。あんな彼女がいたら、そんな気起きないか」
「ナツキは関係ないですよ。俺は悔い改めただけですですから」
福士は半分真剣、半分冗談のように笑った。
頬杖をつく右手の人差し指がリズムを刻むように揺れる。情感豊かな音楽を奏でる長い指、男らしいごつい節。まるで彫刻のような、逞しく美しい手だ。
すぐに触れられるくらいに近くにあって、それでも決して届くことのない大きな手……。
見つめるうち、不意に胸が疼いて――
「してもいいよ」
「はっ?」
「ヨカラヌコト。してもいいよ」
福士は、飲みすぎですよと笑った。
口角を綺麗に上げて、キリッとした眉を少しハの字に寄せて、子供の悪戯に手を焼いているような笑顔。それはとても温かくて……
なんだか、目の前の光景が現実味を失っていく感じがした。夢を見ている感覚によく似ている。
起きた時には覚えていない、朧げな夢。
「じゃあ遠慮なくと言いたいところですけど、前科があると洒落にならないのでやめときま……」
「――好き」
さっきよりももっと、うんと驚いた顔で、彼が鋭くこちらを振り向く。
眼鏡を介さない切れ長の二重の目が、惑うように一度、二度と瞬いた。
「――せんぱ……」
「福士が好き」
息をすることも、まばたきをすることも忘れてしまったらしい。福士は固まったまま、何か言いかけては詰まっている。沈黙が続いた。
「……先輩、今……」
「げ」
「げ?」
沈黙を破ったのは福士で、その声は私の夢をも破った。
突然、ぽろりととんでもないことを言ってしまった気がする。恥ずかしさと後悔が押し寄せて、頬が燃え上がる。
「あ、あの――ごめん、忘れて」
私はもたつきながらも一万円札をコルクのコースターの下に滑り込ませた。それじゃ、と言うが早いか、逃げるように席を立つ。
背中に福士の声が聞こえたけれど、そこは気付かないふりをしておく。
急き立てられるようにドアを引いて――しかし、後ろから伸びてきた大きな手が、私が表に出る前にその扉を閉ざした。
「先輩、今の、本当?」
心地よいテノールの囁きが耳元を熱く掠める。
目の前はドアと福士の大きな手。左右には福士の腕。後ろには福士本体。背水の陣どころの騒ぎではない。四方八方福士だらけ。
「もう一回言って」
心臓が慌ただしく胸を叩く。
「……『忘れて』」
「その前です」
「『ごめん』」
苦し紛れに子供みたいな切り返しをしてみる。我ながら往生際が悪いと思う。
福士は私を囲うようについていた手を離した。その手が肩に触れて、ゆっくりと私を導く。抗うこともできずに、私はいつの間にか彼と向かい合わせになっていた。
「その前、です」
「げ」
「その前」
ドアに追いやられるような格好になって、息が詰まりそうなほど近くに福士の顔がある。そこにはいつものあどけないポーズなど消え去っていて、狩をする豹のような……しなやかで精悍な表情だけがはっきりと息づいていた。
店内を淡く照らすオレンジの照明が、彼の男らしい首筋と頬を斜め後ろから浮かび上がらせている。
見とれているのか、酒が回っているのか。
ドアに預けた背中に、切ない熱が滲んだ。
「……福士が、」
好き。
掠れた声がそう告げるより早く、私の唇は福士に塞がれていた。
それは、あの日の投げやりなキスとは全く違う、確かな感情の込もった口付けみたいな気がして。
ふんわりと漂ってきたのは、スパイシーなメンズの香水の香りと、唇の合間を縫うような熱い吐息。
どうしようもなく鼓動が高鳴って――私は、恐る恐る瞼を下ろした。
それ以上はもう、この体に私のコントロールが及ぶものなんて何一つなくなっていた。だから――という訳ではないけれど。
私は見ることも考えることも放棄して、彼に応えた。
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