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加奈に続いて叔父までが死んでしまうと、青野家の血を引いているのは秋子という女一人になった。
この女は独身で、大きな屋敷をもてあまし、急に心細くなってしまったらしい。私はそれまで女学校の寮に入れられていたのだが、そこを出て、青野家の屋敷から毎日通学するようになった。一家の一員とはまだ言えないが、とうとう屋根の下までもぐりこんだわけだった。
ある日、女学校から帰ってくると、メイドがほっとした顔で私を迎えて、すぐに言った。
「お客さまがみえていますよ」
メイドは中年の婦人だったが、私が帰ってくるまでいかにも不安で、心細く感じていた様子だった。
「私に?」
「欧州からいらした方のようですよ。私は外国語は知らないし、この人も片言なのでよくわからなかったのですが、冬子さんがロンドンへいらっしゃったときの知人と言っているようでした」
「ふうん」
帽子とコートを脱ぎ、彼女に預けて私は廊下を歩き始めた。奥の客間へ向かったのだ。ここは本当に大きな屋敷で、部屋がいくつもあって廊下も長く、すべてがぴかぴかに磨かれていた。
青野家は江戸時代から続く家で、特に明治に入ってからは、生糸の売買で富をきずいてきた。その商売も先代が死去したときに閉じてしまっていたが、今でも金持ちであることに変わりはない。
客というのは白人の男だった。すべての柱をうるしで塗り、きらきら光る貝殻細工で要所要所をかざり、青い畳を敷きつめた中で座布団に座って、あぐらをかいていたらしいが、私の足音が聞こえてきたので、あわてて正座しなおしたという感じだった。こげ茶色の背広を着て、いかにも窮屈そうにしている。私はふすまを開けて、部屋の中へ入っていった。
大きな身体を座布団の上にはみ出させて、ロングが正座をしてこちらを見上げているところというのは、飼い主に散々しかられて、しょんぼりしてしまった犬を思わせるところがあって、私は思わず笑い出しそうになった。あわてて口を押さえたが、少し声を立ててしまった。ロングはそれに気づき、不愉快そうな顔をして、鼻にしわを寄せた。
だが本当に、それは噴き出してしまいそうな眺めだったのだ。色黒の雄牛が洋服を着て、所在なさげにちんまりと座っている。自分でもそのことに気づいたのだろうが、ロングがにやりと笑った。
「驚かしちまったか?」
「そうでもないわ」
ふすまが開く音が聞こえたので振り返ると、メイドがひどく遠慮そうな顔つきで、私のための茶を持って入ってきたところだった。
「伯母様がお帰りになったら、すぐにここへお通ししてね」私はメイドに言った。血縁はなかったが、秋子のことを私は伯母と呼んでいた。
「はい、お嬢様」
「こんなところで何をやっているの?」メイドが出ていったあと、自分で座布団を出して座って、私は言った。
「オレだって来たくはなかったさ。つまらねえ仕事さね」ロングはふてくされた顔をした。「頼みたいことがあるから来たのさ。おまえにじゃなく、伯母上にだがな」
「へえ」
「だが通訳が要る。伯母上は英語は話すまい?」
「そうね」
部屋の外から足音が聞こえてきたのは、そのときだった。ふすまの向こうから、伯母とメイドが話す声も低く聞こえた。
すぐにふすまが開き、伯母が姿を見せた。いつもと同じように海軍の制服姿だ。ほとんど黒といってよいような紺色の上着とズボンだ。女の職業軍人というのはこの時代には珍しかったし、士官だともっと珍しかった。中佐となると、海軍でも彼女一人だけだったと思う。
伯母の姿を見て、ロングがため息のような声を上げたのを私は聞き逃さなかった。はじめて伯母に会う人は、例外なくこのような反応をした。伯母は帽子を脱ぎ、わきの下にはさんでいたので、つやのある黒い髪が見えた。髪先は後ろでたばねて、きちんとまとめてある。
「どうかそのままで」ロングはあわてて立ち上がろうとしたが、伯母は軽く手を上げて制した。
