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部屋へ呼ばれたときから嫌な予感がしていたのだが、行ってみるとその通りだった。加奈はいつものように私をなじり始めたのだ。それが彼女の趣味だったのだ。
なじる理由など何でもよかった。このときは、劇場で私の態度が悪かったと加奈は言った。
私はちかってそんな態度は取らなかったといえるが、真実など加奈にはどうでもよかったのだ。私たちは二階席にいたのだが、一階にいた数人の見知らぬ若い男たちが私に向かって手を振ったことを持ち出し、私が色目を使ったからだと加奈はせめ立てた。
もちろん言いがかりに過ぎない。そんな男たちのことなど、私は手を振られるまで気がつかなかったのだ。
こうやって加奈からなじられるのは、いつものことだった。「おまえは青野家にはふさわしくない」だの「おまえは青野家の名を汚そうとしている」などと言われるのが常だったのだ。
私がこの世に二人とおらぬような品行方正な娘だったとしても、加奈は何かしら欠点を見つけ出してせめ立てたに違いない。そして最後は「お情けで面倒を見てもらっている身のくせに」と言い、私が泣き出すように仕向け、それからやっと解放するのだ。
だがあの夜は違っていた。私は、涙を流して加奈の許しをこうようなことはしなかった。誰にだって、我慢の限界というものがある。
あの部屋には、金属製のキューピッド像が飾られていた。つかみやすい手ごろな大きさではあった。私はそれを両手でつかみ、振り上げ、加奈の頭の上に振り下ろしたのだ。中身のつまった重いものだから、一撃で十分だった。加奈は声も上げなかった。私の突然の行動に驚き、恐怖の表情を浮かべたままで倒れた。あの女は、天使の像に頭を割られて死んだのだ。
ドアが開く音が聞こえたので振り返ると、物音を聞きつけてやってきたのだろう。佐藤と目が合った。死体を見て驚いた顔をしていたが、やがて言った。
「お嬢様、ご心配なく。私によい考えがございます」
☆
翌々日、私は一人でロンドンの町に出た。『ハチの巣通り』は、小さな家がごみごみと立て込んだあたりにあった。馬車が止まったので、私は降りて、御者に金を払った。御者は私をじろりと見つめ返したが、チップを多めに渡すと「ありがとうございます、お嬢さん」と言った。
歩道に立ってまわりを眺めたが、急に心細くなってきた。すぐにここを離れたい気持ちになったが、もう馬車は遠くへ行ってしまい、角を曲がって見えなくなるところだった。
薄汚れた小さな家々がくっつきあって立っている。道幅はとても狭く、石畳はゆるんで、あちこちでめくれかかっている。下水口からは、嫌な匂いのする空気が立ち上ってくる。のぞき込むと、ドブネズミがさっと姿を隠すのが見えた。
路地の曲がり角には住人たちがいて、みんな私を見ていた。歓迎している目つきには見えなかった。突然ぴしゃりと音がしたので振り返ると、すぐそばの窓を誰かが閉めたところだった。
目的の家は目の前にあって、振り返って見上げて、私はさらに絶望的な気分になった。この街の雰囲気にぴったりとマッチした家だ。安っぽい二階建てで、もとは白かったらしいが、今は真っ黒に汚れている。ペンキのはげたドアがあり、そのわきに番地が書いてある。
私はため息をついた。やはりここに違いない。そっとドアをノックしたが、何の反応もなかった。一分待っても何も起きなかった。留守だと思い、私はうれしくなった。早くホテルへ帰ろう。ここへ来た目的ははたせないが、私の知ったことではないという気になっていた。
突然、ドアが開いた。予告も何もなく、足音も聞こえなかったので、私はひどく驚いた。ドアを半開きにして、やせた背の高い女が顔を出していた。丸くゆった髪をしているが、半分以上は白髪で、あちこちほつれたりおくれ毛があったりする。着ているものも、貴婦人のようとは言いがたい。エプロンには茶色い大きなしみがある。
