冬子と密輸団(7/7)PDFで表示縦書き表示RDF


冬子と密輸団
作:雨宮雨彦



7/7


 古着屋へ行って、私は黒い上着とズボンを買ってきた。顔を隠せるような深い帽子も用意した。

 家に帰って、鏡の前で身につけてみたが、男に見えるかどうかあまり自信はなかった。顔を少しすすで汚しておくことにした。

 家をそっと抜け出した。メイドにも見られずにすんだ。町へ出て地下鉄に乗った。

 地下鉄に乗るのは久しぶりだった。叔父と一緒に乗ったときのことを思い出さないではいられなかった。

 イスに座ったまま叔父が動かなくなったあと、私は身体を探って、強盗に見えることを期待して、持ち物を抜き取ったのだ。タービンの部品はそのとき見落としてしまったのだろう。

 サイフから現金だけを抜き取り、残りはすべて地下鉄の窓から投げ捨ててしまった。叔父のポケットの中には、なにやらこまごました物がいくつも入っていたのだが、その中に茶色い皮袋に入った小さな丸いものがあったことは覚えていた。急いでいたので、中身を確かめもせずにそれも捨ててしまったのだ。

 捨てた場所がどのあたりだったのか、大体のことはわかっていた。あの日以来、私は地下鉄には乗っていないのだった。

 ある駅で、私は地下鉄を降りた。叔父を殺した日に降りたのと同じ駅だ。

 狭いプラットホームは人であふれている。天井は丸く、発車していったばかりの列車の残した煙がまだただよっている。人ごみをかき分けて、私は歩き始めた。

 プラットホームのはしまでやってきた。幸いここは出入口から遠く、人は少なかった。まわりを見回し、誰も見ていないことを確かめて、私はさっと線路に下りることができた。

 すぐにトンネルの中へ向けて駆け出す。私の姿は、一瞬で暗闇の中へ消えてしまったに違いない。

 トンネルの中は暗く、駅よりももっと狭かった。本当に列車ぎりぎりの幅しかない。作業員が列車をよけるための小さな横穴が、ところどころ作ってある。歩きながら耳をすませ、私は二度横穴に入って列車をやり過ごした。

 そのたびに大きな車輪の音と振動に身体全体をゆすぶられ、濃い煙と蒸気を吸い込まされた。目まで痛くなってきた。それでも私は、目的の場所につくことができた。

 さっきの駅からは一キロぐらいだったと思う。そこに駅の廃墟があったのだ。私は携帯用のランプを持っていて、列車が通るたびにフタを閉めて光が漏れないようにしていたのだが、ここへ来て高くかかげ、まわりを照らしてみた。

 ここは廃止になった駅だった。ロンドンの地下鉄は新しい路線がどんどん建設され、線路も頻繁ひんぱんにつけ変わっていた。だから中には、もう使われなくなって廃止される駅も出てくるわけだった。これもそういう廃駅の一つだった。

 叔父のポケットから取り出したものを窓から投げ捨てたとき、列車がちょうど廃駅を通過するところだったことを私は覚えていた。その後さっきの駅で下車したのだから、ここがその廃駅に違いなかった。

 古い時代の駅なので、大きなものではない。プラットホームもちゃちで、短い列車しか停車できなかっただろう。私はため息をつき、どういう投げ捨て方をしたのだったか、思い出そうとした。

 突然列車の音が聞こえ、ヘッドライトが近づいてきたので、私は柱の影に隠れた。ごうごうと音を立てながら、列車が通過していった。客車の車内は明るく照明されている。列車が行ってしまってから、私は足元を探し始めた。

 私が家に帰ってきたのは、夕方近くだった。体中が真っ黒に汚れているのを見て、メイドはひどく驚いていた。すぐに風呂に入り、身体を洗った。

 ひどく疲れてはいたが、嫌な気分ではなかった。無駄な一日ではなかったからだ。化粧台の上には、廃駅で見つけたものが置かれていた。

「そりゃあねえよ」次の日、家に呼びつけて用件を聞かせると、珍しくもロングは弱気な声を出した。

「どうして?」

「親父だけは勘弁してくれ。オレは頭が上がらねえんだ。もし怒らせでもして、相続人名簿から外されたらどうしてくれる?」

「何言ってるのよ。カリバー一族はもうすべて死に絶えたと知っていたくせに、『フィリップの娘がまだ日本で生きていることを密告してやる』と言って母を脅迫したのはあんたよ」

「あのときは仕方がなかったんだ。オレを相続人から外すと親父がおどすもんだから…」

「言うことをきかないと、本当に相続できないようにしてやるからね。さあ、早く私をお父さんのところへ連れていきなさい」

 ロングはしぶしぶ承知した。飼い主にけとばされた犬のような顔をしているのがおかしかった。その日の昼過ぎには、私たちは海軍省の庁舎にいて、応接室のようなところへ通され、海軍大臣が姿を見せるのを待っていた。

 ロングは私の隣に座って、背中を丸めて小さくなっている。ドアが開いて、とうとう大臣が入ってくると、ロングはぴくりと飛び上がった。

 大臣は、想像していた人物とはまるで違っていた。ウィルソンの父でもあるわけだが、特に似ているとも思えず、むしろロングが父親似なのだろう。ロングを小柄にし、顔にしわを増やし、頭をはげさせたような感じだ。口ひげは同じように濃い。