「青野です」背筋を伸ばし、帽子をかぶりなおし、伯母は正式な敬礼をした。ロングは照れたように笑って、あやふやでいい加減な敬礼を返していた。
居心地が悪そうに、ロングは座り直した。伯母も座った。メイドが茶をもう一つ持ってきて、伯母の前に置いた。メイドが出ていくと、ロングが話しはじめた。私は通訳をした。
「オレたちは、どうしてもあんたの協力が必要なんだ。青野中佐」
伯母は何も言わずにロングを見つめていた。ロングが続けた。
「英国政府は、昨日横須賀に入港したある船に強い関心を持っている」
伯母がため息をつくのが聞こえた。「正確には、あの船の積み荷に関心があるわけですね」
「ああ」
「よくご存じですね」伯母は身体の力が抜けてしまった様子だった。今までそんなところは見たこともなかったので、私は少し驚いていた。伯母は続けた。「でも、なぜあなたが日本に来ているのです? もう海軍は退役なさったのでしょう?」
ロングは少し首をかしげて、唇をゆがめた。
「オレだって、好きで極東くんだりまで来たわけじゃねえさ。親父に勘当されそうになってさ。兄貴がとりなしてくれるというんだが、交換条件としてこれが出てきた。この件を首尾よく解決することができれば、オレは遺産相続人にとどまることができる」
「大変ですね」
「まあな」
「それって、どういう積荷なの?」我慢できなくなって、私は横から口をはさんでしまった。日本語のわからないロングは不思議そうな顔をした。
「蒸気タービンですよ」伯母が小さな声で答えた。
「え?」
『タービン』という言葉が聞き取れたらしい。ロングが言った。
「日本海軍もなかなかの策士だわな。詳細は話せねえが、今度こそ密輸に成功したわけだ。それが昨日、横須賀港に到着したということさ」
伯母はもう一度ため息をついた。「高性能の船を作るには、どうしても必要なのです。それであなたは、何を知りたいのですか?」
ロングの表情がけわしくなった。
「港に陸揚げした後の輸送方法が知りたい。なんとか穏便に取り返したいのでな」
「でもこの密輸には、私はまったく関わっていないのですよ。それにそもそも、どうしてあなたに協力しなくてはならないのです?」
伯母はロングをまっすぐに見つめていた。英国人であろうが誰であろうが、必要があれば戦い、殺すこともいとわない戦士のような視線だと私は思った。言葉づかいはやわらかくても、やはり伯母の内部には、ああいうたけだけしい女が潜んでいたのだ。
だがロングも大したもので、伯母を見つめかえして手招きをし、座布団の上で身体を乗り出させた。伯母の耳に顔を近づけ、ロングの口が動くのが見えて、何かをささやいたようだった。
何を言ったのか、私には聞こえなかった。何語だったのかもわからない。だがロングでも短い日本語なら覚えることができるだろうし、伯母も英語が一言もわからないわけではない。
ロングの口が閉じ、耳もとから離れていったときには、もう伯母は真っ青になっていた。息もできないでいる様子だ。ロングを見つめ返し、「本気ですか?」と言った。
ロングは無表情にうなずいた。
「なんてこと」という伯母の小さな独り言が聞こえてきた。
伯母はため息をついた。「そういうことであれば、私は協力するほかありません。何ができるかわかりませんが、努力はしましょう」
「そうしてくれると助かるよ」ロングは答えた。
ロングはすぐに帰っていった。私は玄関まで見送ったが、伯母は部屋にこもったまま、顔も見せなかった。屋敷の近所には外国船員向けのホテルがあって、自分はそこに滞在しているとだけ言って、ロングは姿を消した。
☆
数日後、私が学校から帰ってくると、珍しくももう伯母は帰宅していた。私を部屋へ呼び、ロングへ伝えるべき伝言を私に持たせた。約束の時間が迫っていたので、私はすぐに出かけた。
