第18話◆非レンアイ主義者の受難。
一目見て、それが誰からの伝言か理解できた。野暮用で一旦出社した際、昨日社に残った課員から朝一で渡されたメモには、こう書いてあった。
『AM11:30、「姫」様より電話。携帯に連絡が欲しいとのこと』
その下には携帯番号と、米印に続いて『先方は姫と名乗られたが男性。要注意』とある。
まさかその要注意人物が畑中圭吾だとは、誰も思うまい。私は吹き出しそうになるのを抑えつつ、メモをバッグにしまった。
昨夜、一晩かけてどうにか仕事をこなせるまでに心を落ち着けることができたけれど。睡眠時間を引き換えにしたツケは気力で払うしかない。
私は早々と用件を済ませると、そそくさとエレベーターホールに向かった。
「清愛!」
「栞……どうしたの?」
「チーフと抱き合ってたってホント? 泣いてたって?」
ストレートな質問に、一瞬言葉に詰まる。
一体誰に見られたのか。考えても見れば、パーティー会場から目と鼻の先の階段の踊り場だ。誰にも見られない可能性の方が低い。
いくら動揺していたとはいえ、自分の愚かしさに腹が立った。
私は必死になって弁明する気にもなれなくて、
「本当よ」
「不倫関係?」
「いいえ」
端的に答えて首を横に振り、もう行かなくちゃと言い残してエレベーターに逃げ込む。課内を駆け巡っているらしい、私とチーフのメロドラマを気にかけるだけの余裕はない。
なにか言いたげな栞の表情に気付かなかったふりをして、私はルラーシュに向かった。
***
オープンイベント、オープン後の混乱を乗り切り、母を無事入院させ、一息ついた頃には、もう誕生日は明後日まで迫っていた。
「藤田さん、文書番号お願い」
面白くなさそうにはぁいと間延びした返事をして、彼女は文書発信簿に向かった。背を向けて歩き出すと、
「ねぇ、よく大きな顔して会社に来られると思わない? チーフの奥さん可哀相よね」
「ね〜。しかも奥さんと友達なんでしょ? 信じらんないよねー」
隣同士でぺちゃくちゃとおしゃべりを始める。
陰口というか何と言うか……とりあえず、隠そうという気はさらさらないらしい。
フロアを練り歩いた私と裕也と由美ちゃんの愛憎劇は、今や仕事にまで害を及ぼすようになった。
仕事上のやりとりだけは一見滞りなく行われている(そこはお互い大人だ)。けれど、あからさまに聞こえてくる不倫への非難、口ほどにものを言う目、ふとした拍子に窺えるよそよそしさ……。
福士とたった3人組んで仕事をしているのだからそんな機会は山ほどあるにも関わらず、裕也と二人で歩くことすらできない。私達がただ一緒にいるだけで、興味本位の勘ぐりと、軽蔑、ゴシップネタを求める卑しい視線がありありと窺えるのだ。
これじゃ福士抜きでは仕事の話もできやしない。
福士だって、一見いつも通りに見えるけれど、時折ボーっとしていて、らしくもなく上の空だったりする。色ボケでもしてるのか、なんて考えると胸が痛むから、敢えて触れずにいるけれど。
仕事は相変わらず山積みで、母の手術の日程も決まった。それから、由美ちゃんと一度しっかり話をする機会を設けなければならない。彼女にだけはしっかり誤解を解いて詫びるべきなのだから。
当分は忙しい日々が続くだろうが、寝る間もないほど忙しいほうが、厄介ごとを考えずに済むからちょうどいい。
詳しく聞いたところによると、母は乳がんで、ステージは1。手術を急ぐほど差し迫った病状ではないが、転移の可能性も頭に入れておいて下さい、ということだった。
転移の有無は術後の病理検査で分かるが、いずれにせよ乳房は全摘で、脇のリンパ節も切除することになるだろうと言われたそうだ。
転移していれば、助かる確率はぐんと低くなる。
付き添うから病院は私の近所でという申し出は、「嫌よ、関西がいいの」とあっさり断られてしまった。私に迷惑をかけまいとする気丈な母に、当分の間は騙されてあげようと思う。お見舞いも二週間に一回に止めることにした。
あまり頻繁に行くと、逆に気を遣ったり、交通費を気にしたりする。母はそういう人だ。たまに行くくらいなら、あの意地っ張りも喜んでくれるだろう。
いつでも「やっぱりお願い」と言えるように、それでも重荷にはならない程度に。それがせめてもの恩返しになると信じて、当分の間は凌ぐしかない。
時刻は午後7時。早々と退社することが、誕生日を明後日に控えた自分へのささやかなプレゼントのつもりだったが。まっすぐ帰ってきたのは間違いだったかもしれない。
今年は仲間の都合が合わなくて、誕生日パーティーは来週末ということになっている。だから、明日もこうしていつものようにジョージと共に夜を明かすことになる。私は膝を抱えてソファに座り、大きなため息と共にジョージに顔を埋めた。
気がかりなこと、思うようにいかないことが澱のように溜まって、ひどく憂鬱な気分だった。さらに悪いことに、母の病気以外はすべて、正に自業自得であること。その事実が私を孤独へと追いやる。
癌になったのが、母ではなく私だったらよかったのに。罰当たりなことを一瞬考えて、どこまでも愚かな自分に苦笑する。こんなの、命に対する冒涜だ。
もしここに福士がいたら。『毒を持って毒を制す』みたいな手法で、そんな私を笑顔でガツンと叱責するだろう。そして、それでいて心が救われるような、気の利いた言葉のひとつもかけてくれるのだ。
締め付けられるように胸が痛んだ。視界にうっすらと靄がかかる。私は慌ててそれを飲み込んで、小さく歌を口ずさんだ。
『ノー・ウォーマン・ノー・クライ』。レゲエのナンバーを、これっぽちもレゲエらしくなく、囁くように歌う。
Everythings gonnna be alright.(すべてうまくいく)と、思ってもいないくせに念仏のように唱えて。
と、チャイムが鳴って、念仏が遮られた。なんだか嫌な予感がして、私は恐る恐るインターフォンを手に取った。
「清愛? 私。由美です」
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