 海軍大臣ヘンリー・ロングは私を見て、「やあやあやあ」と甲高い声であいさつをした。大臣という言葉が持つ堅苦しいところはまったくなく、どこかの農園の気楽な経営者とでもいう感じだ。それでも制服は着ているが、私とロングに向かい合って、気楽にちょんと腰かけた。

「若いお嬢さんをお迎えすることなどめったにないので、どきどきするよ。それと、そこでしかめっ面をしているのは、わが息子のようだな」

 ロングはちらりと顔を上げ、片手を振った。

 ヘンリーはうれしそうに笑った。「相変わらず愛想のいいやつだわい。それで冬子さん、何の御用でしょう。私でどうお役に立てましょう?」

 私はポケットに手を入れ、ハンカチに包んだ小さな物を取り出した。テーブルの上に置き、ゆっくりと広げてみせた。窓から差し込む光を反射して、石はきらりと輝いた。

「これは?」ヘンリーはひどく驚いた様子だった。ロングも口をぽかんと開けている。

「カリバー一族の紫ダイヤです」私は答えた。「ある場所で見つけました。叔父は、換金するつもりでこの国へ持ち込んだのでしょう」

「なるほど」ヘンリーはため息をついた。ロングは言葉もないようだった。

「それで、何のためにそれを私にお見せになるのです?」再びヘンリーが言った。

 私はにっこりと微笑みかけた。
「これを国王陛下に献上けんじょうしたいのです」

「しかしそれは、値をつけることができぬほどのものですよ」

「国家の所有物として博物館かどこかにおさめてもらえれば、二度とあなた方をわずらわせることはないでしょう」

 ヘンリーは不思議そうに私を見つめた。「失礼な言い方かもしれないが、あなたはとてもすっきりした顔をしておられるように見えるが」

「ええ。文字通り暗闇を抜け出し、光の中へ戻ってきたような気分です。本当に長い暗闇でした。ホコリとススだらけの場所で、ときどきゴウゴウという音が聞こえる他は何もわかりませんでした。今から考えれば、あれは地下鉄の音だったのですね」

「地下鉄?」

「その前には冬子の叔父のポケットの中にいました。その前は鉄でできた金庫の中。何世紀にもわたって、血にまみれた手から手へ奪い取られたことが何度あったことか」

「何の話をなさっているのです?」

「私自身の話ですよ。それはそうとロング大尉」

 ヘンリーと顔を見合わせていたが、ロングはぴくんとして振り向いた。「なんだ?」

「この娘は、いつかあなたのことを好きになるような気がします。結婚してやれば、よい妻となるでしょう」

「なんだって?」

 冬子は微笑んだ。「私はもう、人の手から手へ、暗闇から暗闇へと渡っていくことに疲れてしまいました。どこかにひっそりと落ち着きたいのです」

「だからイギリス国王陛下に献上されたいと?」ヘンリーは言った。

「そうです。何世紀にも渡り、私には様々な不幸が付きまとってきました。私をめぐって、何人が命を落としたか知れません。でも国家の所有物となれば、その悪運も終わりを告げましょう」

「あなたは、なぜ青野一族に復讐しようとしたのです?」

「何世紀にもわたって、カリバー一族は私の正当な所有者でした。私にも奇妙な忠誠心のようなものがなかったわけではないのです」

「ふん」ロングはいかにも気に入らない声を出した。「おまえなんぞを所有して、この国が滅びたりしなきゃいいがな」

「それは、あなたのように立派な方がいれば大丈夫なのではありませんか?」

「こいつめ、石ころのくせに人間様に向かって皮肉を言いやがる」

「私のような目にあえば、それぐらい言いたくなりましょう。では大臣閣下、献上の件はご承知いただけたと思ってよろしいですね?」

 ヘンリーはため息をついた。「ええ、陛下にお話ししてみましょう。細かいいきさつは伏せてですが、きっと承知してくださるでしょう」

 ロングの表情が変わった。「それはそうとフィッシュ。おまえ、タービン事件の報酬をまだオレに払ってないぞ。今すぐ耳をそろえて…」

 だがロングの言葉は、途中で途切れてしまった。ヘンリーが片手を上げて制していた。
「ジョン、見るんだ」

「何です?」

 冬子は目を閉じてしまっていた。長イスの背に寄りかかってうたた寝をしながら、楽しい夢でも見ているような表情だ。そしてその微笑が途切れ、一瞬まゆにしわを寄せ、はっと目を覚ました。驚いたような顔で二人の男を見つめ、部屋の中を見回した。自分がいる場所にはじめて気がついたという表情だ。

 冬子が口を開き、何かを言ったが、ヘンリーにもロングにも理解できない言葉だった。男たちは顔を見合わせた。また冬子が何かを口にした。やはり理解できない外国語だ。それでも冬子は微笑み、機嫌よさそうに二人を交互に眺めている。

「父ちゃん、これはどういうことだい?」ロングが言った。

 ヘンリーは、ほっと納得したような顔をしていた。息子のほうを向き、口を開いた。
「ジョン、日本語の通訳を呼んでくるんだ。当分必要だろう」

 ロングは立ち上がった。ドアが開く音を聞きながら、ヘンリーは宝石に手を伸ばし、そっとハンカチに包んでポケットの中に入れた。

(終)














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