ロングは毎日夕方、同じ時刻に近所の公園を散歩することになっていた。だからその時刻に公園へ行けば、誰にも怪しまれずにロングと顔を合わせることができるわけだった。この町は港にも近く、外国人の姿も珍しくはなかった。
公園は、長い坂道を登っていった先にあった。何ヘクタールもある大きな公園で、家族連れが散歩したり、カップルがデートをしたりする場所だったが、寒い日だったから、このときは誰もいなかった。私は駆けていき、公園の中へ入っていった。
ロングはすぐに見つかった。公園の中央に池があり、そこで水鳥を眺めていた。ロングもすぐに気づいて、私に近寄ってきた。コートのポケットに手を突っ込み、身体を左右に大きく傾けながら、いかにも暇をもてあましているという風情だ。私から数メートルのところまで来て、ベンチにドスンと腰かけた。私に背中を向けたまま、話しかけてきた。
「イギリスの冬は寒くて好かんが、日本の冬も女神の微笑みのようとは言えんな」
「蒸気タービンの件なの」私はささやきかけた。ロングとは違う方向を向き、空を眺めているふりをした。
「余計なことはいい。要点だけ言え」
タバコを吸いすぎてでもいるのか、ロングの声はひどくガラガラして、聞き取りにくかった。機嫌も悪そうだった。
自分の顔だからもちろん見えなかったが、私は唇をゆがめていたかもしれない。「9884号という貨車に積まれて、貨物列車で運び出される予定なの。積み込む日付まではわからない。だけど、四月一日以降になるのは確実だろうって」
「それだけか?」
「ええ、ご不満?」
「そんなことはねえ。それだけで十分さ」
私はくるりときびすを返し、公園から出てきた。ロングはその後もベンチにとどまっていたのかもしれないが、ふり向かなかったので私にはわからない。
ロングに会うことはもう二度とないだろうと私は思っていた。すぐに屋敷に戻って、ロングには伝えたと伯母に伝えたが、それ以後は伯母も私も、ロングや蒸気タービンのことを話題にすることはなかった。本当の話、私はもうロングの顔など見たいとも思わなかった。だが、望みなどかなわないのが人の世の常なのだろう。その数日後のことだ。
学校を終え、私は家へ帰ろうとしていた。駅のプラットホームで列車を待っていた。目の前の線路を貨物列車が発車しようとしていることには気づいていたが、特に関心などなかった。黒く塗られた何十両かの貨車の列に過ぎない。あの中に何が積まれていようと、私の知ったことではない。
ところがその私の目の前に、不意にロングが現れたのだ。
ロングも同じプラットホームにいたらしかったが、私は気づいてはいなかった。あちらは気がついていたらしい。私めがけて駆けてきて、貨物列車を指さし、大きな声で言ったのだ。
「おいフィッシュ、あれは一体どういうことだ?」
私には意味がわからなかった。「なんなの?」
「あの貨車には9884と書いてあるんじゃないか?」
私は貨物列車を見た。そして気がついた。どうということのない普通の四角い貨車だった。他の貨車と同じように真っ黒に塗られているが、車体の横の部分には、たしかに白いペンキで9884と書いてある。
「まだ四月にはなっていないわ」
だが私の言葉は、ロングの耳には入らなかったかもしれない。ひどくくやしそうな声を出した。
「あれは横須賀から来た列車だ。やつらめ、予定を早めやがったんだ」
貨物列車は、もう駆け足ぐらいにまで加速して、駅を離れていきつつあった。長い列車で、9884号貨車は前から三分の一ぐらいの場所に連結されている。先頭にいる機関車は信号機を越えて、もう本線に乗り出している。だが私には、どうでもよいことと思えた。
「まあ、がんばってよ」
だがロングは答えなかった。不意に私の手首をつかみ、強く引いたのだ。私は引きずり倒されてしまいそうになった。あわてて足を踏ん張ってバランスを取り戻したが、すぐにまた引きずられて、ロングと一緒にプラットホームの上を走り始めることになった。
「何をするの?」
「ついて来い。通訳が要るかもしれねえ」
