第17話◆非レンアイ主義者、オトコの胸で泣く。
「――助かった! あ、先輩、大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
「大丈夫。ちょっと気分が悪くなっただけよ。ありがとう」
母親が癌だと知らされたの。ただそう言ってしまえばいいだけなのに、口にすれば冷静なポーズさえも崩れてしまいそうで、当たり障りのないごまかし方をする。
福士はそうですかと言って、静かにため息をついた。
「それより、何が『先輩のピアノ、楽しみだな〜』よ、私よりずっと巧いくせに白々しい! どうせ私がパニクるの見て笑ってたんでしょ! この薄情者!」
「ハハ、人聞きが悪いなぁ。このくらいの腕前はその辺にゴロゴロいるでしょ。先輩もかなり弾けるじゃないですか」
「あんな演奏された後に言われても嬉しかないわよ。最初から福士がやればよかったのに。何よ、出し惜しみしちゃって!」
ポカンとしたまま演奏を聴き、福士が余興の終わりを聴衆に告げている間に、そそくさとホテルスタッフの控え室に逃げ込んで数十分。
命からがら、といった様子でこの部屋に逃げ込んできた所を見ると、女性陣の追っかけの被害にでもあったのだろう。
「うーん、俺あんまり目立つの好きじゃないんです。今日のは先輩のせいですよ。世界の終わりみたいな顔して危なっかしい演奏するから」
「あんた普段から充分目立ってるじゃない」
「先輩の方が目立ってます。俺は先輩に虐げられてるから目立ってるだけ……」
「ちょっと!」
何事もなかったかのように接してくれる福士にほっとする。
私は強く息をはいて、気合を入れなおした。そろそろパーティーに戻らなければならない。スミス氏にお詫びをして、しっかりと接待しなければ。
「私、先に戻ってるわね」
「……大丈夫ですか?」
「はは、それ今日何回目? 大丈夫よ。もう何ともない」
心配そうに眉を寄せる福士を残して部屋を出る。心配されるのはちょっとだけいい気分だけれど、それが万人に開かれたものであろうことが、私の気を重くしていた。
無意識に足を交互に踏み出して――ふいに父の顔が脳裏をよぎる。
7年ほど前、父は路上で男に絡まれていた女性を助けたことがあった。
それだけなら単なる「人助け」で済むのだが、悪いことに彼はかかってきた相手の男をコテンパンにのしてしまった。そしてさらに悪いことに……父は、空手の有段者だった。
幸か不幸か、相手の男が有力者の息子だったおかげで、傷害や銃刀法違反の罪に問われることはなかった。相手方が、事件が公になることを嫌ったからである。
けれどその代わり、父は26年勤めた会社を解雇されたのだ。
そして、父はそれを期に友人と会社を立ち上げ――母はそれを期に、離婚を決断した。
それ以来、私も電話やメールでのやり取り以外はめっきりご無沙汰である。母は、おそらく離婚してから一度も会っていないし、多分会いたくもないだろう。けれど……。
離婚したとはいえ、24年連れ添った相手だ。一応は連絡するのが道理だろうか。
事務的なことならいくらでも考えが及ぶのに、凍るような恐ろしい事実も、ほんの数時間前までは胸を震わせてくれた美しい夜景も、心に届かない。
母が、死ぬかもしれない。
突きつけられた現実はあまりに遠く、実感を伴わないまま、けれど確実に心を侵食していく。会場に向かって歩きながら、私はひどくリアリティのない夢を見ているような心地だった。
「其田!」
裕也が険しい表情でこちらにやって来る。
――怒ってるだろうな。
福士が立て直してくれたとはいえ、一時はパーティーを台無しにしてしまったのだ。会場にいる全員が、何年にも渡って心血を注いだ、大掛かりなプロジェクト。その労をねぎらうはずのパーティーで自分が演じた失態を思い返し、苦いものを噛み締める。
どんな叱責も、甘んじて受け止めなければならない。
私のプライベートのことなんて、彼らには関係はないのだ。
「無理言って悪かったよ……大丈夫か? 何があったんだ?」
思いもよらない柔らかい口調と温かい言葉に……つい、うっかり力が抜けた。
「おい! 一体どうしたんだよ?」
はらはらと頬を滑り落ちるものを感じるが早いか、裕也の手が私を階段の踊り場に導く。
自分でもコントロールできない涙なんて本当に久しぶりで、私はすべてを放棄して、吐き出すように涙を流した。
「落ち着いたか?」
ひとしきり泣いた後、裕也は私を抱き締めたまま、ためらいがちに口を開いた。私はこくりと頷いて、
「さっき……電話があって。……お母さん、癌なんだって」
「おばさんが!?」
「そう……それで……わ、私……」
「わかった。もう言わなくていい。悪かった……」
語尾が少し震えて、私を抱く手にことさら力が込められる。彼も――母のことを思い出してくれているのだろうか。
思えば、初めて生理が来た時も、裕也と喧嘩をした時も、裕也が私から去った時も。
私が泣き付いたのは……一晩中付き合ってくれたのは、母だった。
その母が、いなくなる?
お母さん。
お母さんを、失うなんて。
母の思い出を共有できる人の腕の中は心地よくて、私はまた、彼にしがみついて幼い子供みたいに際限なく泣き続けた。
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