第11話◆非レンアイ主義者、喫茶黒薔薇で秘密会合
人がやってくる気配を感じて、私は手元を照らすライトを消した。
「春樹……大人になったね」
ドアが開いて、きめ細やかな風鈴の声がくすぐるように天井に反響する。自分の鼓動に弾かれて、思わず手を止めた。
――嘘、福士? おまけに……疾風の彼女? どうしてここに……
ライトなど消さなければよかったと、今更ながら悔いる。
「はは、そりゃそうだろ。4年も経てばな。大人にでもならなきゃやって行けないさ」
いつもながらに朗らかな福士の声は、いつもと違って気さくな調子で物を言った。彼が気を許す者と話すときのそれを、私はこれまで聞いたことがなかったのだと初めて気付く。
福士は――私にはいつだって敬語だったから。
「そっか。そうね。それじゃあ……別れたのは無駄ではなかったのかしら」
「――どういう、ことだ?」
独り言のような彼女の呟きに、彼は意図を探るようにゆっくりと言葉を落とした。
「……ねえ、ここ、大丈夫なの? 会社の人来たりしない?」
「大丈夫だよ。業務に必要なのはほとんど第一書庫にあるからな。ここは捨てられないゴミ置き場みたいなもんなんだ」
「そう……よかった」
捨てられないゴミ置き場とは旨いこと言ったものだ。だからこそ、私は雑音から逃れるためにここで仕事をしていたのに。
ここ、『第二文書保管庫』は、保存期限の経過を待つばかりの事務連絡を放り込む部屋だ。50平米ばかりの日当たりの悪い部屋に、電動の可動式書棚が居並び、奥には申し訳程度の作業・閲覧スペースがあるだけの部屋である。
私はパーテーションで仕切られた作業・閲覧スペースで仕事をしていたわけだ。
もしここに来たらどうしようという懸念をよそに、二人は窓際で話を続けた。
「ごめんね、仕事中に」
「いや。それより、どうしたんだよ。話があるんだろ」
「うん……」
優しく促す福士に対し、疾風の彼女はためらっているようだ。
昼休みの始まりを告げる音楽が流れ始めた。今日はリストの『愛の夢』だ。タイトルを除いてはお気に入りの曲。『愛の夢』……。それが、今の福士と彼女を表しているようで、何故か胸が苦しくなる。
「……この間一緒にいた女の人、彼女?」
「――いや、会社の先輩だけど……いきなり何だ?」
――会社の先輩?
二人の会話に自分が登場するとは。鼓動が速まり、落ち着かない気分で息を潜めた。『会社の先輩』という福士の答えが、妙に耳に残って消沈させられる。
「春樹、あの人のこと好きでしょ。綺麗な人ね……すごく」
「ハハ、さすがナツキだな。でもとっくに振られてる。もう諦めたよ」
諦めた。困ったような笑い声が、わずかに投げやりに耳に届く。その響きは、私の胸にも震えをもたらし、頭の中で何度も何度も跳ね返った。
彼女は、そうなんだ、と消え入りそうな声で囁き、意を決したように凛とした声を上げる。
「ねえ、やり直そっか、私達」
「――ナツキ……」
息を飲むような一瞬の間を経て、福士は彼女の名前を口にした。
私は一体何をしているのだろう。コソコソと盗み聞きみたいな真似をして……。自分の情けなさに、焦燥感が湧き上がる。心臓が喉に詰まってしまったみたいな感じがした。
「私はあなたの幼さが怖かったの。持っているものすべてを投げ打ってしまいそうだったから……その価値もわからないままに」
「ナツキ、お前そんなこと――」
「あの時は酷いことを言ったけど、本心じゃないわ。私は春樹を守りたかったのよ!」
夏でもないのに、纏わり付くような湿気を帯びた空気が足元を舐める。自分の鼓動がうるさい。だけど彼女の声ははっきりと耳から入って、直接私の心臓を揺さぶった。
「愛してたからよ。春樹を……今だって」
風鈴は夢見るように掠れて言葉を伝えると、沈黙の中にその余韻を残して、床を這う湿気に紛れた。
愛の夢が、二人を包み込むように優しく広がっていた。
***
「清愛? 聞いてるか?」
「はっ? あ、ごめん、ボーっとしてた。もっかい言って」
私は慌てて頬杖をついていた顔を上げた。カップがカチャカチャと揺れる。30半ばくらいの男前マスターが淹れてくれるブルマンは、私の大のお気に入りだ。
裕也は気の抜けた苦笑いを浮かべて、
「だから、全部本当のこと言っちまった」
「――はぁっ? 何やってくれてんの、アンタ! あの――アレのことも? その――アンタが血迷った……アレ?」
「キスしたこと? 言った」
「馬鹿タレ!」
衝撃の回答に、思わず大声を上げる。そんな私に、彼はやっぱり苦く笑いながら端的に答えた。
馬鹿正直にも程がある。
彼に離婚するからついてきてくれとキスをされたことを、私は墓場まで持って行こうと固ーく決意をして、これまでしっかり守ってきたのに。
元来小さい嘘を上手につけない質だということはわかっていたけれど、ここまでくると少々辟易してしまう。
「俺がまだ完全には清愛を吹っ切れてないことも」
「信じられない! 大馬鹿!」
「『よその女のために妻を捨てるような男の妻になるのはごめんだ』って振られたことも」
こんな、ちょっと気が利かない所と、要らない事にだけ気が利く所は昔のままだ。
「清愛は由美を裏切る気はハナからなかったってことも」
いつだって私を守ろうとしてくれるけれど、たまに方向性を間違えている所だって。
「……やっぱり、大馬鹿よ」
「そうだな。由美は昨日から麻美の所に行ってるよ。ちょっと気持ちを整理したいとさ」
「そう。ちゃんと電話するのよ」
裕也ははにかみながら頷いて、もう湯気も立たなくなったキリマンジャロを口に運んだ。
由美ちゃんへの誠意も、私への配慮も、なんて不器用なのか。
「――お前は福士とどうなってるんだ?」
「どうにもなってないわよ。なにそれ、嫉妬でもしてるの?」
ニヤリと笑って返すと、裕也はやれやれといった調子でため息をついた。
「……ご想像におまかせするよ」
カラカラと、木製のドアに取り付けられた鐘が小気味よい音を奏で、我が親友が意気揚々と入って来る。いらっしゃいませというマスターの声が、落ち着いた店内に程よく響いた。
「お待たせ」
私の隣に腰を下ろし、アメリカンを注文すると、美香子は早速話に取り掛かる。
「で? どうなった?」
顔を見合わせて呆れ笑いをする。美香子の思考回路は昼メロに準じているのだ。どんな予想をしているのかは想像に難くない。
誤解のないように言っておくが、美香子を呼んだのは、万が一社員に見られた場合の逃げ道を作るためだ。断じて、事を荒立てたり、話をややこしくしたりするためではない。
「ねえ、どうなったのよ? 離婚? そしたらあんたら元サヤ……」
「コラ!」
推測通りの言葉が飛び出し、裕也と私の声は見事にハモって恋愛の亡者にツッコミを入れた。
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