私を見下ろし、女は口を開いた。ケンカをするときのメンドリのような声を出した。
「ああ?」
「あのう、探偵のロングさんに…」
私が言い終わる前に、女はまた口を開いた。
「あのごくつぶしの部屋は屋根裏だよ。案内なんかしないからね。行きたきゃ勝手に上がっとくれ」
「えっ?」
「ほれ」
女はドアを大きく開いて、入れと私に合図をした。
そのあと、私がどんな思いを味わったか想像がつくだろうか。玄関からはすぐに階段が伸びていたが、狭くてきつくて汚れていて、足の下でギーギーと鳴って、とてもじゃないが楽しくなどなかった。だがこの階段も、屋根裏部屋に比べればはるかにましだったのだ。
私は階段を二つ上がって、屋根裏部屋の入口の前に立った。クモの巣が張って、ホコリが積もって真っ白になった窓から、ぼんやりと光が差し込んでいる。ドアは開いたままだった。だから何も考えずに一歩踏み込んだのだが、次の瞬間にはもう後悔していた。
これが名探偵の住む部屋であるものか。机もイスもベッドの上も物だらけだ。脱いだままの服。くしゃくしゃの新聞。吸ガラでいっぱいの灰皿。
それだけではない。名探偵というのは、シャーロック・ホームズのようにかっこいい人のことだ。髪の毛はくしゃくしゃ、シャツもしわだらけ、ズボンつりの片方がずり落ちたままでも気がつかないまぬけ面のことではない。私の足音に驚いて、けとばされた犬のような顔で振り返ったりはしない。
「おまえ誰だ?」ロンドンで一番の名探偵(ホテルの支配人はそう言った)、ジョン・ロングが私を見ていた。
「事件の依頼人です」
「依頼人? 何の事件だ? ああ、オレに解決しろって言うんだな。おまえの名前は?」
「冬子といいます」
ロングは露骨に嫌そうな顔をした。「外国の名前は覚えにくくていけねえや。イギリスへ来るときには、メアリーとかジェーンとか適当に改名しておいてほしいな」
「よけいなお世話ですよ」
「そうかい? まあいいや、おまえの名前はフィッシュとかいったな?」
「冬子です」
「それでフィッシュ、何の用だって?」
私はため息をついた。
「ちょっと困ったことが起きて、ホテルの支配人に相談したら、ロングさんを推薦してくれたんです」
「そりゃびっくりだ。どこのホテルだ?」
「北風ホテルです」
「おまえは金持ちだな」ロングは大げさに驚いた顔をした。「あそこの宿賃はくそ高いからな」
私は、この日何回目かのため息をついた。
「まあ座れや」ロングは、そばのイスを指さした。自分はベッドに腰かけた。
私はそのイスを眺めた。大きな皿が置いてあり、何日前のものか知らないが、ひからびたフライドチキンが乗っかっている。その皿をどけないと座れないが、私は手も触れたくなかった。
「じゃあ立ってろ」ロングの声が聞こえたので、私はほっとした。だが続いて、ロングはまくし立てた。「どんな事件なんだ? 早く話せ」
「加奈が行方不明になってしまったんです」
「おまえがフィッシュで、今度はカナリアか? 次の登場人物はブルドッグってんだろ?」
「加奈は日本人で、姓は青野といいます。青野家というのは、有名な大金持ちの一族です。いろいろ見聞を広めるという目的で、この加奈がヨーロッパ旅行に出て、その途中でロンドンに立ち寄ったというわけです」
「金持ちは違うよなあ」
「佐藤というメイドも一人ついてきています」
「日本の醸造酒は、なんていうんだった? そんな名前じゃなかったか」
「私は通訳です」
ロングは大げさに首を振った。「おまえのしゃべり方は、昨日オレのサイフをすったガキとそっくりだ。あれはおまえだったんじゃないのか?」
「一昨日の夜までは加奈は元気でした。芝居を見にいって、ホテルに帰ってきたのは九時ごろでした。そのままお休みを言って別れたんです。私は自分の部屋へ寝にいき、加奈は佐藤と一緒に寝室へ行きました」
