「隼太」
同じ専攻の優衣が、背中をポンと叩きながら話しかけてきた。
「急ぎじゃないなら、後にしてくれ……今日は機嫌が悪い」
「また? 我侭過ぎるよ!」
煩いその言葉は、スルー。
「だって、杉山教授の定年特別講演四時からだよ?」
そもそも聞く意味がないだろう、あんな前時代的な考えしか持ってないヤツの話なんか。
「気が乗らない」
「そんなだから、成績良いのに扱いが――」
長くなりそうな話に、短く溜息を吐いた。それに、俺より成績が良い絵に描いたような優等生が、何を言う。
今は、なにもかもが煩わしかった。
「いいけどね、……明日には機嫌、直しといてよね」
顔を見て駄目だと判断したのか、真似する様に溜息を吐いてから、背中を向けて駆け出していく。
『駆け抜ける夜、キスの雰囲気』
アスファルトに弾む、ボールの単調なリズム。
外灯にライトアップされた大学の空地。
そこにある半面のバスケットコート。
PM22:59
もうじき全施設の利用が停止する前の学内は、シンと静まり返り、人の気配は無い。跳ねるボールの音が、やけに大きく感じる。繰り返されるそのリズムを受けて、心の中でのカウントダウン。
10、9、8、……。
静かに冷たく、だけどその瞬間へ向けて、確実に張り詰めてゆくテンション。
5、4、3、2、1……ゼロ!
腰を低く落として、高速のドリブル。右手に伝わるのは、突きぬける振動。3ポイントラインまでは、連続でのクロスオーバーとレッグスルーで、ドリブルの位置を目まぐるしく変化させながら一気に。そしてゴールに背を向けて、ドリブルを左手に任せる。右手を横に広く伸ばして、ボールは体の真ん中で覆い被さる様に守る。プレッシャーを掛けながら、右へ摺り足で距離を詰めて……左足を軸に、バックターン。ゴールを正面に捉えて、伏せる程低い姿勢から一気に迫る。
そして――ジャンプ!
耳の横を吹き抜ける風、辿り着く頂点、身体を捻りながら放つ、レイアップシュート。
リングを一回りしてから、吸い込まれるように入って行くボール。
一本目を終え、ボールを小脇に抱えて、センターサークルまで戻る途中、ベンチに置いた小さな携帯用のラジカセのスイッチを押した。軽快なアップテンポのJ-POPが、流れ出す。ロックじゃないのが、にわかストーリートバスケの自分にちょうど良い。
それっぽいけど、実は単なる無茶苦茶。
センターサークル中心から、ゴールへ向けて強いボールを投げる。跳ね返ったボールは目前でバウンドし、それを受けて二セット目開始。シュートのフェイントから軽快なステップで回転し、重心の移動を利用しながらの流れる様なドリブル。
一人きりのコート。複数の外灯の照らし出す無数の影は、張り付いて離れない敵のようで、競い合うライバルでもあった。駆け回る真夜中のコートは、昼の喧騒を忘れ、ひたすらに自分自身の中へ落ちていく。
「近所迷惑なヤツ」
息が上がり始めた頃、唐突に放り投げられた、ぞんざいな声。一瞬向けた視線、外灯に背中を預けた女性と目が合う。
「黙ってろ、優衣!」
少し高めのテンションで叫んだ。今はまだ、誰とも話す気分じゃないから。ゴールと向き合いながら、背中でドリブルをする。ざっと辺りに視線を巡らせてから、右へのサイドステップ。
「校則違反」
相手にされないのが気に障ったのか、しつこく食い下がってくる。
「寝言は寝て言え」
わざと、彼女の間近のコート際まで走り、急ブレーキ。
「利用が停止するのは施設だけだ、学内に居るのは規制ねえんだよ」
アスファルトの摩擦で、靴底が悲鳴を上げる。風になびく優衣の長い髪、過ぎてゆく夜風に微かに甘い香りがした。
数秒、目を合わせてから、再度駆け出した。始まりとは別のモヤが、心に掛かってしまったみたいだ。
――最初は、取っている講義が似通っているだけだった。
だけど彼女とは、何かと衝突していた。お互いのレポートの問題点を指摘し合って喧嘩して、居眠りした授業の欠けたノートを、筆跡を馬鹿にしながら写す。合わない味覚と、音楽の趣味。
それでも、そんな中で、縮んでいく距離を感じ、いつしか信頼を寄せる様になっていた。
乱れていく呼吸に、流れ落ちる汗。
それでも心は流し切れなくて、ラジカセが響かせるメロディーを口ずさむ。
「下手くそ」
それは、歌に関してか、バスケの技術か。
「どっちでも傷付くぞ」
その答えに、満足そうに笑う嫌味な優等生。
「サークル入れば良いのに」
どうやら、歌の方が下手らしい。
「面倒だ」
ドリブルの進行方向は一直線、体を左右に揺さぶってフロントゾーンへ攻める。
「良いじゃない、好きなんだったら」
その言葉が、胸に引っかかる。
気晴らし中に、余計な負荷を掛けてくれるな!