それが、ロングがしてくれた唯一の説明だった。だから一分後には、私は家とは反対方向へ向かう列車の中にいた。その列車がちょうど発車するところだったのだ。動き出しかけた列車のドアを開け、ロングは私を押し込んだ。すぐに自分も飛び乗ってきた。
「人さらい!」ロングの手を振り解き、私はにらみつけてやった。だが列車は、もう駅を出てしまっている。どうあっても、次の駅までは引っ張っていかれることになる。
ロングは何も言わなかった。窓越しに外を気にしている。このあたりには四本の線路があり、北側の二本を旅客列車が、南側の二本を貨物列車が使っていた。ロングは、この列車がさっきの貨物列車に追いつくことができるかどうかを気にしていたのだろうが、私には本当にどうでもよいことだった。
「私は次の駅で降りるわよ。邪魔をしたら車掌を呼ぶからね。警察に突き出して、イギリスへ送り返してやる」
「そうなれば」ちらりと私の顔を見、また窓の外に視線を戻して、ロングは平気な顔で言った。「イギリスは蒸気タービンの件を公表して、国際問題化させるだけだ。タービンが9884号貨車に積まれたことをどうやってオレがかぎつけたのか、きっと日本政府は知りたがるだろうよ」
これはもう完全に脅迫だった。だが私にも、これには逆らうことはできないとすぐにわかった。
私の表情の変化に気がついたのだろう。ロングはうれしそうに笑った。「暇があればだが、伯母上にあてて電報を打たせてやるよ。不必要に心配させることはないからな」
もう私は何も言う気にならなかった。二時間後、すっかり日が暮れてしまっていたが、私とロングはある田舎の駅で列車を降りた。谷間にある小さな駅で、短いプラットホームとちゃちな建物があるだけで、駅員は一人しかいなかった。駅前から細い道が森の中へ向かって伸びているが、ぐるりと見回しても、家は一軒も見えなかった。きっと山道を何百メートルか行った先に村があるのだろう。
私とロングは列車から降りて、道を歩いていくふりをして、ぐるりと大回りをして、茂みをかきわけてまた駅まで戻ってきた。あたりは真っ暗だが、ポツンポツンといる客たちや駅員から見られないように気をつけていた。線路のすぐわきに小さな小屋があったので、その影で待つことにした。
私はそばに積んであった丸太に腰かけたが、ロングは立ったまま、駅の建物から差し込んでくる弱い光にかざしてときどき懐中時計を眺め、何度もまわりを見回して、誰にも見られていないか確かめていた。
九時過ぎになって、とうとう貨物列車が姿を見せた。私たちは、何とか追い越すことに成功していたのだ。真っ暗な中、遠くからヘッドライトだけがぎらりと光っている。シュウシュウいいながら煙をはいている。ブレーキをかける音が聞こえた。スピードを落としていき、とうとう停車した。
機関車の運転台に人影が二つ見えた。機関士と機関助士だ。ここからでは声は聞こえないが、気楽そうにおしゃべりをしている。駅員もプラットホームに出てきて、そのおしゃべりに加わった。ゆっくりと歩いて、三人は駅の建物の中へ入っていった。
「いい気なものね」私は言った。
「そりゃそうだろ」ロングが小さな声で答えた。「発車まで一時間もあるのだからな。この駅で、後から来る急行列車に道を譲るんだ。ほれ、もう一人お仲間が来たぞ」
車掌室から車掌も出てきて、駅の建物へ向かうのが見えた。ガラガラと戸を開けて、中へ入っていった。これで貨物列車は無人になったわけだ。
「行くぜ」
雑草をかき分けて線路に出て、貨物列車にそって歩いていった。貨車の黒い車体がいくつも並んでいる。足元は砂利だから歩きにくい。
「例の貨車はどのあたりだったっけ?」私は小さな声で言った。
「前から三分の一ぐらいのところだった。もう少し歩かなきゃな」
歩き続け、私たちは9884号貨車を見つけることができた。立ち止まって私が車体を見上げ始めたときには、もうロングは身体をかがめ、前後を見回していた。