「その醸造酒と同じ名前のメイドは何と言ってるんだ? 酒くさい息の女か?」
「日本の醸造酒はサケです。佐藤に着替えを手伝わせ、加奈は一人で寝室へ入っていったそうです。佐藤は、夜中に物音を聞いたりはしなかったそうです。朝になっても起きてこないので見にいったら、加奈のベッドは空っぽでした。すぐにホテル中を捜したんですが、どこにもいない。ホテルの人たちも、加奈が出ていくところは見かけなかったということでした」
「警察へは届けたのか?」
「すぐに届けました。ところが、失踪後四十八時間たたないと捜索願いは受理できないとかで」
「警察が出てきたって、何の役にも立ちゃせんがな。それでも結局は受理させたんだろう?」
「なぜわかります?」
「おまえの得意そうな顔にそう書いてあらあ」ロングはにんまり笑った。「どうやって受理させた?」
「大使館から手を回してもらいました。青野という名前が、ここで役に立ちました。警察はすぐに刑事をよこしてくれました」
「やっぱり金持ちは違うねえ」
私はうんざりして、フライドチキンの皿を投げつけてやろうかと思ったが、その前にまたロングが口を開いた。
「来たのは何という刑事だ?」
「ゴールド警部です。でも、あんまりあてになるようには見えませんでした」
「はっはっは」ロングが笑いだした。「ゴールドか」
「知ってるんですか?」
「よく知ってるさ。打ち上げ花火みたいにまっすぐ突き進むしか能のない男さ。そのうち火が消えて、失速してひょろひょろ落ちてくる」ロングは笑い続けた。
「それからどうした?」笑って暑くなったのか、ロングはシャツのボタンを一つゆるめた。
「ゴールド警部がどうも信用できない感じだったので、私立探偵を雇うことになって、ここに来ました」
「なるほど」ロングは少し考え込んだ。「カナリアは、ロンドンには知り合いがいるか?」
「いないと思います」
階段を上がってくる足音が、背後から聞こえてきた。すぐにその人物が姿を見せた。ゴールド警部だ。
「やっぱりここにおられましたな。ホテルで聞いてきたんです」ゴールドは、私の顔を見て言った。ロングのほうを向き、帽子に手を当てて、あいさつするしぐさをした。「こんにちは、ロング大尉」
「やあゴールドの旦那。行方不明の日本の姉ちゃんについて、何かわかったんですかい?」
ゴールドの表情が少し変わった。「大変お気の毒ですが、遺体が発見されたようです」
「え?」と私。ロングも口を開けたまま、目を大きく見開いている。ゴールドが続けた。
「遺体が検視局へ運ばれてくるのは夕方ごろの予定です。確認はそれからということになりますが、たぶん間違いないでしょう。年齢や人相、服装などが一致しますから」
「もう殺されちまったのか? どこで発見されたんで?」とロング。
ゴールドはちょっと笑った。「ロンドン南部のシルバーという家ですよ、ロング大尉。それがちょっとおもしろいんですがね」
「どうおもしろいんです?」ロングは一瞬不審そうな顔をしたが、すぐにニヤニヤ笑い始めた。きっと何か猥褻なことでも想像したのだろう。
「その家は今、建物を改装工事中でしてね。部屋の飾り物として、ある店から等身大の石膏像を購入したんです。二メートル近くある大きなものなんですが、少女が水ガメをかついだポーズの像でして、大きな木箱に入れられて、今朝その家に届いたんです」
「その中に死体でも入ってたんですかい?」
「ええ、家人が梱包をほどいたんですがね。その驚きようったらなかったそうです」ゴールドは、いかにもおかしそうに笑った。
「梱包してあった?」
「分厚いしっかりした木箱で、外から見ておかしなところはなかったそうですよ」
「その死体は、本当にその日本人に間違いないんですかい?」
「正式の報告はまだですが、まず間違いないでしょうな」
「やれやれ」ロングは頭をかかえた。
私は一瞬、加奈の死をいたんでくれているのかと思ったのだが、すぐにロングがつぶやくのが聞こえた。