「好きとかじゃねえよ……他に出来る事が、無いだけだ」
そう答えながら、がむしゃらに走り出す。そして、短い跳躍からの、ゴールを叩き壊す様な、全体重をかけたダンク。リングを打つけたたましい音、軋むバスケット。ぶら下がっている手を離して、地面へと降り立つ。
「ッ……ハァッ!」
大きく息を吐いて、倒れこんだ。
「クソ、運動不足だな」
長く、短く、息をする。呼吸を整えながら、仰向けになれば、薄ぼんやりとした月が浮かんでいた。
「星なんて、全然見えねーじゃん」
「これだけ灯が明るければね」
声と同時に、顔に投げつけられたタオル。かなり強めに投げつけられたタオルが、少し痛い。顔に押し付けて汗を吸わせていくけど、次々と噴出す汗は中々引いてはくれない。
「で? 何があったのよ」
彼女が見えない、タオルで顔を覆っているから当然だ。
彼女も、俺が見えない。
「別に……」
ここに来るのは、秘密にしていた。心に凝り固まったもやを晴らすのには、少しくらいかっこ悪く、がむしゃらに動いているのが一番だったから。
それでも、優衣はいつか見つける気がしていた。不思議といつも、必要な時は傍に居てくれていたから。
「理由も何も、はっきりしている事の方が少ねえだろ」
今、優衣は優しい笑顔でいてくれてる、そんな気がする。
「……さっき態度悪かったな、ゴメン」
言い終わった途端、急にどけられたタオル、覗き込む視線。
「な〜んだ、残念。泣いてないのか」
「誰が泣くかよ」
超至近距離、ぶつかった視線が、優衣の黒い瞳に吸いこまれていく。ついと触れられた、左目の横。少し冷えた彼女の指の感触と、近付いてくる顔。
「泣き黒子」
「うるせえな、気にしてんだから言うんじゃねーよ」
もう、視界の殆どが彼女に占められていた。二重の瞼、長いまつげ、夜に映える白い肌。
そして、軽く合わさる唇。離れ際、彼女の悪戯な舌が、ペロッと俺の唇を舐めて逃げた。
「うん、何か、さ……こういう時って、こんなのかなって」
大胆な割に意外と繊細な優衣は、背中を向けてそう言った。
「そうか?」
ここまでペースを握られっぱなしだったから、わざと意地悪く聞いてみた。
「子供じゃないんだから、察しなよ。それに――、嫌がるほど仲悪くないでしょ、私達」
照れているのは、どこか新鮮で可愛い。
「そうだな、そんなに意識するほどじゃないか」
「それはそれで、傷つくよ?」
声を背中に聞きながら立ち上がって、放り投げてあった大きめのスポーツバックに、ベンチからラジカセを放り込む。
「帰るだろ? 途中まで一緒に行くか」
「イヤ、汗臭いもん。離れて歩いてよ」
そっぽを向いたまま、ツンとしている。
「まーた、そんな事言って、ホントは……」
「本当は?」
気になるのか、横顔でこちらを窺っている。
「好きなくせに」
茶化すように、しなを作って、身をくねらせた。
「帰る!」
目を大きく瞬かせた後、強い口調でそう告げ、背中を向けて早足で歩き出す。
「おい、待てって」
ボールをコートに放って、駆け足で優衣の背中を目指した。
一度のキスなんかじゃ、二人は何も変わらない。
それは単なる確認だから。
傍に居たい二人の想いは、どこまでが同じなのかという事の。
それは1つの通過儀礼だから。
これから、より近くを歩いていきたいと願う、不器用な二人の。
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