「似た形の貨車は近くにないか?」ロングの声が聞こえた。
「五つぐらい後ろにあるのがそっくりよ」
「そいつの荷札を抜き取ってきてくれ」
「どうするの?」
「いいから行ってこい」
私はその貨車のところへ行き、車体の側面に貼り付けてある荷札に手を伸ばした。分厚いボール紙でできていて、金属製のホルダーに差し込んである。荷主の名と目的地が書き込んである。鉄道員たちはこれを見ながら、貨車を走らせるルートを決めるのだった。
私はその荷札を持ち、ロングのところへ戻った。その間にロングも、9884号貨車の荷札を抜き取っていた。私たちは荷札を交換し、再び貨車に取り付けた。二つの貨車の荷札が張り替えられたわけだった。
ロングは手帳を取り出し、荷札の内容をメモしはじめた。ロングは私に、ひょいと手帳のページを見せてくれた。
「駅名はこの漢字で合ってるか?」
私は目をこらした。声は出さなかったが、かすかに笑ってしまった。
「ものすごくへたな字だけど、読めなくはないわ」
「それはよかった」
「それをどうするの?」
「これを伝言して、オレの仕事は終わりさ。あとは諜報部の連中にまかせる。この駅に先回りして、この貨車をおさえるだろうよ」
☆
ロングがイギリスへ帰っていった数日後、私はとうとう決心を固めて、海軍にあてて手紙を書いた。あて先は、横須賀の司令部としておいた。
伯母が所属している部署だ。だがこの手紙は、別の誰かが開封するだろう。わざと伯母あてにはしなかったのだ。差出人も匿名にしておいたが、中身は、伯母がイギリス人たちに情報を漏らし、それゆえ蒸気タービンは取り返されてしまったのだと告発する内容だった。
もちろん伯母は逮捕され、軍法会議にかけられるだろう。まず死刑はまぬがれまい。もしかしたら私まで罪に問われることになるかもしれなかったが、そのことは考えないことにしていた。青野家に復讐するためであれば、その程度の危険をおかすのはやむをえない。
だが私は十四歳だったのだ。海軍の連中が、本気で私の責任を追及するとは思えなかった。きっと連中は、私は何も知らずにただ伯母の言うとおり行動したのだと解釈してくれるだろう。
登校する途中で郵便ポストに立ち寄り、私はその手紙を投函した。さっと歩き始め、駅へと急いだ。
私の学校には専任の音楽教師がいて、佐藤という女の教師だったが、希望する生徒には個人的にピアノを教えてくれたので、私も習っていた。
週に一度、放課後私は音楽室に彼女を訪ねて、ピアノの前に座った。だからこの日もいつものように音楽室へ向かったのだが、胸の動悸をおさえることができなかった。あの手紙はもうどこまで行ったろう。そろそろ海軍に届けられるころだろうか。
この日の私は練習に集中することができず、細かなミスをいくつも積み重ねた。自分でも嫌になってしまったが、佐藤は嫌な顔一つせず、何回も直してくれた。
この日の練習は、とても長く感じられた。だがそれもついに終わり、私は楽譜を持って立ち上がろうとした。
「先日は、母の葬儀に来てくれてうれしかったわ」突然、佐藤が言った。
佐藤は独身で、ずっと母親と一緒に暮らしていた。だがその母親が二週間ほど前に亡くなり、生徒たちも集まって、家で葬儀が行われた。彼女の家は下町にある小さな借家で、黒い瓦を乗せて、ずんぐりと同じ形をした家が何十軒も並んでいる中にあった。どうにも殺風景な場所だったが、彼女の家の小さな庭には木や草が植えてあり、まわりの家々よりは少しは明るい感じがした。
「はい」私は小さな声で答えた。
「あなたの顔を見ているとね」自分も楽譜をかたづけながら、佐藤が話し始めた。「あの日のことを思い出すわ。母は助産婦をしていたの。家の中でたくさんの赤ちゃんを取り上げたのよ。十数年前のことだけれど、白人とのハーフの赤ちゃんを取り上げたこともあった。とてもきれいな女の子だったわ。あなたと同じような青い目をしてね。髪も同じように金色がかっていた」
「ハーフ?」