「これで金は入らなくなった」
私はあきれて、このひげ面男を眺めていたのだが、すぐに思いつき、口を開こうとした。
「あのう…」
「なんだ?」ロングが顔を上げて、じろりと私を見た。
「これって殺人事件なんですよね?」
「それは間違いないと思います」ゴールドが答えた。「遺体の頭部には鈍器でなぐられた大きなキズがあるそうですから」
「じゃあ、やっぱりロングさんにお願いしないと」
「それは、オレに捜査を依頼したいということかい?」ロングはぴょんと立ち上がった。「警察が捜査するはずだぜ?」
「いや、でも…」この先どう言ったものか、私は少し考えた。だが考え続ける必要はなかった。こわれたダムのように、突然ロングは大きな声で話し始めたのだ。
「ぜひやらせてくれ。昨日サイフをすられちまって、一文無しなんだ。貧民救済、立派な人助けだ。いやあ、すてきなお嬢さんだねえ。大きな瞳がパッチリとして、実にチャーミングじゃないか。ねえ、ゴールドの旦那」
五分後には私とロングは家を出て、表の通りを歩いていた。ゴールドの姿が角を曲がって見えなくなり、ロングと二人きりになって、すぐに私は言った。
「ゴールド警部は、なぜロングさんのことを大尉って呼んだんですか?」
「なぜっておまえ、オレは本当に大尉だからさ」
「本当に?」
「オヤジが海軍にいてな、兄貴も海軍軍人だ。そのオヤジが、オレもむりやり海軍に押し込みやがった。すぐに退役してやったが、それでも一応は正式な大尉殿さ」
「へえ」
「感心するようなことじゃねえよ。一インチも泳げない海軍大尉だぞ」
ロングは太っていて、背が高く身体はがっしりしていた。屋根裏部屋で見たときにはしまらない感じだったが、こうやって上着を着て帽子をかぶると、少しはさっそうとして見えた。ヒゲ面が海賊船の船長を思わせなくもないが、ごついブーツをはいて、どすんどすんと歩く。
「まずメシを食って、それから仕事にかかろうや」歩きながらロングが言った。
少し歩いたところに小さな食堂があった。『ハチの巣通り』にふさわしい、しみったれた店だ。天井は低く、窓も小さく薄暗い。テーブルは数えるほどしかない。ロングは私を連れてそこに入り、テーブルの前にどかりと座った。
ロングは本当によく食べた。私はコーヒーを飲んだだけだったが、この大男は、三十センチもあるパン二本とスープ三杯、焼いたベーコンを山盛り平らげた。最後に大きな音を立ててゲップをした。
「そんなに食べて、大丈夫なんですか?」テーブルの前から立ち上がりながら、私は言った。
「大丈夫さ。オレの胃は人一倍、丈夫なんだ」
「そうじゃなくて、お金あるんですか? スリにあったんでしょ?」
ロングも立ち上がり、平気な顔で私を見下ろした。「おまえが払うんだ。必要経費だろ?」
「自分で飲んだコーヒー代は払います」
「けちけちするな。自分の金でもないくせに」
もう何を言っても仕方がないような気がしたので、私はポケットからサイフを引っ張り出した。
通りに出て、馬車を拾った。この時代のロンドンには、金を取って客を乗せる辻馬車が何千台も走っていて、現代のタクシーと同じように気軽に利用することができた。その辻馬車にロングが乗り込むとき、大きな身体のせいで、ひっくり返ってしまうのではないかと思えるぐらい車体が傾いた。「おっとっと」と御者がつぶやく声が聞こえた。
北風ホテルにはすぐに着いた。馬車を降りてロングがさっさと歩いていくので、私は半分駆け足のようにして、急いで歩かなくてはならなかった。ロングが正面玄関ではなく、裏口をめざして歩いていることに気がついた。建物のわきを抜け、花壇の隣を行き、塀にそって進んだ。
「どこへ行くんです?」息をつきながら、私は言った。「そっちは裏口ですよ。メイドの佐藤に会うんじゃないんですか?」
「何のために?」
「えっ?」
「いいから黙ってついてこい」
私たちはホテルの裏手に出たが、正面とは違って、ここはかなりみすぼらしかった。古びたレンガ塀に囲まれていて、花壇などもなく、すみには雑草が生えている。ぬかるんだ地面には、よく見るとタバコの吸ガラが散らばっている。荷物を積んで出入りしたらしい馬車のわだちがいくつも残っている。
ロングは私の前を歩き続けた。やがて小さなドアに行きあたった。木でできた安っぽいもので、もちろんここも宿泊客たちの目に触れる場所ではない。ロングは気軽にそのドアを開け、中へ入っていった。私は少しためらったが、ロングが振り返って「こいよ」というので、ついていった。
ドアを入ると、すぐに急な下りの階段になっていた。幅の狭い真っ暗なものだ。天井を見上げたが、もちろん明かりなどはなかった。足を踏みはずさないように注意しながら、私はロングの後をついていった。再びドアがあり、ロングがそれを開けると地下室のような場所に出たが、空気がむっと暑いことに気がついた。
「やはりここにあったな」とロングがつぶやくのが聞こえた。
前を向くと、鉄製の筒のようなものが目に入った。巨大な水タンクを横倒しにしたような形で、分厚い板を組み上げて作ってある。すぐにボイラーだと気がついた。ホテルの部屋に暖房用の蒸気を送るための機械だ。この暑さは、その内部で燃えている石炭のせいだろう。私は帽子を脱ぎ、マフラーをはずした。
ロングはボイラーの前にかがみ、仕組みを調べているようだった。
足元の床には、スコップからこぼれた石炭が散らばっている。鉄でできたハッチのようなものがあり、そこから石炭を中へくべるようになっている。ハッチの大きさは、手足をまっすぐに伸ばせば私でも何とか通り抜けることができそうなぐらいだ。
「心持ち狭いが、仕方ねえな。あの女も、ここまで来たことはなかろう」とロングがつぶやくのが耳に入った。
「何の女のことなんです?」私は言った。
ロングは振り返り、歯を見せてにっと笑った。
「なんでもねえよ」
階段を降りてくる足音がし、ドアが開く音が聞こえたので振り返ると、背後のドアが開いて、女が一人入ってきたところだった。女もすぐに私とロングに気づき、驚いた顔をした。
年は二十歳ぐらいで、制服を着ていたから、このホテルの従業員に違いなかった。階段を降りながら火をつけたのか、手の中にタバコを持っている。私とロングを見つめ返し、かすかに笑って、口から煙をはき出した。
「見かけない顔ね。こんなところで何をしてるの?」
髪を整え、レースの髪飾りを乗せ、上品に化粧をしていたが、言葉づかいはあまりマッチしてはいなかった。もっと派手な口紅を引き、目の上にクレオパトラのような濃いシャドーを塗ったほうがよっぽど似合いそうな感じだ。だがこの女も、私がここの宿泊客だとは気がついていないようだった。
「いよう、べっぴんさん」ロングはにんまり笑った。
「何よ。変な男ね」と女は言ったが、それでもうれしそうに笑っている。私は黙って見ていることにした。
「調子はどうだい?」自分もタバコを取り出してくわえながら、ロングが言った。
「まあまあってとこね。あんたたちは何者?」女はタバコを突き出し、ロングのそばへ持っていってやった。ロングは顔を近づけ、自分のタバコに火を移し取った。
「おたくの支配人から、ボイラーの様子を見てくれといわれた。最近調子が悪いんだって?」
「そうなの? 聞いてないわよ」女は不思議そうな顔をして、指でトントンとたたいて、タバコの灰を床に落とした。
「ならいいんだ。支配人の勘違いかもしれねえ」ロングは笑った。「おおそうだ。ついでだから教えてくれよ」
「何さ?」
「昨日の朝だったか、大きな木箱を積んだ馬車がこのホテルから出ていっただろう? 棺おけぐらいの大きさの箱でさ」
「それがあんたと何の関係があるの?」女はタバコを口から離し、天井に向けて、煙をふうっとはき出した。