「ええ。私には姉がいてね。そのころ姉はあるお屋敷に奉公していたのだけど、そこのお嬢さんが外国人との間に赤ちゃんを身ごもってね。だけど正式には結婚できない事情があって、だから姉はお嬢さんを連れて、母のところへ来たの。そして出産して、赤ちゃんは里子に出されたらしいわ」
「里子?」
「私もよくは知らないのよ。母と姉が話すのを断片的に耳にしただけだから。なんでも後年、お嬢さんはお屋敷の人たちをだまして、まったく身寄りのない気の毒な孤児だからという口実で、お金を出してどこかの女学校へ行かせてあげているということらしかったわ」
私は胸がどきどきしはじめた。心臓が口から飛び出してしまいそうな気がした。まさか。しかし、どうすればそれを確かめることができるだろう。思い違いであってくれればいいのだが。
私は制服の胸に手を入れ、細いクサリの先につけられた小さなペンダントを取り出した。常に胸にかけているもので、小さな写真を入れて、好きなときにフタを開いて見ることができるようになっている。
本来なら恋人たちが使うものだろうが、私にはそんなものはいなかった。驚いた顔をしている佐藤の前で私はペンダントのふたを開け、中にある写真を見せた。すぐに佐藤の表情が大きく変わった。
「姉の写真を、どうしてあなたが持っているの?」
さようならも言わずに、私はカバンをひっつかんで、音楽室を走り出た。列車に飛び乗っても、駅に到着するまでがとても長く感じられた。屋敷に帰っても、伯母はまだ帰宅してはいなかったが、待っている時間はなかった。すぐに駅へ駆け戻った。
ときどきだったが、私は駅で伯母と出くわすことがあった。今日も伯母は午後五時四十五分の列車に乗って帰ってくるのではないかと私は思いついた。
五時四十分には、私はプラットホームに出て待っていた。プラットホームのはしで首を長く伸ばして、横須賀の方向を眺めていると、やっと汽車の姿が見えてきた。伯母がいつも二等車に乗っていることを知っていたので、茶色い車体に青い帯を引いた客車を目指して、私は駆けていった。
ギギッと音を立てて止まるのももどかしく、私はドアに近寄った。二等車の出入口は二つあった。どちらから降りてくるのかわからないので、私はきょろきょろした。向こうのドアのところに海軍の制服が見えた。私は駆けていった。
足音に気づいて伯母は顔を上げ、驚いたような顔をした。振り返って、おつきの若い当番兵からカバンを受け取りながらだったが、「どうしたの?」と言った。
汽笛が聞こえ、汽車が動き始めた。伯母は軽く手を上げて私の口を閉じさせ、再び振り返って、当番兵に向かって敬礼をした。デッキに立ったまま、当番兵も敬礼を返した。指先にまで力を込め、一瞬でピンと石像のように硬くなった。
汽車が行ってしまうと、プラットホームの上は急にひとけがなくなり、ひっそりとしてしまった。涙が出てきそうな気がしたが、なんとか我慢することができた。私は早口に言った。
「伯母さんは、本当は私のお母さんなのね」
「何を言い出すのです?」伯母は微笑もうとした。
「佐藤先生から聞いたの。佐藤先生は、ロンドンでしばり首になった佐藤の妹だったの」
私は、音楽室で聞かされたことを話し始めた。伯母は黙って聞いていたが、話し終えたとき、ほおをそっとなでてくれた。
「おまえはときどき、お父さんとそっくりな表情をすることがあるのですよ」
私には、まだ話さなくてはならないことがあった。私は、今朝投函した手紙のことを話し始めた。見る見るうちに、伯母の顔は紙のように白くなっていった。
「それは本当のことなのですね?」最後に伯母は言った。
「ええ」
伯母は目を閉じ、私の肩に軽く手を置いた。何かを考えているようだったが、とうとう目を開いた。
「冬子、よく聞きなさい」
「はい」顔を上げ、私は伯母をまっすぐに見つめた。
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