「どうもこうもねえよ」ロングの声の調子が変わった。「オレはすぐそこの道を歩いてたんだ。そうしたらその馬車が出てきて、泥水をはねかけやがった。見てくれ。教会へ行くとき用の最高のズボンが台無しだぜ。今日こそは神父様のところへ百ポンドばかり寄付しに行こうと思ってたのが、あきらめるほかねえな」
いかにも残念そうな顔をして、ロングはしわだらけのズボンを指さした。噴き出すようにして、女はぷっと笑い始めた。
「それは気の毒ね。でもその馬車のことを調べて、どうしようっての?」
「御者を同じ目にあわせてやるのさ。首根っこをつかんで、テームズ川の泥の中でたんと遊ばせてやる」
「まあお好きに」女は笑い続けた。「どこの馬車屋かは知らないわ。張替えをするために、古い長イスを家具屋へ送り返したのよ。駅へ持っていったのだと思うわ。支配人が知っているはずよ。きいてみたら?」
「ああ、恩にきるぜ」
タバコを吸い終えて、女は吸ガラをボイラーの中にぽんと放り込んだ。だがすぐにロングはポケットからもう一本取り出し、女の前に差し出した。
「まあ、もう一本どうだい?」
「あら?」意外そうにまゆを上げて、女はロングを見つめ返したが、タバコは受け取った。「何か下心がありそうね」
女が口にくわえたので、今度はロングが火を移し取らせてやった。
「オレは今、ちょっとやばい立場におかれちまっててな」ロングは意味ありげに笑い、声をひそめた。
「何なの?」
「あの小娘のことさ」ロングは私を振り返り、タバコを持った手で軽く指さした。
「あの女の子?」
「ああ」いかにも重大な秘密だとでもいうように、ロングは女の耳に顔を近づけた。「あの東洋人の男たちは、もうチェックアウトしたかい?」
「東洋人? 宿泊してたお客のこと?」
「そうさ。二人か三人いたと思うんだが」
「なぜ知ってるの? あの二人は昨日の朝早く、緊急の仕事ができたとかでバタバタとあわただしく出発していったわ。部屋代は三週間分前払いしてあったから、清算が大変だったみたいよ」
「それは確かかい?」
「間違えっこない。辻馬車を呼んであげたらチップをはずんでくれたから、よく覚えているわ」
「どこの国の人間だと言ってた?」
「さあ」女は困ったような顔をした。「お客の詮索をするのは私の仕事じゃないしね。だけどあの客とその女の子と、どう関係があるの?」
女に見つめられても、ロングは表情も変えなかった。
「秘密を守れるかい?」
「ええ、もちろん」タバコを持ったまま、女は軽く右手を上げてみせた。
「この娘は、いかにも頼りないまぬけ面をしているが、実はさる国王の血を引く跡継ぎなんだ」
「まぬけ?」女は首をすくめ、私を盗み見た。
「気にすることはない。こいつは英語はまるっきりわからねえ。それが血みどろの跡継ぎ争いに巻き込まれちまって、命からがらロンドンまで逃げてきたというわけさ。だが敵もさるもの、ここまで刺客を送り込んできたというわけだな」
「あの二人が刺客なの?」女は目を丸くした。
「ああ、だが姿を消したということだな。まあいい。オレはこの娘を連れて、しばらく田舎にでも身を隠すさ」
「そのほうがいいわ」女は再び、ちらりと私を見た。「若いのに気の毒ね」
「そう心配することもないさ」ロングは気軽に続けた。「とにかくありがとうよ。いろいろ教えてくれて」
「ええ。あんたもその子には気をつけてやってね」
女はタバコを吸い終え、上の階へ戻っていった。
北風ホテルを出て、再びロングと一緒に辻馬車に乗って、駅へ行くことになった。駅はホテルから数分のところにある。
だが町の通りをいくらも進んでいないところで、ロングは不意に御者に声をかけて、馬車を止めさせた。そこは大きな交差点のそばで、自分でドアを開けてロングがひょいと飛び降りたので、もちろん私もついていった。「待っていてくれ」とロングは御者に言い、目の前の店の中へ入っていった。
私は立ち止まって見上げたが、ロンドン市内ならどこにでもあるような普通の肉屋だった。ペンキで描かれた大きな看板が店の前にかけてあって、牛と豚の絵がある。ロングは店の中でもう主人と話し始めていたので、私もあわてて店の中に入って、会話に耳をすませた。
「そんなもの、何になさるんです?」肉屋の主人が、不審そうな顔でそう言うのが聞こえた。丸い帽子をかぶり、パイプをくわえ、白い大きなエプロンをした男だ。手にしている肉切りナイフは、菜切り包丁のように四角い。
「飼い犬にやるのさ」ロングが言いわけくさく言った。
「犬?」肉屋は不審そうな表情を変えなかった。「どこの世に、焼けこげた牛の骨をかじるのが好きな犬がいるっていうんです?」
ロングは大げさにため息をついた。「それがわが家のブラック大魔王様なのさ」
「何の話をしてるんです?」
「犬の名さ。ブルドッグとチワワの雑種でな。それでもなぜか大きさはセントバーナードにも負けないというやんちゃ娘だ」
「セントバーナードって、でかい犬ですぜ」
肉屋はさらに不審そうな顔をしたが、ロングはかまわず続けた。
「ブラック大魔王様は最近ごきげんが斜めでな。家に帰っても、玄関から中へ入れてくれないんだ。入口のわきに陣取ったまま、オレをにらみつけ、うなり、ほえるんだ。オレはもう三日も寝室に入れずにいるんだぜ。ずっとトイレのわきで寝泊りしてるんだ。頼むからオレを助けてくれよ。焼いた骨をちょんと鼻先に置くだけで、ブラック大魔王様は天使のようになるんだから」
今度は、肉屋がため息をつく番だった。
「わかりましたよ。骨をストーブの中へ入れて焼けばいいんですね。灰がつかないように、上から針金でぶら下げときますか?」
「いやいや、ブラック大魔王様は灰の味が大好きときたもんだ。灰をくっつけとかないと、オレは食い殺されちまうよ」ロングは大げさに身体を動かし、恐ろしくてたまらないという表情をした。
「わかりました。じゃあ、このまま放り込みますよ」
私とロングの目の前で、肉屋は牛の骨を一本つまみ上げ、ストーブのふたを開けて、その中へ放り込んだ。炎を上げて燃えているまきの上に、骨はコロンと乗った。
「おお、ありがてえ。これで今夜はけつをかじられないですみまさあ。恩にきますぜ、旦那。すっかりいいぐあいに焼けたころ、また取りにきますんで」
私とロングは肉屋から出てきた。肉屋の主人は、まだ不審そうな顔をして見送っていたが、私たちは馬車に飛び乗った。御者がムチをぴしゃりと鳴らし、すぐに駅に着いた。だが私たちが馬車から降りたのは、正面の入口ではなく、貨物用プラットホームがある裏口だった。
鉄の大きな門が開いていて、中は広場のようになっている。荷馬車が何台もとまっていて、木箱や荷物が大小、何百個もゴチャゴチャと乱雑に置かれている。地面は、ボール紙の切れっぱしや木くずでおおわれている。そんな中を、手押し車を押したり荷物をかついだりした男たちが行き来し、ひどく混雑していた。
ロングは元気よく歩いていった。私は、また急いでついていかなくてはならなかった。広場をまっすぐに横切り、木箱や男たちをかき分けて、事務所の建物へ近づいていった。ロングは入口のドアに手をかけた。
事務所の中はだだっ広く、いくつも机が並んでいた。だが人は一人しかおらず、一番奥にある大きな机について書類仕事をしていたが、顔を上げてこっちを見た。
「あー」ロングが話しかけようとした。
「あんたね」男はぶっきらぼうに答えた。「私は忙しいんだ。誰だか知らないが帰ってくれ」そして、また書類仕事に戻ってしまった。
それでもロングは、トコトコとそばまで歩いていった。男がもう一度顔を上げたので、のぞき込むようにして話しかけ、軽くウインクをしてみせた。
「オレは探偵助手なんだ。ホームズ先生はいま別の件でお忙しくてな。オレが下調べを任されてる。ホームズ先生は、ある荷物のことを知りたがっていなさるんだが…」
男は目を丸くした。イスをガタガタいわせて立ち上がった。
「シャーロック・ホームズさん? あの有名な?」
ロングは黙ってうなずき、ポケットから小さなカードのようなものを取り出して、男の鼻先につきつけて見せた。男は手を伸ばし、受け取って眺めた。私も首を伸ばしてのぞき込んだ。どうやら名刺らしい。『私立探偵シャーロック・ホームズ助手 ジョン・ロング』と書いてある。
男の顔色が変わった。
「ホームズ先生のご活躍は、いつも雑誌で拝見させていただいておりますよ」男はものすごくうれしそうな顔をして、両手を差し出してロングの手をつかんだ。ぶるんぶるんと握手をする。
ロングは、こっそりささやくように言った。
「昨日のことなんだが、荷物のことで何かありませんでしたかねえ。列車が着くのが遅れたとか、何かが紛失したとか」
男のほうも声を小さくして答えた。「さあ、待って下さいよ」
ロングは待っていた。
「そういえばありましたよ」男は話し始めた。「見たこともない東洋人の女がここに来ましてね、大きな声でガチョウみたいにガアガアわめきやがったんです。うるさくって、たまりませんでしたよ。
その女の言うことにゃ、これが笑っちまうんですが、亭主がボンクラな野郎で、どっかに送る木箱の中に飼い猫を入れたまま、知らずにフタを釘づけして、この駅で発送手続きをすませちまったんだそうで。猫がいなくなっていることに気づいた女が、必死になって追いかけてきたってわけでさ。だから女は、『その木箱がどこにあるのか教えろ』って言うんでさ。でもこの広い駅ですぜ。木箱なんて何百もあるんだ。いちいち探してなんかいられませんや。
私はそう言ってやったんですがね、今度はその女、『じゃあここにある木箱をぜんぶ調べさせろ』って言いやがって。こっちだって忙しいし、そんなバカなことにはつき合っていられないと言ったんですがね、でかい声を出して泣いたりわめいたりするもんだから面倒になっちまって、駅中の木箱を勝手に調べることを許してやったんですよ。
猫が入っているはずの木箱は、大きくて細長くって、ちょうど棺おけぐらいの大きさなんだそうで、それくらいの大きさの木箱を探して歩いてましたよ。似た木箱はいくらだってありますからね。何十個も調べてました」
「それで、目的の木箱は見つかったのかい?」
「いいえ。もう発送されてたらしくて、見つかりませんでした。しょんぼりした顔で私のところへ戻ってきたんで、『届け先の駅に問い合わせてみるといい』と言ってやったら、しぶしぶ帰っていきましたよ。自分で問い合わせたろうと思いますね」
「それはどうだろうかね」ロングはつぶやいた。
「え、なんです?」
「いや、いいんだ。ありがとう。きっとホームズ先生もお喜びだろうよ」ロングは男に礼を言って、私のほうを向きかけたが、再び振り返って男を見た。「その東洋人の女は、片言の英語をしゃべったのかい?」
「いいえ」男は首を横に振った。「流暢なもんでしたよ」
「年はどのくらいだった?」
「そうですねえ、中年ってとこですか」
私とロングが部屋を出ていこうとすると、男がまた言った。「このお名刺、いただいてもいいんですよね。女房にも見せてやりたくって」
「もちろんでさあ」
私とロングは事務所を出た。また荷物と男たちの間をぬって歩きはじめた。歩きながら、声を小さくして私は言った。
「あんなウソをついていいんですか? 名刺まで用意して」
ロングは平気な顔で答えた。「かまやしねえよ。現実と小説の区別もついてないやつらのことなんか、気にすることはねえ」
再び辻馬車に乗って、北風ホテルに戻ることになった。ロングがステップに足をかけて、馬車の車体が大きく傾くと、馬が居心地悪そうに足踏みをした。ホテルに向かう途中で、もちろんさっきの肉屋に立ち寄って、ロングは『いい具合に焼けた』牛の骨を手に入れた。「あちあちあち」と言いながらハンカチに包み、上着のポケットに入れた。
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